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龍と廃嫡皇女のシェアハウス  作者: 三連九
第1章 廃嫡皇女と双声の幼龍、白嶺へ
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第2話 声がふたつ

「……解せぬ」


 小さな声が、膝の上でした。


 アリアは思わず息を止めた。


 馬車は、まだ走っている。車輪が凍った轍を踏むたび、薄い板張りの床がこつこつと鳴った。幌の隙間から入り込む夜気は冷たく、アリアの指先はすっかりかじかんでいる。


 けれど、膝の上だけは少し温かかった。


 毛布にくるまれた小さな龍が、片目だけを開けていた。金にも琥珀にも見える瞳が、じっとアリアを見上げている。


「目が、覚めたのですか?」


「覚めた。状況は不明。移動中。振動あり。外気温は低い」


 声は幼いのに、言い方だけが妙に硬かった。


 アリアはまばたきをした。


「あの……あなたは、先ほどの」


「我は我だ」


 小さな龍は当然のように言った。


 そして、次の瞬間。


「あったかい」


 同じ口から、まったく違う声がこぼれた。


 アリアの手の中で、細い尻尾がぴこりと揺れる。


「ここ、あったかい。匂い、こわくない」


 小さな龍は毛布の中から首を伸ばし、アリアのお腹のあたりに鼻先をそっとこすりつけた。


「匂いで判断するな。情報が不足している」


「でも、こわくないよ?」


「それは結論ではない。感想だ」


「感想、大事」


「……否定はしない」


 アリアは、しばらく声を出せなかった。


 同じ小さな体。同じ口。同じ瞳。


 それなのに、話している子は、ひとりではない気がした。


 片方は短く、冷静で、言葉の端をきちんと折り畳むように話す。もう片方は、見たもの、感じたものをそのまま外へこぼしてしまう。


 怖い、とは思わなかった。


 ただ、不思議だった。


 そして少しだけ、胸の奥がほどける。


 この子にも、話し相手がいる。決して、一人にならない。


 アリアは安心したように、そっと毛布の端を整えた。



「お嬢様」


 御者台から、初老の御者の低い声がした。


 幌越しの声なのに、不思議とよく通る。


「少し先で馬を休ませます。追手の気配は、今のところございません」


「分かりました。ありがとうございます」


「火を起こせる場所を選びます。お体を冷やしすぎませぬよう」


 それだけ言うと、御者はまた黙った。


 アリアは幌の向こうを見た。


 ただの御者なら、こんな夜の森で、火を起こせる場所など選べるものだろうか。


 そう思ってから、すぐに目を伏せる。


 聞いてはいけないことがある。


 今は、知らないふりをしたほうがいい。そんな気がした。


 膝の上で、小さな龍が鼻を動かす。


「火?」


「暖を取るためのものです」


「あったかい?」


「ええ。とても」


「行く」


「まだ馬車が止まっていません」


「では待つ。待つのは効率的ではない」


「待てるのですね。えらいです」


「すでに一度落下している」


「ねえ、火、きれい?」


 同じ顔で、今度は声が弾む。


 アリアは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


「きれいです。でも、近づきすぎると熱いですよ」


「熱い。知りたい」


「知らなくていい知識もある」


 小さな龍の中で、また二つの声が言い合った。


 アリアはそのやりとりを聞きながら、毛布の端をそっと直した。


 馬車の外では、夜の森が静かに近づいていた。


* * *


 馬車が止まったのは、背の高い針葉樹に囲まれた小さな空き地。


 雪は深すぎず、風も木々に遮られている。空には薄い雲がかかり、月の光は白くぼやけていた。


 初老の御者はまず馬の首を撫で、それから手早く車輪の跡を枝で乱した。


 アリアはそれを見ていた。


 休むための動きではない。


 見つからないための動きだ。


「お嬢様、足元にお気をつけください」


 御者が差し出した手は、しわが深く、指の節が硬かった。


 アリアはその手を借りて馬車を降りる。


 雪を踏んだ瞬間、冷たさが靴底から上がってきた。体が小さく震える。


「すぐ火を起こします」


「あの、わたしも手伝います」


「では、こちらにお座りください」


 御者は倒木の上に、馬車から出した布を敷いた。


 手伝う、という言葉への返事としては少しずれている。


 アリアが困っていると、御者は何事もなかったように薪を組み始めた。


「お嬢様がそこに座ってくだされば、私は余計な心配をせずに済みます」


「それは、お手伝いですか?」


「はい。たいへん助かります」


 真顔のまま。


 アリアは少しだけ迷い、それから布の上に腰を下ろした。


 膝の上から、小さな龍が顔を出す。


「あれが火?」


「まだ火ではありません」


「では、火の前?」


「薪です」


「まき」


 弾む声が、初めて聞く言葉を嬉しそうに繰り返す。


「まき、いい匂い。冷たい匂い。眠ってる木の匂い」


「木は眠らない」


「でも、しーんとしてる」


「それは静止だ」


「しーん」


「……好きにしろ」


 御者が火打ち石を打つ音がした。


 小さな火花が散り、乾いた綿に赤い点が宿る。御者はそれを両手で囲い、息を細く吹きかけた。


 やがて、薪の端に炎が移った。


 小さな火が、寒い空気を押し返す。


 アリアの頬に、柔らかな熱が届いた。


「……きれい」


 小さな龍が言った。


 声は、さっきの弾む方。


「こわくない火」


「火に善悪はない。扱い方の問題だ」


「でも、これはこわくない」


 アリアは炎を見つめた。


