第10話 最初の宝
机の上に広げられた紙には、いくつもの役目が並んでいた。
元鉱山頭。
保安頭。
鍛冶師。
石工。
薬師。
坑道の木組みを直せた人。
温室を仕切っている人。
アリアは、その文字をゆっくり目で追った。
昨日の崩落の音は、まだ耳の奥に残っている。小さな石が落ちる音。大人たちが息をのむ音。レクス・ノアの短い声。
まだ落ちる。
あのとき、誰も怪我をしなかった。
それはよかった。
でも、よかっただけでは終われない気がする。
「最初は、元鉱山頭の方に会うのですか」
アリアが尋ねると、ルークスは紙の上に置いていた指を止めた。
「それも大事です。昨日のことを考えるなら、坑道を知る方に会うべきです」
「はい」
「ただ、最初に会うなら、別の方がよいと思います」
ルークスは、紙の端に小さく丸をつけた。
温室管理。
「白嶺の胃袋を握っている人です」
「胃袋」
ノアの声が、すぐに反応した。
「食べもの?」
「ええ。食べものです」
ルークスは笑った。
「鉱山を動かすにも、人を集めるにも、まず食べるものが要ります。白嶺は寒い土地ですから、畑のことを知っている人は、鉱山頭と同じくらい大事です」
「畑も、宝なのですね」
「畑というより、畑を覚えている人ですね」
アリアは、紙に書かれた文字をもう一度見た。
温室管理。
文字だけだと、少し硬い。
でも、その人はきっと、白嶺の冬の中で、青い葉を育ててきた人なのだ。
レクス・ノアは机の端で、温室管理という文字をじっと見ていた。小さな前足が、紙の角を押さえている。
「食料は基盤だ」
レクスが言った。
「ごはんは大事」
ノアが言った。
「それは同じ意味ではない」
「でも、同じくらい大事」
アリアは少し笑った。
「では、その方に会いに行きます」
ルークスは頷いた。
「マルタ・ホルン。町では、マルタばあさんと呼ばれています」
「マルタさん」
「はい。ただし、少々手強いです」
「手強い」
アリアは、昨日の桶を思い出した。
「桶より、ですか」
ルークスは少し考えた。
「桶よりは話します」
「それは、助かります」
「ただし、桶より容赦はないかもしれません」
アリアは、背筋を伸ばした。
レクス・ノアの尻尾が、床を一度だけ叩いた。
* * *
共同温室は、白い湯気の中にあった。
石造りの低い建物が、ゆるやかな斜面に沿って並んでいる。屋根は雪に押されないように低く、壁の下には細い水路が走っていた。水路からは、ほんのり温かい湯気が上がっている。
扉を開けると、冷たい外の空気が、むわっとした湿り気に押し返された。
土の匂い。
湯気の匂い。
青い葉の匂い。
白嶺の外はまだ冬の色をしているのに、温室の中だけは、春を小さく閉じ込めたみたいに見えた。
アリアは思わず息を吸った。
その足が、すぐに止められた。
「そこ。入るなら靴を替えな」
鋭い声。
声の主は、畝の向こうにいた。
小柄なおばあさんだった。腰は少し曲がっている。けれど、土の上に立つ姿はまっすぐで、灰色の髪を布でくくり、袖を肘までまくっている。
目が、驚くほど鋭かった。
「姫様だか何だか知らんが、畑に外の泥を持ち込むんじゃないよ」
ルークスが慌てて頭を下げた。
「マルタさん、こちらが」
「聞いてる。だから何だい。畑は畑だ」
アリアは足もとを見た。
自分の靴には、外の雪と泥が少しついている。
「すみません」
アリアはすぐに頭を下げた。
「替えます」
マルタは、棚の下を顎で示した。
「そこに木靴がある。大きいのは履くんじゃないよ。転ぶ」
「はい」
アリアは棚の下から、小さめの木靴を選んだ。
少し大きい。
でも、歩けないほどではない。
レクス・ノアも温室に入ろうとして、入口で止まった。
マルタの目が、レクス・ノアへ向く。
「そっちの小さいのは、葉を食うのかい」
「食べない」
レクスが短く答えた。
「匂いは嗅ぐ」
ノアが続けた。
「嗅ぐだけならいい。踏むな。畝に入るな。鼻を突っ込みすぎるな」
「注文が多い」
レクスが言った。
「畑だからね」
マルタは、まったく怯えなかった。
アリアは、少しだけ目を丸くした。
白嶺の人たちは、まだレクス・ノアを見ると緊張することが多い。けれど、マルタは龍であることより、畑で何をするかを見ている。
それが少し、おかしかった。
そして、少し、かっこよかった。
* * *
温室の床下には、温泉の湯が細く通されていた。
マルタは畝の間を歩きながら、手に持った短い棒で、床の石をこつこつ叩いた。
