第6話 白嶺
「呪われた土地、と呼ぶ者もおります」
朝の食堂で、ガイゼルは地図を広げた。
厚い木の卓の上に置かれた地図は、端が少しすり切れている。黒い線で川が描かれ、山には薄い灰色の影が入っていた。
アリアは椅子の上で、少しだけ身を乗り出した。
白い線を重ねたような山並み。そのふもとに、小さく白嶺と書かれている。
レクス・ノアは卓の端に敷かれた布の上へ前足をそろえ、じっと地図を見ていた。
さっきまでは、ノアが川の線を鼻先で追っていた。けれど、ガイゼルが白嶺の名を指で押さえると、その動きが止まった。
「ここが、白嶺でございます」
「ここ」
ノアの声が小さく繰り返す。
「昨日、見た山ですか」
「はい。アリア様がご覧になった白い山並みの中腹にある、古い町でございます」
ガイゼルは、地図の上で指を動かした。
「かつては、帝国北部でも有数の鉱山町でした。鉱山、鍛冶、放牧、温泉、山の畑。人も多く、数千は暮らしていたと聞いております」
「数千」
アリアは、思わず男爵領の集落を思い出した。
小さな広場。
犬。
パンの匂い。
雪を投げる子供たち。
あの何倍もの人が、山の中にいたのだろうか。
「それが、今は違うのですか」
ガイゼルは頷いた。
「二十数年前、原因の分からぬ不調が広がりました」
不調。
その言葉は、病よりも少しぼんやりしていて、かえって怖かった。
「身体が重くなる。働けない。休んでも戻らない。特に坑道に入る者たちが、次々に仕事を続けられなくなったそうです」
「お医者様は」
「入りました。神官も、薬師も、帝都からの調査役も。ですが、誰も原因を突き止められなかった」
食堂の空気が、少し冷えた気がした。
暖炉には火がある。
けれど、アリアの指先は地図の端で止まっていた。
「やがて、噂だけが広まりました。白嶺は呪われた、と」
「呪いは、解けたのですか」
アリアは尋ねた。
ガイゼルはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、答えは簡単ではないのだと分かった。
「分かりません」
低い声。
「ただ、今は誰も倒れてはおりません。昔のように、働けぬ者が次々に出るという話も聞きませぬ」
「では」
「それでも、人は戻りませんでした」
ガイゼルの指が、白嶺の文字から少し離れる。
「噂は、人より長く残ることがございます。白嶺はまだ生きています。ですが、誰も安心はしていないのです」
レクス・ノアは、地図の白嶺を見ている。
「行く」
ノアの声がした。
「行く必要がある」
レクスの声も重なった。
アリアは二つの声を聞いて、胸元で手を握った。
怖くないと言えば、嘘になる。
けれど、昨日の朝から、白い山はずっと胸の奥にあった。
「わたしも、見てみたいです」
ガイゼルが目を伏せた。
「承知いたしました。危険があれば、すぐに引き返します」
「はい」
アリアは頷いた。
白嶺は、地図の上では小さな文字。
けれど、そこには昔たくさんの人がいて、今も誰かがいる。
呪われた土地。
その言葉だけでは、まだ何も分からなかった。
* * *
白嶺への道は、アリアが思っていたほど、最初から怖い道ではなかった。
男爵領を出てしばらくは、昨日と同じように森が続いた。雪の下から黒い土がのぞき、ところどころに細い水音がある。
けれど、男爵領を出て二日も過ぎるころには、道の様子が変わってきた。
道はだんだんと細くなり、石橋の端が崩れている。
道標は傾き、字の半分が雪と苔に埋もれていた。
休憩小屋らしい建物は屋根がへこみ、扉が片方だけ風に揺れている。
それでも、道は完全には消えていなかった。
雪の上に、細い轍が残っている。
「誰かが通っているのですね」
アリアが言うと、ガイゼルは馬車の前を見たまま頷いた。
「はい。白嶺を捨てなかった者たちがおります」
捨てなかった。
その言葉が、アリアの胸に残った。
ノアは窓の外を見ている。
「木、細い」
「高地の樹木だ」
レクスが答える。
