第31話 湯治客の家
目を覚ますと、家の外で知らない人が話していた。
「まだ、お休みなんじゃないか」
「だが、朝の湯へ入る前に聞いておきたい」
「姫様に聞けば分かると言われたんだ」
アリアは寝台の上で目を瞬いた。
窓から入る光は、朝だというのに白く強い。石壁にはもう昼のような熱がこもっていた。
若葉印の偽物が白嶺へ持ち込まれてから、十日あまり。
正規の販売先へ確認札が届くと、春待ち包みを置く店は少しずつ増えた。湯の話も、龍を連れた小さな姫様の話も、一緒に山を下ったらしい。
そして、今度は人が上ってきた。
水場へ向かう足音も、春までとは違っていた。聞き慣れない声が桶の順番を譲り合い、借りた鍋を抱えた女が、宿坊はどちらかと道を尋ねている。湯へ入ってその日のうちに下りる者ばかりではない。毛布を干し、鍋を借り、何日かここで朝を迎える人が増えていた。
「もう人がいる」
ノアの眠そうな声がする。
枕元で丸くなっていたレクス・ノアが、翼を一度震わせた。
「戸を開けるな」
「でも、待っています」
「アリアはまだ着替えていない」
レクスに言われ、アリアは毛布を胸元まで引き上げた。
「着替えてから開けます」
急いで服を整え、髪を結ぶ。三人分の朝食は、昨夜のうちに机へ置いてあった。硬くなりかけたパンと、薄い乳。けれど机の半分には商会の帳面が積まれ、椅子には出荷用の紐が載っている。
戸を開けると、三組の客がいた。
最初は、小さな鍋と乾燥豆の袋を持った老夫婦だった。二人とも長い坂で息を切らしているが、荷はきちんと背負っている。
二組目は、上等な外套を着た中年の男と従者だった。男は顔色が悪く、杖を持つ手にも力がない。
三人目は一人旅の女だった。右手を布で吊り、左手だけで荷袋を抱えている。
「おはようございます。お待たせしました」
「白嶺の姫様かい?」
老婦人が尋ねる。
「アリアです」
「姫様だよ」
ノアが背後から付け足した。
「余計な説明をするな」
レクスが言う。
アリアはまず、三人へ椅子を勧めようとした。
椅子は二脚しかない。一脚には紐があり、もう一脚には帳面がある。
「少しお待ちください」
帳面を寝台へ移し、紐を箱へ入れる。老夫婦へ椅子を渡すと、顔色の悪い男が立ったままになる。
「こちらへ」
アリアは自分の小さな椅子を運んだ。
「お食事は、どちらでいただけますか?」
中年の男が、座る前に尋ねた。
「食事?」
「朝夕は宿で用意されると聞いております。湯へ入る時刻と、着替えを手伝う者も教えていただきたい」
アリアは答えに詰まった。
老夫婦は、自分たちの鍋を見せた。
「わしらは炊事場が借りられればいい。豆も麦も持ってきた」
右手を吊った女は、困ったように左手を上げる。
「火を起こすのが難しくてね。途中の宿では頼めたんだが」
できることが、三組とも違う。
アリアは湯と寝床の説明をしようとして、どこから話せばよいのか分からなくなった。
その時、坂の下からグレーテが上ってきた。
「まずは荷を置いて、水を飲んでもらおうかね」
慣れた声だった。
「お湯は逃げないよ。息が戻ってからで十分さ」
* * *
宿坊の共同炊事場では、朝から二つの炉に火が入り、壁際に水壺や豆壺が並んでいた。
白嶺の人々は、来た者を放っておかなかった。
マルタは焼いた根菜を持ってきた。近所の女はパンを一つ増やし、別の家からは毛布が届いた。空いていた宿坊の床を掃き、足りない寝藁を運び、湯へ行く道を教える。
老夫婦は何度も礼を言った。
右手を吊った女は、温かな煮物を受け取ると、目を潤ませた。
顔色の悪い男も、最初に食事のことを尋ねたのを恥じたらしい。
