第3話 名前をくれる人
焚き火のそばへ戻ると、鍋から湯気が立っていた。
干し肉と根菜を煮ただけの、簡単なスープ。けれど、冷えた森の中では、それだけで十分すぎる。
御者は木椀を三つ並べていた。
三つ。
アリアはそれを見て、少しだけ目を丸くする。
「この子の分も、ですか?」
「食べられるかは分かりませぬが、仲間外れはよくありません」
御者は当然のように言った。
小さな龍が木椀をのぞき込む。
「これ、なに?」
「食事です」
「いい匂い」
「成分不明。摂取は慎重に行うべきだ」
「食べたい」
「まず観察」
「食べて観察」
「順序が逆だ」
アリアは木匙を手に取った。
「熱いですから、少し冷ましましょう」
「熱い、知ってる」
「さっき、御者さんに言われましたものね」
「近いと危ない」
「はい。だから、今度は近づきすぎないでください」
小さな龍は木椀をのぞき込んだまま、尻尾をゆっくり揺らした。
「でも、食べたい」
「食べたい時ほど、待つのです」
「待つの、むずかしい」
「わたしも、少し苦手です」
言ってから、アリアは自分で少し驚いた。
帝城では、苦手なことを苦手と言う前に、ちゃんとしなければならなかった。
けれど今は、小さな龍が本当に困った顔をしている。それがなんだかおかしくて、少しだけ肩の力が抜けた。
「では、わたしが冷まします。あなたは、勝手に舌を出さないでください」
「出したら?」
「だめです」
今度は、さっきより自然に言えた。
小さな龍の尻尾がぴたりと止まる。
「だめ」
「はい。だめです」
「命令?」
「お願いです。でも、聞いてくれなかったら、少し怒ります」
「怒る」
「火傷をしてほしくないからです」
弾む声は少し黙った。
「じゃあ、待つ」
「保護の意図と判断する。従う」
冷静な声が続ける。
アリアは、胸元で手を握りかけて、途中で止めた。
「……ありがとう」
木匙でスープをすくい、息を吹きかける。
湯気が薄くほどけた。
「はい。少しだけ」
小さな龍は恐る恐る舌を出した。
ぺろり。
次の瞬間、尻尾が大きく跳ねた。
「あったかい!」
「音量を下げろ」
「おいしい!」
「情報量が少ない」
「おいしいは、おいしい!」
「それは説明ではない」
「でも、おいしい!」
アリアは、こらえきれなかった。
声が漏れた。
笑い声。
小さくて、短くて、自分でも驚くほど軽い音。
御者が火の向こうで目を細める。
けれど、何も言わなかった。
それがありがたかった。
初めて、笑い方を気にしなくてよかった。
アリアは木椀を両手で包み、もう一度、小さな龍のためにスープを冷ました。
「ゆっくり食べてください。まだたくさんあります」
「たくさん」
「携行食の残量から見て、厳密には多くない」
「たくさんがいい」
「願望だ」
「たくさんにして」
「我に言うな」
また、アリアは笑ってしまった。
笑ってから、胸の奥が少し痛んだ。
帝城の裏門。
泣いていたアン。
頭を下げていたエーヴァルト。
戻れない場所。
失ったものは、消えていない。
それでも、今ここには火があった。
温かいスープがあった。
少し困った顔の御者がいて、同じ身体で言い合う小さな龍がいた。
同じ食卓。
そう思った瞬間、アリアは木椀を少し強く握った。
食卓と呼ぶには、あまりに小さい。
それでも、ここにいる三人は、同じものを分け合っている。
それがなぜか、とても大事なことに思えた。
「そういえば」
アリアは小さな龍を見た。
「あなたたちには、お名前があるのですか?」
小さな龍の動きが止まった。
「名前」
弾む声が、不思議そうに繰り返す。
「識別記号なら不要だ。身体は一つ。対象は我らで足りる」
「でも、呼ぶときに困ります」
「小さき龍でよい」
「それは、少し寂しいです」
アリアがそう言うと、二つの声は黙った。
