第34話 空に近い昼食
「まだ?」
朝の光が差す部屋で、ノアが三度目の催促をした。
戸口には、小さな弁当籠が置かれている。壊れていた持ち手をゲルハルトが直してくれたもので、古い蔓と新しい蔓の色が途中で変わっていた。
その隣には水筒と敷物。出かける支度は、もうできている。
できていないのは、アリアだけだった。
「もう少しです」
机に向かったまま、修繕依頼帳を一頁めくる。
今日は仕事をしない。
そう決めたのは自分である。けれど朝になってみると、共同倉庫の窓板が気になった。ゲルハルトへ頼む木の寸法だけ、確かめておいた方がよいのではないか。
それを書こうと筆へ手を伸ばす。
「昨日も、同じことを言っていた」
レクスの声が飛んだ。
「昨日は、今日の準備をしていたのです」
「今日は、明日の準備か」
アリアの手が止まる。
「お弁当、古くなる?」
ノアの心配は、そちららしい。
「今日のうちなら大丈夫です」
「じゃあ、今日が終わる前に行こう」
「それでは、お昼に間に合いません」
「大問題」
小さな尾が、床を二度叩いた。
そこへ、開いていた戸からルークスが顔を出した。手には、仮相談所へ持っていく札の束がある。
「アリア様。今日の受付は、ハインツさんと僕で見ます。急ぎの用があっても、戻られてからで間に合うものは明日へ回します」
「ですが、分からないことがあったら」
「そのために、私たちがいます」
柔らかな声だったが、帳面を受け取る手は引かなかった。
アリアは開いた頁を見る。
まだ何も書いていない。
それなのに、閉じるには少し力が要った。
ぱたん。
帳面の表紙が合わさる。
ルークスへ渡すと、腕が急に軽くなった。空いた手を見ていると、ノアの意識に引かれた小さな体が弁当籠の横で跳ねる。
「行く?」
「はい」
「どこへ行かれるかは、もうお決まりですか?」
ルークスに尋ねられ、アリアは窓の向こうへ目を向けた。
家々の屋根のさらに向こう。草の色をした尾根が、夏の空の下へ伸びている。
「夏見台へ、行ってみたいです」
「よい日です。午後は風が少し出ますから、敷物だけ飛ばされないようお気をつけください」
「分かりました」
「帳面も飛ばされる」
レクスが言う。
「持っていきません」
「小さい紙は?」
「それも、持っていきません」
「よし」
どうしてレクスに確認されているのだろう。
少しだけ納得できなかったが、ノアがもう戸の外へ首を伸ばしている。
アリアは弁当籠を持ち上げた。
三人の休日が、ようやく始まった。
* * *
「重い」
集落を出たところで、レクスが言った。
「そうですか?」
「三人分ではない。五人分だ」
「飛ぶから、お腹が空く」
ノアが胸を張る。正確には、小さな胸がぐっと前へ出た。
「飛んでから言え」
弁当籠の中には、平焼きパンと燻製肉、柔らかなチーズが入っている。茹で卵と豆を包んだ焼き物もある。昨夜、ノアが籠をのぞくたびに一つずつ希望を増やした結果、蜂蜜を塗った焼き菓子まで重なっていた。
「ぼくが運ぶ」
「口でですか?」
「浮いたら、足はいらないよ」
「籠は浮かない」
「ぼくが浮かせる」
言い切った声に、小さな翼まで得意そうに開く。
道の脇には、丈の低い草が広がっていた。石も少なく、転んでも土の上である。アリアは少し考えてから、籠を地面へ下ろした。
「少しだけです。傾いたら、すぐ下ろしてください」
「うん!」
レクス・ノアは持ち手を口にくわえた。
四本の足が地面へ揃う。翼は半ば開き、尾はまっすぐ後ろへ伸びた。
「上だ」
レクスの声は、持ち手をくわえた口の奥で少しくぐもる。
小さな体が、ふわりと浮いた。
前足の爪が、草の先から離れる。
