第5話 男爵領
山が近かった。
馬車の窓から見える白い稜線は、空に置かれた刃のように冷たく、けれどどこか、朝の光を待っているようにも見えた。
アリアは膝の上の毛布を押さえながら、幌の隙間から外を見ていた。
道は細い。
右手には深い森があり、左手には雪をかぶった斜面が落ちている。谷底には細い川が走っていて、馬車が揺れるたび、氷の下を流れる水の音が聞こえた。
「おおきい」
レクス・ノアが、アリアの腕の中から山を見上げた。
ノアの声だった。
その声には、怖さより先に、初めて見るものへの嬉しさがあった。
「山です」
アリアは小さく答えた。
「帝都からも見えますけれど、こんなに近くで見たのは、わたしも初めてです」
「近い」
今度はレクスの声がした。
短い声だった。
アリアは、レクス・ノアを見下ろした。
「近い、ですか?」
「距離の話ではない」
レクス・ノアは山から目を離さなかった。
「近い」
同じ言葉を、もう一度だけ繰り返す。
アリアには、よく分からなかった。
けれど、その言い方が少しだけ気になった。目の前の山は、ただ遠くにある山ではなく、レクス・ノアの中の何かを引っ張っているように見えた。
前を行く馬車の御者台には、アルヴィスがいる。隣にはルークスが座り、ときどき後ろを振り返っては、道の様子を確かめていた。
ガイゼルは同じ馬車の向かいに座っている。
もう、ただの御者ではない。
ガイゼル・ヴァルド。
先帝に仕えた男爵。
アリアを離宮ではなく、自分の領地へ連れていこうとしている人。
そう分かっても、アリアはまだ、その事実をうまく胸の中へしまえなかった。
「アリア様」
ガイゼルが静かに言った。
「間もなく、我が領の入口に入ります」
「はい」
返事をしてから、アリアは少しだけ背筋を伸ばした。
皇女としてではなく、アリアとして呼んでほしい。
そう頼んだのは自分なのに、アリア様、と呼ばれるたび、胸の奥がくすぐったくなる。
殿下より軽い。
けれど、名前だけより少し守られている。
不思議な呼び方に聞こえた。
馬車が森を抜けた。
急に空が広がる。
そこには、小さな集落があった。
帝城のような高い塔はない。大理石の階段も、金の飾りもない。けれど、雪を払われた道があり、石を積んだ低い塀があり、煙突から細い煙が上がっていた。
畑は冬の色をしていたが、柵はまっすぐ立っている。牧草地の端には羊が数頭、丸い背を寄せ合っていた。少し離れた川沿いでは、男たちが丸太を流す準備をしている。
遠くから、斧の音がした。
こつん。
こつん。
その音は、剣や鎧の音とは違う。
誰かを傷つけるためではなく、今日の火を作るための音。
「ここが、ヴァルド男爵領でございます」
ガイゼルの声は、少しだけ柔らかかった。
「小さな領です。帝都の方々が見れば、粗末に映るやもしれませぬ」
「粗末では、ありません」
アリアは思わず言った。
ガイゼルが目を上げる。
言ってから、アリアは少し不安になった。自分はここをよく知らない。知らないのに、粗末ではないなどと言ってよかったのだろうか。
けれど、目に見えるものは、粗末ではなかった。
小さな家の前で、女の人が雪を払っている。井戸のそばでは、年配の男が桶を運ぶ子供に何かを言い、子供が笑って逃げた。
誰も、豪華な服を着ていない。
でも、誰も暗い顔だけをしているわけではなかった。
「ちゃんと、しています」
アリアは言葉を探しながら続けた。
「みんな、朝のことをしています」
ガイゼルは、ほんのわずかに目を細めた。
「ありがたきお言葉です」
馬車が屋敷の前で止まった。
屋敷は、帝城の一つの広間よりも小さく見えた。
けれど、窓は磨かれている。扉の前には雪が残っていない。玄関の脇には、冬なのに小さな常緑の枝が飾られていた。
扉が開く。
中から、落ち着いた顔の女性が出てきた。厚い外套を羽織り、髪をきちんとまとめている。後ろには年配の使用人と、若い使用人が二人、控えていた。
「お帰りなさいませ」
女性はガイゼルにそう言ってから、アリアを見た。
深く膝を折りすぎることはしなかった。
けれど、無礼でもなかった。
アリアが馬車の段差を見下ろしていると、アルヴィスが無言で手を差し出した。ルークスは踏み台を押さえている。
「ありがとうございます」
