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龍と廃嫡皇女のシェアハウス  作者: 三連九
第1章 廃嫡皇女と双声の幼龍、白嶺へ
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第5話 男爵領

 山が近かった。


 馬車の窓から見える白い稜線は、空に置かれた刃のように冷たく、けれどどこか、朝の光を待っているようにも見えた。


 アリアは膝の上の毛布を押さえながら、幌の隙間から外を見ていた。


 道は細い。


 右手には深い森があり、左手には雪をかぶった斜面が落ちている。谷底には細い川が走っていて、馬車が揺れるたび、氷の下を流れる水の音が聞こえた。


「おおきい」


 レクス・ノアが、アリアの腕の中から山を見上げた。


 ノアの声だった。


 その声には、怖さより先に、初めて見るものへの嬉しさがあった。


「山です」


 アリアは小さく答えた。


「帝都からも見えますけれど、こんなに近くで見たのは、わたしも初めてです」


「近い」


 今度はレクスの声がした。


 短い声だった。


 アリアは、レクス・ノアを見下ろした。


「近い、ですか?」


「距離の話ではない」


 レクス・ノアは山から目を離さなかった。


「近い」


 同じ言葉を、もう一度だけ繰り返す。


 アリアには、よく分からなかった。


 けれど、その言い方が少しだけ気になった。目の前の山は、ただ遠くにある山ではなく、レクス・ノアの中の何かを引っ張っているように見えた。


 前を行く馬車の御者台には、アルヴィスがいる。隣にはルークスが座り、ときどき後ろを振り返っては、道の様子を確かめていた。


 ガイゼルは同じ馬車の向かいに座っている。


 もう、ただの御者ではない。


 ガイゼル・ヴァルド。


 先帝に仕えた男爵。


 アリアを離宮ではなく、自分の領地へ連れていこうとしている人。


 そう分かっても、アリアはまだ、その事実をうまく胸の中へしまえなかった。


「アリア様」


 ガイゼルが静かに言った。


「間もなく、我が領の入口に入ります」


「はい」


 返事をしてから、アリアは少しだけ背筋を伸ばした。


 皇女としてではなく、アリアとして呼んでほしい。


 そう頼んだのは自分なのに、アリア様、と呼ばれるたび、胸の奥がくすぐったくなる。


 殿下より軽い。


 けれど、名前だけより少し守られている。


 不思議な呼び方に聞こえた。


 馬車が森を抜けた。


 急に空が広がる。


 そこには、小さな集落があった。


 帝城のような高い塔はない。大理石の階段も、金の飾りもない。けれど、雪を払われた道があり、石を積んだ低い塀があり、煙突から細い煙が上がっていた。


 畑は冬の色をしていたが、柵はまっすぐ立っている。牧草地の端には羊が数頭、丸い背を寄せ合っていた。少し離れた川沿いでは、男たちが丸太を流す準備をしている。


 遠くから、斧の音がした。


 こつん。


 こつん。


 その音は、剣や鎧の音とは違う。


 誰かを傷つけるためではなく、今日の火を作るための音。


「ここが、ヴァルド男爵領でございます」


 ガイゼルの声は、少しだけ柔らかかった。


「小さな領です。帝都の方々が見れば、粗末に映るやもしれませぬ」


「粗末では、ありません」


 アリアは思わず言った。


 ガイゼルが目を上げる。


 言ってから、アリアは少し不安になった。自分はここをよく知らない。知らないのに、粗末ではないなどと言ってよかったのだろうか。


 けれど、目に見えるものは、粗末ではなかった。


 小さな家の前で、女の人が雪を払っている。井戸のそばでは、年配の男が桶を運ぶ子供に何かを言い、子供が笑って逃げた。