籠も一緒に持ち上がった。
アリアは思わず両手を伸ばしたが、まだ触れない。地面から指二本ほどしか離れていなかった。
「前へ。いや、右が下がっている。尾を左へ。翼は――」
レクスの指示が続く。
小さな体は右へ傾き、左へ戻り、今度は尻尾だけが大きく振れた。ノアの意識が前へ出ようとしたのか、籠が急にアリアの膝へ近づく。
そして、その場でくるりと半回転した。
「止まってください」
四本の足が、ばらばらに草へ着く。
籠は倒れなかったものの、中から卵の転がる音がした。
持ち手を離したレクス・ノアが、籠へ鼻先を寄せる。
「お弁当、生きてる?」
「おそらく」
「おそらくでは困る」
レクスの声も、少しだけ不安そうだった。
アリアが蓋をそっと開ける。卵が片側へ集まっていたが、割れてはいない。
「大丈夫です」
「もう一回」
「今は歩きましょう。お昼になる前に、全部が片側へ集まってしまいます」
ノアは不服そうに鼻を鳴らした。
けれど、籠を持つアリアの横へ、小さな体は素直に並んだ。
* * *
集落の屋根が木々の向こうへ隠れると、人の声も遠くなった。
代わりに、細い沢の音が近づく。雪解けの頃より水は少なく、丸い石の間を冷たい流れが走っている。
アリアたちは沢辺で一度休んだ。
水筒の薬草茶を飲み、小さな体にも浅い皿で水を出す。ノアは鼻先まで濡らして飲み、レクスが何も言わないので、そのまま二度目も鼻を入れた。
「さっき、いっぱい言われた」
顔を上げたノアが言った。鼻先から雫が落ちる。
「必要な修正だ」
「右、左、上、尾、翼、前、止まれ」
「全部違っていた」
「全部を動かさないで」
小さな体が、ぶるりと水を払った。アリアの裾にも雫が飛ぶ。
「では、落ちる前には我が止める」
「落ちないところは、ぼく」
「危険を感じたら我だ」
「楽しいところは、ぼく」
「それは役割ではない」
「役割だよ」
アリアは濡れた裾をつまみながら、二つの声を聞いていた。
「一度、試してみますか?」
レクス・ノアの顔が、同じ一つの動きでこちらを向いた。
「アリアは、すぐに抱えないで」
「危なくなったら、抱えます」
「揺れただけなら?」
「待ちます」
そう答えてから、アリアは両手を膝の上へ置いた。
小さな体が沢から離れ、平らな草の上へ立つ。
今度は籠を持たない。
風が草を一方向へ寝かせる。その動きへ鼻先を向け、翼を少しだけ開いた。
四本の足が、同時に地面から離れる。
さっきより高い。
アリアの足首ほどの高さで、小さな体が揺れる。
「前」
ノアの声とともに、鼻先が進む方へ向いた。
レクスは何も言わない。
一歩分。
二歩分。
尾が下がり、後ろ足が草へ触れそうになる。
「少し上」
レクスの短い声。
小さな体は沈みかけた分だけ戻った。
アリアの手は膝の上にある。
三歩目で体が斜めになった。翼の片方が草の穂を撫でる。
それでも、落ちてはいない。
「止まれ」
前へ流れながら高度が下がり、前足、後ろ足の順で地面へ着いた。最後に鼻先が草へ入りかけたが、踏ん張って止まる。
「飛んだ?」
「まだ、長く浮いた」
レクスは厳しい。
「でも、さっきより真っ直ぐでした」
アリアが言うと、小さな尾が勢いよく上がった。
「もう一回」
「少し歩いてからにしましょう」
「アリアは、すぐ休ませる」
「それは正しい」
レクスが味方につき、ノアはまた鼻を鳴らした。
沢を離れると、道の両側へ小さな花が増えた。白と紫の花の間に、もう丸い種を結び始めたものもある。
ノアが一つずつ匂いを確かめるので、三人の歩みはなかなか速くならなかった。
急ぐ理由は、どこにもなかった。
* * *
夏見台の手前だけ、道が少し急になった。
