第27話 十二袋を作る
薬草地の葉が、アリアの指よりも長くなっていた。
昼間は温室の戸を開けたままにしても、苗が冷えない。夕方の鐘が鳴ってからも、山の斜面には明るさが残る。
春待ち包みの手直しは終わり、布と紐も届いた。若葉の印を逆さに押した札が一枚出たけれど、出荷箱へ入る前にトーマスが見つけた。
番号のない袋を、箱へ入れる者はもういない。
白嶺商会という名前も、少しずつ町の口に馴染んでいた。
「商会長、遅れていますよ」
作業場へ続く道から、ルークスが呼ぶ。
「今、行きます」
アリアは答え、両手を前へ差し出した。
隣の石塀に、レクス・ノアが立っている。
小さな翼が開いた。
「今日は、あそこまで飛ぶ!」
ノアが作業場の戸口を見つめる。
「前回もそう言って、水桶へ落ちた」
「桶があったから平気だった」
「桶がなければ地面だ」
石塀を蹴る。
小さな体が、ふわりと浮いた。
アリアの胸の高さを進み、少しずつ下がっていく。いつでも抱き止められるように、アリアは両手を伸ばしたまま後を追った。
「もう少しです」
「届く!」
「前を見ろ。袋が――」
レクスが言い終わる前に、レクス・ノアの体は戸口の空袋へ頭から突っ込んだ。
袋の山が、ひとつ崩れる。
中から翼の先だけが出た。
「着いた!」
「着地とは認めない」
作業場で笑いが起きた。
アリアは袋を持ち上げ、小さな体を救い出す。
「前より遠くまで飛べました」
「そう!」
「落ちた事実を報酬で覆い隠すな」
アリアは笑いながら、翼についた糸くずを取った。
作業場の机では、トーマスが札の番号を読み上げ、縫い手が帳面の同じ番号へ印をつけている。その横には、若葉印の紐と、三つに分けた硬貨袋。
もう、アリアが一つずつ指を差さなくても仕事は進む。
その代わり、机の端には帳面が積まれ、壁際には布と空箱が重なり、戸口の内側には来客用の椅子まで置かれていた。
アリアが窓から顔を出すと、坂の上に黒い屋根が見えた。
窓の半分を板で塞がれた、大きな建物だった。
「あれは、何ですか?」
「昔の役人館です」
ルークスが答えた。
「今は危ないので、近づかないでください」
「危ない屋根」
「屋根だけではありませんよ、ノア」
それ以上は話さず、ルークスが机へ一枚の紙を置いた。
春待ち包み、十二袋。
数週間前から、返事を待たせている注文書だった。
* * *
「薬草は、どれくらいありますか?」
アリアはマルタへ尋ねた。
「十二袋分ならあるよ」
「白嶺で使う分を残しても、ですか?」
「採る場所を広げればね」
「布は十二枚、作れますか?」
今度は縫い手たちを見る。
「作れます」
袋の仕上げを多く受け持ってきた女が答えた。
「少し早く始めれば、間に合いますよ」
「乾かす場所は?」
「棚をもう一段使えばいい」
「乾かなかったら、夜まで火を見れば済むさ」
次々に、できるという返事が返ってくる。
十二袋は作れる。
皆の声を聞けば、そう思える。
けれど、アリアの胸には小さな引っかかりが残った。
少し早く始める。
夜まで火を見る。
採る場所を広げる。
どれも、紙の上では一行にもならない言葉だった。
「ほかの仕事は、止まりませんか?」
縫い手が、ほんの少し視線を逸らした。
「繕い物は後へ回せます。湯治のお二人へ貸した寝具も、替えをもう一組縫えば足りますから」
そう言いながら、布を押さえる。
指先に、小さな赤い点がいくつもあった。
前に見た針跡より、新しい。
「夜も縫っていたのですか?」
「夜といっても、少しです」
「どのくらいですか?」
「鐘が二つ鳴るくらいで」
「それは少しではありません」
アリアが言うと、女は困ったように笑った。
「でも、できますよ。十二袋くらいなら」
できます。
その言葉の後ろに、別の言葉が隠れていた。
眠る時間を減らせば。
ほかの仕事を待たせれば。
自分の指に、もう少し針を刺せば。
アリアは注文書を見た。
六が十二へ増えただけだ。
けれど、働く人の夜まで二倍にしてよいはずがない。
「今の作り方では、注文を受けません」
作業場が静かになった。
「作れないのですか?」
「作れます」
アリアは答えた。
「でも、次も同じ数を頼まれた時に、また皆さんが夜まで働くことになります」