「風が強い。成長が遅い」
「がんばってる」
「植物に意思を仮定する必要はない」
「でも、がんばってる」
ノアは譲らなかった。
アリアは少しだけ笑った。
レクス・ノアの身体は同じ窓辺にいる。けれど、その中で見ているものは違う。
ノアは木を見て、雪を見て、遠くの雲を見ている。
レクスは、道の傾き、岩の割れ方、風の向き、山の奥を見ている。
馬車が坂を越えた。
その先に、町が見えた。
アリアは息を止めた。
白嶺は、思っていた景色と違う。
崩れた家ばかりが並んでいるのだと思っていた。
窓のない壁。
誰もいない道。
風だけが鳴る町。
けれど、見えたのは石造りの家だった。
低く、頑丈そうな屋根。
細い煙を上げる煙突。
閉じた工房。
凍らない水路。
その水路の脇では、用途の分からない低い石壁が、木立の中まで続いていた。雪の割れ目からは黒く焼けた石が覗き、崩れた溝だけが家々の向こうへ延びている。
森と雪が、昔の町を覆っているように見えた。
町の奥には、山肌へ向かう黒い坑口がいくつも見えた。
人影は少ない。
声も少ない。
それでも、町はそこにあった。
「思っていた景色と違います」
アリアは小さく言った。
「もっと、何もないのかと」
「白嶺は、失われた町ではございません」
静かな声。
「ただ、多くを失った町です」
馬車が町へ入ると、道の端にいた老人が顔を上げた。
ガイゼルが馬車を止め、外へ出る。
短く言葉を交わす。
老人はアリアの方を見た。
深く頭を下げるわけではない。
けれど、目をそらすこともしなかった。
怖がっているのか、驚いているのか、分からない顔だった。
レクス・ノアの鼻先が少し動いた。
「静か」
ノアの声。
「でも、いる」
「いるな」
レクスが答えた。
「人も、火も、水も、残っている」
町の中へ進むと、温泉の匂いがした。
アリアは最初、それが何の匂いか分からなかった。少しだけ土のようで、少しだけ卵のようで、けれど嫌な匂いではない。
白い湯気が、低い小屋の屋根から立っていた。
「温泉でございます」
ガイゼルが教えてくれた。
「この町では、昔から湯と地の熱を使っておりました」
共同温室へ入ると、外とは空気が違った。
雪の町の中なのに、そこだけ春の端のようだった。
土の匂い。
濡れた木の匂い。
緑の葉。
細い野菜の芽。
年配の女性が、腰をかがめて葉を見ていた。
「今年も、なんとか育てられそうか」
ガイゼルが尋ねると、女性は肩をすくめた。
「昔ほどじゃありませんよ。でも、食べる分には育ちます」
昔ほど。
その言葉が、町のあちこちに積もっているように思えた。
鍛冶場では、火が小さく燃えていた。
若くはない職人が、黒い石を手に取って光にかざす。
「今年の石は、昔みたいに粘るな」
そばにいた老人が笑った。
「昔ほどじゃないがな」
また、昔。
アリアは、鍛冶場の壁にかかった道具を見た。
使われているもの。
使われなくなったもの。
油を塗られて、まだ捨てられていないもの。
町は死んでいない。
けれど、ずっと何かを待っているように見えた。
薬草を干す家の前では、束ねた草が軒先に揺れていた。羊は雪のない囲いの中で、もこもこと身を寄せ合っている。木工職人の小屋からは、乾いた木を削る音がした。
こつ。
こつ。
その音を聞いて、アリアはヴァルド男爵領の薪割りを思い出した。
暮らしの音。
ここにも、それはあった。
白嶺を歩くほど、三つの目は違うものを見ていった。
アリアは、人を見ていた。
湯気の向こうで笑う老人。
温室の葉をそっと直す女性。
無口な職人。
道の端で、小さな木片を積んで遊ぶ子供。
子供は少ない。
それでも、いた。
「皆さん、優しいです」
アリアが言うと、ガイゼルは少しだけ顔を伏せた。
「残った者たちは、互いに支え合っております」
ノアは、町の匂いを追っていた。
「静か」
レクス・ノアの鼻先が、湯気の方へ向く。
「でも好き」
「理由は」
レクスが問う。
「あったかい匂いがする。水の音がする。人、少ないけど、いる」
