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龍と廃嫡皇女のシェアハウス  作者: 三連九
第3章 白嶺の再始動
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第26話 六袋の代金

 山道の日陰から、最後の雪が消えていた。


 春待ち包みを送り出した頃には雪の下に隠れていた道端から、今は細い草が伸びている。屋根から落ちる雫はいつしか止まり、朝ごとに聞こえていた雪解け水の音も小さくなった。


 白嶺でも、若葉の封印と袋の番号を確かめる作業は、もうアリアが一つずつ言わなくても行われていた。


 手直しした三袋は、縫い手とトーマスが帳面を見ながら確認した。アリアは最後に札だけを受け取った。


 すべてが順調だったわけではない。


 春の雨が続いて薬草は二日も乾かず、ようやく乾いた時には同じ布が足りなくなった。次の袋はまだ一つも完成していない。


 共同浴場の外では、冬のあいだ雪に埋もれていた木椅子が乾かされていた。薬草地には小さな花がつき始め、夕方になっても山の端が明るい。


 春が、初夏へ近づいていた。


 その日の昼前、オスカーの荷馬車が坂を上ってきた。


「箱が戻っています」


 ルークスの声に、アリアは仮住まいから駆け出した。


 荷台には、春待ち包みを入れた木箱がある。


 蓋には、白嶺でつけた小さな若葉の印。


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


「売れなかったのですか?」


 オスカーは答えず、箱を荷台から下ろした。


 蓋を開ける。


 中に、春待ち包みは一つもなかった。


 代わりに入っていたのは、小さな革袋と、折り畳まれた紙が数枚。


「六袋、すべて売れました」


 アリアは箱の中を見たまま、言葉を失った。


 足元で、レクス・ノアの体がぴんと伸びる。


「ぜんぶ!」


「六個だ」


「ぜんぶ!」


 ノアの声が白嶺の通りへ響いた。


 近くにいた者が何事かと振り返り、空箱とオスカーの顔を見て、少しずつ笑い出す。


 六袋。


 大きな商売ではない。


 それでも、知らない誰かが、白嶺で作ったものへ代金を払った。


 白嶺から出ていった品物が、代金と感想を連れて戻ってきた。


 喜ぶより先に、次も同じように届けられるかを考えていた。


* * *


 オスカーが預かってきた紙には、春待ち包みを買った人の感想が書かれていた。


「香りが穏やかで、湯へ入れると体が温まった」


 ルークスが読み上げる。


「袋が丈夫だった。使い方の札が分かりやすかった。春待ちという名を覚えやすかった」


「春、覚えた」


 ノアが嬉しそうに言う。


「名称の役割は果たした」


「お風呂ぽちゃん商会でも、覚えた?」


「違う意味でな」


 何人かが笑った。


 アリアは、次の紙を受け取った。


「こちらは、少し違います」


 オスカーが言う。


 紙には、こう書かれていた。


 中身が見えないので、最初は少し怖かった。


 アリアの指が止まる。


「怖かったのですね」


「知らない土地の、知らない品です」


 オスカーは穏やかに答えた。


「警戒するのが普通です」


「では、買わなかったのですか」


「買いました。若葉の封印が開いていないこと、番号が帳面と合うこと、使い方の札があることを店主が説明しました」


 紙の続きへ目を落とす。


 一度使ってみれば、穏やかな香りだった。また見かけたら買いたい。


 アリアは、そっと息を吐いた。


「十袋を出していたら、どうなっていたでしょう」


 乾きの甘い袋。


 茎の多い袋。


 細かすぎる薬草がこぼれる袋。


 そして、刺激の強い一袋。


「一つでも使い心地が違えば、次の注文はなかったかもしれません」


 オスカーの言葉に、マルタが腕を組んだ。


「六つに減らしたのは、間違いじゃなかったってことだね」


「はい」


 アリアは感想の紙を胸元へ引き寄せた。自然と口元がほころびた。


 十袋を六袋へ減らした時、机の上にできた隙間を覚えている。


 あれは、失った場所ではなかった。


 知らない人が安心するために空けた場所だったのだ。


* * *


 革袋の口を開けると、硬貨が机の上へ転がった。


 小さな音が、いくつも重なる。


 店で売った分、オスカーの運賃、包みに使った布と紙の費用は、すでに別の紙へ書かれている。


 今、机にあるのは、それらを除いて白嶺へ戻ってきた分だ。


 アリアは硬貨を一つの山へ集めた。


「これで、共同倉庫を直せます」


 乾燥棚の一部は、冬の間に板が反っていた。屋根にも補修したい場所がある。


「待ちな」


