第29話 評判が山を下る
白嶺の湯へ龍を入れると、何でも治る。
北方の町の薬種屋で、そんな話が出た。
「何でも、とは大きく出たな」
店主は、春待ち包みを買いに来た御者へ言った。
「腰を悪くした爺さんが、杖なしで帰ったそうだ」
「俺が聞いたのは、白嶺の姫様が龍へ命じて、湯に力を入れさせるって話だぞ」
「龍を湯へ入れたら、風呂じゃなくて鍋になるだろう」
店の中で笑いが起きる。
店主も笑ったが、棚へ置いた二つの包みは、朝のうちに売れていた。
白い布袋。若葉の印。開けられていないと分かる紐。そして、短い番号。
何に効くのかと尋ねられるたび、店主は売りに来た商人から聞いた通りに答えている。
寒い時に体を温めるための包みだ、と。
けれど、客が店を出る頃には、それが咳にも、古傷にも、眠れない夜にも効く話へ変わっていた。
評判は、荷馬車より軽かった。
軽いものほど、山道を速く下っていった。
* * *
「売れた話と、売れなかった理由です」
それから八日後、オスカーが二冊の薄い帳面をアリアの前へ置いた。
初夏の光は前より長く作業場へ差し込み、干し棚へ並ぶ薬草の影を床いっぱいに伸ばしている。窓を開けていても、昼には首筋へ汗が浮くようになった。
八日前の商談で約束した二袋は、ほかの荷と一緒に北方の町へ下り、すでに店頭へ並んでいた。
「二袋とも、売れたのですか?」
「一つ目の店では完売です。二つ目は、三日で半分ほど」
「半分は、売れなかった?」
机の端で、レクス・ノアが首を傾ける。
「三日で半分なら、悪くありません。店によって来る客が違いますから」
オスカーは、良かったという声から読み上げた。
香りが強すぎない。寒い朝に使いやすい。手足の冷えが少し楽になった。夜、よく眠れた気がする。
次の帳面には、困ったという声が並んでいた。
香りが弱い。使い方が分からない。熱いまま肌へ押し当てた。咳が止まると聞いたのに止まらなかった。
「止まるとは、書いていません」
アリアの指が、最後の行で止まる。
「白嶺では書いていなくても、店へ着くまでに誰かが足すのでしょう」
アルヴィンは、帳面を横から覗き込んだ。
「では、効いたと書いてあるものも、信じてはいけませんか?」
「そうではありません。何に使って、どう感じたかは残せます。ただ、『効いた』『効かなかった』だけでは、何に対して、どう使ったのかが分かりません」
「寒い朝に使って、手が少し温かくなった」
「それなら、ずっと確かです」
アリアは、良かったという帳面の上へ手を置いた。
喜んでもらえたことまで、嘘にはしたくない。
けれど、白嶺が言っていないことを、白嶺の約束にすることもできない。
「ほかには、どんなお話があるのですか?」
オスカーは少しだけ言いにくそうに咳をした。
「白嶺の湯へ入れば、杖がいらなくなる。春待ち包みは万病の薬。龍が畑へ息を吹くと、一晩で実がなる」
「ぼく、吹いたことないよ」
ノアが翼を半分開いた。
「息で畑が実るなら、薬草地の採取区画で苦労はしていない」
レクスが冷たく返す。
「それから——龍を連れた、白嶺の姫様が作っている、と」
アリアは自分の服を見下ろした。
今日は袖口に薬草の細い葉がつき、膝には作業台へぶつけた白い粉の跡がある。
「姫様に見えるでしょうか」
「服装の話ではないと思います」
オスカーの口元がわずかに緩んだ。
「小さな娘が町の真ん中で皆と話し、龍がいつも隣にいる。人は、覚えやすい呼び名をつけます」
「アリアは姫様だよ」
ノアは嬉しそうだった。
「転がり込んだだけだ」
レクスが訂正する。
その呼び名から、帝城や皇女へ話が伸びている様子はないらしい。
アリアは少しだけ息を吐いた。それでも、何でも治す姫様になるのは困る。
「杖がいらなくなった方は、どなたですか?」
作業場の隅で紙を揃えていたグレーテが、静かに夫を見た。
