第2話 声がふたつ
「……解せぬ」
小さな声が、膝の上でした。
アリアは思わず息を止めた。
馬車は、まだ走っている。車輪が凍った轍を踏むたび、薄い板張りの床がこつこつと鳴った。幌の隙間から入り込む夜気は冷たく、アリアの指先はすっかりかじかんでいる。
けれど、膝の上だけは少し温かかった。
毛布にくるまれた小さな龍が、片目だけを開けていた。金にも琥珀にも見える瞳が、じっとアリアを見上げている。
「目が、覚めたのですか?」
「覚めた。状況は不明。移動中。振動あり。外気温は低い」
声は幼いのに、言い方だけが妙に硬かった。
アリアはまばたきをした。
「あの……あなたは、先ほどの」
「我は我だ」
小さな龍は当然のように言った。
そして、次の瞬間。
「あったかい」
同じ口から、まったく違う声がこぼれた。
アリアの手の中で、細い尻尾がぴこりと揺れる。
「ここ、あったかい。匂い、こわくない」
小さな龍は毛布の中から首を伸ばし、アリアのお腹のあたりに鼻先をそっとこすりつけた。
「匂いで判断するな。情報が不足している」
「でも、こわくないよ?」
「それは結論ではない。感想だ」
「感想、大事」
「……否定はしない」
アリアは、しばらく声を出せなかった。
同じ小さな体。同じ口。同じ瞳。
それなのに、話している子は、ひとりではない気がした。
片方は短く、冷静で、言葉の端をきちんと折り畳むように話す。もう片方は、見たもの、感じたものをそのまま外へこぼしてしまう。
怖い、とは思わなかった。
ただ、不思議だった。
そして少しだけ、胸の奥がほどける。
この子にも、話し相手がいる。決して、一人にならない。
アリアは安心したように、そっと毛布の端を整えた。
「お嬢様」
御者台から、初老の御者の低い声がした。
幌越しの声なのに、不思議とよく通る。
「少し先で馬を休ませます。追手の気配は、今のところございません」
「分かりました。ありがとうございます」
「火を起こせる場所を選びます。お体を冷やしすぎませぬよう」
それだけ言うと、御者はまた黙った。
アリアは幌の向こうを見た。
ただの御者なら、こんな夜の森で、火を起こせる場所など選べるものだろうか。
そう思ってから、すぐに目を伏せる。
聞いてはいけないことがある。
今は、知らないふりをしたほうがいい。そんな気がした。
膝の上で、小さな龍が鼻を動かす。
「火?」
「暖を取るためのものです」
「あったかい?」
「ええ。とても」
「行く」
「まだ馬車が止まっていません」
「では待つ。待つのは効率的ではない」
「待てるのですね。えらいです」
「すでに一度落下している」
「ねえ、火、きれい?」
同じ顔で、今度は声が弾む。
アリアは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「きれいです。でも、近づきすぎると熱いですよ」
「熱い。知りたい」
「知らなくていい知識もある」
小さな龍の中で、また二つの声が言い合った。
アリアはそのやりとりを聞きながら、毛布の端をそっと直した。
馬車の外では、夜の森が静かに近づいていた。
* * *
馬車が止まったのは、背の高い針葉樹に囲まれた小さな空き地。
雪は深すぎず、風も木々に遮られている。空には薄い雲がかかり、月の光は白くぼやけていた。
初老の御者はまず馬の首を撫で、それから手早く車輪の跡を枝で乱した。
アリアはそれを見ていた。
休むための動きではない。
見つからないための動きだ。
「お嬢様、足元にお気をつけください」
御者が差し出した手は、しわが深く、指の節が硬かった。
アリアはその手を借りて馬車を降りる。
雪を踏んだ瞬間、冷たさが靴底から上がってきた。体が小さく震える。
「すぐ火を起こします」
「あの、わたしも手伝います」
「では、こちらにお座りください」
御者は倒木の上に、馬車から出した布を敷いた。
手伝う、という言葉への返事としては少しずれている。
アリアが困っていると、御者は何事もなかったように薪を組み始めた。
「お嬢様がそこに座ってくだされば、私は余計な心配をせずに済みます」
「それは、お手伝いですか?」
「はい。たいへん助かります」
真顔のまま。
アリアは少しだけ迷い、それから布の上に腰を下ろした。
膝の上から、小さな龍が顔を出す。
「あれが火?」
「まだ火ではありません」
「では、火の前?」
「薪です」
「まき」
弾む声が、初めて聞く言葉を嬉しそうに繰り返す。
「まき、いい匂い。冷たい匂い。眠ってる木の匂い」
「木は眠らない」
「でも、しーんとしてる」
「それは静止だ」
「しーん」
「……好きにしろ」
御者が火打ち石を打つ音がした。
小さな火花が散り、乾いた綿に赤い点が宿る。御者はそれを両手で囲い、息を細く吹きかけた。
やがて、薪の端に炎が移った。
小さな火が、寒い空気を押し返す。
アリアの頬に、柔らかな熱が届いた。
「……きれい」
小さな龍が言った。
声は、さっきの弾む方。
「こわくない火」
「火に善悪はない。扱い方の問題だ」
「でも、これはこわくない」
アリアは炎を見つめた。
帝城の暖炉の火とは違う。あちらは大きく、整えられ、誰かがいつも管理していた。