「ここを湯が通る。熱すぎると根が弱る。冷たすぎると芽が止まる。だから朝と夕方に見る」
「温かさを、ですか」
「温かさと、湿り気と、葉の色だよ」
マルタは立ち止まり、青い葉を一枚、指で持ち上げた。
「葉の先が黒くなったら、湯が強い。葉が黄色くなったら、土が痩せてる。茎が細いなら、水が悪い」
アリアは一つずつ頷いた。
頷きながら、覚えきれるか不安になった。
「あの、書いてもよいですか」
「今はだめだ」
「だめ」
「手を動かしてから書きな。先に紙を見ると、土を見なくなる」
アリアは、持っていた小さな帳面を胸元に戻した。
「はい」
マルタは、棚の上から小さな木箱を取った。
中には、白っぽい粉が入っていた。
粉というより、乾いた薄いかけらを砕いたものに見える。温泉の縁にこびりついた白いものを、削って乾かしたような色だった。
「これは、何ですか」
「湯の縁にたまる白いのを、乾かしたものだ」
「肥料なのですか」
「知らん」
マルタは即答した。
アリアは瞬きをした。
「知らないのですか」
「知らんよ。学者じゃないからね」
マルタは、白い粉を指でほんの少しつまんだ。
「でも、撒かんと育ちが悪い」
その指が、畝の端へ少しだけ粉を落とす。
「撒きすぎると、根が焼ける」
今度は、別の畝を棒で指した。そこには、葉の小さい株があった。
「だから、少しだけだ」
「昔から、そうしているのですか」
「昔からこうしてきた」
マルタは、当然のように言った。
その言葉は、説明ではなかった。
でも、温室の中では、説明より強かった。
アリアは畝を見た。
湿った土の上に、白い粉がほんの少しだけ乗っている。粉はすぐに見えなくなった。土と混ざって、どこに落ちたのか分からなくなる。
けれど、マルタの手は迷わなかった。
どこに、どのくらい。
何も測っていないようで、全部、分かっている手。
* * *
レクス・ノアは、白い粉のそばに鼻先を寄せた。
「近い」
レクスが言った。
「はい?」
アリアが振り返る。
レクス・ノアは、白い粉を見ていた。次に土を見る。さらに、畝に並んだ青い葉を見る。
小さな鼻先が、葉の間に入った。
「きらきらしてる」
ノアの声が弾んだ。
「こら。鼻を突っ込みすぎるなと言ったろ」
マルタの声が飛ぶ。
レクス・ノアの小さな体が、すっと後ろへ下がった。
「命令が速い」
「畑では遅い方が悪い」
ノアが小さく笑った。
アリアはしゃがみ、レクス・ノアと同じ高さから畝を見てみた。
けれど、アリアには何も見えなかった。
土は土で、葉は葉に見えた。
「何が見えるのですか」
「魔素だ」
レクスは短く答えた。
アリアの胸が、少しだけ緊張した。
魔素。
閉鎖坑道の近くで、レクスが口にした言葉。
「岩とは違う」
レクス・ノアは、白い粉の落ちたあたりに前足を置きかけて、マルタを見る。
「踏まなければいい」
マルタが言った。
小さな前足は、畝の外に戻った。
「これは、土に薄く残っている」
レクスが言う。
「湯から来ている」
「何の話だい」
マルタが眉をひそめた。
「魔素」
「それはさっき聞いた」
「これが、土の魔素を留めている」
レクス・ノアは、白い粉を見た。
少し間があった。
「たぶん」
マルタは腕を組んだ。
「たぶん、で畑は作れんよ」
「だから、あなたが作っている」
レクスの返事は、いつもどおり短かった。
マルタは、少しだけ目を細めた。
怒ったのかと思って、アリアは肩に力を入れた。
けれど、マルタは怒らなかった。
「続けな」
「多すぎると、強すぎる」
レクス・ノアの尻尾が、ゆっくり動く。
「根が負ける」
マルタは、先ほど指した小さな株を見た。
「……根が焼ける、ってのは、そういうことかい」
「たぶん」
「また、たぶんか」
「見える。だが、理由は知らない」
マルタはしばらく黙っていた。
温室の中で、湯気が上がる。
葉の先から水滴が落ち、土に小さな丸を作った。
「見えるだけ、ましだね」
マルタはそう言って、白い粉の箱を閉じた。
「あたしらは、見えないままやってきた」
その言葉は、温室の土の匂いに混ざった。
アリアは、ゆっくり息を吸った。
マルタは魔素を知らない。
でも、知っていた。
少しだけ撒くこと。
撒きすぎてはいけないこと。
湯が強すぎると、葉の先が黒くなること。
水が悪いと、茎が細くなること。
名前は知らない。
けれど、白嶺で生きるためのやり方を、ずっと守ってきた。
* * *
アリアは、土の上で膝をついた。