 帝城の暖炉の火とは違う。あちらは大きく、整えられ、誰かがいつも管理していた。


 この火は小さい。


 すぐ消えてしまいそうで、けれど今は確かに三人を温めている。


「……そうですね。こわくない火です」


 そう言うと、胸の中にあった固いものが少しだけ沈んだ。


 小さな龍が、炎へ鼻先を近づける。


「熱いぞ」


 御者の一言に、小さな龍は慌てて身を引いた。


「熱い、こわい?」


「近すぎると危ないだけです」


「距離を保てば有用だ」


 冷静な声が言い、弾む声は炎を見つめたまま、小さく「距離」と繰り返した。


 御者は鍋を火にかけ、干し肉と固いパンを取り出した。荷物は多くない。それでも、布に包まれた小さな乾燥果実まで出てきた。


「甘いものは、少しだけです」


「これは」


「長い道では、甘いものが薬になることもございます」


 御者はそれ以上説明しなかった。


 アリアは乾燥果実を見つめる。


 自分のために、持ってきてくれたのだろうか。


 それとも、こんな夜が来ることを、彼は前から知っていたのだろうか。


 答えは聞けなかった。


 そのとき、膝の上が軽くなった。


「あ」


 小さな龍が、雪の上へ降りていた。


 小さな足跡が、火のそばから森の方へ向かっていく。


「待ってください。そちらは」


「白い」


 弾む声がした。


「全部、白い。空から落ちたの? 地面が雲?」


「雪だ。低温下で大気中の水分が結晶化し——」


「ふわふわ」


「説明を聞け」


「ふわふわ!」


 アリアは立ち上がった。


 御者が鍋から目を離さずに言う。


「遠くへは行かせませぬよう。私は火と馬を見ております」


「はい」


 返事をしてから、アリアは小さな龍の足跡を追った。


* * *


 森は、音を少しずつ吸い込んでいた。


 雪を踏む音。


 枝から落ちる粉雪の音。


 遠くで流れる小川の、細い声。


 小さな龍は、そのひとつひとつに顔を上げた。


「音がたくさん」


「警戒対象も多い」


「あれ、なに?」


「枝」


「あれは?」


「枝」


「これは?」


「枝だ」


「森、枝が多い」


「観察としては正しい」


 そのとき、森の奥で長い声が上がった。


 雪に沈んだ木々の向こうから、細く、遠く、けれど確かに声が届いた。


 小さな龍の尻尾がぴたりと止まる。


「枝?」


「違う。生物音。距離はあるが、複数の可能性あり」


「枝じゃない」


「枝は鳴かない」


 また、遠くで、ほう、と夜が震えた。


「歌?」


「威嚇、連絡、あるいは位置確認。分類は未確定」


「歌、こわい?」


「接近されれば危険」


「じゃあ、近づかない」


「その判断は正しい」


 小さな龍は、少しだけ胸を張った。


 小さな龍は満足そうに尻尾を振った。


 その尻尾が雪を払って、小さな白い粒を散らす。冷たい。けれど痛くはない。空から落ちた白いものは、鼻先に触れると消えた。


「消えた」


「溶けた」


「ぼくが食べた?」


「違う」


「でも、なくなった」


「温度差による状態変化だ」


「むずかしい」


「事実はしばしば難しい」


「じゃあ、楽しいでいい」


「……なぜそうなる」


 小さな龍は答えず、ひょこひょこと前へ進んだ。


 小川のそばに、冬でも散らずに残った薄い花があった。色は淡い紫。雪の白の中で、そこだけ小さく息をしているようだった。


「きれい」


「植物。低温耐性あり」


「きれい」


「それは二度目だ」


「二度きれい」


 冷静な声が黙った。


 その沈黙を、弾む声の方は勝ちだと判断した。


 花へ鼻先を近づけたとき、背後で雪を踏む音がした。


 小さな龍は振り返る。


 アリアが立っていた。


 白金の髪に、雪の粒がいくつか乗っている。青い瞳は、冬空みたいだった。冷たい色なのに、大きな瞳がこちらを見ると、胸のあたりが少し温かくなる。


 匂いもした。


 火の匂い。


 布の匂い。


 少しだけ涙の匂い。


 それから、こわくない匂い。


「見つけました」


 アリアは息を整えながら言った。


「あまり遠くへ行ってはだめです。森には、危ないものもありますから」


「危険は確認中だ」


「きれいを見てた」


 二つの声が同時に返った。


 アリアは少し困った顔をした。


「ええと、どちらに返事をすればいいのでしょう」


「合理的には、重要度の高い発言から処理すべきだ」


「きれい、だいじ」


「危険の方が重要だ」


「でも、きれいを見ないと、森が森じゃない」


「意味が不明だ」


 アリアは口元に手を当てた。


 笑った、ように見えた。


 小さく、ほんの少し。


 けれど小さな龍には、火が少し強くなったような温かさを感じた。


「二人とも、大事なことを言っているのですね。たぶん」


「二人」


 冷静な声が、わずかに低くなった。


「おまえは、我らを二つと認識するのか」


「違うのですか?」


「身体は一つだ」


「でも、話している方は、お二人いるように聞こえます」


「観察としては正しい」


「ぼくは、ぼく」


「我も我だ」


 アリアは膝を折り、目線を近づけた。


 雪の上に、薄い外套の裾が触れる。


「では、そう覚えます。からだは一つ。でも、声は二つ」


「正確ではないが、暫定的に許容する」


「ざんてい?」


「今だけ、ということだと思います」


「今だけ。じゃあ、あとでずっとにする」


 弾む声が嬉しそうに言った。


 アリアは今度こそ、はっきり笑った。


 その笑顔を見て、冷静な声の方はしばらく黙った。


 弾む声の方は、ただ暖かいと思った。


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