火が薪を小さく崩す音だけがした。
* * *
「名前は、大切な人が呼んでくれるものです」
アリアは、ゆっくりと言った。
それから、少しだけ迷って、小さな龍に向き直った。
「わたしの名前は、アリアです。アリア・セレフィア・ヴァルグレイン」
口にした瞬間、その名が胸の奥で少し重くなった気がした。
帝城では、その名は長すぎる鎖みたいに感じられた。皇女であること。父帝の娘であること。もう失くしてしまったものが、全部そこに結びついていた。
「アリア」
弾む声が、すぐに繰り返した。
「セレ……?」
「長いので、アリアで大丈夫です」
「アリア」
「はい」
けれど、アンが呼ぶ「姫様」は違った。
エーヴァルトが低く告げる「殿下」も、父が笑って呼んだ「アリア」も、同じ音なのに、鎖ではなかった。
誰かが大切に呼んでくれる名前は、帰る場所に少し似ている気がした。
「大切な人」
弾む声が言った。
「我らには該当者がいない」
冷静な声は、いつも通り短かった。
けれどアリアには、その短さが少しだけ冷たく聞こえた。
冷たいのではなく、まだ知らないだけなのかもしれない。
「では、わたしが呼んでもいいですか?」
「おまえが?」
「はい」
「根拠は」
「……根拠」
アリアは少し考えた。
自分は、この子たちの何なのだろう。
主人ではない。
飼い主でもない。
守れるほど強くもない。
けれど、夜の森で一緒に火を囲んでいる。危ない馬車の中で、膝に乗せていた。火傷をしないようにスープを冷ました。
それだけでは足りないだろうか。
アリアは、膝の上で手を握る。
「これから、大切にしたいと思ったからです。だめ、でしょうか」
言ってから、頬が熱くなった。
返事を待つあいだ、アリアの指は膝の布をつまんだ。
けれど、取り消したくはなかった。
小さな龍の尻尾が、雪の上をぱたぱたと叩く。
「大切」
「まだ判断材料が少ない」
「でも、あったかい」
「それは判断材料として弱い」
「でも、あったかい」
「……二度言えば強くなるわけではない」
アリアは焚き火の向こうを見た。
御者は、黙って鍋の残りをかき混ぜている。
聞こえていないふりをしている。
その横顔が、なぜか少しだけ優しかった。
「古い伝承に、レックスノアールという龍が出てきます」
アリアは言った。
「白い山を越え、夜の底から朝を連れてきた、とても古い龍です。詳しいことは、わたしも本で読んだだけなのですが」
「レックスノアール」
冷静な声が、その名をなぞった。
弾む声も続ける。
「長い」
「ええ。少し長いですね」
「呼びにくい」
「はい」
アリアは、そこで小さく息を吸った。
「だから、あなたには、レクス」
冷静な瞳が、アリアを見る。
「我に?」
「はい。考えて、見て、守ろうとしてくれるあなたに」
レクスは何も言わなかった。
ただ、尻尾の先だけが、雪の上で一度止まった。
「そして、あなたには、ノア」
今度は、瞳がぱっと明るくなる。
「ぼく?」
「はい。好きなものを見つけて、きれいだと言ってくれるあなたに」
「ノア」
その声は、まるで初めて雪に触れたときのようだった。
「ぼく、ノア?」
「嫌でなければ」
「いやじゃない」
ノアは即答した。
「ノア、好き」
「判断が早い」
レクスが言った。
「我は、まだ評価中だ」
「では、無理に受け取らなくても」
「不要とは言っていない」
アリアは首を傾げた。
レクス・ノアは少しだけ目を逸らした。
「識別には有用だ。おまえが我を呼ぶ際、混同が減る」
「では、受け取ってくれるのですか?」
「暫定的に」
「ずっとにする」
ノアがすかさず言った。
「暫定だ」
「ずっと」
「暫定」
「ずっと!」
アリアはまた笑った。
今度は、隠さなかった。
笑っているうちに、目の奥が少し熱くなる。
泣きたいのとは違う。