「宿屋と同じものだと思い込んでいた。失礼した」
悪い人は、誰もいなかった。
それでも、三日たつと、鍋の中身は少し薄くなった。
四日目には、食事を運んだ女が、自分の家の夕食を日暮れ後に作った。
五日目、客へ出す豆が足りなくなり、冬用の壺を開けようとしたところをマルタが止めた。
「そいつは、雪が降ってから食べる分だよ」
「でも、今夜の分が足りないんだ」
「なら、人数を減らすか、別のものにしな。冬の飯は夏には増えないよ」
アリアは、壁際の冬用の壺と、炉へ掛けられた鍋を見比べた。
客が三組増えても、畑は急に広がらない。鍋も、薪も、料理をする手も増えない。
「アリア様、今朝の商会相談が二件ございます」
ルークスが紙を持ってくる。
「その前に、宿坊の毛布をもう一枚——」
「ぼくにも、それちょうだい」
ノアの声が割り込んだ。
老夫婦が炊事場で焼いていた薄い麦餅へ、レクス・ノアが鼻先を寄せている。
「龍さんも食べるかい?」
老婦人が小さくちぎった。
「食べる!」
小さな口が開く前に、首が横を向いた。
「知らない者から勝手にもらうな」
レクスが同じ体を止めた。
「もう知ってるよ。三日いるもん」
「三日で食べ物の安全まで分かるか」
「わたしがいただきます」
アリアが間へ入り、麦餅を受け取った。
「少しずつ分けましょう」
「アリアが一番食べたいだけではないか」
「違います」
答えながら一口食べると、香ばしくておいしかった。
「やっぱり食べたかったんだ」
周りから笑いが起きた。
にぎやかな炊事場は、アリアも好きだった。
知らない人が名前を覚え、同じ火を囲み、湯上がりの顔で笑う。白嶺へ来た人が、帰りたいと急がなくなる。
けれど、その輪を毎日誰かの夕食で支えることはできない。
* * *
「わたくしどもも、最初は客でございました」
ハインツが、新しい客たちの前で言った。
今日は杖を使っている。午前に宿坊まで歩いたため、椅子へ座ると膝をゆっくり撫でた。
「白嶺では、寝床と湯をお借りし、食事は自分たちで整えました」
「最初の日は、どこで豆を買うかも分からなかったけどね」
グレーテが笑う。
「マルタさんに鍋を借りて、焦げつかせたよ」
「あれは鍋が古かった」
「そういうことにしておきましょう」
顔色の悪い男が、二人を見た。
「自炊が決まりなのですか?」
「基本は、でございます。できない時には、できないことをお願いしました」
右手を吊った女が腕を見る。
「あたしは、しばらく無理そうだね」
「では、お食事をお願いできるようにしましょう」
アリアが言うと、マルタが片眉を上げた。
「誰が、何人分まで作れるかを先に聞くんだよ」
「はい」
「ただで、いくらでも、じゃない」
「食材と薪と、作る方のお仕事の分をお支払いいただきます」
顔色の悪い男はすぐに頷いた。
「当然だ。用意してもらえるなら、その方がありがたい」
客は、無料で何もかもしてほしかったのではない。
白嶺でどう暮らすのか、知らなかっただけだった。
「でも、字が書けない人もいるよ」
ノアが言う。
食事を頼む札には、朝か夕か、何人分か、食べられない物があるかを書くことになった。
「絵にしよう。朝はお日さま」
「夕食は?」
「お月さま」
「雨の日でも朝は太陽なのか」
レクスが尋ねる。
「お空の向こうにいるよ」
「正しいが、札の説明にはなっていない」
朝は昇る日、夕は沈む日を描いた。人数は椀の数。食べられない物は、聞き取った者が横へ書く。
「前の日までに出してもらえば、作れる数が分かります」
アリアは札を並べた。
「急に具合が悪くなった時は?」
右手を吊った女が尋ねる。