アリアはその手を借りて、ゆっくり降りた。
雪の上に靴がつく。
帝城を出たときとは違う雪だ。
冷たいのに、足元が沈みすぎない。
誰かが、踏み固めてくれていた。
「アリア様」
男爵夫人が、静かに言った。
「遠い道を、よくお越しくださいました。どうぞ、中へ。温かいものをご用意しております」
温かいもの。
その言葉に、レクス・ノアの鼻先が少し動いた。
「たべもの?」
ノアの声が弾む。
男爵夫人は一瞬だけ目を見開いた。
けれど、悲鳴は上げなかった。
後ろの若い使用人の一人が小さく息を呑む。年配の使用人が、その肩にそっと手を置いた。
ガイゼルが一歩前へ出る。
「この方は、アリア様の大切な同行者だ」
「はい」
男爵夫人はすぐに姿勢を直した。
「では、同行者様にも温かいものを」
「同行者」
ノアが嬉しそうに繰り返す。
「ぼく、同行者」
「正確には一時的保護対象である可能性が高い」
レクスが言った。
「どうこうしゃ」
「訂正が反映されていない」
ルークスがこらえきれないように口元を押さえた。
男爵夫人も、ほんの少しだけ笑った。
その笑い方が、アリアは好きだと思った。
大きな声ではない。
でも、怖がっていない。
* * *
屋敷の中は、暖かかった。
大きな暖炉はないが、廊下の角に小さな炉が置かれ、火が静かに赤くなっている。床は古い木で、よく磨かれていた。壁には家族の肖像画ではなく、乾かした草花の束や、古い地図が飾られている。
案内された部屋は、広くはなかった。
寝台が一つ。
机が一つ。
窓辺には、小さな花瓶があり、白い花が一輪だけ挿してあった。
「お部屋が小さく、申し訳ございません」
男爵夫人が言う。
アリアは首を振った。
「小さくありません」
帝城の部屋よりは、ずっと小さい。
けれど、広すぎない。
壁が遠くない。
窓の外の庭も見える。
アリアは、花瓶の花を見た。
「お花があります」
「今の季節は、庭の花ではございません。温室の隅に残っていたものを」
「わたしのために?」
聞いてから、アリアは少し恥ずかしくなった。
男爵夫人は、ゆっくり頷く。
「はい。お疲れの道中だったでしょうから」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
アリアは花へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
触ると、折れてしまいそうに見えた。
* * *
昼食のあと、ルークスが集落を案内してくれた。
ガイゼルは領主としての用があり、アルヴィスは屋敷の者と何かを確認している。男爵夫人は、アリアに厚い外套を貸してくれた。
「寒くなったら、すぐ戻りましょう」
ルークスはそう言って、アリアの歩幅に合わせて歩いた。
歩幅を合わせてもらっていることに気づき、アリアは少しだけ早く歩こうとした。
すぐに、雪に足を取られた。
「おっと」
ルークスが手を差し出す。
「大丈夫ですか、アリア様」
「だ、大丈夫です」
アリアは頬を熱くして頷いた。
腕の中のレクス・ノアが、じっと足元を見る。
「雪、あしをつかむ」
「雪に意思はない」
「でも、つかんだ」
「摩擦と沈降だ」
「まさつ」
ノアの声が、初めて聞く言葉を楽しそうに転がした。
ルークスが肩を震わせた。
「お二人は、いつもそういうお話を?」
「お二人ではありません」
アリアは慌てて言った。
「身体は一つです。でも、声が二つで」
「ああ、いえ、失礼しました」
ルークスはすぐに頭を下げた。
「レクス様とノア様、とお呼びした方がよろしいでしょうか」
「ぼく、ノア」
「我は様を要求していない」
「では、レクス殿とノア殿」
「殿」
ノアの声が少し得意そうになる。
「ぼく、との」
「権能の誤認が発生している」
アリアは、思わず笑ってしまった。
集落の広場には、子供たちがいた。
雪を丸めて投げている。投げられた雪玉は、目標に届く前に崩れ、白い粉になって落ちた。
少し離れたところで、犬が吠えた。
吠えたけれど、襲ってくるわけではない。尻尾を振りながら、子供たちの周りを回っている。
「いぬ」
ノアの声が輝いた。
レクス・ノアの尻尾が毛布の中で動く。
「犬です」
「はしる」
「走っています」
「たのしい?」