草原を渡ってきた風が、アリアの髪を後ろへ引く。籠の上へ結んだ布も、ぱたぱたと音を立てた。
「ここ、飛ぶ」
ノアが坂の先を見る。
「風がある」
「だから、飛ぶ」
「理屈になっていない」
アリアは籠を持ち直した。
ここまで歩いてきた小さな体は、少し息が弾んでいる。けれど足取りは乱れておらず、目も坂の上をまっすぐ見ていた。
「苦しくなったら、すぐ下ろしてください」
「うん」
「下ろす判断は我がする」
「ぼくもする」
「お二人とも、お願いします」
アリアは籠を地面へ置いた。
レクス・ノアが持ち手をくわえる。
口が塞がると、二つの声が静かになった。
風が一度、右から吹く。
小さな体が草から浮いた。籠の底も、坂道を離れる。
最初の一歩分は、右へ流された。
「左」
短い声に、体がわずかに傾く。大きく戻しすぎない。尾の先が揺れ、籠もゆっくり正面へ戻った。
アリアは半歩後ろを歩く。
手を伸ばせば届く。
けれど、伸ばさない。
次の風で、小さな体が少し沈んだ。
レクスは何も言わなかった。
翼の角度が変わる。ノアが風をつかんだのか、前足が草へ触れる前に、体が元の高さへ戻った。
坂の終わりが近づく。
「止まれ」
今度は、前へ流れ続けなかった。
体がわずかに上がり、進む速さだけが落ちていく。夏見台の平らな草へ、後ろ足と前足がほとんど同時に着いた。
籠の底が、ぽすん、と地面へ下りる。
持ち手を離したノアが、大きく息を吸った。
「持ってきた!」
「はい。全部、ご自分で」
「我もいる」
「二人で、ですね」
アリアは籠の持ち手を確かめた。新しい蔓は外れていない。中から卵が転がる音はしたが、それだけである。
顔を上げる。
言葉が、すぐには出てこなかった。
足元から、草原がなだらかに下っている。その先に白嶺の家々が、小さな木片を並べたように見えた。共同浴場から上がる湯気は、ここまで来ると細い白い糸だった。
畑は緑の四角。坂上には、旧庁舎の黒い屋根。
さらに向こうで、森林が谷を埋めている。木々の隙間に光るものは、遠い湖面だろうか。振り返れば、灰白色の峰にまだ雪が残り、その上には遮るもののない空があった。
見えているのは、白嶺のほんの一部に違いない。
それでも、家の窓から見ていた白嶺とは、まるで違った。
「白嶺は、こんなに広かったのですね」
「集落は小さい」
「でも、いっぱいある」
ノアの声が、風へ弾む。
「何が、いっぱいですか?」
「屋根と、湯気と、木と、道と、空」
最後だけ、見えているものの大きさが違う。
アリアが笑うと、小さな体は籠の前へ座った。
「お弁当食べよう」
飛んだことより先に、そちらだった。
* * *
草の上へ敷物を広げ、籠の蓋を開ける。
茹で卵は見事に片側へ集まっていた。蜂蜜を塗った焼き菓子は、一枚だけ真ん中から割れている。
「壊れてる」
「お前が運んだ結果だ」
「半分が二つになった」
「言い換えても戻らない」
「味は変わりません」
アリアは割れた焼き菓子を皿へ置いた。
まず平焼きパンを三つに分ける。燻製肉とチーズも分ける。レクス・ノアの分は食べやすい大きさに切って、小皿へ載せた。
「肉」
ノアが言う。
「パンも食べてください」
「肉を食べてから」
「先に肉を食べれば、次も肉だと言う」
「レクス、分かってる」
「長く同じ体にいるからな」
「生まれた時からだよ」
「それを長いとは言わない」
アリアは二つの声の間へ肉を置いた。
小さな口が、すぐにそれをさらう。
薬草茶は、朝に冷ましておいた。風の中で飲むと少し冷たすぎるくらいだったが、坂を登った体には気持ちよい。
アリアが自分の焼き菓子を半分に割る。
「ノアも食べますか?」
「食べる」