 マルタの手が、硬貨の山の前へ出た。


「薬草を採った者の分はどうするんだい」


 アリアの指が止まる。


「薬草は、白嶺の山に生えていたものです」


「山から勝手に歩いて袋へ入ったのかい」


「それは……」


 トーマスが困ったように頭を掻いた。


「俺は要らんぞ。余ってた草だ。採って運んだだけだ」


 袋を縫った女も首を振る。


「私だって、いつもの針仕事をしただけだよ。白嶺のためなら、お金なんて」


「あたしも同じさ」


 マルタは言った。


「草を選ぶのは、前からやってる」


 皆で作った品だ。


 ならば、戻った金も皆のために使う。


 アリアには、それが正しいように思えていた。


「今は、それでも回ります」


 オスカーが静かに言った。


「人数が少なく、誰が何をしたか、皆が知っています。何より、皆さんは白嶺のためなら無償でよいと思っている」


「何が悪いんだ」


 トーマスが尋ねる。


「人が増えても、同じでしょうか」


 オスカーは硬貨へ触れずに続けた。


「商品が増え、作る方と売る方が離れた時も、白嶺のためだから無償で、と頼み続けますか」


 誰も答えなかった。


「良い人でなければ参加できない仕組みは、弱い仕組みです」


 アリアは硬貨の山を見た。


 帝城では、食事が決まった時刻に運ばれてきた。


 服は季節に合わせて用意され、湯浴みの布も、寝台の敷布も、必要な時にはそこにあった。


 誰が糸を紡いだのか。


 誰が夜まで縫ったのか。


 誰が重い籠を運んだのか。


 ほとんど知らなかった。


 白嶺へ来てから、物の向こうに人の手が見えるようになった。


 土のついたトーマスの手。


 針跡の残る縫い手の指。


 薬草を揉み、香りを確かめたマルタの手。


 それを、皆のためという言葉で見えなくしてはいけない。


 アリアは硬貨の山を崩した。


「トーマスさん」


「本当に要らんぞ」


「薬草を採って、運んで、乾かしてくださいました」


 硬貨を少し分ける。


「袋を縫ってくださった分も、お返しします。六つを、同じように使える袋にしてくださいました」


 縫い手の前にも、硬貨を置く。


「マルタさんは、売ってよい草を選び、使い方を確かめてくださいました」


「口を出しただけさ」


「その口がなければ、売れませんでした」


 マルタが黙り込む。


「働いてくださった分を、なかったことにはしません」


 アリアは硬貨から手を離した。


「受け取ってください」


 トーマスは困った顔でマルタを見る。


「アリア様がこう言ってるんだ。受け取りな」


「あんたもだろ」


「あたしは後でいい」


「同じです」


 アリアが言うと、広間に小さな笑いが起きた。


* * *


 売上は、作った人へ返す分、次の商品を作る分、皆で使う分の三つの皿へ分けた。


 硬貨を移すたび、澄んだ音が鳴る。


「きらきら、三つ」


 レクス・ノアが机の下から覗き込んだ。


「用途が違う」


「こっちは、草の人」


「生産者への返金だ」


「こっちは、次の袋」


「生産費」


「こっちは、みんな」


「共同で使う分だ」


 ノアの言葉の方が短く、アリアには分かりやすかった。


「誰のためのお金か、分からなくならないようにします」


 三枚の小札を、それぞれの皿の前へ置いた。


「では、その帳面は誰が持ちます?」


 ルークスに尋ねられ、アリアは自分の膝の上へ帳面を引き寄せた。


「私が――」


「アリア、ねむい」


 ノアの声がした。


「眠くありません」


「昨夜、筆を持ったまま止まっていた」


 レクスが続ける。


「考えていただけです」


「目を閉じてかい」


 マルタが尋ねた。


 アリアは反論できなかった。


 昨夜、見回り当番と試験用の白い粉の帳面を並べたところまでは覚えている。


 目を開けた時、頬に紙の跡がついていた。


「物資の在庫、第1坑、白い粉、薬草、オスカーさんとの手紙、見回り記録」


 ルークスが指を折る。


 第1坑の帳面には、替えた支柱、泥をさらった排水溝、入ってよい位置を示す印が、作業の日ごとに増えていた。入口から先へ進める範囲はわずかに延びたが、まだ石を掘る段階ではない。


 その確認までアリアが毎晩抱えていた。


「そこへ預かった商品と売上と費用を足したら、アリア様の机から帳面があふれます」


「棚を増やせば」


「そういう話じゃないよ」


 マルタに止められた。


「棚ではなく、人の役目を増やしましょう」


 オスカーが、新しい帳面を一冊、三つの皿の横へ置いた。


「共同販売を続けるなら、品物を預かり、外へ運び、代金を返すまでを受け持つ、まとまった組織が要ります。誰か一人が夜中まで帳面を抱えなくてすむように、役割を分けた組織です」


