第30話 本物のしるし
「これ、きらい」
ノアの声が、朝の作業場へ響いた。
机の上には二つの白い袋がある。
一つは白嶺で作った春待ち包み。もう一つは、昨日、山を上ってきた御者が持ち込んだものだった。
窓から差す日差しは、もう春の柔らかさを残していない。戸口へ積んだ出荷箱の濡れた底が、朝のうちに乾いていく。坂道を通る荷車の後ろには、白い埃が長く残るようになっていた。
季節は夏へ入り始めている。
レクス・ノアが、偽物の袋へ鼻先を近づけた。
「白嶺の薬草ではない」
レクスの声は低い。
「土のにおい。あと、ちくちくする草」
「触らないでくださいね」
アリアは小さな体を抱き上げ、机から離した。
「舐めるつもりはない」
「ぼくもないよ。ちょっとしか」
「少しでも駄目です」
アルヴィンは袋の中身を薄い皿へ広げていた。細く刻まれた葉と茎を、先の丸い棒で分けていく。
「温める草は入っています。ただ、刺激の強い草も混じっていますね。肌へ直接当てれば、赤くなるかもしれません」
「毒なのですか?」
「そこまでは言えません。量も、使い方も分かりませんから。ただ、春待ち包みと同じ使い方を勧めるべき品ではありません」
「どこで作ったか、分かりますか?」
アルヴィンは首を振った。
「草だけで土地までは決められません。魔素の感じも違いますが、それだけで白嶺の外だと証明はできません」
レクス・ノアには違いが分かる。
アルヴィンにも、調べれば危なさの見当はつく。
けれど、北方の町で包みを買う人のそばに、龍も自然学者もいない。
「こんなもの、取り上げちまえばいい」
トーマスが偽物を睨んだ。
「白嶺の名で売るなと言って、露店の主を捕まえるんだ」
「誰が捕まえるんです?」
壁際に立っていたルークスが尋ねた。
「そりゃ、町の役人だろう」
「白嶺の頼みだけで、他領の役人が動くとは限りません。そもそも露店の主が作った品とも決まっていない」
「売ったのは、そいつだ」
「中身を知らず、卸商から仕入れた可能性もあります」
トーマスの腕が止まった。
「では、何もできないのですか?」
アリアが聞くと、ルークスはすぐに否定しなかった。
「白嶺の外で、品を取り上げたり、人を縛ったりはできません」
できないことから答えが返ってくる。
アリアは机の上の二つの袋を見た。
本物より薄い布。曲がった縫い目。役目を果たさない紐。番号のない裏側。
そして、白嶺の若葉によく似た印。
「ぼくたちの葉っぱ、取られた」
ノアが悔しそうに言った。
「葉を独占することはできない」
「じゃあ、ぼくの顔にしよう」
小さな体がアリアの腕の中で胸を張る。
「顔?」
「ぼくの顔の印。角と、耳と、かっこいい翼」
「お前の顔は、我の顔でもある」
「レクスの顔でもいいよ」
「そういう問題ではない」
作業場に小さな笑いが起きた。
だが、若葉印を見ていたグレーテは笑わなかった。
「難しい印に変える、という考え自体は悪くないよ」
大きな商家で品を包む者たちをまとめていた老婦人は、紙を一枚取り、若葉の周りへ細い輪と三つの点を描き足した。
「これなら、今のものよりは真似しにくい」
「もっと難しくできます」
アリアも隣へ、小さな龍の横顔を描こうとした。
角はそれらしくなった。翼は鳥に見えた。顔は、少し太ったトカゲに見えた。
「ぼく、こんな顔じゃない」
「分かっています」
「では、なぜ描いた」
「難しかったのです」
ルークスが笑いを噛み殺しながら、同じ図を別の紙へ写した。絵の得意な住民も加わり、しばらくすると、似た印が机へ五つ並んだ。
どれも少し違う。
けれど、遠目なら同じに見えた。
「見本があれば、いずれ真似される」
レクスが言った。
「難しくすれば、作る側も間違えるね」
グレーテが紙を重ねる。
印だけを守ろうとする案は、午前のうちに行き止まりになった。
* * *
「こちらには、番号があります」
アリアは本物の袋を裏返した。
短い番号が、縫い目の近くについている。
「偽物にはありません」
「次は番号も写すだろうな」
レクスの言葉に、アリアの指が止まる。
そうだ。
