第4話 もう帰れない
馬車が止まった。
がくん、と小さく体が揺れて、アリアは毛布の中のレクス・ノアを抱き直した。
夜はもう薄くなっている。けれど朝と呼ぶには、まだ空の色が冷たかった。幌の隙間から入り込む風は、火のそばで温まった頬をすぐに冷やしていく。
「着いた?」
レクス・ノアが顔を上げる。
「停止。目的地到着とは限らない」
レクスの声は短かった。
アリアは幌の外をのぞいた。
そこは、森の中の道。
一本だった道が、少し先で三つに分かれている。来た道は帝都の方へ戻る道。右へ伸びる道は、木々の間を北へ向かっている。左の細い道は、斜面を巻くようにして、さらに深い山の方へ消えていた。
雪の上に、車輪の跡が三方向へ薄く残っている。
どの道も、静かだ。
鳥の声がした。
初老の御者は御者台から降りた。いつものように手綱を確かめ、馬の首を軽く撫でる。
それから、アリアのいる扉の前へ回った。
「お嬢様」
その声は低かった。
けれど、「先へ進みます」でも、「足元にお気をつけください」でもなかった。
アリアは扉の縁に手をかける。段差は高い。御者が手を差し出してくれたので、アリアはその手を借りて馬車を降りた。
雪を踏む。
レクス・ノアを抱えた腕に、少し力が入った。
御者はアリアの前で、深く頭を下げた。
帽子を取り、片膝をつく。
それは、御者が客にする礼ではなかった。
「殿下」
呼び方が変わった。
アリアの胸が、小さく跳ねる。
「これより先、私は御者ではございません」
御者は顔を上げなかった。
「名を、ガイゼル・ヴァルドと申します。先帝陛下の近衛を務め、のちに男爵位を賜った者でございます」
ガイゼル。
アリアはその名を、心の中でゆっくり繰り返した。
知っている名ではなかった。けれど、どこかで聞いたことがあるような気もした。父帝のそばにいた人たち。宴や式典の端に立っていた、背筋のまっすぐな大人たち。
その中に、この人がいたのかもしれない。
「男爵……」
「はい」
ガイゼルは静かに答えた。
「私は、殿下を北の離宮へお送りするために雇われた御者ではございません。殿下を離宮へ向かわせぬため、御者として潜り込みました」
アリアは、すぐには意味が分からなかった。
離宮へ向かわせない。
では、あの書状は。
北方への療養という言葉は。
「離宮は……療養の場所では、ないのですか」
声が小さくなった。
ガイゼルは少しだけ目を伏せる。
「離宮には、医師も侍女も用意されておりましょう。帳面の上では、何も不自然ではないように」
帳面。
その言葉が、妙に冷たかった。
「けれど、殿下がそこで長く生きられるとは、私どもは考えておりません」
アリアの指が、毛布を握った。
レクス・ノアが鼻先を上げる。
「こわい匂い?」
「情報不足。ただし、この男は虚偽を言っていない可能性が高い」
レクスが低く言った。
ガイゼルはアリアの腕の中のレクス・ノアを見ていなかった。
「離宮で待っているのは、静かな幽閉ではありません。病、事故、衰弱。どの名で処理されるかまでは分かりませぬ。ですが、殿下を帝都から遠ざけ、戻れぬようにするための道でございましょう」
戻れない。
アリアは三つの道を見た。
帝都へ戻る道。
離宮へ向かう道。
山へ続く道。
どれも雪で白いのに、同じ道には見えなかった。
「どうして」
言葉がこぼれた。
ガイゼルは答えなかった。
たぶん、答えはひとつではない。
父がいなくなったから。
アリアが皇女だったから。
誰かにとって、邪魔だったから。
そんな大きな言葉がいくつも浮かびかけて、アリアの中でうまく形にならなかった。
「私には、難しいことは、まだ分かりません」
「分からずともよいこともございます」
ガイゼルの声は、少しだけ苦かった。
「ですが、これだけはお伝えせねばなりません。殿下は、運ばれている荷ではございません。これより先は、殿下がお決めください」
ガイゼルは深く頭を下げたまま、右の道を示す。
「北の離宮へ向かわれるのであれば、お送りいたします。私は、どのような道でも馬を進めます」
