第24話 白嶺を売らない日
オスカーの荷馬車には、空の箱が積まれていた。
塩、布、針、紙、保存食。白嶺へ運んできた荷は、それぞれの家へ下ろされていく。
けれど、荷台の奥に並んだ木箱と麻袋だけは、空のまま残っていた。
「帰りに何を積むか、もう決めているのですか?」
ルークスが箱の蓋を持ち上げる。
春の風が、乾いた木の匂いを運んだ。山道の雪は日陰を除いて消え、泥の上には新しい轍が何本も重なっている。
オスカーは荷台から降りながら、肩をすくめた。
「決めるのは、私ではありません」
「では、誰が?」
「白嶺の方々です」
アリアは、空箱を見上げた。
白嶺へ来る箱には、いつも必要なものが入っていた。塩も、布も、紙も、山の中だけでは足りないものだ。
その箱が空のまま山を下りることを、これまでは不思議に思わなかった。
「白嶺から、何かを運ぶのですか」
「運べるものがあるなら」
オスカーは白嶺の町を見回した。
共同温室の硝子には春の日が反射している。軒下では薬草が束ねられ、工房の壁には薄く削った木片が干されていた。
「男爵領の畑の話を聞きました」
アリアの背筋が少し伸びた。
「効いた畑と、効かなかった畑があります」
「使いすぎて苗を傷めた畑も」
「はい」
良い結果だけが伝わったのではない。
それが分かり、アリアは胸の奥で小さく息を吐いた。
「ですが、条件を守れば役立つ可能性はある。ほかにも白嶺には薬草、温室の作物、山の香草、樹脂がある」
オスカーは空箱の縁を軽く叩いた。
「何を外へ出すのか、一度きちんと決めませんか」
アリアは、品物を選ぶだけの話だと思った。
どれが売れそうか。いくらになるか。どれほど箱へ入るか。
けれど、オスカーが最初に尋ねたのは、値段ではなかった。
「その品物は、誰のものですか?」
* * *
仮住まいの広間に、大きな机を二つ並べた。
温室の葉野菜。乾燥薬草。布へ包んだ薬草の加工品。樹脂の塊。香りの強い山草。温室で使っている白い粉。白い筋の入った小さな石片。
机の端には、石蔵の台帳だけが置かれている。
微細な結晶粒は持ってこなかった。今も、施錠された石蔵の結晶保管一号に収められている。
集まったのは、アリア、ルークス、オスカー、アルヴィン、マルタ、ディート、レクス・ノア。それに、薬草を扱う者と温室で働く者たちだった。
「私が育てた野菜なら、私のものだろう」
マルタは迷わず葉野菜を自分の方へ引いた。
「俺が摘んで、俺が干した草なら、俺のもんだ」
薬草を扱うトーマスも、乾燥薬草の束へ手を置く。
「では、共同温室で皆が育てた野菜は?」
オスカーが尋ねる。
マルタの手が止まった。
「……温室のもんだ」
「温室は、売れた代金を受け取りますか?」
「屁理屈を言うんじゃないよ」
オスカーは笑って、白い筋の石片を指した。
「これは?」
今度は、誰もすぐに答えなかった。
山から出たものだ。
第1坑の壁にあり、廃坑荒らしが持ち出そうとしたものでもある。けれど、誰かが育てたわけではない。
「拾った者のもの、では駄目なのか」
一人が言った。
ディートの太い指が机を一度叩く。
「それでいいなら、坑道荒らしが持っていた石も、奴らのもんだったことになる」
「それは違う」
「何が違うかを、今決めるんだろう」
広間が静かになる。
アリアは机の上を見た。
野菜も、薬草も、石も、白い粉も、並べれば同じ品物に見える。
けれど、それぞれに作った手があり、採った場所があり、誰か一人では決められないものもあった。
「三つに分けてもいいですか」
アリアは机の上へ、紙を三枚置いた。
一枚目に、ゆっくり書く。
「作った人のもの」
二枚目。
「白嶺のみんなで扱うもの」
そして三枚目。
「今は、売ってはいけないもの」
オスカーが目を細めた。
「権利を細かく決めるのではありません」
アリアは皆の顔を見回した。
「誰が、売ってよいと言えるのか。それだけ、先に分けたいです」
* * *
マルタの葉野菜は、一枚目の紙のそばへ置いた。
個人の畑で育てたもの。自分で栽培した薬草。家畜から得た毛や乳。自分の手で作った加工品。
それは、作った者のものだ。
「自分で食べてもいいです。誰かに渡してもいいです。今までどおり、行商人へ売ってもいいです」
