第28話 高すぎる注文
「荷に問題はありません」
オスカーは、仮住まいへ入るなりそう言った。
その一言で、集まっていた者たちの肩から力が抜ける。
十二袋を送り出して三日。作業場では型に使った布が棚へ戻され、乾燥台にも普段使いの薬草が並び始めていた。斜面の休ませる区画には、採らない場所だと分かるよう細い棒が立っている。
大仕事が終わり、白嶺はいつもの暮らしへ戻りかけていた。
戻っていないのは、仮住まいの机だけだった。
三冊の帳面と余った紐、その上に、見慣れない商会の印が押された書面が載っている。
「十二袋は、約束した店へ渡しました。数も、若葉の印も、乾き具合も確かめてもらっています」
「売れそうですか?」
「先に六袋が売れていますからね。店主は心配していません」
アリアは胸を撫で下ろした。
レクス・ノアが机の端へ前足をかける。首には、斜めに押された若葉印の布がまだ巻かれていた。
「では、こっちの高い注文は?」
ノアの声が弾む。
「それを、これから話します」
オスカーが書面を裏返した。
これから白嶺で作る春待ち包みを、すべて買う。
運ぶ費用は、買う側が払う。品が売れ残っても白嶺へ返さない。袋に使う布や紐も用意でき、作り始める前に金を渡す。
そして、一袋の値は今までよりずっと高い。
「これなら、冬の布を買い足せるな」
トーマスが最初に言った。
「屋根の板もだよ。雨が入る家が、まだ三軒ある」
「釘も足りない」
「薪を早めに買えば、冬前に値が上がっても困らないね」
声が次々に上がった。
誰も、金貨を積んで眺めたいのではない。
白嶺には直したい家があり、温めたい炉があり、冬を越すために足りない物がある。
アリアにも、高い値が嬉しかった。
人の夜を削らず、薬草の花を残して作った品が、それだけよいものだと認められたように思えた。
「高いほうが、いい注文?」
ノアが、前にもした質問をもう一度した。
アリアは書面を見る。
「まだ、分かりません」
「値段のほかも聞いてから決めるとよいでしょう」
壁際の椅子に腰かけていたハインツが言った。
「この商会をご存じなのですか?」
「名は存じております。帝都にも店を持つ、大きな商会です」
「悪い店ですか?」
「悪いという話は聞きません」
それでも、ハインツは喜んでいない。
アリアがそう感じた時、オスカーが窓の外を見た。
「その話をする方が、いらしたようです」
乾いた坂道を、一台の馬車が上ってきていた。
* * *
ベルント・シュタールと名乗った男は、四十ほどに見えた。
土埃のついた上着は北方の町でも目立たない色で、靴も長い坂を歩ける丈夫なものだった。仮住まいの低い戸口をくぐる時には頭を下げ、集まった住民にも一人ずつ挨拶をする。
「白嶺商会の商会長、アリア様でいらっしゃいますね」
「はい。アリアです」
男は、子供へ合わせるように声を高くしなかった。
「春待ち包みを拝見しました。縫い目も揃い、番号があり、開けられていないことも一目で分かる。帝都でも売れる品だと考えております」
「ありがとうございます」
「ただし、帝都へ運ぶには日数も金もかかります。売れなければ、損をするのは我々です」
ベルントは、机へ硬貨を一枚置いた。
「ですから、その危険を引き受ける代わりに、白嶺で作られる分をすべて当方へお売りいただきたい」
「なぜ、全部なのですか?」
「帝都の店へ品を並べ、使い方を説明し、名を覚えてもらうには費用がかかります。同じ品が別の店へ流れれば、我々がかけた費用で、別の店が利益を得ることにもなります」
筋の通った答えだった。
買う側が大きな危険を負うなら、その分の約束が欲しい。
「白嶺の皆様は、よい品を作ることだけをお考えください」
ベルントは続ける。
「売れるかどうかを心配する必要はございません。馬車も、店も、売り手も、こちらで用意いたします」