「それはアリアの分だ」
「でも、二枚ありますから」
「アリアは、すぐ分ける」
「すぐ分ける」
二つの声が、ほとんど同時に言った。
「お二人の分も、たくさんあります」
「五人分ある」
「じゃあ、もらっていい?」
「違う」
結局、アリアは自分の分を取り戻し、ノアは最初から小皿にあった焼き菓子を食べた。
昼食は、ゆっくり進んだ。
遠くの湯気が、風で形を変える。旧庁舎の屋根は手のひらに載りそうなほど小さい。
「あそこ、昨日は大きかったです」
アリアが言う。
「今日も大きさは同じだ」
「分かっています」
「ノアは、お弁当の方が大きく見える」
「近いからだ」
「大事だから」
ノアは最後の肉を食べ、満足そうに敷物へ腹をつけた。
食べ終えた器を籠へ戻す。薬草茶をもう一口飲む。
それから、することがなくなった。
アリアは膝を抱えて景色を見ていたが、やがて敷物の上へ横になった。
草の先が頬へ触れる。
空は広すぎて、見ていると自分の方が浮いていくようだった。白い雲が一つ、ゆっくり峰の上を渡っている。
隣では、レクス・ノアが丸くなった。
「飛ぶ練習の続きをするのではなかったか」
「休んでから」
「そのまま寝る気だ」
「寝ないよ」
返事の直後、小さな欠伸が聞こえた。
アリアは目を閉じる。
仮相談所では、今ごろ誰かが札を書いているかもしれない。共同倉庫では――
そこで、耳元の草がさらさらと鳴った。
小さな体から、規則正しい寝息が聞こえる。
アリアは考えかけたことを追わなかった。
風が通り過ぎる。
また草が鳴る。
それだけを聞いているうちに、アリアの呼吸も少しずつゆっくりになった。
* * *
頬へ当たる風が強くなり、アリアは目を開けた。
いつの間にか、雲の位置が変わっている。
隣では、レクス・ノアの小さな体がまだ丸い。眠っているのかと思ったが、尾の先だけが風に合わせて動いた。
アリアは起き上がり、食器を包もうとした。
その時、敷物の端に置いていた弁当布が、ふわりと浮いた。
「あ」
手を伸ばすより先に、布は草の上へ落ちる。ころころと二度転がり、緩い斜面を下り始めた。
「布!」
ノアの声とともに、小さな体が跳ね起きた。
「待ってください」
けれど、四本の足はもう草を離れている。
アリアも立ち上がった。
斜面は緩く、下まで草が続いている。歩いて追える場所だ。小さな体も、地面からアリアの膝ほどしか浮いていない。
助けるために駆け出しかけた足を、止める。
布が横風を受け、右へ跳ねた。
「左」
レクスの声。
レクス・ノアの体が傾く。
傾きすぎて、翼の先が草へ触れた。高度が落ちる。
それでも、ノアは前へ急がなかった。鼻先を少し上げ、沈んだ分だけ体を浮かせる。
布の後ろを追うのではなく、前へ回り込む。
大きな弧を描き、小さな体が左へ曲がった。
布の行く先へ、前足が下りる。
爪の下で、白い布が止まった。
「止まれ」
前へ流れていた体が、ふわりと一度だけ上がる。進む勢いが上へ逃げ、四本の足が布のそばへ揃った。
転ばない。
ノアの意識に引かれて鼻先が布をくわえる。
小さな体が、もう一度浮いた。
帰りは、向かい風だった。
布が口元でぱたぱた鳴る。真っ直ぐ来ようとするたび、体が少し横へ流される。
「急ぐな」
レクスの一言で、前へ出る速さが落ちた。
一歩ずつ歩くほどの速さで、小さな体が戻ってくる。
アリアはその場で待った。
手を広げる。
目の前まで来た体が、少しだけ上へ浮く。前へ流れる力が消え、四本の足が草へ下りた。
口から布が落ちる。
「取った」
「はい」
アリアはしゃがみ、小さな体を両腕で抱きしめた。
胸の中で、息が速い。けれど苦しそうではない。尾がアリアの腕を、ぱたぱたと叩いている。