「次は、もっと慣れますよ」
「その次は、二十四袋かもしれません」
「にじゅうよん!」
ノアが嬉しそうに声を上げる。
「喜ぶところではない」
レクスが切り捨てた。
戸口の向こうで、布の束を抱えたグレーテが足を止めていた。
数週間前、夫のハインツと湯治に来た老婦人である。
借り家へ鍋を届けた時、二人が引退するまで大きな商家で働いていたことを、アリアは聞いていた。夫は帳場を預かり、グレーテは店の奥で、品を包む手や住み込みの者たちをまとめていたという。
「何かお気づきになったら、教えていただけますか?」
そう頼んだアリアへ、グレーテは少し考えてから答えた。
「尋ねていただけた時には」
今、その時が来たらしい。
「お返しに来ました」
借り家で使っていた包み布らしい。洗って乾かされ、きれいに畳まれている。
グレーテは布を机へ置くと、縫い手の指を一度見た。
「少し、よろしいですか」
アリアは頷いた。
「お願いします」
グレーテは完成した袋を手に取った。
「この袋を作る時、最初から最後まで、同じ方がなさるのですか?」
「その方が、揃いますから」
縫い手が答える。
「布を測るのも?」
「はい」
「裁つのも、紐を通すのも、印を確かめるのも?」
「全部です」
グレーテは袋を裏返し、口元の縫い目を指でなぞった。
「一度できることと、続けられることは違いますよ」
静かな声だった。
「上手な人へ全部頼むから、上手な人から倒れるのです」
縫い手の顔が強張った。
「ほかの者に任せて、同じ形に揃いますか?」
「最初の形と、最後の確かめを、あなたにお願いしたいのです」
グレーテは袋を表へ返した。
「まっすぐな線を引くことと、口元を丈夫に縫うことは、同じ難しさではありません。布を測る手まで、難しいところを縫える方の手である必要はないでしょう」
「仕事を分けるのですか?」
アリアが尋ねた。
「分けられるところがあるか、皆さんで確かめるのです」
グレーテは微笑んだ。
「あなたにしかできない仕事へ、あなたの手を使うために」
縫い手は、自分の指を見た。
すぐには頷かなかった。
代わりに、机の上の布を一枚取る。
「では、まず測るところからです」
* * *
最初の一枚は、見事に曲がった。
「線の通りに裁ったぞ」
トーマスが言う。
「その線が曲がっているんだよ」
マルタに言われ、肩を落とした。
布の上へ定規を当てるだけでは、端が少しずつずれる。そこでグレーテが、古い丈夫な布を二枚重ね、完成した袋と同じ形に裁った。
「これを上へ置いて、縁をなぞりましょう」
「型にするのですね」
アリアが言う。
「はい。最初の形を作るところは、上手な方にお願いします」
縫い手が型の端を直し、角を少し丸くした。
「ここは尖らせると、縫う時に布が寄るよ」
次の線は、まっすぐ引けた。
直線部分は、簡単な繕い物のできる者が縫う。口元の補強と最後の仕上がりは、いつもの縫い手たちが確かめる。
紐は、一本の見本と長さを揃えて切った。
それでも一本だけ、指二本分も短い。
「誰ですか、これを切ったのは」
ルークスが尋ねる。
紐を切り揃えるあいだ、ずっと机の端から見ていたレクス・ノアへ、皆の目が集まった。
「我々には刃物を使える指がない」
「でも、見てた!」
「目撃者だそうです」
アリアが言うと、また笑いが起きた。
若葉の印を押す段になると、ノアが前足を上げた。
「ぼく、できる」
「商品には押させられない」
「一回だけ、試し布へ押してみますか?」
アリアが尋ねる。
「アリア」
レクスの声に疑いがある。
「試すだけです」
印に色をつけ、レクス・ノアの小さな前足で上から押す。
布をめくる。
若葉は、斜めになっていた。
「若葉、風にゆらゆら~」
「失敗しただけだ」
「商品には使えません」
アリアが言うと、小さな翼がしゅんと下がった。
「ですが、わたしたちのものにはできます」
細く畳んで、レクス・ノアの首へ巻く。
斜めの若葉が、喉元に収まった。
「ぼくの印」
「不採用品だ」
そう言うレクスも、外そうとはしなかった。
* * *
アリアが最初から使ってきた帳面には、注文した袋の数も、使った布と紐も、働いた者の名も、売れた代金も書いてあった。
一冊を開けば、全部ある。
