第33話 戸を直す人
宿坊の戸が、閉まらなくなった。
朝にはどうにか押し込めたものが、昼には半分ほどで止まった。肩で押しても、下の角が敷居へ引っかかる。
「昨夜までは閉まったんだがねえ」
宿坊を預かる女が、困った顔で戸を揺する。
数日前から仮相談所になっている入口には、人の出入りが増えていた。湯治客の名前を書きに来る者、商会の帳面について尋ねる者、隣近所の困り事を持ち込む者。開け放したままでは話が筒抜けになるし、夜には虫も入る。
アリアも戸の横へしゃがみ、敷居との隙間をのぞいた。
「戸が膨らんだのでしょうか」
「戸そのものは、そう悪くありませんな」
背後から声がした。
振り向くと、ゲルハルト・ノイマンが立っていた。白くなりかけた髪を短く刈った、日に焼けた男である。湯へ通う時には右肩をかばい、腕を上げる時だけ眉間へ薄い皺を寄せる。
そのゲルハルトが、戸の前では目つきを変えていた。
戸板を押し、蝶番へ指を当て、柱を下から上まで眺める。次に戸口から三歩離れ、片目を細めた。
「枠が、少し下がっています」
「枠が?」
「ええ。上の重みか、土台の痩せか。そこまでは、戸だけ見ても分かりません。今できるのは、薄い木を噛ませて高さを戻すことです」
ゲルハルトは腰の革袋から、掌ほどの木片を取り出した。
「木も、持ってたの?」
ノアが目を丸くする。
「捨てるには惜しい木は、持っておくものだ」
木片を小刀で薄く削り、蝶番の下へ差し入れる。釘を抜いて打ち直す音が、乾いた夏の昼に小気味よく響いた。
やがてゲルハルトが戸を押すと、今度はすんなり枠へ収まった。
「直った!」
「直ってはいない」
喜ぶノアへ、ゲルハルトは真顔で言った。
「閉まるようにしただけだ。枠が下がった理由まで直したわけではない。雨の後にまた狂うなら、大工に土台を見てもらう」
そして釘を革袋へ戻そうとして、右肩をわずかに止めた。
ほんの一瞬だったが、アリアは見逃さなかった。
* * *
戸を閉めたことが、呼び水になった。
「ついでに、うちの窓も見てもらえんか」
「薬草を置く棚が傾いていてね」
「箱の蓋が、湿ると開かなくなるんだ」
仮相談所にいた人々から、次々に声が上がる。
ゲルハルトは嫌な顔をしなかった。最初の家では、窓の滑りを悪くしていた木屑を取り除いた。次の家では、棚板を外し、壁際の脚へ小さな当て木を入れた。
どちらも大仕事ではない。
だからこそ、頼む方も止め時を考えなかった。
「ついでに」が三軒目へ続いたところで、ゲルハルトの右腕が上がらなくなった。
抱えていた道具箱を、アルヴィンが横から取り上げる。
「今日は終わりです」
「あと、戸締まりを一つ見るだけだ」
「湯へ入りに来た人が、湯へ入る前に肩を悪くしてどうするのです」
「これくらいなら」
「その言葉は、治療を長引かせる方が、たいへんよく使います」
アルヴィンの声は穏やかだったが、道具箱を返す気配はなかった。
ゲルハルトは口を曲げた。反論する代わりに、動かない肩を左手で押さえる。
「本日は、もう作業を頼みません」
アリアが言うと、ゲルハルトは困ったように彼女を見た。
「姫様まで、そんな顔をなさらんでください。昔の半分も働いておりません」
「昔の半分でも、今のゲルハルトさんには多いのだと思います」
「手厳しい」
「アルヴィン先生に教わりました」
隣でアルヴィンが頷く。
「よくできました」
「じゃあ、ぼくが代わりに」
ノアの意識に引かれ、小さな体が道具箱へ鼻先を突っ込んだ。木槌の柄をくわえようとする。
「それは置け」
レクスとゲルハルトの声が重なった。