「飛べた?」
少しの沈黙があった。
「今のは、飛行と呼んでよい」
レクスが言った。
小さな体が、アリアの腕の中で固まる。
「レクスが、飛んだって言った」
「聞こえている」
「ぼく、飛んだ!」
尾の勢いが増し、アリアの腕が何度も叩かれた。
「はい。飛びました」
「もう一回!」
「疲れていませんか?」
「飛べるくらい元気」
「意味が分からない」
アリアが腕を緩めると、小さな体は草へ下りた。
今度は何もくわえず、ゆっくり浮く。
アリアの腰ほどの高さまで上がり、大きく左へ曲がった。速さは、歩くより少し遅い。
アリアの周りを一周する。
「高度を上げすぎるな」
「上げてない」
「前を見ろ」
「見てる」
二つの声は言い合っているのに、小さな体はさっきより滑らかに進んだ。
一周を終え、草の上へ着地する。
今度も転ばなかった。
「もう一回」
そう言った小さな体が、次の一歩でふらついた。
「今日は終わりだ」
「もう一回だけ」
「終わりだ」
「では、帰るための力を残しましょう」
アリアもレクスに賛成した。
ノアはしばらく不満そうに尾を揺らしていたが、やがて敷物の上へ腹をつけた。
「飛ぶと、お腹が空く」
「食べたばかりだ」
「飛んだから言った」
今度は、レクスも否定しなかった。
* * *
帰り道では、アリアが空の籠を持った。
レクス・ノアは最初だけ地面すれすれを浮いたが、沢へ着く前には四本の足で歩いていた。さらに集落の屋根が見える頃には、アリアの腕の中へ収まっている。
「歩ける」
ノアが言う。
「先ほど、石につまずいた」
「石が出てきた」
「最初からあった」
アリアは笑いながら、小さな体を抱き直した。
高地から下りるにつれ、夕方の暮らしが近づいてくる。
家々から煙が上がっていた。共同浴場の方からは桶の音と話し声が聞こえる。山羊が一声鳴き、どこかで戸を打つ木槌が小さく響いた。
鍋を洗う音も、桶を運ぶ足音も、朝に置いていった時と同じ場所から続いていた。
集落の入口で、ルークスが待っていた。アリアの姿を見ると一歩近づき、口を開く。
「アリア様。本日の――」
そこで、アリアの腕の中を見る。
レクス・ノアの目は半分閉じていた。籠の持ち手には、草で擦れた緑の跡がある。
「……明日にいたします」
アリアは一瞬だけ、続きを尋ねたくなった。
けれど、今日はまだ終わっていない。
「お願いします」
「はい。お帰りなさいませ」
アリアは腕の中の小さな体を抱き直し、ルークスへ頭を下げた。
「待っていてくださって、ありがとうございます」
家へ帰ると、机の上に帳面はなかった。ルークスが預かったままなのだろう。
夕食は、弁当に残ったパンと、温めたスープだけにした。
ノアは肉がないことへ一度だけ抗議したが、スープを飲み始めるとすぐ静かになった。小さな頭が、少しずつ皿へ近づいていく。
「飛べるようになった日に、歩けなくなるな」
「歩ける」
小さな体が立ち上がろうとする。
前足が一歩出て、後ろ足がその場に残った。
そのまま、ぽすん、と座り直す。
「今日は、もう飛ばなくてよいのです」
「明日は?」
「明日の体に聞いてください」
「体は同じだ」
レクスが言う。
「じゃあ、今聞く」
「寝ろ」
アリアはまた笑った。
食事のあと、小さな体は寝床へ入るなり丸くなった。尾の先が二度動き、それきり静かになる。
窓の外には、夏見台のある稜線が暗く横たわっていた。
机は空いている。
その横に置いた弁当籠の持ち手だけが、今日の草の匂いを残している。
アリアは窓を少し開けた。
涼しい風が入り、閉じたままの机の上を通り、眠る小さな翼をそっと揺らした。