アリアには、どこに何を書いたか分かっていた。
けれど仕事を分けると、帳面を見る者も増えた。布を測った者は残りの布を探し、縫った者は自分の仕事を探し、代金を分ける者は支払いの済んでいない名を探す。
同じ頁を三人でめくり、別々の行を指で追う。
アリアは空いたところへ小さな字で書き足そうとしたが、一頁の半分で欄が足りなくなった。
「横へ書けば入ります」
「次の注文もですか?」
ルークスに尋ねられ、アリアの手が止まる。
「紙を継ぎ足す?」
「帳面が蛇のようになるぞ」
窓の外にいたハインツが、声を立てずに笑った。
今日は杖を壁へ立てかけ、借り家の前を数歩だけ歩いてきたらしい。作業場へ入る時には、また杖を持っていた。
「ハインツさんなら、どうなさいますか?」
アリアから尋ねると、老人は机へ近づいた。
「今の帳面が間違っているわけではありません」
「では、このままでも?」
「十二袋までは」
前にも聞いたような言い方だった。
「二十四袋になったら?」
「誰へ返す金で、何に使ってよい金で、まだ払っていない仕事がどれか。アリア様が全部覚えておられる間は間違いません」
「覚えられなくなったら、間違えます」
「ですから、忘れても間違えない形にします」
ハインツは三つの硬貨袋を指した。ただし、触れはしない。
「金を三つに分けたのなら、帳面も分けてはいかがでしょう」
売れた品と戻った金を書く帳面。
誰が何をして、誰へ返すかを書く帳面。
皆のために残した金と、使い道を書く帳面。
「三つ」
ノアが言った。
「きらきらと同じ」
「用途が同じだからな」
新しい帳面が二冊、棚から出された。
けれど、どの順に何を書くかは、ハインツが決めなかった。
「作業の名前は、短い方が見やすいです」
縫い手が言う。
「布を測るのと裁つのは、同じ印でいいんじゃないか」
「別だよ。あんたの曲がった線を忘れたのかい」
マルタに言われ、トーマスが口を閉じた。
字が苦手な者にも分かるように、布、針、紐、葉、棚の小さな印を使う。名前の横へ、仕事の印をつける。
アリアが書くのではなく、実際に作業した者が一つずつ選んだ。
「これなら、忘れても分かります」
「忘れることを恐れなくてよい帳面は、長く使えます」
ハインツはそう言って、杖を取り直した。
* * *
薬草地は、初夏の匂いで満ちていた。
冬には地面へ張りついていた葉が、今はアリアの足首を隠すほど伸びている。ところどころに、小さな花芽が立っていた。
「この辺りだけで、十二袋分は採れます」
採取を担当する男が、斜面の先を示した。
「あちらまで行けば、もっと早い」
「今年はね」
マルタが言った。
男が振り返る。
「来年は、そこに何が生えるんだい」
マルタは一つの株を指した。
外側の葉は大きい。中央には、これから伸びる若い葉が重なっている。
「根ごと抜けば、早い。大きい葉を全部取っても、今年は足りる。花を咲かせる場所まで刈れば、もっと売れる」
「でも、来年は減るのですね」
「来年だけじゃないよ。白嶺で熱を出した者に使う分もなくなる」
アリアは、注文書を開いた。
十二という数は変わらない。
けれど、薬草地を見た後では、その周りに別の数が見えた。
白嶺で薬にする分。
根を残す株。
花を咲かせる株。
種を落とす場所。
「売れるだけ採るのではなく、また生えるだけ採ります」
「そういうことだね」
マルタが頷いた。
アリアは採取担当者たちと、四つだけ決めた。
白嶺で薬として使う分を、先に残す。
根ごと抜かない。
同じ場所から続けて採りすぎない。
花と種を残す区画へ入らない。
立派な地図はない。
薬草地を三つに分けた簡単な絵へ、採った場所の番号をつけることにした。
「売れるだけではなく、また生えるだけ」
アリアは、忘れないように口にした。
「来年も商売するならね」
マルタの声に、花芽が小さく揺れた。
* * *
十二袋を作るのに、五日かかった。
朝、採取担当が番号札を持って薬草地へ向かう。
戻った葉を選り分け、乾燥棚へ並べる。
型に沿って布へ線を引き、裁ち、直線を縫い、口元を補強する。
紐を通し、若葉の印をつけ、番号を読み上げる。
四日目に雨が降った。
薬草の乾きが遅れ、予定していた箱詰めに間に合わなくなる。
