第32話 聞きすぎる客
屋根付きの作業場に椅子を置いてから、五日が過ぎた。
低い屋根の下には小さな机が一つ、椅子が三脚。商会の相談も、湯治客の困り事も、まずはそこで聞く。いつしか皆が、仮相談所と呼ぶようになっていた。
アリアの家まで来た人にも、今では近所の者が「あちらですよ」と教えてくれるようになった。
宿坊では、食事を頼む札が壁に並んでいる。
昇る日の札は朝、沈む日の札は夕。椀の絵は人数だ。初めは絵を逆に覚える客もいたが、今朝もハインツが一枚をそっと裏返した。
「こちらは夕食でございますよ」
「おや。日が上っているから、朝かと思った」
「こちらの日は、山へ沈みかけております」
「ほんとだ。ずいぶん細かいな」
「ノア様の力作でございます」
ハインツが言うと、机の上にいたレクス・ノアが胸を張った。
「ぼくが描いたよ」
「我も手伝った」
「レクスは、丸がゆがんでるって言っただけ」
「大切な指摘だ」
客が笑う。
決めただけでは、すぐにはうまくいかない。
それでも札を間違えた者がいれば、直し方を知る人がいる。前より少しだけ、白嶺は人を迎えることに慣れていた。
昼前、夏の日差しに白く乾いた坂道を、一人の男が上ってきた。
濃い灰色の外套を腕に掛け、背には革の荷袋。年は四十ほどだろうか。汗はかいているが、足取りは崩れていない。
男は作業場の前で立ち止まり、腰へ手を当てた。
「こちらで、滞在の相談ができると聞いたのですが」
「はい。どうぞ、お掛けください」
アリアは椅子を勧めた。
男は礼を言って座った。背筋を伸ばしたまま、ゆっくり腰を下ろす。痛む者の動きにも見えるし、長い坂を上った疲れにも見えた。
「コンラート・ベルガーと申します。北の町々を回って布を扱っております」
「湯治でいらしたのですか?」
「ええ。馬車に揺られるのが商売のようなものでしてね。腰がすっかり固くなりました」
コンラートは困ったように笑った。
荷袋の口から、巻いた布が二本見えている。片方は丈夫そうな茶色、もう片方は薄い青だった。
「初めていらした方は、宿坊へご案内しています。お食事は、作れる方には共同炊事場を使っていただいて、難しい場合は前の日までに札を——」
「昇る日と、沈む日の札ですね。坂の下で教えていただきました」
説明を聞いてきたらしい。
「それなら、すぐに分かります」
「絵なら、旅人にも親切だ」
コンラートの目が、机の上へ移った。
レクス・ノアが前足で紙の端を押さえている。
「こちらが、噂の小さな龍ですか」
「ぼく、ノア」
「我はレクスだ」
「これは失礼。お二方でしたか」
驚きはしたが、声を上げたり、むやみに触れようとしたりはしなかった。
代わりに荷袋から細い紐を一本取り出す。赤と青の糸を撚った、きれいな紐だった。
「布を束ねるだけでは味気ないので、こんなことをして旅の子に見せるのです」
両手の指へ紐を掛け、二度ひねる。
赤と青の輪が重なり、小さな鳥になった。
「とり!」
ノアが身を乗り出す。
「次は、何になると思います?」
「おさかな」
「では、魚にしてみましょう」
コンラートの指が動くたび、紐の形が変わった。
ノアは机の端まで進み、翼を半分開いて覗き込む。
コンラートは笑っている。
ただ、その目は紐だけを見てはいなかった。
翼がどこまで開くか。机から落ちそうになった時、どちらの足から踏み出すか。アリアが手を伸ばすと、どれほど近くへ寄るか。
細かな動きを一つずつ追っているように見えた。
レクス・ノアの首が、わずかに引かれる。
「もうよい」
「えー、まだおさかなになってない」
「宿坊へ案内する時間だ」
「そうでした」
アリアが立ち上がると、コンラートはすぐ紐を外した。
「名残惜しいですが、続きはまた今度に」
「うん。またね」
ノアは嬉しそうだった。
レクスは、答えなかった。
* * *
コンラートは、よく人の話を聞く客だった。
共同炊事場では、薬草を刻んでいた女へ声を掛けた。
「よい香りですね。山のどの辺りで採れるのです?」
「上の方さ」
「なるほど。日当たりのよい南側ですか、それとも沢沿いで?」
作業場の前では、荷を運ぶ若者へ尋ねた。
「この包みは、どこへ置けばよいのでしょう。布を濡らさない場所を探しておりまして」
「商会の荷なら、向こうだよ」
「あの倉でしょうか。ずいぶん出入りが多いようだ」
湯上がりの老人とは、灰の話をしていた。
「こちらでは灰も捨てずに集めるのですな。畑へ入れるので?」
「灰にもいろいろあるからな」
「では、分けて保管を?」