 アリアは新しい帳面と、自分の膝にある帳面を見比べた。


「皆さんで、商会を作るということですか」


「はい。作るかどうかも、皆さんで決める商会を」


 広間が静かになった。


 最初に頷いたのはトーマスだった。


「作ろう。次も売るなら、誰が何をするか決まってた方がいい」


「賛成だよ。九つの頭で考えて、帳面だけ一人に背負わせるんじゃ意味がない」


 マルタが言い、縫い手たちも頷いた。


 アリアは三つの皿を見た。お金の行き先を分けたのに、帳面だけ自分へ集めたら、また分からなくなる。


「皆さんと、作りたいです」


 その言葉を口にするまで、少しだけ勇気が要った。


* * *


 役割は、紙の上で一人ずつ確かめた。


 アリアは売るものを決める。袋の数は縫い手とトーマスが確認し、薬草と農産物の状態はマルタが見る。輸送と男爵家への連絡はルークスが担う。アルヴィンは危険性と試験品、オスカーは販売先と市場の様子を確かめる。


 帳面と硬貨は、その日に品を預けた者とアリアが一緒に確認する。


「私にも販売判断を任せていただければ、研究に必要な資金を効率よく――」


「全部試したがる奴に、売るかどうかは決めさせられないよ」


 マルタが言った。


「研究にも利益は必要です」


「急に商人みたいな顔をするんじゃない」


 アルヴィンが眼鏡を押し上げる。


「私は以前から研究費の不足を訴えています」


「それを商人の顔と言うんだよ」


 笑いが広間へ戻った。


「この帳面に、何と書きましょう」


 これまでは、共同販売の帳面、アリアへ預ける帳面、白嶺の売り物の紙と、呼び方が決まっていなかった。


「ぽかぽか商会」


 ノアがすぐに提案した。


「却下だ」


「みんなのきらきら商会」


「さらに却下だ」


 アリアは帳面の表紙を見た。


「白嶺商会、ではいけませんか」


「そのまんまだね」


 マルタが言う。


「はい。そのままがいいです」


 白嶺そのものを売るのではない。


 白嶺で作ったものを預かり、山の外へ届けるための名前。


 飾った言葉より、場所の名がよかった。


「では、商会長はアリア様ですね」


 オスカーが当然のように言った。


 アリアは固まった。


「私ですか?」


「ほかにいるかい」


 マルタが尋ねる。


「マルタさんは」


「薬草と野菜を見るだけで手いっぱいだよ」


「ルークスは」


「男爵家との連絡と輸送をします。商会長まで引き受けたら、父に白嶺を乗っ取る気かと叱られます」


 トーマスが肩をすくめた。


「俺たちが品を預けてもいいと思ったのは、アリア様だからだ」


「でも、私は商売がわかりません」


「知ってるよ」


 マルタの返事は早かった。


「分からないことが、たくさんあります」


「それも知ってる」


「間違えるかもしれません」


「その時は直せばいい」


 アリアは眉を寄せて皆を見回した。


 男爵家が連れてきた、身分の高そうな子。


 最初は、そう見られていた。


 けれど今、皆が見ているのは、白嶺へ来てからのアリアだった。


 物資を数えたこと。


 温室で土に触れたこと。


 坑道を急いで掘らなかったこと。


 失敗を誰か一人へ押しつけなかったこと。


 十袋を六袋へ減らしたこと。


「一人で決めず、一人で背負わないために、商会にするのです」


 オスカーが言った。


 アリアは、膝の上の帳面を机へ戻した。一つ息をつく。


「では、お預かりします」


 表紙に手を置く。


「皆さんの品物と、白嶺の名前を」


* * *


 アリアは帳面の表紙へ、一文字ずつ大きく書いた。


 白嶺商会。


 最初の頁に書く約束は、四つだけだった。


 預かった品物を、勝手に自分のものにしない。


 売れた数と代金を隠さない。


 働いた人へ、働いた分を返す。


 白嶺で暮らす分を、売る分より先に残す。


 品質の決まりと、外へ出さない秘密の紙は、前に作ったものを帳面へ挟んだ。


 同じ説明を、もう一度書き直すことはしなかった。


 集まった者は、名前を書き、字が苦手な者は自分の仕事を表す印をつけた。


 トーマスは薬草の葉。


 縫い手は針。


 マルタは、土から出た芽。


 レクス・ノアが帳面へ前足を伸ばした。


「おてて印!」


「我々は生産者ではない」


「見守ってくれてますよね」


 アリアが口元を崩しながら言うと、小さな前足が帳面の端へ押された。


 薄くついた土が、四本の指と掌の跡を残す。


「印」


 ノアは満足そうだった。


「汚れだ」