* * *
その日の夕方、仮相談所の卓には、ハインツとグレーテも呼ばれた。
戸を一枚見てもらうことと、頼み事が列になることは違う。
そう言ったのはグレーテだった。
「道で荷を一度持ってもらえば、親切でしょう。毎朝荷を持ってもらい、落とした時のことまで頼むなら、それはもう仕事です」
「釘一本にも値があるからな」
ハインツが付け足した。
「釘を持つ人の腕にも、時間にもだ。どれも、ありがとうだけで毎日増えるものではない」
ゲルハルトは卓の端で、居心地悪そうに腕を組んでいた。右肩にはアルヴィンが巻いた布がある。
「わしは、使っていない腕が鈍るのが嫌なだけです。湯代の足しにしようとは思っておりません」
「では、ゲルハルトさんが引き受けたい分だけ、お願いしてもよいでしょうか」
アリアは彼の方へ向き直った。
「頼まれたものを、全部直す必要はありません。どれを直すかも、一日にどれだけするかも、ゲルハルトさんが決めてください。できないことは、できないと言ってください」
「わしに選ばせると?」
「はい。けれど、引き受けてくださったものは、お仕事にしたいです」
アリアは新しい帳面を開いた。
「材料にかかった分と、直していただいた分を、共同基金からお支払いします。宿坊へ泊まり、湯を使うお金とは別です」
ゲルハルトの太い指が、膝の上で一度だけ動いた。
「客から金を取って、客へ金を払うのですか」
「湯治のお客として来てくださったことと、白嶺のためにお仕事をしてくださることは、別のことですから」
「面倒な分け方だ」
そう言ったのはレクスだった。
「我は、よいと思うが」
ゲルハルトはしばらく黙っていた。やがて、布を巻いた肩を見下ろす。
「昔なら、直せと言われたものは、日が暮れても片づけました」
「今は、日が暮れる前に湯へ入ってください」
アリアが答えると、グレーテが小さく笑った。
ゲルハルトも、つられて口元を緩めた。
「分かりました。まず見て、わしにできることだけ選びます。ただし、大工の仕事までできるとは言いませんぞ。石壁も屋根も、建物全体の傾きも、わしの手には余る」
「それも、帳面に書きます」
「そこまで書くのですか」
「忘れて、たくさんお願いしてしまわないためです」
* * *
翌朝、アリアは帳面へ五つだけ欄を作った。
場所。困っていること。危ないかどうか。誰が見るか。支払い。
難しい言葉は使わなかった。仮相談所へ持ち込まれた話を、まず五つに分ければよい。
「椅子」
ノアが最初に言った。
「どの椅子ですか?」
「ぼくの座る椅子。ぐらぐらする」
「お前が後ろ脚だけで揺らすからだ。壊れてはいない」
レクスが切り捨てる。
ゲルハルトも椅子を一目見て、首を振った。
「それは修理ではなく、座り方への命令だな」
「じゃあ、椅子にちゃんと座れって書く?」
「書きません」
笑いが起きたあと、一行目には共同倉庫と書かれた。
白嶺商会の品や材料を置く倉庫は、荷が増えるたびに狭くなっていた。袋は空いた場所へ積まれ、軽い箱と重い箱が同じ棚へ置かれている。
ゲルハルトは入口で止まり、まず天井を見た。
「屋根は、わしには分からん。雨染みが増えたら屋根職人だ」
次に、棚を手で揺する。
「これは壁へ留めていない。上へ重いものを置けば、前へ倒れる」
「下の脚も黒いです」
アリアが指差す。
「湿気を吸っていますな。床へ直に置かず、石か乾いた木を噛ませた方がいい。ただし腐りが深ければ、脚は替える」
窓は道から中が見えた。戸は下の角を地面へ擦り、蝶番も緩んでいる。掛け金は細く、荷を守るには心許ない。