一つ一つなら、おかしな質問ではない。
布を扱う者が、湿気を嫌うのは当然だ。旅の商人なら、土地の品や暮らしに興味を持つだろう。
けれど、聞く相手が変わっても、話の行き先はよく似ていた。
どこで採れるのか。
どれだけあるのか。
どこへ置くのか。
誰が決めるのか。
ある夕方、アリアは宿坊の前でコンラートと行き合った。
彼は坂の上を見ていた。
「あの黒い屋根は、ずいぶん立派ですね」
「旧帝国管理庁舎です。今は使っていません」
「中には、昔の帳面なども残っているのでしょうか」
「まだ調べていません」
「それは惜しい。山の記録があれば、昔の鉱山のことも分かるかもしれませんな」
コンラートは、ただ景色を眺めているような声で続けた。
「鉱山は、今も人が入るのですか?」
「入りません」
「入口はどちらに?」
アリアは答えかけ、口を閉じた。
入らない場所の入口を、なぜ知りたいのだろう。
そう考えた時には、コンラートの顔に申し訳なさそうな笑みが浮かんでいた。
「失礼。商人は、知らない土地へ来ると何でも尋ねる癖がつきまして」
「コンラートさんは、北のどちらからいらしたのですか?」
「リューデンを通って参りました」
「布は、そこで?」
「ええ。あちらの織物は丈夫ですから」
答えは滑らかだった。
アリアには、それが正しいのか分からない。
その夜、ハインツとグレーテが仮相談場所へ来た。
「リューデンの丈夫な織物、とおっしゃいましたか」
ハインツが確かめる。
「はい。何かおかしいのですか?」
「かの町でよく扱われるのは、薄手の染め布でございます。丈夫な織物がないわけではございませんが、布商人が最初に挙げる品ではないでしょう」
「あたしには、川沿いの市を回ってきたと言っていたよ」
グレーテが指を折った。
「でも、あの市の荷揚げ場を知らなかった。昔とは変わったのかもしれないし、別の道を来たのかもしれないけどね」
「嘘でしょうか」
「さあ」
グレーテはすぐに首を横へ振った。
「商人だって、扱わない品はある。町へ寄ったからって、隅々まで知っているとは限らないよ」
「ただ、尋ねることに比べて、ご自分のお話は曖昧でございます」
ハインツも、断定はしなかった。
そこへ、レクス・ノアが窓から入ってきた。
「あの男は、ノアを見ている」
「いっしょに遊んだだけだよ」
「紐ではなく、おまえがどう動くかを見ていた」
「でも、やさしかったよ」
ノアの声が小さくなる。
嘘をついている声ではない。
コンラートが紐で鳥を作った時、ノアは本当に楽しかったのだ。
親切だったことと、聞きすぎること。
どちらか一方を消せば、簡単になる。
けれど、アリアには消せなかった。
* * *
「追い返した方がいい」
翌朝、仮相談場所へ集まった住民の一人が言った。
「何か盗まれてからじゃ遅いだろう」
「盗んだところを見たのかい?」
マルタが聞く。
「見てないが、聞き回ってる」
「なら、もう何も話さなければいい」
別の者が腕を組んだ。
「客に聞かれても、全部知らないと言うんだ」
「湯の場所も、炊事場の使い方もですか?」
アリアが尋ねると、その者は詰まった。
「それは、教えないと困る」
「薬草の使い方は?」
「売ってる物なら、教えてもいいんじゃないか」
「どこで採れるかは?」
「それは……どうだろうな」
皆の答えが少しずつ違う。
何を聞かれたら黙るのか、誰も同じには決めていなかった。
ルークスが机へ手を置く。
「コンラートだけを追い出しても、次の者が来ます」
夏の山道は乾いている。
湯の話を聞いた客も、包みの話を聞いた商人も、これから増えるだろう。
「では、全員を追い返すのか?」
「それでは、湯治場ではなくなります」
アリアは膝の上で手を組んだ。
人が来るのは嬉しかった。
白嶺の湯で痛みが和らぎ、帰る時の顔が少し明るくなる。それを見ていると、この土地にあったものが、誰かを助けられたのだと思える。
けれど、誰でも家へ入れてはいけないと、前の話し合いで決めたばかりだ。
場所にも、話にも、きっと同じ境がいる。
「わたしが、もう一度お話ししてみます」
「一人では行くな」
レクスがすぐに言う。
「ここへ来ていただきます。皆さんの見えるところです」
コンラートは、呼ばれるとすぐに現れた。
「何か不都合がございましたか?」
「白嶺で、困っていることはありませんか?」
問い詰められると思っていたのか、コンラートの眉がわずかに上がった。
「いいえ。湯もよく、皆さんにも親切にしていただいております」