 レクスはそう言ったが、前足を拭こうとはしなかった。


 オスカーが、もう一枚の紙を取り出す。


「そして、こちらが次の注文です」


「次?」


「春待ち包み、十二袋」


 広間がどよめいた。


 六袋の倍だ。


 さらに、小さな袋や、虫除けに使える燻し草も見たいと書かれている。


「できます」


 誰かが言いかけた。


 アリアは注文書を両手で持った。


 薬草は、どれほど残っているか。


 白嶺で使う分は足りるか。


 乾燥棚は、雨が続いても使えるか。


 布と紐は、十二袋分あるか。


 確かめなければならない。


「作れるか、先に確かめます」


 喜びかけた空気が、一瞬止まる。


 オスカーは笑った。


「よい答えです」


 薬草地には、もう花がつき始めている。


 採れるからといって、全部を採ってよいわけではない。


 十二という数より先に、残すべきものを数える。


 アリアは注文書の裏へ、残す薬草、使う棚、必要な布と紐の欄を作った。十二袋を作れるかどうかは、その欄を一つずつ確かめてから決める。


* * *


 広間の外から、馬車の音が聞こえた。


 今日二台目の荷馬車だった。


 ルークスが戸口へ出て、しばらくして戻ってくる。


「男爵領を経由して、滞在を希望する方が二人来ています」


「滞在?」


「湯治だそうです」


 外へ出ると、杖をついた老人と、荷物を抱えた老婦人が立っていた。


 老人は背筋を伸ばそうとしているが、馬車から降りたばかりの腰をかばっている。老婦人は丈夫そうな旅鞄を二つ持ち、そのうち一つを御者から受け取った。


「ハインツと申します」


 老人が丁寧に頭を下げる。


「こちらは妻のグレーテ。白嶺の湯が、古傷によいと聞きまして」


「遠いところを、よくお越しくださいました」


 アリアも頭を下げた。


「私はアリアです」


「存じております。男爵家から、白嶺ではアリア様へ話を通すようにと」


 それ以上、ハインツは何も言わなかった。


 グレーテの視線が、開いた戸の向こうへ一度だけ向く。


 三つの硬貨皿。


 新しい帳面。


 十二袋の注文書。


 けれど、何も尋ねなかった。


「しばらく、お世話になってもよろしいでしょうか」


「はい」


 ハインツは杖へ体重を預けている。


 グレーテの指も、鞄の持ち手を強く握っていた。


 長い坂を上ってきたばかりなのだ。まず、荷物を置ける部屋が要る。温かいものも食べてもらいたい。


 それに、湯治というのは、きっと湯へ一度入れば終わるものではない。


「お部屋をご用意します。お荷物を置いたら、まずはお湯で休んでください。お食事も、すぐにお願いしてきます」


 老夫婦が、一瞬だけ顔を見合わせた。


 グレーテの目元が、わずかに柔らかくなる。


「よい土地ですな」


 ハインツが言った。


 ルークスが首を傾げる。


「まだ着いたばかりですよ」


「疲れた人へ、先に休めと言える場所は、よい土地ですよ」


 グレーテはそう答えた。


 共同浴場の方角から、白い湯気が流れてくる。


 老夫婦は案内役の住民と一緒に、ゆっくり通りを歩き始めた。


 ハインツの杖が石畳を叩く。


 こつん。


 こつん。


 春より長くなった夕方の光の中へ、二つの背中が入っていった。


 広間へ戻ると、三つの皿には硬貨が分かれ、新しい帳面の表紙には白嶺商会の文字がある。


 その端には、小さな龍の前足跡。


「お店できた?」


 ノアが尋ねた。


 建物はない。


 棚も、看板もない。


 あるのは、硬貨と帳面と、皆で決めた約束だけ。


「はい」


 アリアは頷いた。


「まだ小さいですが、できました」


「形は後からついてくる」


 レクスが言う。


 窓の外では、共同浴場の湯気が初夏の明るい空へほどけていた。


* * *


 夜。


 湯から戻ったハインツは、旅鞄から便箋を一枚取り出した。


 グレーテが灯りを寄せる。


 ハインツは、白嶺へ無事に着いたことを書いた。


 長い坂は骨身にこたえたが、湯へ入ると、腰のこわばりが少しほどけたこと。


 グレーテは、持ってきた食料を明日の朝から自分で煮るつもりでいること。


 それから、到着したばかりの二人へ、アリアが部屋と湯と食事を先に用意してくれたこと。


 最後に、一行だけ書き添えた。


 姫様は、品物より先に人を休ませました。


 書き終えた便箋は丁寧に折られ、明日、帝都方面へ戻る御者へ託されることになった。


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