第1話 帰る場所のないふたり
「殿下、足元にお気をつけください」
老執事、エーヴァルト・レインベルクの声は、寒風に少しだけ震えていた。
帝城の裏門は、夜の底に沈んでいた。昼間なら白く輝く石壁も、今は雪雲を背負って灰色に沈んでいる。門灯は必要最低限しか点いていない。見送りの列も、儀仗兵も、皇族の馬車に掛けられる紋章旗もなかった。
あるのは、車輪の塗装が剥げた小さな馬車だけ。
アリアは薄い外套の襟を押さえ、階段を降りた。石段に積もった雪が靴底で軋む。その音が、やけに大きく聞こえる。
この階段を、彼女は何度も通ったことがある。
式典の日。父帝に呼ばれた日。庭で花を摘んだ帰り。幼い頃、走って叱られたこともあった。
けれど、今夜だけは違った。
もう、この門で「いってらっしゃいませ」と送り出されることはない。
若いメイドのアンが、小さな革鞄を胸に抱えていた。中身は着替えが二組と、古い本が一冊だけだ。皇女の荷物としては、あまりにも少ない。
「姫様、私も参ります」
アンの声は、泣く寸前の子供のように細かった。
「だめです」
アリアは振り向き、アンを見上げ、すぐに答えた。
アンの目が大きく揺れる。
いつも髪を整えてくれる手が、今は行き場をなくして震えている。
「でも、私は姫様の侍女です。どこへでも」
「だから……ここにいてください」
言い切ると、胸の奥がきゅっと痛んだ。アンを置いていきたいわけではない。エーヴァルトを見捨てたいわけでもない。
でも、分かってしまった。
今夜、自分のそばにいる人ほど危ない。
自分と一緒に行けば、アンもエーヴァルトも、こわい目に遭うかもしれない。
アリアはアンの手から鞄を受け取り、代わりにその冷えた指を包んだ。
「アン。ここにいて。あなたまで、こわい目に遭うのは嫌です」
「そんなの、嫌です……」
アンの頬を涙が落ちた。
エーヴァルトが一歩前へ出る。
「殿下、私だけでも同行をお許しください。老いぼれではありますが、多少の盾には」
アリアは首を横に振った。
「その呼び方も、もう」
言葉の続きを、雪がさらっていった。
父帝が亡くなったあと、すべてが変わった。朝には部屋の鍵が取り上げられ、昼には侍女たちが遠ざけられ、夕方には北方への療養という名目の書状を渡された。
療養。
綺麗な言葉に聞こえた。
けれど、アリアにも分かった。
これは追放だ。
そう理解しても、泣くことはできなかった。泣けば、エーヴァルトもアンも、もっと苦しそうな顔をする。だからアリアは、膝が震えないように、外套の合わせ目を握った。
「あなたには、ここで見ていてほしいのです」
「見る、とは」
「お父様がいなくなったあとの帝城を。だれがこわい顔をして、だれが嘘をつくのかを」
エーヴァルトの目が、ほんのわずかに細くなった。
それは従順な使用人の顔ではなかった。長く帝城に仕え、たくさんの沈黙を見てきた者の顔。
「……承知いたしました」
エーヴァルトは深く頭を下げた。
声は静かだった。けれどアリアには、その静けさの奥に、まだ折れていない芯があるように聞こえた。
「アンを、お願いします」
「命に代えましても」
「命はだめ!ぜったい!」
思わずそう返すと、エーヴァルトが少しだけ目を伏せた。笑ったのかもしれない。雪の夜では、それすらはっきり見えなかった。
初老の御者が、馬の手綱を確かめていた。彼だけが、アリアを乗せて帝都を出る役を命じられている。
古びた外套に身を包んでいるのに、背筋は少しも曲がっていない。手綱を持つ手には、馬を扱う者の慣れだけではなく、刃を握ってきた者の静けさがあった。
彼は帽子のつばについた雪を払い、低く告げる。
「お嬢様、お急ぎを。門の交代まで、そう長くはありません」
「あなたも、無理はしないでください」
「ご心配には及びません。今夜の道は、私が存じております」
それは御者の返事としては、少しだけ重かった。アリアは問い返しかけて、やめた。今は、誰かの覚悟をほどいている時間がなかった。
アリアは頷いた。
アンが嗚咽を噛み殺している。
アリアはつま先立ちになり彼女の頬に触れた。冷たい。けれど、その涙だけは熱かった。