「お食事は?」
「札を一度、間違えました。ハインツ殿に直していただきましたよ」
「あれ、コンラートさんだったのですか」
「沈む日を、朝焼けだと思いまして」
アリアは思わず笑った。
コンラートも笑う。
笑った後で、彼は机の端へ置かれた紙を見た。
「こちらでは、客の名を帳面へ残しておられるのですか?」
「まだ、皆さんのお名前を聞いているだけです」
「どこから来たかや、誰の紹介かまでは?」
「そこまでは聞いていません」
「それでは、商人が増えた時に苦労なさるでしょうな。荷の出所も、滞在の日数も分かりません」
助言にも聞こえる。
自分が何を尋ねられるのか、先に知ろうとしているようにも聞こえた。
アリアは紙を見下ろした。
「コンラートさんは、いつまで滞在するご予定ですか?」
「腰の具合を見て、あと五日ほど」
「その後は、どちらへ?」
「北へ戻るつもりです」
「リューデンへですか?」
一拍だけ、間があった。
「ええ。まずは、そちらへ」
間があったから、嘘だとは決められない。
けれど、何を答えてよいか迷っているのは、コンラートも同じなのかもしれなかった。
「ありがとうございます」
アリアは頭を下げた。
「今日のお話は、それだけです」
「承知しました。では、湯へ戻っても?」
「はい。お時間をいただいて、ありがとうございました」
コンラートは立ち上がり、腰を確かめるように背を伸ばした。
「一つだけ、私からも伺ってよろしいですかな」
「はい」
「滞在の終わりを尋ねられたのは、今日が初めてでした。これからは、皆に尋ねることになるのでしょうか」
責める声ではなかった。
決まりを知りたい旅人の、もっともな問いに聞こえた。
「まだ、決まっていません」
そう答えてから、アリアは気づいた。
コンラートにだけ帰る日を尋ねたのは、皆が彼を怪しいと思ったからだ。次の知らない客が来れば、またその人を見て、聞くかどうかを決めることになる。
それでは、誰に何を尋ねるのか、いつまでも決まらない。
「これから、皆さんと考えます」
「先に分かっていれば、旅人も答えを用意できます」
コンラートは穏やかに一礼し、仮相談所を出ていった。
見送りながら、アリアは机の紙を引き寄せた。
知らない方を追い返すか、何でも話すか。
その二つを、相手の顔を見るたびに選ばなくてもよい方法が、きっと必要だった。
* * *
来訪者のための紙は、最初から作り直すことになった。
「名前はいるね」
グレーテが言う。
「何をしに来たかもだ。湯へ入りたい者と、商売の者じゃ、案内する場所が違う」
「どこで寝るかも分かった方がよい」
ルークスが続けた。
「具合が悪くなった時、探せないと困ります」
「いつまでいるか」
ハインツが四つ目を書いた。
名前。
来た用事。
泊まる場所。
帰る予定の日。
紙には、四つだけが並んだ。
「どこの町から来たかは?」
住民の一人が尋ねる。
「書けるなら、余白でよいでしょう」
アリアは答えた。
「紹介してくれた方のお名前も、必要な時に伺います。たくさん聞きすぎて、湯へ来た方を戸口で疲れさせたくありません」
「あの男は、たくさん聞くけどね」
マルタの一言に、何人かが苦笑した。
「こっちが何を話すかも決めよう」
グレーテが、別の紙を出す。
「長いのは覚えられないよ。三つまでだね」
「みじかいのがいい」
ノアも頷いた。
最初の一つは、すぐに決まった。
白嶺での暮らし方と、今売っている品のことは話してよい。
「湯の場所も、食事札も、包みの使い方もですね」
「そうだね。教えなきゃ、また炊事場を煙だらけにされるよ」
二つ目は、少し迷った。
「薬草の採れる場所は?」
「話さない」
「包みがいくつあるかは?」
「それも、話さない」
「アリアがどこから来たかは?」
レクスの声が低くなる。
「話す必要はない」
場所、量、帳面、人の昔。
細かなことを聞かれたら、自分だけで答えず、この相談場所へ案内する。
三つ目は、前より簡単だった。
作業場、荷を置く場所、鉱山、誰かの家へは、案内なしで入らない。
「あの黒い屋根の館もだ」
ルークスが付け足す。
「あそこは、案内があってもまだ入りません」
「うん。あぶないかもしれないもんね」
ノアが紙を覗き込んだ。
「これ、コンラートに見せるの?」
「皆さんにお伝えします」
「あの人だけじゃなくて?」
「はい。コンラートさんが帰った後に来る方にも、その次の方にもです」
怪しいから、話さない。
好きだから、何でも話す。
それでは、相手が変わるたびに境も動いてしまう。