「その時は、先に教えてください。できることを探します」
決まりがあるから、決まりの外を見捨てるわけではない。
できる人には、自分でしてもらう。
できない人には、頼める道を作る。
そうすれば、明日も同じように助けられる。
* * *
食事札ができた日の午後、共用炊事場が煙で真っ白になった。
「火事ですか?」
アリアが駆け込むと、誰かが鍋を抱えて飛び出してきた。
「火は出てない! 煙だけだ!」
中では、慣れない客が炉へ湿った薪を詰め込み、火吹き筒を夢中で吹いていた。
薪は燃えず、黒い煙ばかりを吐いている。
「止めてください!」
戸と窓を開け、薪を減らす。マルタが灰をかぶせ、ルークスが煙道を確かめた。
火傷をした者はいない。鍋の豆が少し煤臭くなっただけだった。
「寒い土地の炉と同じつもりだった」
客は涙目で咳をした。
「悪気はなかったんだ」
「分かっています」
アリアも咳をしながら答えた。
悪気がなくても、煙は出る。
善意だけでは、火は消えない。
その日のうちに、炊事場へ三つの絵札が掛けられた。
食事は自分で作る。難しい時は、前もって頼む。
火は決めた炊事場で使い、灰は決めた穴へ捨てる。
寝床と共用場所は、使った者が片づける。
「湯の札より短いね」
ノアが満足そうに言った。
「今日は煙で十分説明されたからだ」
レクスの言葉に、煙を出した客が小さくなった。
「責めているのではありません」
「我は責めている」
「レクス」
「少しだけだ」
宿泊は、初めて来た人なら宿坊から始めることになった。空き家は、炉や戸締まりを確かめ、そこで暮らせるか見てから。住民宅へ泊まるのは、家の者と客の両方が望んだ時だけ。
全部を一度に立派な宿へ変えたわけではない。
寝る場所と湯がある。
水を飲めて、火を使う場所が分かる。
困った時に、頼む相手が分かる。
白嶺が今できるのは、そこまでだった。
* * *
困り事が少し減ると、相談はもっと増えた。
食事札の書き方。
空いた寝床。
春待ち包みの取引。
正規品の番号照会。
湯へ入る時刻。
第1坑で使う楔と縄の受け取り。
誰かが迷うたび、最後にはアリアの仮住まいへ来た。
夏になっても、第1坑では鉱山経験者と石工が、支柱を替え、排水を通し、空気とカンテラの火を確かめる仕事を続けていた。安全を確かめた範囲は春より延びたが、白い筋の先を掘ることは禁じたままだった。
その日の昼、机には三冊の帳面が開き、椅子の下に商品箱が二つ置かれていた。寝台の端には、宿坊へ運ぶ毛布が積まれている。
三人分の昼食は、窓際の小さな台へ追いやられていた。
「先に、お話を伺います」
アリアがパンを布で包み直す。
「昼食は?」
ノアが尋ねた。
「後でいただきます」
「昨日も後だった」
「今日は昨日より早く終わります」
終わる、と言った直後に戸が開いた。
「失礼。商会の帳面はこちらに?」
確認札を持った商人が入ってくる。悪びれた様子はない。戸が開いていたから、入ってよいと思ったのだろう。
「はい。こちらへ——」
アリアが机を示す前に、商人は箱を避けて奥へ回った。
「その棚のものですかな」
そこには帳面ではなく、アリアの着替えを入れた籠がある。
籠の横には、レクス・ノアが夜に眠る布が敷いてあった。
小さな体が、商人と奥の間へ飛び降りた。
「入るな」
レクスの声が低く響く。
「おや、驚かせたか」
「ここは家だ」
翼が広がり、尾が床を打った。
商人は足を止めた。
「すまない。仕事場だと思っていた」
その言葉に、アリアも動けなくなった。
机には帳面。
床には商品。
椅子には相談客。