 誰も、豪華な服を着ていない。


 でも、誰も暗い顔だけをしているわけではなかった。


「ちゃんと、しています」


 アリアは言葉を探しながら続けた。


「みんな、朝のことをしています」


 ガイゼルは、ほんのわずかに目を細めた。


「ありがたきお言葉です」


 馬車が屋敷の前で止まった。


 屋敷は、帝城の一つの広間よりも小さく見えた。


 けれど、窓は磨かれている。扉の前には雪が残っていない。玄関の脇には、冬なのに小さな常緑の枝が飾られていた。


 扉が開く。


 中から、落ち着いた顔の女性が出てきた。厚い外套を羽織り、髪をきちんとまとめている。後ろには年配の使用人と、若い使用人が二人、控えていた。


「お帰りなさいませ」


 女性はガイゼルにそう言ってから、アリアを見た。


 深く膝を折りすぎることはしなかった。


 けれど、無礼でもなかった。


 アリアが馬車の段差を見下ろしていると、アルヴィスが無言で手を差し出した。ルークスは踏み台を押さえている。


「ありがとうございます」


 アリアはその手を借りて、ゆっくり降りた。


 雪の上に靴がつく。


 帝城を出たときとは違う雪だ。


 冷たいのに、足元が沈みすぎない。


 誰かが、踏み固めてくれていた。


「アリア様」


 男爵夫人が、静かに言った。


「遠い道を、よくお越しくださいました。どうぞ、中へ。温かいものをご用意しております」


 温かいもの。


 その言葉に、レクス・ノアの鼻先が少し動いた。


「たべもの?」


 ノアの声が弾む。


 男爵夫人は一瞬だけ目を見開いた。


 けれど、悲鳴は上げなかった。


 後ろの若い使用人の一人が小さく息を呑む。年配の使用人が、その肩にそっと手を置いた。


 ガイゼルが一歩前へ出る。


「この方は、アリア様の大切な同行者だ」


「はい」


 男爵夫人はすぐに姿勢を直した。


「では、同行者様にも温かいものを」


「同行者」


 ノアが嬉しそうに繰り返す。


「ぼく、同行者」


「正確には一時的保護対象である可能性が高い」


 レクスが言った。


「どうこうしゃ」


「訂正が反映されていない」


 ルークスがこらえきれないように口元を押さえた。


 男爵夫人も、ほんの少しだけ笑った。


 その笑い方が、アリアは好きだと思った。


 大きな声ではない。


 でも、怖がっていない。


* * *


 屋敷の中は、暖かかった。


 大きな暖炉はないが、廊下の角に小さな炉が置かれ、火が静かに赤くなっている。床は古い木で、よく磨かれていた。壁には家族の肖像画ではなく、乾かした草花の束や、古い地図が飾られている。


 案内された部屋は、広くはなかった。


 寝台が一つ。


 机が一つ。


 窓辺には、小さな花瓶があり、白い花が一輪だけ挿してあった。


「お部屋が小さく、申し訳ございません」


 男爵夫人が言う。


 アリアは首を振った。


「小さくありません」


 帝城の部屋よりは、ずっと小さい。


 けれど、広すぎない。


 壁が遠くない。


 窓の外の庭も見える。


 アリアは、花瓶の花を見た。


「お花があります」


「今の季節は、庭の花ではございません。温室の隅に残っていたものを」


「わたしのために?」


 聞いてから、アリアは少し恥ずかしくなった。


 男爵夫人は、ゆっくり頷く。


「はい。お疲れの道中だったでしょうから」


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 アリアは花へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。