この火は小さい。
すぐ消えてしまいそうで、けれど今は確かに三人を温めている。
「……そうですね。こわくない火です」
そう言うと、胸の中にあった固いものが少しだけ沈んだ。
小さな龍が、炎へ鼻先を近づける。
「熱いぞ」
御者の一言に、小さな龍は慌てて身を引いた。
「熱い、こわい?」
「近すぎると危ないだけです」
「距離を保てば有用だ」
冷静な声が言い、弾む声は炎を見つめたまま、小さく「距離」と繰り返した。
御者は鍋を火にかけ、干し肉と固いパンを取り出した。荷物は多くない。それでも、布に包まれた小さな乾燥果実まで出てきた。
「甘いものは、少しだけです」
「これは」
「長い道では、甘いものが薬になることもございます」
御者はそれ以上説明しなかった。
アリアは乾燥果実を見つめる。
自分のために、持ってきてくれたのだろうか。
それとも、こんな夜が来ることを、彼は前から知っていたのだろうか。
答えは聞けなかった。
そのとき、膝の上が軽くなった。
「あ」
小さな龍が、雪の上へ降りていた。
小さな足跡が、火のそばから森の方へ向かっていく。
「待ってください。そちらは」
「白い」
弾む声がした。
「全部、白い。空から落ちたの? 地面が雲?」
「雪だ。低温下で大気中の水分が結晶化し——」
「ふわふわ」
「説明を聞け」
「ふわふわ!」
アリアは立ち上がった。
御者が鍋から目を離さずに言う。
「遠くへは行かせませぬよう。私は火と馬を見ております」
「はい」
返事をしてから、アリアは小さな龍の足跡を追った。
* * *
森は、音を少しずつ吸い込んでいた。
雪を踏む音。
枝から落ちる粉雪の音。
遠くで流れる小川の、細い声。
小さな龍は、そのひとつひとつに顔を上げた。
「音がたくさん」
「警戒対象も多い」
「あれ、なに?」
「枝」
「あれは?」
「枝」
「これは?」
「枝だ」
「森、枝が多い」
「観察としては正しい」
そのとき、森の奥で長い声が上がった。
雪に沈んだ木々の向こうから、細く、遠く、けれど確かに声が届いた。
小さな龍の尻尾がぴたりと止まる。
「枝?」
「違う。生物音。距離はあるが、複数の可能性あり」
「枝じゃない」
「枝は鳴かない」
また、遠くで、ほう、と夜が震えた。
「歌?」
「威嚇、連絡、あるいは位置確認。分類は未確定」
「歌、こわい?」
「接近されれば危険」
「じゃあ、近づかない」
「その判断は正しい」
小さな龍は、少しだけ胸を張った。
小さな龍は満足そうに尻尾を振った。
その尻尾が雪を払って、小さな白い粒を散らす。冷たい。けれど痛くはない。空から落ちた白いものは、鼻先に触れると消えた。
「消えた」
「溶けた」
「ぼくが食べた?」
「違う」
「でも、なくなった」
「温度差による状態変化だ」
「むずかしい」
「事実はしばしば難しい」
「じゃあ、楽しいでいい」
「……なぜそうなる」
小さな龍は答えず、ひょこひょこと前へ進んだ。
小川のそばに、冬でも散らずに残った薄い花があった。色は淡い紫。雪の白の中で、そこだけ小さく息をしているようだった。
「きれい」
「植物。低温耐性あり」
「きれい」
「それは二度目だ」
「二度きれい」
冷静な声が黙った。
その沈黙を、弾む声の方は勝ちだと判断した。
花へ鼻先を近づけたとき、背後で雪を踏む音がした。
小さな龍は振り返る。
アリアが立っていた。
白金の髪に、雪の粒がいくつか乗っている。青い瞳は、冬空みたいだった。冷たい色なのに、大きな瞳がこちらを見ると、胸のあたりが少し温かくなる。
匂いもした。
火の匂い。
布の匂い。
少しだけ涙の匂い。
それから、こわくない匂い。
「見つけました」
アリアは息を整えながら言った。
「あまり遠くへ行ってはだめです。森には、危ないものもありますから」
「危険は確認中だ」
「きれいを見てた」
二つの声が同時に返った。
アリアは少し困った顔をした。
「ええと、どちらに返事をすればいいのでしょう」
「合理的には、重要度の高い発言から処理すべきだ」
「きれい、だいじ」
「危険の方が重要だ」
「でも、きれいを見ないと、森が森じゃない」
「意味が不明だ」
アリアは口元に手を当てた。
笑った、ように見えた。
小さく、ほんの少し。
けれど小さな龍には、火が少し強くなったような温かさを感じた。
「二人とも、大事なことを言っているのですね。たぶん」
「二人」
冷静な声が、わずかに低くなった。
「おまえは、我らを二つと認識するのか」
「違うのですか?」
「身体は一つだ」
「でも、話している方は、お二人いるように聞こえます」
「観察としては正しい」
「ぼくは、ぼく」
「我も我だ」
アリアは膝を折り、目線を近づけた。
雪の上に、薄い外套の裾が触れる。
「では、そう覚えます。からだは一つ。でも、声は二つ」
「正確ではないが、暫定的に許容する」
「ざんてい?」
「今だけ、ということだと思います」
「今だけ。じゃあ、あとでずっとにする」
弾む声が嬉しそうに言った。
アリアは今度こそ、はっきり笑った。
その笑顔を見て、冷静な声の方はしばらく黙った。
弾む声の方は、ただ暖かいと思った。