次に、左の細い山道を示した。
「山道を選ばれるのであれば、私の領へお連れいたします。安全とは申し上げられません。追手も、雪も、山もございます。ですが、殿下を弑するための部屋はございません」
アリアは黙った。
消すための部屋。
そんな言い方はされていないのに、そう聞こえた。
胸の奥が冷たくなる。
レクス・ノアが、アリアの腕の中でそっと動いた。
「アリア、寒い?」
「……少し」
「あったかくする」
レクス・ノアは毛布の中で体を丸めた。
「体温供給。効果は限定的」
「でも、あったかい」
「否定はしない」
レクスの声が、ほんの少しだけ柔らかかった。
アリアは息を吸った。
冷たい空気が喉に入って、少し痛かった。
そのとき、左の山道の奥から車輪の音がした。
ガイゼルが立ち上がる。
森の影から、一台の馬車が現れた。帝都から乗ってきたものよりも丈夫そうで、幌は地味な灰色に張り替えられている。馬も二頭。脚が太く、雪道に慣れているように見えた。
御者台には若い男が二人いた。
先に降りたのは背の高い青年だった。無駄のない動きで周囲を見てから、アリアへ深く礼をする。
次に降りた若い男は、先の青年より少しだけ表情が明るかった。礼はきちんとしているのに、目がすぐにアリアの腕の中のレクス・ノアへ向く。
「龍……本当に」
「ルークス」
先の青年が低くたしなめる。
若い男は慌てて背筋を伸ばした。
「失礼いたしました」
アリアは少しだけ目を丸くした。
跪かない。
大げさに頭を床へつけるような礼もしない。
けれど、不敬だとは思わなかった。二人はアリアを見下ろしているのに、見下してはいなかった。
アリアは、顔を上げるために少し首を反らした。
「あなたたちは」
「我が家の者でございます」
ガイゼルが短く言った。
それから、二人へ目を向ける。
「我が長男、アルヴィス・ヴァルド。次男、ルークス・ヴァルドでございます」
背の高い青年、アルヴィスは、もう一度短く頭を下げた。
「アルヴィス・ヴァルドです。アリア様をお守りいたします」
ルークスは一拍遅れて、慌てたように礼を重ねる。
「ルークス・ヴァルドです。あの、先ほどは失礼しました。きらきらした龍を見るのが初めてで」
「ルークス」
「はい、黙ります」
ガイゼルは小さく息を吐いた。
「詳しい名乗りは、後ほど。今は追手を遅らせることを優先いたします」
アルヴィスが頷く。
「旧馬車は谷へ落とします。車輪跡は途中で切ります」
ルークスは荷台から布と道具を下ろしながら、ちらちらとアリアの腕の中を見ていた。
レクス・ノアも見返している。
「あの人、目がきらきら」
「対象は若年男性。敵意は薄い」
「きらきら」
「警戒は維持する」
ルークスが小さく笑いそうになって、アルヴィスにまた見られ、すぐ真顔に戻った。
その少しだけおかしな空気に、アリアの肩から力が抜ける。
けれど、すぐに音がした。
遠くから、角笛の音。
低く、長く、森の上を渡ってくる。
ルークスの顔から笑いが消えた。
アルヴィスは何も言わず、馬車の車輪へ手をかける。ガイゼルも動いた。
帝都から来た古い馬車の荷を移す。車輪を外す。幌の一部を裂く。雪の上に残った足跡を枝で乱す。
誰も大声を出さなかった。
急いでいるのに、慌てていない。
アリアはそれを見ていた。
自分のために、人が動いている。
自分のために、嘘をつき、道を変え、追われる危険を引き受けている。
それが嬉しいのか、怖いのか、よく分からなかった。
手が冷たい。
アリアは胸元で指を握る。
「アリア」
レクスが言った。
「この者たちは、選択肢を提示している。強制ではない」
「……分かります」
「分かる?」
レクス・ノアが首を傾げる。
「全部は、分かりません」
アリアは正直に言った。
「でも、私を勝手に連れていこうとはしていません」
そこだけは、分かる。
帝城で渡された書状は、アリアに選ばせなかった。
北方への療養。
綺麗な言葉で包まれていたけれど、そこにアリアの返事はなかった。
けれど今、ガイゼルは待っている。
アルヴィスもルークスも、急かさない。