皆の視線が、ハインツの椅子の横へ集まる。
そこには、使い込まれた杖が立てかけられていた。
* * *
「今日は、使っておいでですね」
「はい」
ハインツは杖を手に取り、作業場の中を三歩だけ歩いた。
以前より背筋は伸びている。白嶺へ来た日のように、一歩ごとに長く息を止めることもない。
それでも、四歩目で右足が遅れた。
「外では、杖を捨てて帰ったことになっておりますか」
困ったような声に、何人かが笑った。
「一度、杖を忘れて湯の外へ出た日があったでしょう」
グレーテが言う。
「椅子まで歩いてから気づいて、わたしに取りに戻らせた日です」
「あの日か」
「見た人がいたのでしょうね」
ハインツは椅子へ戻り、膝をゆっくり撫でた。
「湯へ入ると、こわばりはほどけます。夜に痛みで目を覚ますことも減りました。歩ける距離も、少し伸びました」
「治ったのですか?」
アリアは尋ねた。
「いいえ。今朝は坂の途中で二度休みました。雨の前には古傷が重くなります。調子のよい日もあれば、悪い日もございます」
「それでも、前より楽なのでしょう?」
「それは、確かでございます」
治ってはいない。
けれど、楽になっていないわけでもない。
どちらか一つだけにすると、ハインツの暮らしから半分が消えてしまう。
「良い話は、止めなくてもいいんじゃないか」
薬草を干していた男が言った。
「何でも治ると聞けば、湯へ来る者が増える。包みも売れる。冬までに屋根を直せる家も増えるぞ」
「嘘をついたわけじゃないよ。勝手にそう言われてるだけだ」
別の女も頷く。
アリアは、すぐには返事をしなかった。
雨が入る屋根を、アリアも知っている。板も釘も、ただでは手に入らない。よい評判が町を助けるという言葉は、間違っていなかった。
「ハインツさん」
「はい」
「白嶺が、杖はいらなくなると書けば、来る方は信じますか?」
「信じる方はおられるでしょう」
「その方が、杖を持たずに山を上ってきたら?」
ハインツは自分の杖を見た。
「危険でございますな」
「春待ち包みで咳が止まると書けば、お薬を持ってこない方がいるかもしれません」
作業場の声が静かになる。
売れる話を残したい気持ちも、冬までに屋根を直したい気持ちも、消えてはいない。
ただ、その話を信じて坂を上る人の姿が、同じ場所へ置かれた。
「でも、うちが言ったことじゃないんだよ」
女はまだ諦めきれない様子だった。
「町の人がそう思って、町の人が来るんだ。来てから、治らないこともあると話せばいいじゃないか」
「坂を上ってからですか?」
アリアが聞き返すと、女は口を閉じた。
白嶺への道は、荷を積んだ馬車でも半日では上れない。足の悪い人なら、なおさらだ。宿も食事も自分で整える今の白嶺へ、何でも治ると信じた人が大勢来ても、全員を休ませられるとは限らない。
「来てくださることは、嬉しいです。でも、来る前に知っていれば持ってこられたお薬や杖を、置いてこさせたくありません」
アリアは自分の膝の上で指を組んだ。
「白嶺の湯で休みたい方に、来ないでほしいのではありません。できないことまでできると言って、お呼びしたくないのです」
「正直に書いて、誰も来なくなったら?」
男の問いは低かった。
アリアは答えに詰まった。
誰も来なくなるかもしれない。その怖さを、立派な言葉で消すことはできなかった。
助けを求めて人が白嶺へ来てくれるのは嬉しい。包みが売れれば、作った人へ代金を返せる。屋根も直る。冬の薪も買える。
九歳のアリアにも、それくらいは分かるようになっていた。
「……それでも、来てくださった方に、最初から違うお話をしたくありません」
小さな声になった。
けれど、言い直さなかった。
しばらくして、マルタが鼻を鳴らした。