奥に着替えと寝床があることなど、初めて来た者には分からない。
「人が来るの、楽しいよ」
ノアが小さな声で言った。
「でも、ここを見られるのは、やだ」
同じ体の前足が、眠る布を押さえている。
アリアはいつも、自分が後で食べればよいと思っていた。
自分の椅子を渡し、自分の机を空け、自分の寝台へ帳面を載せれば、来た人が困らない。
けれど、ここはアリアだけの我慢で差し出せる場所ではなかった。
レクス・ノアが眠る場所。
三人で食べる場所。
服を替え、泣いてもよくて、誰にも見られずに眠れる場所。
「申し訳ありません」
アリアは商人へ頭を下げた。
「こちらが、入ってよい場所をお伝えしていませんでした」
「いや、私も勝手に入った」
「今日のお話は伺います。でも、明日から、ここへ相談を集めるのをやめます」
レクス・ノアの翼が、ゆっくり下りた。
* * *
「では、どこで話を聞く?」
夕方、ルークスが尋ねた。
アリアの家から少し離れた屋根付きの作業場が、当面の候補になった。雨の日には狭く、荷を置けば人が入れない。それでも、寝台の横で商談するよりはよい。
帳面は必要な分だけ運び、終われば鍵のかかる箱へ戻す。商品箱は家の中へ積まず、乾いた共同倉庫の一角へ寄せる。
「ずっとは使えないね」
マルタが作業場の低い屋根を見た。
「上の館はどうだ?」
住民の一人が、坂の上を指した。
黒い屋根が、夏の夕空に沈んでいる。
「旧役人館か」
「帝国の管理庁舎だったところだよ。昔は帳面も荷も、あそこで扱ってた」
「壁はまだ立ってるじゃないか」
「見える壁が立っているだけです」
ルークスが即座に言った。
「二十年以上使われていない。床が腐っているかもしれない。屋根も、煙道も、古い井戸も、地下も、何が安全か分かりません」
「では、使えませんか?」
アリアが尋ねる。
「今は使えません」
はっきりした答えだった。
坂の上から町を見下ろす大きな館が、帝城や、行くはずだった離宮を少しだけ思い出させた。
アリアは、胸元で指を握った。
「わたしの家にするのではありません」
誰も、そうしろとは言っていない。それでも先に言っておきたかった。
「皆さんが仕事をして、相談に来た方が使う場所です」
「使えるなら、ですね」
「はい。使うと決めるのではなく、安全に調べられるかを相談することはできますか?」
ルークスは黒い屋根を見上げた。
「誰が何を確かめるべきか、まず考えましょう。中へ入るのは、その後です」
今日は、それ以上進めなかった。
館の戸を開ける者も、坂を上る者も決めない。
ただ、今まで遠くから見ていた黒い屋根が、初めて皆の話し合いの中へ入った。
* * *
夜になって、ようやく家の戸が閉じた。
外では湯治客たちの話し声がする。遠くで鍋の蓋が鳴り、共用炊事場の火を消したという声が聞こえた。
アリアは机の帳面を箱へ入れた。紐を棚へ上げ、残っていた商品袋を戸口の隅へ寄せる。
全部は片づかない。
それでも、三人分の皿を置く場所だけは空いた。
「いただきます」
遅い夕食だった。
煮込んだ豆と、少し固いパン。昼に食べ損ねた分まで、ノアは大きく口を開けた。
「明日も人が来る?」
「たぶん、来ます」
「ごはんの時は?」
「入れるな」
レクスが即答した。
「困っている方でしたら、お話は聞きます」
「食べ終わってからだ」
アリアは少し考えた。
「はい。食べ終わってからにします」
「約束だぞ」
「約束です」
窓の外には、坂上の黒い屋根が見える。
あそこを使えるかは、まだ分からない。
けれど、この小さな食卓まで誰にでも開け放ってはいけないことは、もう分かっていた。