「評価基準が曖昧だ」
「でも、好き」
ノアの声は迷わなかった。
レクスは、それ以上は言わなかった。
ただ、レクス・ノアの目は町を見ていない。
山。
川。
岩の壁。
風が抜ける谷。
閉じた坑口。
そういうものを、ずっと見ている。
「レクス?」
アリアが呼ぶ。
レクス・ノアは、町外れの方を見たまま動かなかった。
「違う」
「何がですか」
「町ではない」
短い答え。
「違和感の中心は、町ではない」
ガイゼルが眉を寄せた。
「何か感じられるのですか」
「不明」
レクス・ノアは歩き出した。
アリアは慌てて後を追う。
* * *
町外れに、閉じた坑道があった。
板が打ちつけられ、古い鎖が下がっている。坑口のまわりの雪は固く、ほとんど足跡がない。
風が、そこだけ低く鳴った。
ノアの声が小さくなる。
「ここ、くらい」
「坑道だ」
レクス・ノアは、板の前で止まった。
「入ってはいけません」
アリアは思わず言った。
「分かっている」
レクスは答えた。
小さな前足が、古い板の下の石へ置かれる。
レクス・ノアは動かない。
尻尾も、鼻先も、翼も。
まるで、坑道の奥から聞こえない音を聞いているようだった。
「どうしたの」
ノアの声が聞いた。
返事は、すぐにはなかった。
長い沈黙のあと、レクスが言った。
「ここ」
「ここ?」
「何かあった」
アリアは喉の奥が冷たくなるのを感じた。
「何が、あったのですか」
レクス・ノアは、ゆっくり首を振った。
「分からない」
「分からないのに、分かるのですか」
「あったことだけは分かる」
それは、不思議な言い方だった。
アリアには何も見えない。
板。
鎖。
雪。
古い石。
けれど、レクス・ノアの身体は、そこから離れようとしなかった。
ガイゼルが静かに近づいた。
「ここは、異変の後に閉じられた坑道の一つでございます」
「中に、誰かが?」
「昔の記録では、立ち入りを禁じたあと、人は入っておりませぬ」
昔の記録。
それもまた、確かなようで、少し遠い言葉だった。
ノアの声が、少しだけ不安そうに揺れた。
「レクス、こわい?」
「怖いではない」
「じゃあ、なに」
「未整理」
レクス・ノアは、ようやく前足を石から離した。
アリアは、胸の前で手を握っていたことに気づいた。
* * *
夕暮れの白嶺は、朝よりも静かに見えた。
丘の上に立つと、町が見下ろせた。
煙突から細い煙が上がっている。
温室の屋根が、夕日を受けて鈍く光っている。
畑の端では、老人がゆっくり道具を片づけていた。
子供の声は少ない。
けれど、ひとつだけ笑い声が聞こえた。
アリアは、その声を耳で追った。
「呪われた土地には、見えません」
言ってから、自分でも少し驚いた。
白嶺は怖い。
閉じた坑道は、まだ胸の奥に冷たく残っている。
それでも、ここをただ呪われた土地と呼ぶのは、違う気がした。
「人がいます」
アリアは続けた。
「畑も、火も、温かい場所もあります」
「ぼく、ここ好き」
ノアの声が言った。
アリアは小さく笑った。
「わたしも、少し好きです」
レクスは何も言わない。
レクス・ノアは、町のさらに奥を見ていた。
白嶺山脈。
夕暮れの色を受けて、白かった山は青く沈み始めている。
「レクス」
アリアが呼ぶと、レクス・ノアは一度だけまばたきをした。
「帰りましょう。暗くなります」
「ああ」
帰り道、レクス・ノアが一度だけ立ち止まった。
アリアは振り返る。
「どうしました?」
風が吹いた。
低く、冷たい風だった。
レクスの声は、ほとんど風に紛れるくらい小さかった。
「まだ終わっていない」
「え?」
アリアには、うまく聞こえなかった。
レクス・ノアは、もう歩き出している。
ノアも何も言わない。
白嶺の町は、後ろで静かに夕闇へ沈んでいく。煙突の煙が夜へ溶け、閉鎖坑道の入口だけが早く暗くなっていた。
アリアは足を止めた。レクスが聞いた「まだ終わっていない」という声が、風の冷たさと一緒に残っている。