角笛がまた鳴った。
今度は、少し近い。
ガイゼルが戻ってきた。外套の裾に雪がついている。
「殿下」
彼はもう一度、深く頭を下げた。
「離宮へ向かわれるのであれば、お送りいたします。たとえその道が罠であっても、道中で私が命に代えてお守りいたします」
アリアは右の道を見た。
離宮へ向かう道。
白く、静かで、きれいに見えた。
でも、その先に待っている部屋は、きっと暖かくない。
「山道を選ばれるのであれば」
ガイゼルの声は変わらない。
「私どもは、殿下を我が領までお連れいたします。その先で何ができるかは、まだ分かりませぬ。ですが、殿下が生きるための道を探します」
左の道。
細く、暗く、雪が深い。
安全には見えなかった。
けれど、そこには新しい馬車があった。
ガイゼルがいた。
アルヴィスとルークスがいた。
腕の中には、レクス・ノアがいた。
「こわいです」
アリアは言った。
声は小さかった。
けれど、消えなかった。
「帝都も、離宮も、山も。ぜんぶ、こわいです」
レクス・ノアがじっとアリアを見ている。
レクスの声も黙っていた。
「でも」
アリアは息を吸った。
冷たい空気が胸の奥へ落ちる。
「何も選ばないまま、連れていかれるのは、もっと嫌です」
ガイゼルの眉が、ほんの少し動いた。
アリアは、山道を見た。
「皆さんが、命を懸けてくださる道を選びます」
言ってから、足が震えた。
立派な言葉を言えた気はしなかった。
ただ、今の自分が持てる一番まっすぐな言葉。
ガイゼルは、ゆっくりと頭を下げた。
アルヴィスもルークスも、静かに礼をする。
レクス・ノアの尻尾が、ノアの嬉しさを隠せず毛布の中で揺れた。
「アリア、選んだ」
「ああ」
レクスが短く答える。
「選択を確認した」
「うれしい?」
「……不明」
「ぼくはうれしい」
ノアが言った。
アリアは少しだけ笑った。
涙が出そうだったので、すぐに唇を結んだ。
古い馬車は、道の奥へ運ばれていった。車輪を外され、荷台は雪の斜面へ落とされる。枝が折れる音がした。やがて、それも雪に吸い込まれて消えた。
新しい馬車の踏み台は、さっきの馬車より少し高かった。
アリアが見上げると、ルークスが慌てて踏み台を押さえた。アルヴィスが無言で手を差し出す。
「ありがとうございます」
アリアはその手を借りて、一段ずつ上がった。
乗り込む前に、ガイゼルが口を開く。
「殿下」
アリアは振り向いた。
胸の奥が、きゅっと痛む。
殿下。
父がいたころ、その呼び方はアリアを守る壁でもあった。
今は、少しだけ重い。
アリアは首を横に振った。
「……アリアでお願いします」
ガイゼルは黙った。
アルヴィスもルークスも、何も言わない。
風が雪を少しだけ動かした。
「私は、皇女でなくなるわけでは、ないのかもしれません」
アリアは自分の言葉を探しながら続けた。
「でも、今は。今だけは、名前で呼ばれたいです」
ガイゼルの目が、静かに細くなった。
悲しそうにも、嬉しそうにも見えた。
「承知いたしました」
彼は深く礼をした。
「アリア様」
その音は、夜明け前の空気にゆっくり溶けた。
アリアは、自分の名前を聞いた。
焚き火の夜、レクス・ノアに二つの名前を贈ったときとは、少し違う。
今度は、自分が選んだ名前。
「はい」
アリアは小さく返事をした。
ノアの声が嬉しそうに弾む。
「アリア」
「様を付けろ」
レクスがすぐに言う。
「アリア様」
「……発音は正しい」
アリアは、今度は少しだけ声を出して笑った。
新しい馬車が動き出す。
車輪が雪を踏み、山道へ入っていく。
アリアは幌の隙間から、帝都の方角を見た。
塔はもう見えない。
白い壁も、暖かな窓も、雪と森の向こうだった。
けれど、そこにはアンがいる。
エーヴァルトがいる。
父がいた場所がある。
アリアは小さく頭を下げた。
「さようなら」
悲しみではなかった。
未練でもなかった。
まだ胸は痛い。
それでも、馬車は進む。
アリアはレクス・ノアの小さな体を抱きしめ、前を向いた。
北には、誰も知らない白い山々が静かに連なっていた。