木靴の先が、畝に触れないように気をつける。
「マルタさん」
「何だい」
「教えてください」
マルタの手が止まった。
「白嶺で、どうやって食べ物を育ててきたのか」
温室の奥で、働いていた住民たちがちらりとこちらを見る。
ルークスは何も言わなかった。
レクス・ノアも黙っている。
アリアは、もう一度頭を下げた。
「わたしが、ここで生きるために必要です」
「姫様が、土をいじるのかい」
「はい」
「手が荒れるよ」
アリアは、自分の手を見た。
水を運んで赤くなった指。
薪で小さく傷ついた手のひら。
まだ、白嶺の人たちの手とは全然違う。
「もう、少し荒れました」
マルタは、アリアの手をじっと見た。
「その程度で荒れたと言うのかい」
「はい。言いました」
マルタの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかどうかは、分からない。
「それに」
アリアは言葉を探した。
大きな言葉にしたくなかった。
でも、伝えたかった。
「いつか、誰かがお腹をすかせたときに、役に立つかもしれません」
マルタは何も言わなかった。
アリアは続けた。
「だから、知りたいです」
温室の中に、湯気の音だけが残った。
マルタは、白い粉の箱を棚へ戻した。
「明日の朝」
「はい」
「夜明け前に来な」
アリアは顔を上げた。
「夜明け前」
「畑は、朝が早い。寝坊したら教えん」
「はい。来ます」
「返事だけはいいね」
マルタはそっぽを向いた。
「木靴はそこに戻すんだよ。泥を落としてからだ」
「はい」
アリアは立ち上がりかけて、少しよろけた。
長くしゃがんでいた足が、しびれていた。
レクス・ノアの尻尾が、そっとアリアの足首に触れる。
「転倒注意」
レクスが言った。
「アリア、足がふわふわ」
ノアの声は、少し楽しそうだった。
「ふわふわではありません」
アリアは小さく抗議した。
マルタが、背中を向けたまま言う。
「明日はもっとしびれるよ」
アリアは、少しだけ不安になった。
でも、その不安は嫌ではなかった。
* * *
温室を出ると、外の空気が顔に冷たかった。
さっきまで湿った土の匂いに包まれていたせいか、白嶺の風がいつもより澄んで感じられる。
ルークスは温室を振り返った。
「驚きました」
「何がですか」
「マルタさんが、人にものを教えると約束したことです」
「教えるのは、嫌いなのですか」
「嫌いというより、できない人に時間を使うのが嫌いなんです」
アリアは少し考えた。
「わたしは、できますか」
ルークスは笑った。
「今のところ、分かりません」
「正直です」
「商人向きの家で育ちましたので」
レクス・ノアは、温泉の湯気が上がる水路を見ていた。
小さな体が、石の上でぴたりと止まっている。
「湯は、山から来ている」
レクスが言った。
アリアも、湯気の向こうにある山を見た。
白い稜線。
黒い岩肌。
その下に、閉ざされた坑道がある。
「土も、石も、湯も、同じところを通っている」
「閉鎖坑道と、関係があるのですか」
レクス・ノアは、山から視線を外さなかった。
「ある」
少し間。
「たぶん」
アリアは、たぶん、という言葉を嫌だとは思わなかった。
分からないことを、分かるふりにしない言葉。
ルークスが腕を組む。
「温室から坑道につながるとは、思っていませんでした」
「白嶺は、ひとつ」
ノアが言った。
「山も、湯も、土も、ごはんも」
「ごはんが入りましたね」
「大事」
レクスが、ほんの少しだけ尾を動かした。
「否定はしない」
アリアは笑った。
そのとき、レクス・ノアが不意にアリアの腕の中で身じろぎした。
「下ろせ」
「はい?」
「自分で行く」
アリアは慌てて、道脇の低い丘の上に小さな体を下ろした。温室のまわりは石とぬかるみが多く、さっきからレクス・ノアを抱えて歩いていたのだ。
ノアは、少し名残惜しそうに声を弾ませた。
「肩の上、景色が高くて好き」
「移動を他者に依存するのは不便だ」
レクス・ノアはそう言って、小さな翼を広げた。
アリアが止めるより早く、小さな体が丘の縁から跳んだ。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
レクス・ノアの体は、落ちずに空気の上へ乗った。
翼が風を受け、白い湯気の上をすべる。
「飛んでいます!」
アリアの声が裏返った。
「わあ!」
ノアが笑った。