「また会いましょう」
「必ずです」
「ええ。必ず」
約束してしまえば、戻る理由になる。
アリアは小さな鞄を抱えたまま、御者の手を借りて馬車へ乗り込んだ。段差は思ったより高く、片足をかけるだけで外套の裾が揺れた。扉が閉まる。鉄の留め具が落ちる音がした。
それは、アリアを帝城から閉め出す音に似ていた。
馬車が動き出す。
裏門の前に、エーヴァルトとアンが残る。アンは泣きながら、それでも両手を胸の前で握っていた。エーヴァルトは深く頭を下げている。けれど、馬車が角を曲がる直前、彼が顔を上げたのをアリアは見た。
あの人は、まだ何かを諦めていない。
そう思った瞬間、胸の痛みが少しだけ形を変えた。
帰る場所がなくなるというのは、扉を閉められることだけではない。
振り返っても、自分を待っている灯りが見えなくなることなのだ。
けれど今夜、帝城の裏門には、泣きながら見送ってくれる人がいた。
アリアはそのことを、忘れないように目を閉じた。
* * *
最初に感じたのは、冷たさではなかった。
息苦しい。
硬い殻の内側で、何かが跳ねた。自分の音だ。自分の鼓動だ。けれど、生まれたばかりの幼い龍には、それが何なのか分からなかった。
狭い。
暗い。
ここは、もう嫌だ。
爪が動いた。
薄い殻に線が走る。もう一度、押す。ひびが広がる。外から、女の声が聞こえた。
「やっと、やっとよ……!」
甘ったるい声。
けれど、その奥にあるものは甘くなかった。
殻が割れた。
眩しい光が流れ込む。幼い龍は、濡れた翼を震わせながら顔を上げた。絨毯。燭台。赤い帳。香の匂い。たくさんの金色。たくさんの飾り。たくさんの目。
その中心に、女がいた。
宝石をいくつも下げた貴族の女主人だった。唇は笑っている。頬も上がっている。けれど、幼い龍には、その笑みが笑みには見えなかった。
欲しい。
奪いたい。
閉じ込めたい。
女の背後に、黒いもやのようなものが揺れている気がした。それが本当に見えたものなのか、ただの感じ方なのか、幼い龍には分からない。
分からないけれど、体中の鱗が逆立った。
こわい。
いやだ。
とてもいやだ。
理由は後でいい。今は逃げる。
「おお、見なさい。龍よ。これで我が家は」
女が手を伸ばした。
その指が近づく。
触られたら、終わる。
理由はなかった。言葉にもならなかった。ただ、その感覚だけが、卵から出たばかりの小さな体を動かした。
幼い龍は、身をよじった。
台座から転がり落ちる。脚はまだうまく動かない。翼も重い。尾が燭台に当たり、火が揺れた。女主人の悲鳴が上がる。
「捕まえなさい! 傷をつけては駄目よ!」
傷をつけては駄目。
その言葉にも、嫌な匂いがした。
幼い龍は、床を引っかきながら窓へ向かった。絹の帳が爪に絡む。誰かの手が尾を掴みかける。振り払う。体が小さな卓にぶつかり、銀の杯が転がった。
外。
外へ。
外へ出る。その一つだけを、幼い龍は離さなかった。
窓硝子に、黒銀の小さな体がぶつかる。
一度では割れなかった。
痛い。
でも、あの手に捕まるよりずっといい。
もう一度、ぶつかった。
硝子が砕けた。
真冬の夜気が、刃のように体へ刺さる。幼い龍は破片と一緒に外へ転がり落ち、雪の積もった庭を跳ねた。
背後で叫び声がする。
でも、振り返らなかった。
幼い龍は、まだ思うように動かない翼をばたつかせた。雪の上を跳ね、塀の影へ滑り込み、短く浮いては落ちる。飛ぶというより、転がる体を無理に空へ引っかけているようだった。
それでも、少しずつ屋敷から離れていく。
帝都の屋根の隙間へ、幼い龍は逃げた。
* * *
馬車は帝都の外れへ向かっていた。
車内は空っぽに近かった。
向かいの座席には誰もいない。アンが抱えていた革鞄だけが、座席の端で小さく揺れている。エーヴァルトが座るはずだった場所には、夜の冷気だけがあった。
アリアは、その空席を見ないようにした。
見れば、置いてきた二人の顔を思い出してしまう。泣いていたアン。頭を下げながら、それでも何かを諦めていなかったエーヴァルト。