「ゲルハルトさんなら、どれを先にしますか?」
アリアが尋ねると、ゲルハルトは即座に首を振った。
「今日は戸と、一番危ない棚までです。窓は板を測ってから。掛け金は鍛冶屋の仕事になります」
「では、その二つをお願いします」
「戸が先だね」
ノアが言った。
「物を運び出すにも、閉じ込めるにも、入口が要る」
レクスが頷く。
アリアは帳面の「誰が見るか」へゲルハルトの名を書き、その隣へ、棚を空にする手伝いを二人と記した。
直す人が、荷物運びまで一人で抱える必要はない。
* * *
共同倉庫の戸と棚を終えた翌日、アリアたちは旧帝国管理庁舎へ向かった。
空は明るく、夏の草は膝近くまで伸びていた。黒ずんだ屋根を載せた建物が、草の海の向こうに並んでいる。
アリアは入口へ近づく前に、紙を開いた。
「今日は、中を使えるようにはしません。どこまで近づいてよいかを確かめるだけです」
紙には、来た人の名前と役目が書いてある。
アリアとレクス・ノア。ルークスは道と建物の来歴を知る案内役。ゲルハルトは戸や床など、木でできた部分を見る。鉱山跡の足場を見慣れたディートは、石や地面の割れを外から確かめる。
「我とノアは?」
「危ない音や匂いに気づいたら、すぐに止めてください」
「入って大丈夫か、決めるの?」
「いいえ。お二人が何も感じなくても、安全だとは決めません」
ノアは少しだけ不満そうに鼻を鳴らしたが、やがて頷いた。
まず外周を回った。
壁から石が落ちている場所には縄を張る。屋根の軒が垂れている場所には、近づくなと書いた板を立てる。土の沈んだ裏手には、ディートが白い石灰で印をつけた。
「夏の晴れた日には固く見えても、雨を吸えば違う顔をする」
ディートは足元を杖で叩いた。
「鉱山跡も同じだ。今日歩けたからといって、明日も歩けるとは限らん」
正面の来客口は、片方の戸が外れていた。ゲルハルトが残った戸へ触れる。
「戸は作り直せます。だが、上の石が動いていないかは、石工に見てもらわんといけない」
「中へ入れるのは、どこですか」
ルークスが古い鍵束を見下ろした。
「来客口から大広間の手前までです。石造りの一階で、崩れも少ない。ただ、そこから先は確かめていません」
「そこまでにしましょう」
人数をもう一度数え、外で待つ者も決めた。縄と白墨、それから「入らない」と書いた板を持つ。
ようやく、外れた戸の脇から中へ入った。
* * *
庁舎の中は、外より涼しかった。
来客口の先には、石床の広間がある。受付に使ったらしい長い台は、片端が朽ちて落ちていた。閉じた板戸の隙間から、細い光が差している。
台の背後には、細長い札を掛けていたらしい錆びた金具が、石壁に何列も残っていた。
「昔は、坑道ごとの荷と、働いた人数と、配給まで、ここへ集めたそうです」
ルークスの声が、空の広間へ響いた。
数字も札も持ち去られている。それでもアリアには、白い跡が、町じゅうから何かを数え集めていた名残に見えた。
その光の中を、埃がゆっくり舞っていた。
「ひろーい」
ノアの声が、がらんとした天井へ返る。
床には、ルークスが先に引いた白墨の線があった。その向こうは調べていない。
床へ落ちた丸い金具を見つけ、ノアの意識がそちらへ引かれた。小さな首が伸び、前足が白墨の線を越えかける。
「止まれ」
レクスの声と同時に、小さな体が踏みとどまった。
次の瞬間、線の向こうで、こつ、と乾いた音がした。
床板の一枚が、指一本ほど沈む。
上からも、ぱらぱらと木屑が落ちた。
「上が鳴っている」
レクスが天井を見上げる。