アリアが説明すると、マルタが片方の眉を上げた。
「白嶺の野菜を売るのに、いちいち許しを取れって話じゃないんだね?」
「違います」
アリアは慌てて首を振った。
「マルタさんの野菜は、マルタさんのものです。白嶺の名前をつけて、皆でまとめて外へ売る時だけ、同じ決まりにしたいのです」
「ご自分の名で売るなら自由です」
オスカーが続ける。
「ただし、皆で使う袋、倉庫、荷馬車、商品名は使わない。白嶺の名で売ったものが一つ悪ければ、別の方が作ったものまで悪いと思われますから」
トーマスが乾燥薬草を指で揉んだ。
「俺の草が悪けりゃ、マルタばあさんの野菜まで売れなくなるってことか」
「反対もあります」
「そりゃ困るね」
マルタが即座に言い、何人かが笑った。
次に、共同温室の余剰を二枚目の紙へ置く。
温室で使ってきた白い粉も、そのそばへ移した。
指定した場所に生える野生薬草。皆で採り、皆で加工したもの。共同作業で作った品。
「これは、誰か一人が好きなだけ外へ出すものにはしません」
「昨日まで勝手に拾ってた草にも、帳面がいるのか?」
年配の男が嫌そうに言った。
アリアの肩が少し下がる。
「白嶺で使う分まで、全部書いてくださいとは言いません」
声が小さくなりそうになり、帳面を抱き直した。
「外へ売る分だけです。どこから、どれくらい出したかを、残してほしいです」
「面倒になったな」
「……はい」
否定できなかった。
白嶺では、誰がどこで薬草を採るか、皆が知っていた。余れば分け、足りなければ借りる。紙がなくても、顔を見れば分かった。
「人が増えても昨日までと同じなら、最後には何も残らん」
ディートが言った。
「坑道も山も、見つけた奴から勝手に持っていけば、残るのは穴だけだ」
年配の男は二枚目の紙を見て、頭を掻いた。
「外へ出した分だけなら、まあ」
アリアは胸の中で息を吐いた。
最後に、三枚目の紙を机の奥へ置く。
白い筋の入った石片を、そこへ移す。
「白筋石の原石」
アリアは石蔵の台帳を開いた。
「微細な結晶粒」
採取量は、一粒。
それ以上は採らないと決めたままだ。
「坑道の地図。白い粉が採れる場所。地下の流れについて書いた記録」
「売るな」
レクスの声は短かった。
レクス・ノアの小さな体が、三枚目の紙の前で動きを止めている。
「結晶は高く売れるかもしれません」
オスカーが静かに言った。
「一粒だけでも、欲しがる者はいるでしょう」
「何に使うかも分かっていません」
「分からないから欲しがる者もいます」
食料が買える。
道具も、薬も、医者を呼ぶ費用も作れるかもしれない。
アリアの目が、台帳の `一粒` という文字へ落ちた。
それでも、紙を動かさなかった。
「誰のものか分からないから、先に見つけた人のものにはしません」
顔を上げる。
「安全かも分からないものを、白嶺の外へ出しません」
ディートが一度だけ頷いた。
レクス・ノアの体から、わずかに力が抜けた。
* * *
「温室で使う白い粉は、こちらですか」
アルヴィンが二枚目の紙を指した。
「はい。売らない紙へ移した方がいいでしょうか」
「一般へ売るのは早いです。ただ、男爵領の試験は続ける必要があります」
アリアは、男爵領の台帳を思い出した。
丸、三角、斜線、黒印。
効いた畑もあれば、効かない畑もあった。多すぎれば、苗を弱らせた。
「試すために渡すもの、にしましょう」
アリアは二枚目の紙の端に、小さく書き足した。
「男爵家と相談した畑だけです。量を決めて、使った後も記録していただきます」
「説明札が必要ですね」
アルヴィンは新しい紙を取り、細かな文字を書き始めた。
「土の水分、既存の肥沃度、作物種、散布量、散布時の気温、散布後の灌水――」
「畑に論文を撒く気かい」
マルタが紙を取り上げた。
「しかし、誤用を防ぐには正確な説明が」
「丸と匙の絵で十分だ。読まれない紙は、ないのと同じさ」
ノアが紙を覗き込む。
「紙は育たない」
「おおむね正しい」
レクスが答えた。
ルークスが笑いながら、大きな紙へ小さな畑と計量器の絵を描いた。
薬草は、採ったまま外へ出さないことにした。