「同じにするのか」
レクスが言った。
「はい。知らない方でも、同じようにお迎えできるようにします」
「我は、知っている者でも勝手に家へ入れたくない」
「それも同じです」
アリアは笑った。
「わたしたちの家は、来訪者受付の外です」
* * *
新しい紙は、宿坊の入口と仮相談場所へ置かれた。
滞在中の客にも、名前と帰る予定の日だけ、改めて書いてもらう。
字の難しい者は、話を聞いた人が代わりに書いた。
コンラートも、嫌な顔はしなかった。
「コンラート・ベルガー。湯治と、旅の休息。宿坊。五日後に出立予定」
一つずつ確かめ、自分の手で書く。
「これでよろしいですかな?」
「はい。ありがとうございます」
「出立が延びた時は?」
「分かった時に、教えてください」
「簡単で助かります」
彼は筆記具を置き、ノアへ赤と青の紐を見せた。
「魚の続きはいかがです?」
「やる!」
ノアが駆け寄る。
「ここでやれ」
レクスが言った。
「倉の陰へ連れていくな」
「もちろん。皆さんに見ていただいた方が、私も緊張しません」
コンラートは椅子へ腰を下ろした。
紐が鳥になり、魚になり、最後には小さな橋になった。
ノアは何度もやり方を教わり、前足ではうまくできず、とうとう紐へ絡まった。
「とれない」
「動くな。余計に締まる」
「お助けしましょうか?」
「我が外す」
「レクスもおてて同じだよ」
「では、アリア」
「はいはい」
アリアが結び目をほどくと、周りから笑いが起きた。
コンラートも笑っていた。
その日の午後、彼は荷を運ぶ若者へ話しかけた。
「白嶺の品を少し見せていただきたいのですが、包みはあの倉に?」
「売ってる物なら、受付の方にあるよ」
「倉の中で、布に合う品を探したいのです」
「詳しいことは、あっちで聞いてくれ」
若者は仮相談場所を指した。
声を潜めもしない。疑う顔もしない。
決めた通りに案内しただけだった。
コンラートは指された先を見る。
ほんの少し、笑顔が止まった。
だが、すぐに頷く。
「承知しました」
それ以上、倉のことは尋ねなかった。
アリアは離れた場所から、その様子を見ていた。
何も分かったわけではない。
コンラートが本当に腰を休めに来た布商人なのか。別の目的があるのか。まだ、どちらとも言えない。
けれど、若者は嘘をつかなかった。
コンラートを怒鳴りつけることも、知っていることを全部話すこともしなかった。
境が一つ、働いた。
* * *
夕食の後、アリアはレクス・ノアと坂道を歩いた。
夏の夕方は長い。日は山の端へ触れているのに、空にはまだ青さが残っている。軒先の洗濯物はすっかり乾き、共同炊事場からは鍋を洗う音が聞こえた。
「ねえ、アリア」
ノアが呼ぶ。
「はい」
「コンラート、わるい人?」
アリアは足を緩めた。
少し前なら、すぐに答えを探したかもしれない。
皆を安心させられる答えを。
けれど、ない答えをあるように言うことはできない。
「分かりません」
「やさしいよ」
「はい」
「聞きすぎる」
レクスが言う。
「それも、はい」
「どっち?」
「どちらも、です」
アリアは、小さな体を抱き上げた。
「知らない方でも、湯へ来たら休んでいただきたいです。でも、知らないまま、どこへでも入っていただくことはできません」
「きょうかい?」
「境です」
「おうちの戸みたいなものだ」
レクスが言った。
「閉じていれば、誰も入れない。開ければ、入れる」
「ずっと閉めるの?」
「必要な時に、アリアが開ける」
「わたしだけではありません」
アリアは訂正した。
「皆さんで決めて、開けます」
「我は、アリアの家の戸なら我が決める」
「三人で決めましょう」
「ぼくも?」
「もちろんです」
ノアは嬉しそうに翼を鳴らした。
坂の上には、黒い屋根が見えていた。
旧帝国管理庁舎。
帳面を置き、人の話を聞ける場所が必要になるほど、白嶺へ来る人は増えている。
あの建物が使えれば、仮相談場所の低い屋根に頭をぶつける者も、雨の日に荷を抱えて立つ者も減るだろう。
けれど、便利そうだからと戸を開けることはできない。
「明日、ルークスさんにお願いしましょう」
「館を開けるのか?」
「いいえ」
アリアは黒い屋根を見上げた。
「まず、どこまで近づいてよいのか。誰なら安全を確かめられるのか。それを相談します」
安全を確かめる人と、入ってよい場所が決まるまで、館の戸は閉じたままにする。
忘れるためではない。いつか皆で開けるために、今は境を残しておくのだ。