全員が、来た道へ二歩戻った。
ゲルハルトだけが離れた位置から腰を落とし、床板の並びを見る。
「あそこは根太が傷んでいます。踏み抜くほどかは、剥がしてみなければ分からん。だが、今日は近づかない。それと、上の梁はわしでは判断できません」
「金具……」
「命より軽い」
レクスに言われ、金具へ伸びかけていた首が、渋々元の場所へ戻った。
広間の中央は石床で乾いており、人が集まれる広さもあった。
奥には「文書庫」と彫られた札の残る扉があったが、開けない。別棟の倉庫は屋根が比較的まっすぐで、戸と床を直し、安全を確かめれば使えるかもしれない。
管理者の住居だった建物は外を一周するだけにした。蔦に覆われた壁へ、近づく理由はなかった。
見られたのは、ほんの一部だった。
それでも、見ていない場所が分かった。
* * *
帰る前に、一行は庁舎前の平たい石へ紙を広げた。
ルークスが描いた簡単な見取り図へ、アリアが三つの印をつける。
使えるかもしれない場所。
修理してから、もう一度見る場所。
入ってはいけない場所。
「大広間は、掃除して戸をつければ使えそうですね」
ルークスが言う。
「天井を見られる者が先です」
ゲルハルトが釘を刺した。
「石工も要る。屋根を見る職人も要る。床を剥がすなら乾いた板と、運ぶ人手も。わしが引き受けられるのは、来客口の戸を作ることと、危ない床板を調べて印をつけること。それも、上が安全だと分かってからです」
並べられた言葉に、アリアは見取り図を見つめた。
見取り図の大広間を使えれば、仮相談所の机を移し、倉庫の荷を分け、雨の日に湯治客を待たせずに済む。今は、そのどれも戸を開ける前の話だった。
けれど、白嶺には今も、直すべき家の戸があり、冬までに備えるべき宿がある。
「全部を使えるようにはしません」
アリアは言った。
「今、必要なところだけにします。先に、住んでいる方の家と宿坊、それから共同倉庫です。庁舎は、職人の方に安全を確かめていただけるまで待ちます」
ルークスは少し惜しそうに建物を見上げたが、反対はしなかった。
「では、今日の調べも仕事に入れます」
アリアはゲルハルトを見る。
「ですが、建物全部の責任をお願いするのではありません。戸と床を見ていただいた分だけです」
「それなら、引き受けられます」
ゲルハルトは見取り図の隅へ、四つほど作業を書こうとした。
途中で肩へ手をやり、二つを線で消した。
「来客口の寸法を測る。共同倉庫の窓板を作る。まずは、この二つまでですな」
「はい」
アリアは、消された二本の線を見た。
ゲルハルトが自分で仕事を減らしてくれたことが、何より嬉しかった。
アリアは帳面へ丸をつけた。
山を下りる頃には、皆の足が重くなっていた。レクス・ノアの小さな体はアリアの腕の中で重たくなり、ゲルハルトも朝より口数が少ない。
「ねえ、アリア」
「はい」
「明日は、お仕事ない?」
アリアは抱えた帳面を見た。
仮相談所へ戻れば、今日の印を書き直さなければならない。共同倉庫の支払いも確かめたい。庁舎へ入った人の名も、残しておきたい。
けれど、今すぐでなくてもよいことばかりだった。
「ありません」
「ほんと?」
「明日は、三人で夏見台へ行きましょう。お昼も持って」
アリアの腕の中で、小さな尾が急に元気よく揺れた。
「約束だからね!」
「約束です」
レクスが、疑うようにアリアを見た。
「帳面を持っていかない、とも約束しろ」
アリアは少し迷った。
「……小さい紙もですか?」
「全部だ」
「分かりました」
今度は、ノアだけでなくゲルハルトまで笑った。