 触ると、折れてしまいそうに見えた。


* * *


 昼食のあと、ルークスが集落を案内してくれた。


 ガイゼルは領主としての用があり、アルヴィスは屋敷の者と何かを確認している。男爵夫人は、アリアに厚い外套を貸してくれた。


「寒くなったら、すぐ戻りましょう」


 ルークスはそう言って、アリアの歩幅に合わせて歩いた。


 歩幅を合わせてもらっていることに気づき、アリアは少しだけ早く歩こうとした。


 すぐに、雪に足を取られた。


「おっと」


 ルークスが手を差し出す。


「大丈夫ですか、アリア様」


「だ、大丈夫です」


 アリアは頬を熱くして頷いた。


 腕の中のレクス・ノアが、じっと足元を見る。


「雪、あしをつかむ」


「雪に意思はない」


「でも、つかんだ」


「摩擦と沈降だ」


「まさつ」


 ノアの声が、初めて聞く言葉を楽しそうに転がした。


 ルークスが肩を震わせた。


「お二人は、いつもそういうお話を?」


「お二人ではありません」


 アリアは慌てて言った。


「身体は一つです。でも、声が二つで」


「ああ、いえ、失礼しました」


 ルークスはすぐに頭を下げた。


「レクス様とノア様、とお呼びした方がよろしいでしょうか」


「ぼく、ノア」


「我は様を要求していない」


「では、レクス殿とノア殿」


「殿」


 ノアの声が少し得意そうになる。


「ぼく、との」


「権能の誤認が発生している」


 アリアは、思わず笑ってしまった。


 集落の広場には、子供たちがいた。


 雪を丸めて投げている。投げられた雪玉は、目標に届く前に崩れ、白い粉になって落ちた。


 少し離れたところで、犬が吠えた。


 吠えたけれど、襲ってくるわけではない。尻尾を振りながら、子供たちの周りを回っている。


「いぬ」


 ノアの声が輝いた。


 レクス・ノアの尻尾が毛布の中で動く。


「犬です」


「はしる」


「走っています」


「たのしい?」


「たぶん、楽しいのだと思います」


 アリアは答えながら、子供たちを見た。


 頬を赤くして、笑っている。


 服は上等ではない。手袋もところどころ継ぎが当たっている。それでも、雪を投げて、笑って、犬に追いかけられている。


 帝城の庭にも、雪は降った。


 けれど、アリアはあんなふうに雪を投げたことがなかった。


 雪は、踏まないように歩くもの。


 白く、静かで、きれいに保つもの。


 ここでは、雪は踏まれて、丸められて、笑い声になる。


 パンを焼く匂いがした。


 小さな店の裏で、年配の女性が平たいパンを取り出している。湯気が白く立ち上り、冷たい空気の中へほどけていく。


 ノアが、低く唸った。


「いいにおい」


「食物の匂いだ」


「食物、いい」


「同意する」


 レクスが珍しくすぐ答えたので、アリアは笑いそうになった。


 広場の端では、男たちが薪を割っている。井戸のそばでは、女性たちが洗濯物を絞りながら話していた。誰かがルークスに気づき、軽く手を上げる。


 ルークスも手を振り返した。


「ルークス様は、皆さんと仲がいいのですね」


「兄上が怖い顔で仕事を片づける分、僕が笑って回る役なんです」


「アルヴィス様は、怖い方ではありません」


「もちろん。兄上は誠実です。ただ、誠実すぎる人は、時々、顔が硬くなるんですよ」


 アリアは、少し考えた。


 アルヴィスの顔を思い出す。


 たしかに硬い。


 でも、怖くはなかった。


「責任の顔です」


 アリアが言うと、ルークスが一瞬、目を丸くした。


 それから、嬉しそうに笑った。


「それ、兄上が聞いたら困りますね。たぶん、もっと硬い顔になります」


 そのとき、レクス・ノアがふいに顔を上げた。


 広場の向こう。


 畑の先。


 白い山並みの方。


 アリアもつられて、そちらを見る。


 山は遠い。


 けれど、朝より近く見えた。


「どうしました?」


 ルークスが尋ねる。


 レクスは少し黙った。


「水はある」


「え?」


「森もある。材木もある。畑は狭いが、管理されている。人は少ない。防衛線は薄い。冬の備蓄に余裕はない」


 ルークスの顔から、笑みが少し消えた。


「よく見ていますね」


「悪くない」


 レクスは言った。


 少し間があった。


「だが、ここではない」


「ここ好き」


 ノアがすぐに言った。


「人、いる。犬、いる。パン、いい」


「好きと住むは違う」


「ちがう?」


「違う」


 アリアは、二つの声を聞きながら、白い山並みを見た。


 ここではない。


 その言葉は、男爵領が嫌だという意味には聞こえなかった。


 むしろ、好きだからこそ、違うと言っているように聞こえた。


* * *


 夜。


 屋敷は静かだ。


 アリアは寝台の上で、しばらく眠れずにいた。


 暖かい毛布。


 柔らかすぎない枕。


 窓辺の白い花。


 どれも、アリアを休ませようとしてくれている。


 けれど、昼間に聞いたレクスの言葉が、胸の奥で小さく残っていた。


 ここではない。


 のどが乾いて、アリアはそっと寝台を降りた。


 廊下へ出ると、灯りが一つだけ残っていた。


 その先の扉が、少し開いている。


 中から、低い声が聞こえた。


「今年の冬は越せます」


 アルヴィスの声だった。


「だが、余裕はありません。薪は足ります。麦も、節約すれば。けれど、人数が増えれば別です」


 アリアは足を止めた。


 聞いてはいけない。


 そう思ったのに、足が動かなかった。


「分かっている」


 ガイゼルの声がした。


「アリア様を責める話ではない」