数字は、若葉より簡単に写せる。
「番号をもっと長くしますか?」
「長くしても、写す手間が少し増えるだけでございましょう」
ハインツが静かに言った。
「では、番号は役に立ちませんか?」
「アリア様。この番号は、何を証明するものでございますか?」
質問が返ってきた。
アリアは、本物の番号を読む。
「この包みを、いつ作ったか分かります。薬草を採った場所と、乾かした方と、袋へ詰めた日も、帳面で探せます」
「袋に同じ番号を書いただけで、その記録まで生まれますか?」
「いいえ」
アリアは製造帳面を開いた。
番号をたどると、採取区画の絵印がある。乾燥を見た者の仕事印があり、袋詰めの日が続く。
偽物へ数字を書いても、この帳面には載らない。
「帳面にある番号なら、本物です」
「その番号の包みが二つ現れたら?」
また、指が止まった。
本物の番号を一つ覚え、別の袋へ書くことはできる。
「どこへ売ったかも、必要です」
オスカーが販売先帳面を開いた。
「この番号は北方の薬種屋へ、この番号は街道沿いの雑貨店へ。荷へ入れた時に書いておけば、違う店で同じ番号が出た時に分かります」
「その店へ聞きに行くのですか?」
「近ければ。遠ければ手紙です。返事が来るまで、十日以上かかることもあるでしょう」
すぐには分からない。
どこにいても一瞬で確かめられる、魔法のような仕組みではなかった。
それでも、龍の鼻を待たなくても、道は白嶺の帳面までつながっている。
「売ったお店の方にも、同じ番号を書いていただけますか?」
「協力する店を、正規の販売先にしましょう」
「正規?」
ノアが首を傾ける。
「白嶺から、本当に品を預けたお店です」
「ほんもののお店」
「店そのものが本物や偽物になるわけではない」
「分かりやすいからいいの」
アリアは二冊の帳面を並べた。
作った時の番号。
売るために送り出した番号。
その品を預かった店。
今までも、どれも書いていた。ただ、別々の帳面にあり、外の人がどう確かめればよいかは決めていなかった。
「偽物を売っている方へ、やめてくださいと言います」
「言うことはできます」
ルークスが答えた。
「でも、やめなかったら?」
「その町の役人へ訴えることはできます。ただ、白嶺が自分で捕まえることはできません」
「別の町で売られたら?」
「また探すことになります」
「印を変えても?」
「また真似されるかもしれません」
机の上に、できることとできないことが並んだ。アリアは膝の上で手を握った。
白嶺の名で危ない品を売らせたくない。
買った人が肌を傷めれば、白嶺の包みが人を傷つけたと思われる。説明札を作っても、その札ごと真似されるかもしれない。
偽物を一つ見つけるたび、山を下り、露店を探し、人を問い詰める。
白嶺には、それを続ける人も馬車もない。
「お腹すいた」
ノアの声がした。
張っていた糸が、ぷつりと緩む。
「まだ朝食の残りがあります」
アリアは帳面を閉じた。
* * *
仮住まいの裏手で、アリアはレクス・ノアとパンを分けた。
夏の光を避け、壁の細い影へ二人で座る。坂道から風が吹くたび、乾いた土の匂いがした。
「偽物、やっつけないの?」
ノアがパンを噛みながら尋ねる。
「やめていただくよう、お伝えします」
「ぜんぶ?」
「全部がどこにあるか、分かりません」
「じゃあ、負け?」
アリアは答えられなかった。
帝城にいた頃なら、命令を書けば誰かが動いたのかもしれない。けれど、今のアリアは白嶺の小さな商会長だ。北方の町で誰かを捕らえる権限などない。
レクス・ノアが膝へ前足をかけた。
「偽物が消えなくても、本物は消えない」
レクスが言う。
「ぼくは見つけられるよ」
ノアが鼻先を上げる。
「お前の鼻が届く範囲だけだ」
「じゃあ、みんなも見つけられたらいいね」
アリアは、半分残ったパンを見た。
偽物を見つける。
偽物を止める。
そうではなく、本物を見つけられるようにする。
誰かを捕まえる力がなくても、それならできる。
「戻りましょう」
「まだ食べている」
「食べ終わってからです」
「アリアはもう立ってるよ」