「ぜんぶやってくれる」
ノアが囁いた。
「我々が作る以外はな」
レクスの声は低い。
アリアは書面の最初へ指を置いた。
「白嶺で薬に使う分は、先に残してもよいですか?」
「領内で必要となる量は除けます。ただ、その量は毎年、双方で相談して決めます」
「白嶺だけでは決められないのですね」
「全量を買う約束ですから、見込みの数はお知らせいただきます。採取地も、品質に問題が出た時には確かめることがあるでしょう」
熱を出した者へ残す薬草の量まで、町の外の人と相談する。そのことが、アリアの胸へ小さな石のように残った。
アリアは次の行へ指を移した。
「来年は、別のお店にも売れますか?」
「一年の契約中は、当方へ優先してお売りください」
「先にあなた方へ売って、余ったら、ですか?」
「左様でございます」
「全部買うなら、余りません」
ベルントは、わずかに笑った。
「よくお読みです」
「では、一年の間は、ほかのお店には売れないのですね」
「当方が高い値を保証する間は、ということです」
アリアはもう一度、書面へ目を落とした。
春待ち包みと、同じ薬草を用いた品。今後、白嶺商会が作る関連商品。
「これは、まだ作っていないものですか?」
「同じ薬草を使う品も、当方へ優先していただきます。似た品が幾つもの店に並べば、値を下げる競争になりますから」
「虫除けの燻し草も、まだ作るとは決めていません」
「現時点では、承知しております」
「現時点では?」
「将来、皆様が商品にすると決めた場合には、最初にお話をいただきたいという意味です」
まだ売らないと決めているもの。
まだ作るとも決めていないもの。
その先にまで、書面の細い線が伸びている。
ベルントは一度も声を荒らげていない。嘘をついた様子もなかった。
それでもアリアは、今すぐ名前を書く気にはなれなかった。
「少し、皆さんとお話ししてもよいですか?」
「もちろんでございます」
ベルントは立ち上がった。
「馬へ水をいただいてまいります。どうぞ、ごゆっくり」
戸が閉まるまで、男の礼儀は崩れなかった。
* * *
「高くて、ぜんぶおまかせ?」
ベルントが外へ出ると、ノアがすぐに尋ねた。
「何がいけないの?」
住民の何人かも、同じ顔をしている。
アリアも答えをうまく言葉にできなかった。
今日もらえる金は多い。
冬の布も、板も、釘も買える。
悪いことなど、一つもないように見えるのだ。
「ノア」
レクスが呼んだ。
「お前の餌を、毎日、一人の人間だけが持ってくるとする」
「いっぱい?」
「最初はな。だが、その者が来なければ食べられない」
「アリアにもらう」
「ほかから受け取らない約束をした後だ」
小さな翼が止まった。
「来た人が、今日は半分だと言っても、ほかからはもらえない。その者が別の龍へ全部やると言っても、お前には選べない」
「それは、やだ」
「今日たくさんくれることと、明日も選べることは別だ」
アリアは、机の上の硬貨を見た。
今日の高い値。
来年、誰へ売るかを決めること。
同じ皿へ載せてはいけない二つなのかもしれない。
「似た話を知っています」
オスカーは、全部を買う契約で織機を増やした村が、相手の値下げ後に他の買い手を失った例を話した。
「最初から、安く買うつもりだったのか?」
「そうとは限りません。高く売れる間に、別の道を残さなかったことが問題でした」
オスカーは書面を指した。
「全部を買う約束が悪いのではありません。断った後にも売れる道が残るかを、考えておくべきです」
ハインツは黙ったまま、書面を読んでいた。
「ハインツさんは、どこが気になりますか?」
アリアが尋ねると、老人は二か所を指先で示した。
「高い値が書かれているのは、一年目だけです。二年目の値は、あらためて相談することになっています」
「二年目に、安くなるかもしれない」