「もちろんです」


 アルヴィスの声は、いつもより少しだけ硬かった。


「ただ、現実として、領は小さい。耕地も多くない。若い働き手も、帝都近郊の領ほどはいません。長く匿えば、必ずどこかで無理が出ます」


 紙が擦れる音。


 紙が擦れ、折り目が一つずつ開いていった。


「北東の古い道は」


「危険です」


「それでも、道はある」


「あります。白嶺へ続く道が」


 白嶺。


 昼間、山を見たときのレクス・ノアの目を、アリアは思い出した。


 ガイゼルはしばらく黙っていた。


「あの地は、今も呪われた土地と呼ばれている」


「だからこそ、帝国の目は薄い」


「人を連れていくには、早すぎる」


「ですが、ここに留め続けるにも、早晩限界が来ます」


 アリアは、自分の手を握った。


 誰も、アリアを責めていない。


 ガイゼルも。


 アルヴィスも。


 男爵夫人も。


 ルークスも。


 みんな、温かかった。


 だから、痛かった。


 ここで食べるパンは、誰かの分の麦からできている。


 ここで燃える薪は、誰かが寒い朝に割ったものだ。


 この部屋の花も、きっと誰かが選んでくれたものだ。


 アリアは、声を出さないように息を吸った。


 泣きたいわけではなかった。


 ただ、胸の奥に小さな石を入れられたみたいに重い。


 部屋へ戻ると、レクス・ノアが目を開けた。


「アリア」


 ノアの声が小さい。


「さむい?」


「いいえ」


 アリアは首を振った。


「少し、お水を飲みに行っていただけです」


「虚偽ではないが、不足がある」


 レクスが言った。


 アリアは毛布の端を握った。


「ここは、いいところです」


「同意」


「でも」


 そこから先が、うまく言えなかった。


 レクス・ノアは、アリアを見ていた。


 尻尾は動かない。


 ただ、同じ身体の中で、二つの声が黙って待っている。


「ここにずっといたら、だめかもしれません」


 ようやく、それだけ言った。


 ノアの声が、少し沈む。


「ここ好き」


「はい」


 アリアは頷いた。


「わたしも、好きです」


「でも、住むは違う」


 ノアが、昼間の言葉を思い出すように言った。


 レクスは何も言わなかった。


 けれど、その沈黙は否定ではなかった。


* * *


 夜明け前、レクス・ノアが窓を見ていた。


 アリアは浅い眠りから目を覚ます。


 部屋はまだ暗い。


 けれど、窓の向こうだけが、ほんの少し白くなっている。


「レクス?」


「外へ出る」


「今ですか?」


「今だ」


 アリアは外套を羽織った。


 廊下へ出ると、屋敷は眠っていた。足音を小さくしながら裏口へ向かう。扉の近くには、誰かが置いてくれた小さな長靴があった。


 アリアはそれを履いた。


 少し大きい。


 でも、雪に沈まなかった。


 屋敷の裏手には、低い岩場があった。


 その先は木々の梢へ続き、さらに向こうに白嶺山脈が見える。


 レクス・ノアはアリアの腕から降りた。


「危ないです」


「低高度。短距離」


「短いなら危なくない、ではありません」


「把握している」


 言いながら、レクス・ノアは雪の上を数歩進んだ。


 小さな翼が開く。


 まだ薄い翼。


 夜と朝の間の光を受けて、淡く透けて見えた。


「飛ぶ?」


 ノアの声がした。


「飛ぶ」


 レクスが答えた。


 次の瞬間、レクス・ノアの身体が雪を蹴った。


 高くはない。


 本当に、少しだけ。


 岩場から岩場へ、風に押されるように跳ぶ。翼がばたつき、体が傾く。アリアは思わず両手を伸ばした。


 けれど、レクス・ノアは落ちなかった。


 爪が岩をつかむ。


 小さな身体が、朝の空気の中でふるえた。


「飛びました」


 アリアの声もふるえた。


「飛びました、レクス、ノア」


「距離は不十分。姿勢制御も不安定」


「でも、飛んだ」


 ノアの声が、ひどく嬉しそうだった。


「ぼくたち、飛んだ」


 レクス・ノアは岩の上で顔を上げた。


 白嶺山脈が、朝日に触れ始めている。


 白い山肌が、ほんの少し金色になる。


 アリアはその光景を見た。


 寒いはずなのに、息をするのを忘れそうだった。


「帰る?」


 ノアが言った。


 その声は、いつものように弾んではいなかった。


 不思議そうで、少しだけ心細い。


 レクスは、長く黙っていた。


「分からない」


 短く、そう答える。


 レクス・ノアの身体は、山を見つめ続けている。


 アリアも同じ方向を見た。


 理由は分からない。


 怖い場所なのかもしれない。


 呪われた土地と呼ばれているのだと、夜の声が言っていた。


 けれど、朝日に照らされた白嶺山脈は、怖いだけの場所には見えなかった。


 誰かが待っているようにも。


 何かが呼んでいるようにも。


 見えた。


「行くのですか」


 アリアは小さく尋ねた。


 誰に聞いたのか、自分でも分からなかった。


 レクス・ノアは振り返らない。


「行く必要がある可能性が高い」


 レクスの声。


「行く」


 ノアの声。


 アリアは、外套の前をぎゅっと握った。


 男爵領の屋根から、朝の煙が上がり始めている。窓の向こうでは、誰かが雪を払う音もした。


 アリアは白嶺山脈を見た。朝日に照らされた稜線の奥へ、レクス・ノアの視線が伸びている。


 そこへ行く。理由はまだ分からない。それでも、外套の前を握る手は、もう離れなかった。


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