「たぶん、楽しいのだと思います」
アリアは答えながら、子供たちを見た。
頬を赤くして、笑っている。
服は上等ではない。手袋もところどころ継ぎが当たっている。それでも、雪を投げて、笑って、犬に追いかけられている。
帝城の庭にも、雪は降った。
けれど、アリアはあんなふうに雪を投げたことがなかった。
雪は、踏まないように歩くもの。
白く、静かで、きれいに保つもの。
ここでは、雪は踏まれて、丸められて、笑い声になる。
パンを焼く匂いがした。
小さな店の裏で、年配の女性が平たいパンを取り出している。湯気が白く立ち上り、冷たい空気の中へほどけていく。
ノアが、低く唸った。
「いいにおい」
「食物の匂いだ」
「食物、いい」
「同意する」
レクスが珍しくすぐ答えたので、アリアは笑いそうになった。
広場の端では、男たちが薪を割っている。井戸のそばでは、女性たちが洗濯物を絞りながら話していた。誰かがルークスに気づき、軽く手を上げる。
ルークスも手を振り返した。
「ルークス様は、皆さんと仲がいいのですね」
「兄上が怖い顔で仕事を片づける分、僕が笑って回る役なんです」
「アルヴィス様は、怖い方ではありません」
「もちろん。兄上は誠実です。ただ、誠実すぎる人は、時々、顔が硬くなるんですよ」
アリアは、少し考えた。
アルヴィスの顔を思い出す。
たしかに硬い。
でも、怖くはなかった。
「責任の顔です」
アリアが言うと、ルークスが一瞬、目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「それ、兄上が聞いたら困りますね。たぶん、もっと硬い顔になります」
そのとき、レクス・ノアがふいに顔を上げた。
広場の向こう。
畑の先。
白い山並みの方。
アリアもつられて、そちらを見る。
山は遠い。
けれど、朝より近く見えた。
「どうしました?」
ルークスが尋ねる。
レクスは少し黙った。
「水はある」
「え?」
「森もある。材木もある。畑は狭いが、管理されている。人は少ない。防衛線は薄い。冬の備蓄に余裕はない」
ルークスの顔から、笑みが少し消えた。
「よく見ていますね」
「悪くない」
レクスは言った。
少し間があった。
「だが、ここではない」
「ここ好き」
ノアがすぐに言った。
「人、いる。犬、いる。パン、いい」
「好きと住むは違う」
「ちがう?」
「違う」
アリアは、二つの声を聞きながら、白い山並みを見た。
ここではない。
その言葉は、男爵領が嫌だという意味には聞こえなかった。
むしろ、好きだからこそ、違うと言っているように聞こえた。
* * *
夜。
屋敷は静かだ。
アリアは寝台の上で、しばらく眠れずにいた。
暖かい毛布。
柔らかすぎない枕。
窓辺の白い花。
どれも、アリアを休ませようとしてくれている。
けれど、昼間に聞いたレクスの言葉が、胸の奥で小さく残っていた。
ここではない。
のどが乾いて、アリアはそっと寝台を降りた。
廊下へ出ると、灯りが一つだけ残っていた。
その先の扉が、少し開いている。
中から、低い声が聞こえた。
「今年の冬は越せます」
アルヴィスの声だった。
「だが、余裕はありません。薪は足ります。麦も、節約すれば。けれど、人数が増えれば別です」
アリアは足を止めた。
聞いてはいけない。
そう思ったのに、足が動かなかった。
「分かっている」
ガイゼルの声がした。
「アリア様を責める話ではない」
「もちろんです」
アルヴィスの声は、いつもより少しだけ硬かった。
「ただ、現実として、領は小さい。耕地も多くない。若い働き手も、帝都近郊の領ほどはいません。長く匿えば、必ずどこかで無理が出ます」
紙が擦れる音。
紙が擦れ、折り目が一つずつ開いていった。
「北東の古い道は」
「危険です」
「それでも、道はある」
「あります。白嶺へ続く道が」
白嶺。
昼間、山を見たときのレクス・ノアの目を、アリアは思い出した。
ガイゼルはしばらく黙っていた。
「あの地は、今も呪われた土地と呼ばれている」
「だからこそ、帝国の目は薄い」
「人を連れていくには、早すぎる」
「ですが、ここに留め続けるにも、早晩限界が来ます」
アリアは、自分の手を握った。
誰も、アリアを責めていない。
ガイゼルも。
アルヴィスも。