「湯がいいことまで隠す必要はないさ。あたしらは、何でも治る湯を売るんじゃない。温まって、ひと休みできる場所があるって教えりゃいい」
「それで来た人なら、帰る時に怒らないな」
トーマスも腕を解いた。
「屋根は、怒らせた客の金で直しても長持ちしねえか」
「板の話なら、ちゃんと乾かした板の方がもっと長持ちするよ」
マルタが返し、作業場に小さな笑いが戻った。
「噂を全部止めることは、できますか?」
アリアはオスカーへ尋ねた。
「無理でしょう。人の口を閉じて回るわけにはいきません」
「では、白嶺が言ったことは、分かるようにできますか?」
「荷に札をつけ、店にも同じ札を置いてもらうことはできます」
ハインツが杖を椅子へ立てかけた。
「噂は止められません。しかし、白嶺の名で何を書くかは決められます」
決めるのは、噂ではない。
白嶺が何を約束するかだ。
アリアは二冊の帳面を重ねた。
「売れる話ではなく、使える話を書きます」
* * *
最初の札は、すぐに長くなった。
「ながーい」
ノアが机へ顎を載せる。
「まだ半分です」
「余計に長い」
レクスまで同意した。
アリアは不満そうに紙を見た。熱し方、布の当て方、香りが弱い時の扱い、使った後の乾かし方まで、一つも間違えないように書いたのだ。
「店で立ったまま読むには長いでしょう」
オスカーが言う。
「なら、読まない人が出ます」
「短くして、間違えませんか?」
「間違えないために、何を先に書くかを決めるのです」
アルヴィンは、まず確かめられたことを分けた。
春待ち包みは、温めて使う。
体を温める助けになる。病気を治す薬とは約束しない。熱すぎるまま肌へ当てない。
「子供にも分かるようにしてください」
アリアが言うと、オスカーが紙から顔を上げた。
「アリア様に分かるなら、かなりの方に分かります」
「わたしより小さい子も使うかもしれません」
「でしたら、熱い包みを子供だけで使わせない、と加えましょう」
「また長くなった」
レクス・ノアの尾が、机の上を一度叩いた。
「大事なことです」
「なら、絵をつけたら?」
ノアの提案に、アリアは目を瞬いた。
熱い包みから手を離す絵。湯のそばに水差しを置く絵。白い粉の袋へ大きく斜線を引いた絵。
「文字が読めなくても、少し分かります」
「ぼく、いいこと言った?」
「はい。とても」
小さな胸が得意そうに反る。ひとつの体なので、レクスまで一緒に反らされていた。
「採用するのは構わないが、この姿勢は戻せ」
張り詰めていた住民たちの肩から、ようやく力が抜けた。
「『治りません』ではなく、『治すとは約束しません』なのですね」
「治らないと確かめたわけでもありませんから」
次は、湯だった。
白嶺の湯は、体を温め、休むための湯。痛みやこわばりが楽になった人はいるが、病気や古傷が治るとは約束しない。具合の悪い時や、湯へ入って苦しくなる時は入らない。
「倒れそうな時には入らない、も要るね」
マルタが横から言う。
「飯を抜いて長湯する馬鹿もいる。湯から出たら水も飲ませな」
書き足すと、また長くなる。
オスカーが言葉を削り、住民たちが首を捻り、ハインツが別の意味へ読めないかを確かめた。
「ハインツさんは、札を作る方だったのですか?」
「いいえ。曖昧な約束を読んで、困る仕事をしておりました」
「それなら得意だね」
グレーテがさらりと言い、ハインツは口を閉じた。
最後は、温室で使う白い粉だった。
「これは、店へ置く札ではありませんね」
「売っていませんから」
アリアは、いちばん上へ大きく書いた。
試している途中。土と量によって違う。今は売らない。
「何に使うかも書くの?」
「温室で使っていることまでは、もう町の方も知っています。でも、どこで採るかは書きません」
「どれだけあるかもだ」
レクスの声に、アリアは頷いた。