次の瞬間、レクス・ノアの体はまっすぐ進みすぎた。
曲がらない。
止まらない。
道端の若い木に、ぽすん、と突っ込んだ。
枝に積もっていた雪が、ばさりと落ちる。
「レクス・ノア!」
アリアは駆け寄った。
雪の中から、小さな角と鼻先が出た。レクス・ノアは怪我をした様子はなかったが、全身に白い粉雪をかぶっている。
「……飛べぬ」
レクスが低く言った。
「飛んでたよ。木まで」
ノアの声は、少し笑っていた。
「あれは移動ではない。衝突だ」
「衝突も、ちょっと飛んでた」
「分類が雑だ」
アリアは雪を払ってやりながら、胸を押さえた。
「もう、急に飛ばないでください。びっくりします」
「次は止まる」
「次も急にしないでください」
レクス・ノアは答えなかった。
けれど、その目はもう一度、空と湯気と山のあいだを見ていた。
白嶺は、ひとつ。
その言葉は、まだきちんとは分からない。
けれど、温室の青い葉と、温泉の湯気と、昨日崩れた坑道の石が、別々ではないのだとしたら。
白嶺を知るには、ひとりの話だけでは足りない。
マルタの畑。
元鉱山頭の坑道。
山を知る人。
水を知る人。
みんな、少しずつ白嶺を持っている。
アリアは、胸の中でそのことを大事にしまった。
* * *
夜、仮住まいの机には、また紙が広がった。
今度は、役目の名ではない。
アリアが今日見たもの、聞いたもの、言われたこと。
温泉の熱。
床下を通す。
湯気で冷気を避ける。
湧水は薄めて使う。
山土。
腐葉土。
白い沈殿物。
少しだけ撒く。
撒きすぎると、根が傷む。
レクスの言葉。
魔素。
岩とは違う。
土に薄く残る。
湯から来る。
アリアは、書いた文字をじっと見た。
自分には、魔素は見えない。
白い粉を見ても、ただの粉に見える。
青い葉を見ても、青い葉にしか見えない。
けれど、マルタはそれを何十年も扱ってきた。
見えないものを、見えないまま。
名前を知らないまま。
間違えたら根が傷むことを知って、少しだけ撒いてきた。
「白嶺の人たちは、知らないまま知っていたのですね」
アリアが呟くと、ルークスが頷いた。
「昔からそうしてきた、というやつです」
「それは、すごいことです」
「帝都では、たぶん記録にも残らない知識です」
アリアは、紙にもう一行を書き足した。
昔からこうしてきた。
その横に、小さく丸をつける。
レクス・ノアは暖炉の近くで丸くなっていた。小さな体は眠そうなのに、目だけはまだ開いている。
「おばあちゃん、こわいけど好き」
ノアが言った。
「怖いのですか」
「ちょっと」
「好きなのですか」
「うん」
レクスが静かに言った。
「宝だ」
アリアは紙から顔を上げた。
「マルタさんが、ですか」
「人も、手順も、記憶も」
それ以上、レクスは言わなかった。
でも、アリアには少し分かった気がした。
宝は、金や石だけではない。
人の中にあるもの。
手が覚えていること。
昔から続いてきたこと。
それを受け取らなければ、白嶺は本当には動き出さない。
アリアは、紙の端をそっと押さえた。
「明日、寝坊しないようにします」
「起こす」
レクスが言った。
「ぼくも起こす」
ノアが言った。
「優しくお願いします」
「努力する」
「ぼくは、たぶん優しい」
アリアは少し不安になった。
けれど、その不安も、温かかった。
* * *
翌朝、空はまだ薄暗かった。
白嶺の町は、眠っているようで、完全には眠っていない。どこかで温泉の湯が流れ、遠くで山羊が小さく鳴いた。空の端だけが、ほんの少し白くなっている。
アリアは目をこすりながら、共同温室の前に立った。
起こし方は、優しくなかった。
レクスは短く「時間だ」と言い、ノアは耳元で「朝だよ」と三回言った。三回目は、少し歌のようだった。
温室の扉を開けると、マルタはもう中にいた。
鍬を持っている。
眠そうな顔など、少しもしていない。
「遅い」
アリアは慌てて頭を下げた。
「すみません」
「謝る前に手を出しな」
「手」
マルタは棚から、少し古い手袋を投げてよこした。
アリアは両手で受け止めた。
手袋は大きくて、指先が余った。
「今日は見るだけではない。まず土を触りな」
アリアは手袋をはめた。
マルタが畝の端を示す。
「畑は、見るもんじゃない」
湯気が、二人の間を白く通った。
「触るもんだ」
アリアは、畝のそばにしゃがんだ。
手袋越しに、土へ指を入れる。
思っていたより、温かかった。
白嶺の宝探しは、最初の師匠を得て始まった。