「高くなるかもしれません。どちらも、今は決まっておりません」
もう一つは、今後作る品についての行だった。
「まだ作っていない品まで、今日決める必要はございません」
「では、断った方がよいですか?」
「それを決めるのは、アリア様と、品を作る皆様です」
ハインツは書面から手を離した。
「危ないところがあることと、受けてはならないことは、同じではございません」
高い値で売れば、冬の備えが増える。
全部を約束すれば、売る仕事は楽になる。
その代わり、白嶺で使う分まで相談し、来年の相手を選べず、これから作るものにも先約がつく。
「一年だけなら、受けてもいいんじゃないか」
住民の一人が言った。
「冬を越すには、金が要る」
「でも来年、値を下げられたら困るよ」
「その時に断ればいい」
「断った後、誰が買うんだい」
声が重なり始めた。
どの声も、白嶺を守ろうとしている。
アリアは窓の外へ目を向けた。初夏の葉が風に裏返り、休ませる区画の棒が一本、斜面に見える。
売れるだけ採らず、また生えるだけ採る。
高い値を得られるだけ得るのではなく、次も選べる分を残す。
「全部でなくても、売れますか?」
アリアはオスカーへ尋ねた。
「数が少なければ、あの値のままにはならないでしょう」
「それでも、今までより高くなりますか?」
「交渉してみなければ分かりません」
アリアは皆を見る。
「二袋だけなら、売ってもよいですか?」
「二袋?」
「次に作れる分の中からです。白嶺で使う薬草を先に残して、ほかのお店へ売る分も残します」
冬の布を思い浮かべていた者は、少し残念そうだった。
それでも、最初に頷いたのはトーマスだった。
「二袋でも、今までより高く売れるならな」
「道を一本にしないため、か」
別の者も頷く。
全員の顔から迷いが消えたわけではない。
だが、今日の金をすべて捨てず、明日の道も塞がない。その案なら、話し合うことができた。
* * *
「一年分をすべて、というお話は受けられません」
戻ってきたベルントへ、アリアは告げた。
男の眉がわずかに上がる。
「理由を伺っても?」
「白嶺で必要な分を、白嶺で先に決めたいからです。それから、ほかのお店にも売って、どこで誰が必要としているのかを知りたいのです」
「当方を信用していただけない、と?」
「まだ、あなた方の商会をよく知りません」
アリアは、膝の上で手を握った。
「知らない方へ、これから作るものを全部お預けする約束はできません」
ベルントはしばらく黙っていた。
「正直なお答えです」
「ですが、次に作る分から二袋でしたら、お売りできます」
「二袋」
「売る数は、白嶺で決めます。新しい品は、その時にあらためてお話しします。ほかのお店へ売らないという約束はしません」
「それでは、先ほどの値は出せません」
「はい」
「布と紐の支給も、二袋では割に合わない」
「白嶺で用意します」
「輸送は?」
「オスカーさんの便へ載せます」
ベルントがオスカーを見る。
「手堅いですな」
「坂道では、手堅くない荷車から壊れます」
オスカーが答えると、男は小さく笑った。
新しく示された値は、最初より低い。
それでも、これまで店へ卸していた値より少し高かった。
「なぜ、二袋でも高いのですか?」
「品がよいからです」
ベルントは硬貨を一枚、最初の場所から少しだけ手前へ動かした。
「最初の値には、品の値と、当方だけへ売っていただく約束の値が入っていました。後ろの分を引きました」
高すぎる値の中には、春待ち包みではないものまで入っていた。
来年の売り先。
これから作る品。
白嶺が自分で決める、その権利。
「では、この二袋の分でお願いします」
アリアは、新しい値の横へ印を置いた。
ベルントも、もう一方へ商会の印を押す。
「次は、四袋をお売りいただけるよう努めます」