アリアは座り直し、残りのパンを急いで口へ入れた。
「急ぐと喉へ詰まるぞ」
レクスに注意され、水を飲む。
立派な決断の直前なのに、少し咳が出た。
* * *
「偽物を全部なくすのではなく、本物を誰でも確かめられるようにします」
作業場へ戻ったアリアは、皆へそう告げた。
「偽物は放っておくのか?」
トーマスが尋ねる。
「いいえ。見つけたら、売るのをやめていただくよう伝えます。どこから仕入れたかも伺います。でも、それだけにしません」
アリアは製造帳面と販売先帳面の間へ、白い紙を置いた。
「三つにします」
「また三つ?」
ノアが嬉しそうに言った。
「長いと、お前が文句を言うからだ」
「役に立ってる」
一つ。作った包みの番号を、製造帳面へ残す。
二つ。その番号を、どのお店へ送ったか残す。
三つ。困った品は、買ったお店へ持っていき、お店から白嶺へ尋ねてもらう。
「袋の紐も見ます」
グレーテが本物を持ち上げた。
開ければ若葉印の結び目が崩れ、元には戻しにくい。偽物の紐は、ただ結んであるだけだった。
「番号と店が合っていても、紐が切れていたら、中身を入れ替えられたかもしれない」
「では、番号と、お店と、紐です」
「四つになった」
ノアが数える。
「紐は、包みを見る時のお約束です。帳面のお約束は三つです」
「ずるい」
住民たちが笑った。
笑いが収まってから、オスカーが尋ねる。
「困った品を持ち込まれた店は、何をするのです?」
「番号と、どこで買ったかを書いて、白嶺へ送ってください」
「返事が届くまで、買った人を待たせます」
「はい。すぐに分かるとは書きません」
「代金は、全部白嶺が返すのか?」
トーマスの問いに、アリアは迷った。
白嶺の名を信じて買った人なら、助けたい。けれど、偽物が百袋、二百袋と出れば、白嶺の金だけでは足りない。
「白嶺で作った品に悪いところがあれば、白嶺商会でお話を伺います」
アリアはゆっくり言った。
「白嶺で作っていないものまで、全部お金を返すとは約束できません。でも、危ない品なら、どこで買ったかを教えていただきます」
助けないのではない。
できない約束を、しないのだ。
湯と包みの使い方を記した三枚の札の隣に、短い確認札が増えた。
番号を見る。
紐を見る。
正規の販売先で確かめる。
文字の横には、数字、結び目、店の軒先を表す簡単な絵を添えた。
* * *
「では、試します」
机へ五つの袋が並べられた。
本物が三つ。偽物が一つ。白嶺の縫い手が練習用に作った、中身のない袋が一つ。
御者の男には、どれがどれか知らせていない。
「これだな」
男は最初に、若葉印のよく見える偽物を選んだ。
「違う!」
ノアが即座に声を上げる。
「今は黙っていろ」
レクスが止める。
「葉っぱは似てるんだがな」
御者は確認札を見た。
袋を裏返す。番号がない。紐を引けば、印を傷つけずにほどけた。
「こいつは違うのか」
次に番号のある袋を選び、机の控えと比べる。
「この番号は、どこへ?」
「北方の薬種屋です」
「俺が運ぶ店と合ってる。紐も開いてない」
男は正規品を持ち上げた。
「こっちだ」
「当たり!」
ノアが翼を広げる。ひとつの体なので、黙っていたレクスまで得意そうな姿勢になった。
「ぼくの鼻なしで分かった」
「それを喜ぶのか」
「ぼくがいなくても、みんなが困らない」
レクスは少し黙った。
「なら、悪くない」
何人かで試すと、若葉印だけを見た者は間違えた。確認札を順に見た者は、匂いを嗅がなくても正規品へたどり着いた。
完璧ではない。
番号そのものを写されれば、白嶺へ問い合わせるまで分からない。手紙が往復する間に、偽物が売れてしまうこともある。
それでも、帳面と店をたどれば、本物へ続く道ができた。
オスカーの荷車へ、確認札と正規販売先の一覧が積まれた。露店商へ渡す手紙には、知らずに仕入れたのなら販売を止め、仕入れ先を教えてほしいと書いた。
返事は、四日後に届いた。
露店商は、北方の小さな卸から十袋を買ったという。白嶺の品ではないと知り、残っていた三袋は売らずに置いている。二人が肌の赤みを訴えたが、重い症状は出ていない。