連れてくればよかったのかもしれない。
けれど、それはできなかった。
自分のせいで、あの二人まで傷つくのは嫌だった。
「止まれ」
鋭い声が夜道を裂いた。
馬車が揺れ、止まる。アリアの肩が壁に当たった。
「巡邏だ。車内を改める」
御者が低い声で応じた。
「この馬車は北方療養へ向かうご令嬢を」
「開けろ」
命令は短かった。
扉が開くまでの数秒が、やけに長い。アリアは鞄を膝に引き寄せた。隠れる場所などない。それでも、指が勝手に動いた。
冷気と一緒に、甲冑の匂いが入ってきた。
警邏の帝国兵が、灯りを掲げる。若くはない。目つきだけが冷えていた。彼は空の座席を見て、アリアを見た。
灯りが、彼女の顔に止まる。
「……間違いない」
兵の口元が歪んだ。
その瞬間、アリアの背筋に冷たいものが走った。
「ここで終わりだ」
刃が抜かれた。
アリアは息を呑んだ。御者が外で怒鳴る。馬がいななき、馬車が大きく傾く。
御者は、老いた体からは考えられない速さで動いた。
腰から短剣を抜き、扉の前にいた兵の腕を弾く。老いた体とは思えない動きだった。刃を振るうというより、相手の動く先を先に塞いでいる。アリアは、その背中をどこかで見たような気がした。
この方は、御者ではない。
少なくとも、ただの御者ではない。
だが、道の向こうからさらに二人、三人と兵が駆けてくる。
多勢に無勢。
「伏せてください!」
御者の声に、アリアは座席へ身を沈めた。
次の瞬間、馬車の横窓が砕けた。
雪と硝子片と一緒に、小さな何かが飛び込んでくる。黒銀の鱗。濡れた翼。小さな角。金色の目。
それはアリアの膝の上へ転がり、くたりと震えた。
「龍……?」
声は、アリアの喉からこぼれていた。
幼い龍は、アリアを見上げた。
その目は、ひどく怯えていた。けれど、ただ怯えているだけではなかった。どこへ行けばいいのか分からない目。誰の手も信じられない目。
アリアは、その目を知っていた。
ほんの少し前、馬車の窓に映った自分が、同じ目をしていた。
「ともども始末しろ!」
帝国兵の声が飛ぶ。
アリアは反射的に幼い龍を抱きしめた。
鱗は冷たかった。体は驚くほど軽い。けれど、胸の奥だけが熱を持って震えている。
「触らないで」
声は細かった。
それでも、出た。
兵が鼻で笑う。
「さすがは元皇女殿下、この期に及んで龍を庇うとはな」
刃が近づいた。
幼い龍の喉が鳴る。
低い音だった。鳴き声というには深く、言葉というにはまだ形がない。けれど、その音に反応するように、馬車の床に霜が走った。
兵の靴底が白く凍る。
「なっ」
ひとりが足を取られて倒れた。もうひとりの剣先が空を切る。御者がその隙を逃さず、手綱を掴んだ。
「やぁ!」
御者の声に、馬が迷わず応えた。
まるで、この道も、この逃げ方も、ずっと前から決められていたみたいに。
馬が跳ねる。
馬車が動き出した。
扉が半ば開いたまま、車体が激しく揺れる。外で兵が怒鳴る。誰かが追いすがり、御者の短剣がその手を払った。
幼い龍は、アリアの腕の中でぐったりと力を失っていた。
たった一度きり力を使っただけなのに、生まれたばかりの小さな体には、それが限界だった。
「大丈夫。大丈夫です」
アリアは、自分に言い聞かせるように囁いた。
何が大丈夫なのかは分からない。
帝城には戻れない。帝都にもいられない。北へ行った先に、温かい部屋があるかも分からない。
それでも、腕の中の幼い龍を離すことだけはできなかった。
この子も、追われている。
この子も、帰る場所がない。
馬車は森の道を抜け、北へ向かって走り続けた。帝都の灯りが背後で小さくなっていく。白い塔も、暖かな窓も、雪の向こうへ沈んでいく。
アリアは幼い龍を抱いたまま、唇を噛んだ。
「一緒に行きましょう」
幼い龍のまぶたが、かすかに震える。
返事はなかった。
けれど、その小さな爪が、アリアの袖を弱く掴んだ。
馬車は北を目指す。
帰る場所を失った少女と、帰る場所を知らない龍を乗せて。
そのとき、幼い龍の奥底で、まだ目覚めきらない何かが、静かに言葉の形を探していた。
解せぬ。
なぜ一人ではないのだ?