「わたしたちも、またお売りできる相手かを確かめます」
「それで結構です」
男は気を悪くした様子を見せず、書面を丁寧に畳んだ。
* * *
ベルントが山を下った後、アリアたちは帳面を一冊増やした。
売った品を書く帳面ではない。
誰へ売ったかを書く帳面だった。
「新しい相手は、何を確かめますか?」
アリアが尋ねる。
「店の場所」
「誰の紹介か」
「何を売っている店か」
住民たちから出た言葉を、短く並べていく。
「値段も必要だね」
マルタが言った。
「安すぎる値で売ると、作った者へ返す金がなくなるよ」
薬草を採る手。
乾かす手。
袋を作る手。
山を下る荷車。
それらに払う分を足し、次の商品を作る分も少し残す。そこより安ければ、品を売るほど誰かの働きが消えてしまう。
「これより安くしない値を、一つ決めます」
「商品ごとに、ですよ」
オスカーが付け加える。
「包みと乾燥薬草では、かかる手間が違いますから」
最後に、アリアは今日の書面を見た。
「全部を一人へ売らない」
「一回だけの注文まで、駄目にするのか?」
「いいえ。白嶺で数を決めて、その一回だけなら、皆さんで相談します」
言葉が増えそうになり、ノアが机へ顎を載せた。
「ながーくなる?」
「三つだけにします」
アリアは、新しい帳面の最初へ書いた。
相手を知る。
安く売りすぎない。
全部を一人へ預けない。
「短い」
「今度は満足か」
「うん」
ハインツは、帳面の二番目へ書かれた商会名を見ていた。
「やはり、気になるのですか?」
「この商会は、帝都の大きな穀物商とも取引がございます」
ハインツは、そこで一度言葉を切った。
「出資した者の中には、南の大貴族と縁のある者もおります」
「大きな商会と、大きな貴族にも繋がっているのですね」
「はい。ただ、それだけでベルント殿の目的までは分かりません」
アリアは、二番目の名前を消さなかった。
知らない相手だから、全部は預けない。
誰と繋がっているかだけで、悪い相手とは決めない。
その名の横へ、今回限り、二袋、と書き添えた。
* * *
初夏の日は長い。
来客が帰り、帳面を棚へ収めても、窓の外にはまだ淡い明るさが残っていた。
アリアが夕食のパンを三つに分けると、レクス・ノアは当然のように一番大きな欠片へ鼻先を寄せた。
「高いお金、いらなかった?」
ノアが尋ねる。
「いらないわけではありません」
「じゃあ、もらえばよかったのに」
「今日、たくさんいただく代わりに、明日から誰へ売るかを決められなくなるかもしれませんでした」
「明日のぶんも、自分で決めたい?」
「はい」
「餌をもらう相手もな」
レクスが言う。
「ノアはアリアからもらう」
「それは一人へ預けているのではないか」
「家族だからいいの」
「都合のよい区別だ」
アリアは笑いながら、一番大きな欠片をさらに二つへ割った。
「これは、レクスとノアで分けてください」
「一つの口しかない」
「じゃあ、ぼくが先!」
「待て。そこは相談が必要だ」
小さな体がパンをくわえ、二つの声で揉め始める。
机の上には、空になった皿と、短い三つの約束。
その二番目には、断らなかった相手の名が残っていた。
* * *
山を下ったベルントは、北方の町の宿で報告を書いた。
全量の契約は不成立。
二袋の取引は成立。
白嶺の生産量、採取地、在庫は不明。
新商品を既存の約束へ含めることも拒否。
商会長は幼いが、提示された値だけでは決めない。
数日後、短い返事が届いた。
正規の取引は続けよ。
同時に、生産量を確かめよ。
薬草以外に、白嶺が何を持つかも。
ベルントは最後の二行を読み返し、自分の報告書とは別の紙へ写した。
窓の外では、白嶺へ向かう荷車の御者たちが、宿の井戸端で話していた。
湯のこと。
春待ち包みのこと。
そして、龍を連れた小さな商会長のことを。