卸の名は、以前ベルントが話した帝都の穀物商と、別の品で取引があった。
「同じところが、作らせたのでしょうか」
住民の一人が言った。
「まだ分かりません」
アリアは、帳面に並んだ卸と穀物商の名を見比べた。
取引があれば、互いを知ってはいるのだろう。
けれど、誰がこの袋を作ったのかも、誰かが作らせたのかも、まだどこにも書かれていない。
「名前と、分かったことだけを帳面へ残します」
露店商へは、赤みを訴えた二人の使い方と品の残りを保管してほしいと頼んだ。卸へも、白嶺の名と若葉印を使わないよう、正規販売先を通じて警告を送る。
それで偽物がすべて消えたわけではない。
だが、露店の三袋は止まった。
次に同じ番号が出れば、少なくとも尋ねる場所がある。
* * *
北方から届いた報告が帝城へ回ってきた夜、北方へ出した探索役が皇帝オスヴァルトの前に立っていた。
「白嶺と呼ばれる旧直轄領に、九歳ほどの少女がおります。名はアリアと名乗り、年頃と容姿も、アリア様によく似ているとのことです」
オスヴァルトの指が、椅子の肘掛けで止まった。
「小さな龍を常に連れております。土地の者と商会を作り、薬草の包みを北方へ売り始めたとのこと。規模はまだ小さいものの、扱う荷と、訪ねる商人は増えております」
「本人だという確証は」
「ございません。ただ、名と年頃、容姿だけではありません。貴族の教育を受けた話し方をし、小さな龍を連れ、商会の判断まで自分で行っております。偶然とは考えにくい一致が重なっており、生存している可能性は高いと見ます」
生きている。
胸の奥に落ちた息を、オスヴァルトは顔へ出さなかった。
「誰が、背後にいる」
「外から確かめられたのは、白嶺の住民、北方を往来する商人、滞在中の自然学者です。少女を動かす者が別にいるかは、分かりません」
添えられた報告には、白嶺商会の名をつけた包みが北方の店へ届き始め、湯を求めて白嶺へ向かう者も現れたと記されていた。
兄の娘は、どこかで保護されているだけではない。
白嶺で問い、自分で選び、人の前に立ち始めている。
「直接は触れるな」
低い声が命じる。
「よく見て、報告せよ」
* * *
北方の商流をたどった別の報告がアイゼンフェルト侯爵邸へ回ってきた夜、アーデルハイト・フォン・アイゼンフェルトは暖炉の前で紙を開いた。
「帳面、番号、販売先。九歳の少女が考えたと?」
「滞在中の老人が、助言しているようです」
「エーヴァルトに近い者ね」
旧帝室の人脈が、アリアを旗印に白嶺を育てている。そう考えれば筋は通る。
しかし、身分を明かさない。皇帝を批判しない。龍を宣伝に使わない。高値にも、誇張された効能にも乗らない。
政治工作にしては、あまりに地味だった。
「商品が山を下るなら、情報も同じ道を通る」
アーデルハイトは報告を閉じた。
「商人と荷の流れを見なさい。まだ、触れる必要はないわ」
* * *
数日後の朝、アリアの仮住まいの前には、三組の客が並んでいた。
春待ち包みを扱いたい商人。
湯へ入りたいという腰の曲がった夫婦。
そして、白嶺の噂を聞いて様子を見に来た男。
「白嶺の姫様はこちらか」
呼ばれたアリアは、後ろを振り返った。
「アリアのことだよ」
ノアが教える。
「勝手な名が定着したな」
レクスは呆れていた。
戸口の内側には出荷箱があり、その隣には帳面を広げた机がある。壁際には相談に来た住民の椅子。奥は、アリアとレクス・ノアが眠る場所だった。
商人を座らせれば、湯へ来た夫婦が立つ。
夫婦を先に休ませれば、荷を置く場所がない。
朝食の皿は、まだ片づけられていなかった。
「まず、こちらへ座ってください」
アリアは腰の曲がった夫婦へ、自分の椅子を差し出した。
「商人の方は、少しお待ちいただけますか。お荷物は——」
置く場所を探して、言葉が止まる。
ルークスが、戸口から室内を見回した。
「アリア様」
「はい」
「そろそろ、ここを仕事場にするのは限界です」
開いた戸の向こう、坂の上には、長く使われていない黒い屋根が見えていた。