「夜まで火を見れば、明日の朝には」
乾燥担当が言った。
アリアは首を振る。
「出す日を、一日遅らせます」
「注文の日に遅れます」
「濡れたものを入れるより、一日遅れる理由を書きます」
オスカーへの紙には、雨で乾燥が遅れたことと、新しい出発日だけを書いた。
誰かの夜を削ったことは、書かずに済んだ。
六日目の朝。
作業場の机へ、十二袋が並んだ。
一列には収まらず、六つずつ二列。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう、じゅういち、じゅうに」
ノアが数える。
「もう一回!」
「なぜだ」
「十二、好き」
「数え直すと同じ袋を二度数える。やめろ」
レクスの忠告は遅かった。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう、じゅういち、じゅうに、じゅうさん!」
「増えた」
アリアが笑う。
「増えていない」
帳面の番号と、一袋ずつ照らし合わせる。
十二袋。
前の倍。
けれど、縫い手の指に新しい針傷は増えていない。
乾燥棚の前で夜を明かした者もいない。
薬草地には、花をつける株が残っている。
「これなら、次も作れますか?」
アリアは縫い手へ尋ねた。
女はすぐに答えなかった。
布を測った者、裁った者、直線を縫った者、紐を揃えた者、薬草を採った者、乾かした者を見る。
一人ずつが頷く。
「はい。この作り方なら」
作業・支払帳へ、それぞれの仕事の印をつけた。
袋を作った人は、一人ではない。
薬草を包みにした人も、一人ではない。
だから、戻る代金も、実際に働いた手へ分ける。
「私の取り分が減ったわけじゃないんですね」
仕上げを担当した縫い手が、帳面を見て言った。
「はい。していない仕事の分が、した方へ戻るだけです」
「前は、全部していたから、全部受け取った」
「今回は、教えた分と、難しいところと、最後に確かめた分です」
女は自分の欄を見つめ、ゆっくり頷いた。
「次は、もう一人、仕上げを覚えられるかもしれません」
グレーテは何も言わず、嬉しそうに布の端を畳んだ。
* * *
その夜、ハインツ夫妻の借り家には、豆と干し肉を煮た匂いが満ちていた。
グレーテが鍋を洗う間、ハインツは便箋を一枚広げる。
湯へ通ううち、杖なしで歩ける距離が少し伸びたこと。
持ち込んだ食料と、白嶺で買った豆で、グレーテが久しぶりに昔の煮込みを作ったこと。
町では今日、皆で作った十二の包みが机へ並び、ずいぶん賑やかだったこと。
最後に、もうしばらく夫婦で滞在したいと書いた。
「湯は、まだ効きそうですか」
グレーテが尋ねる。
「急いで治ったら、せっかくの煮込みを食べ損ねる」
「明日も同じですよ」
「なら、明日も治らないことにしよう」
便箋は、湯治場から届く、ごく普通の近況の顔をして折り畳まれた。
* * *
翌朝、十二袋を入れた箱が荷車へ積まれた。
前回より大きな箱だった。
作業場には、夜業明けで眠る者はいない。
棚には三つの帳面。
薬草地には花。
レクス・ノアの首には、斜めの若葉印。
「十二袋できた!」
「我々の印は一つも採用されなかったがな」
「商品ではありませんから」
「ぼくのは?」
「ノアのです」
ノアは満足そうに胸を張った。
その時、坂の下からオスカーの馬車が上ってきた。
「間に合いましたか」
荷車の箱を見て、オスカーが笑う。
「一日遅れました」
「理由は読みました。先方も了承しています」
アリアは息をついた。
オスカーは、もう一通の書面を差し出した。
「こちらは、今回の十二袋とは別の申し出です」
これから白嶺商会で扱い、白嶺が外へ売ってよいと決めた薬草商品――春待ち包みを、今後まとめて買い取りたいと書かれている。
提示された値は、これまでより明らかに高かった。
「高いほうが、いい注文?」
ノアが尋ねた。
近くにいたハインツが、差出人の商会名を見る。
ほんの一瞬だけ、その目が止まった。
「値段だけなら、よい注文に見えますな」
「値段だけなら?」
アリアが聞き返す。
ハインツは答える前に、もう一度、商会名を確かめた。
十二袋を作る方法は決まった。
次に決めなければならないのは、誰へ売るのかだった。