隠すためだけではない。まだ分からないものを、分かったように渡さないためだった。
三枚の札ができた頃には、窓から入る光が赤くなっていた。
文字を読めない人には、店の者が声に出す。春待ち包みには同じ短い文を結ぶ。湯の札は、共同浴場の入口へ置く。白い粉の札は温室と作業場にだけ置き、売り物ではないと皆で同じ答えをする。
札の隅には、ノアが考えた三つの絵が入った。描いたのは絵の得意な住民だったが、ノアは自分の仕事だと主張した。
「ぼくの札」
「お前は口を出しただけだ」
「大事な口だよ」
「同じ口を使っていることを忘れるな」
アリアは笑いながら、春待ち包みの札を一枚、声に出して読んだ。途中で引っかかる言葉はない。熱いまま触らないことも、病気を治すと約束していないことも、一度で分かる。
住民たちにも順番に読んでもらった。読み終えた者は、分かったことを自分の言葉で隣へ伝える。意味が変わった箇所は、もう一度短く直した。
噂が人から人へ渡るなら、本当の使い方も、人から人へ渡せる形にしておかなければならない。
「これで、噂はなくなりますか?」
アリアが尋ねると、オスカーは首を振った。
「なくなりません」
「では、失敗ですか?」
「白嶺が嘘をついたことには、なりにくくなります」
その言葉を聞いて、アリアは三枚の札をもう一度見た。
何でも治すとは書かれていない。
それでも、温かくなることも、少し楽になった人がいることも消していない。
ハインツが杖をつきながら立ち上がる。
「わたしの膝も、これなら札の外へ追い出されずに済みます」
アリアはようやく笑った。
* * *
仕事を終えた後、アリアはレクス・ノアを抱えて湯へ入った。
龍を入れると鍋になる、という噂を思い出し、少しだけ笑ってしまう。
「なに?」
「何でもありません」
湯船の縁へ前足をかけた小さな体が、ぱしゃりと尾を揺らした。ノアが喜ぶと水しぶきが増え、レクスが止めると少しだけ静かになる。
「今日、アリアは難しい顔をしていた」
ノアが言った。
「嬉しいお話を、消してしまうような気がしたのです」
「消した?」
「いいえ。ハインツさんは治っていません。でも、前より楽です」
湯気の向こうで、小さな耳が動く。
「違うのに、どっちもほんと?」
「はい。違うけれど、どちらも本当です」
「人間は面倒だな」
レクスが言う。
「お湯、気持ちいい。それでいいのに」
「外の者は、その気持ちよさを知らない。だから大きな言葉へ置き換える」
「ぼくは、気持ちいいって言うよ」
ノアの声と一緒に、また尾が湯を跳ね上げた。
アリアの頬へ雫が飛ぶ。
「それなら、間違えませんね」
湯は古傷を消さない。けれど、冷えた体を温め、眠れなかった人の夜を少し長くし、三歩しか歩けなかった人に四歩目を試す気持ちを返す。
大きな奇跡ではない。
アリアは、腕の中の温かな体を抱き直した。
小さな本当でも、人を喜ばせるには足りるのだ。
* * *
翌朝、札をつける最初の荷が出る前に、坂を上ってきた御者が小さな包みを差し出した。
「町の露店で売っていた。白嶺の物だと言うんだが、俺が前に運んだのとは違う気がしてな」
白い布袋に、若葉のような緑の印。
けれど、布は薄く、縫い目は指一本分も曲がっている。近づけると、春待ち包みにはない湿った土の匂いがした。
レクス・ノアが鼻先を寄せ、すぐに顔を背ける。
「違う」
レクスの声が低くなる。
「ぜんぜん違う匂い」
ノアも嫌そうに言った。
だが、匂いだけでは、町の人へ同じことを分かってもらえない。
アリアは包みを裏返した。
若葉に似た印はある。
開けられていないと確かめる紐は、ただ結ばれているだけだった。
そして、どこにも番号がない。
「これは、白嶺で作ったものではありません」
アリアは、偽物の包みを机へ置いた。
昨日作った三枚の札が、その向こうに並んでいた。