ただ、胸の中に小さな火がともったみたいに思えた。
「レクス」
アリアは呼んだ。
レクス・ノアの瞳が、静かにこちらを向く。
「ノア」
尻尾が大きく跳ねた。
「はい!」
「返答が早い」
「呼ばれた」
「それは分かる」
「うれしい」
ノアの声が、真っ直ぐだった。
その瞬間、アリアの胸に、言葉ではない温かさがふわりと触れた。
焚き火よりもずっと小さい。
スープの湯気よりも淡い。
でも確かに、嬉しい、という形をしている。
アリアは目を瞬いた。
気のせいかもしれない。
疲れているだけかもしれない。
けれど、レクス・ノアの尻尾はノアの嬉しさを隠せずに揺れ、それから少しだけ目を伏せた。レクスは何も言わなかった。
アリアは、その温かさを胸の奥にしまった。なくさないように。
「ありがとう、レクス。ノア」
「礼を言うのは、我らの側ではないのか」
「そうなの?」
「名前を受け取った」
「じゃあ、ありがとう」
ノアが言った。
それから少し考えて、もう一度言う。
「アリア、ありがとう」
焚火が静かに爆ぜる。
アリアは伏せていた視線をそっと上げた。
——自分の名前が、こんなにも温かい。
「……はい」
声が、少し震えた。
けれど今度は、寒さのせいではなかった。
* * *
夜明け前、三人は再び馬車に乗った。
火は雪で丁寧に消し、痕跡は御者が枝でならした。馬は白い息を吐きながら、静かに歩き出す。
森は少しずつ薄くなっていった。
幌の隙間から差し込む空気に、夜の底とは違う色が混じり始める。
アリアは毛布の中で、レクス・ノアの小さな体を抱いていた。
小さな体は、食事のあとで少し眠そうにしている。それでも、瞳だけは時々開いて、外の気配を追っていた。
「眠ってもいいのですよ」
「睡眠は必要だ」
「じゃあ、寝る?」
「周囲確認後だ」
「レクス、まじめ」
「おまえが不用心すぎる」
「ノアです」
ノアが胸を張るように言った。
「名前、ある」
レクスは一拍置いた。
「……把握している」
アリアは毛布の端で口元を隠した。
笑いそうになったからだ。
馬車が森を抜ける。
その瞬間、視界が開けた。
遠く、北の空の下に、白い山並みが連なっていた。
朝の光を受ける前の山は、青白く、静かで、まるで眠っている獣の背のようだった。
アリアは息を呑む。
帝都の尖塔とは違う。
石壁でも、宮殿でもない。
それなのに、なぜか目を離せなかった。
「北方の山でございます」
御者台から初老の御者が言った。
「あのあたりには、古い道がいくつもございます。風は強うございますが、人目は少ない」
「離宮への道も、あちらに?」
「……道は、いくつかございます」
御者の声は穏やかだった。
けれど、手綱を握る手に迷いはない。
答えになっているようで、少しだけ足りない。
アリアは問い返さなかった。今の自分には、知らない道を選べるほどの力がない。
アリアは山並みを見つめた。
帰る場所。
そんな言葉が浮かんで、すぐに消える。
まだ、そんなものがあるとは思えなかった。
そのとき、レクス・ノアが顔を上げた。
眠気が消えていた。
琥珀の瞳が、まっすぐ北を見ている。
「……奥に、気配がある」
短い声だった。
アリアの腕に、少しだけ力が入る。
「気配、ですか」
「不明。だが、空ではない。山そのものでもない。動くものの気配だ」
レクス・ノアの目も同じ方向へ向いた。
そして、嬉しそうに笑う。
「帰る場所?」
アリアは答えられなかった。
北の山並みは、白く静かに横たわっている。
それが獣なのか、人なのか、それとも別のものなのか、まだ誰も知らない。
ただ、馬車は進んでいた。
帝都から遠ざかり、冷たい朝へ向かって。
アリアはレクス・ノアの小さな体を抱きしめる。
名前を呼べる相手の温かさが、腕の中にあった。
それだけで、今は少しだけ前を見られた。