男爵夫人も。
ルークスも。
みんな、温かかった。
だから、痛かった。
ここで食べるパンは、誰かの分の麦からできている。
ここで燃える薪は、誰かが寒い朝に割ったものだ。
この部屋の花も、きっと誰かが選んでくれたものだ。
アリアは、声を出さないように息を吸った。
泣きたいわけではなかった。
ただ、胸の奥に小さな石を入れられたみたいに重い。
部屋へ戻ると、レクス・ノアが目を開けた。
「アリア」
ノアの声が小さい。
「さむい?」
「いいえ」
アリアは首を振った。
「少し、お水を飲みに行っていただけです」
「虚偽ではないが、不足がある」
レクスが言った。
アリアは毛布の端を握った。
「ここは、いいところです」
「同意」
「でも」
そこから先が、うまく言えなかった。
レクス・ノアは、アリアを見ていた。
尻尾は動かない。
ただ、同じ身体の中で、二つの声が黙って待っている。
「ここにずっといたら、だめかもしれません」
ようやく、それだけ言った。
ノアの声が、少し沈む。
「ここ好き」
「はい」
アリアは頷いた。
「わたしも、好きです」
「でも、住むは違う」
ノアが、昼間の言葉を思い出すように言った。
レクスは何も言わなかった。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
* * *
夜明け前、レクス・ノアが窓を見ていた。
アリアは浅い眠りから目を覚ます。
部屋はまだ暗い。
けれど、窓の向こうだけが、ほんの少し白くなっている。
「レクス?」
「外へ出る」
「今ですか?」
「今だ」
アリアは外套を羽織った。
廊下へ出ると、屋敷は眠っていた。足音を小さくしながら裏口へ向かう。扉の近くには、誰かが置いてくれた小さな長靴があった。
アリアはそれを履いた。
少し大きい。
でも、雪に沈まなかった。
屋敷の裏手には、低い岩場があった。
その先は木々の梢へ続き、さらに向こうに白嶺山脈が見える。
レクス・ノアはアリアの腕から降りた。
「危ないです」
「低高度。短距離」
「短いなら危なくない、ではありません」
「把握している」
言いながら、レクス・ノアは雪の上を数歩進んだ。
小さな翼が開く。
まだ薄い翼。
夜と朝の間の光を受けて、淡く透けて見えた。
「飛ぶ?」
ノアの声がした。
「飛ぶ」
レクスが答えた。
次の瞬間、レクス・ノアの身体が雪を蹴った。
高くはない。
本当に、少しだけ。
岩場から岩場へ、風に押されるように跳ぶ。翼がばたつき、体が傾く。アリアは思わず両手を伸ばした。
けれど、レクス・ノアは落ちなかった。
爪が岩をつかむ。
小さな身体が、朝の空気の中でふるえた。
「飛びました」
アリアの声もふるえた。
「飛びました、レクス、ノア」
「距離は不十分。姿勢制御も不安定」
「でも、飛んだ」
ノアの声が、ひどく嬉しそうだった。
「ぼくたち、飛んだ」
レクス・ノアは岩の上で顔を上げた。
白嶺山脈が、朝日に触れ始めている。
白い山肌が、ほんの少し金色になる。
アリアはその光景を見た。
寒いはずなのに、息をするのを忘れそうだった。
「帰る?」
ノアが言った。
その声は、いつものように弾んではいなかった。
不思議そうで、少しだけ心細い。
レクスは、長く黙っていた。
「分からない」
短く、そう答える。
レクス・ノアの身体は、山を見つめ続けている。
アリアも同じ方向を見た。
理由は分からない。
怖い場所なのかもしれない。
呪われた土地と呼ばれているのだと、夜の声が言っていた。
けれど、朝日に照らされた白嶺山脈は、怖いだけの場所には見えなかった。
誰かが待っているようにも。
何かが呼んでいるようにも。
見えた。
「行くのですか」
アリアは小さく尋ねた。
誰に聞いたのか、自分でも分からなかった。
レクス・ノアは振り返らない。
「行く必要がある可能性が高い」
レクスの声。
「行く」
ノアの声。
アリアは、外套の前をぎゅっと握った。
男爵領の屋根から、朝の煙が上がり始めている。窓の向こうでは、誰かが雪を払う音もした。
アリアは白嶺山脈を見た。朝日に照らされた稜線の奥へ、レクス・ノアの視線が伸びている。
そこへ行く。理由はまだ分からない。それでも、外套の前を握る手は、もう離れなかった。