どこに生えているか、根や土がついたままでは分かりやすい。白嶺で乾燥させ、選び、日常で使える形にしてから出す。
温室野菜も同じだった。
「まず白嶺で食べる分だよ」
マルタが机の葉野菜を持ち上げた。
「冬越しの分まで売って、自分たちが腹をすかせたら馬鹿みたいだからね」
アリアは大きな紙の一番上へ書いた。
白嶺で使う分を、先に残す。
これまで誰も紙にしなくても守ってきたことだった。
文字になった途端、少しだけ窮屈に見える。
それでも、外から来た誰かへ伝えるには、言葉にしなければならない。
* * *
「では、誰が品物をまとめますか?」
オスカーの問いに、皆が互いの顔を見た。
野菜を育てる者はいる。薬草を採り、乾かす者もいる。
けれど、外の商人と値段を決め、預かった数を数え、売れた代金を分けた者はいなかった。
「アリア様でいいんじゃないかい」
マルタが言った。
アリアは、自分を指さした。
「私ですか?」
「帳面をつけるだろう」
トーマスも頷く。
「オスカーさんとも話せる。俺が値段を聞いたら、たぶん最初に言われた値で売っちまう」
「堂々と言うことじゃないよ」
「分からんもんは分からん」
笑いが起きる中、アリアは机の品物を見つめた。
「私が、皆さんのものを売るのですか?」
「取り上げて売るのではありません」
オスカーが言う。
「預かって、まとめて私へ渡す。売れたら代金を持ち主へ返す。それだけです」
「それだけ、ではありません」
アリアは首を振った。
「売る量は、作った人が決めてください。私が勝手に決めません」
白い紙へ、一つずつ書く。
「預かった数と、売る値段を書きます。運ぶために必要なお金も、先にお伝えします。売れなかったら、売れなかったとお知らせします」
「値下げは?」
「勝手にはしません」
「売れ残ったら?」
「戻します。戻せないものは、預かる前に決めます」
「冬の分まで出せと言われたら?」
アリアは、先ほど書いた大きな文字を指した。
「白嶺で暮らす分を、先に残します」
マルタが腕を組む。
「それなら、預けてもいい」
「俺もだ」
トーマスが続いた。
ほかの生産者も、少しずつ頷く。
男爵家が連れてきた、身分の高そうな子だからではない。
アリアが帳面をつけ、分からないことを分からないと言い、男爵領で良い結果も悪い結果も同じ頁へ残したことを、皆は見ていた。
胸の奥が、じわりと温かくなる。
「お預かりします」
アリアは紙を胸の前で持ち、頭を下げた。
「分からなくならないように、全部、書きます」
* * *
白嶺の名前で売るための決まりは、三つだけにした。
「白嶺の名前で売るものは、皆で決めた作り方を守ります」
一つ目。
「白嶺で暮らす分を、先に残します」
二つ目。
「山や坑道の秘密を、品物と一緒に売りません」
三つ目。
この三つを守る品だけが、共同の倉庫、乾燥場所、包装用の袋、オスカーの荷馬車、白嶺の商品名を使える。
個人で売ることは禁止しない。
ただ、その時は白嶺皆の品としては扱わない。
「面倒になったもんだね」
マルタが紙を見て言った。
アリアは視線を落とす。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ」
マルタは、三つに分けられた机の上を見た。
「十人で食べていくだけなら、こんなものは要らなかった」
節の太い指が、白嶺の名前で売る品の紙を軽く押さえる。
「十人より増やすなら、要るんだろうさ」
喜んで決まりを増やした者はいなかった。
それでも、紙を破る者もいなかった。
オスカーは三枚を見比べた後、鞄から別の紙を取り出した。
「ちょうど、見ていただきたい申し出があります」
白嶺の余剰品を、まとめて買いたいという話だった。
代金は先払い。運搬費は相手持ち。
「悪くないのでは?」
ルークスが紙へ目を通す。
「条件だけなら、かなり良いです」
「ただし?」
「相手は、品物以外も知りたがっています」
どこで採れたか。
どう作ったか。
一年にどれほど作れるか。
鉱山で何か見つかったのか。
アリアの指が、紙の端で止まった。
「なぜ、そこまで知りたいのでしょう」
「商品ではなく、商品が生まれる場所まで欲しいのでしょう」
オスカーの声から、いつもの軽さが消えていた。
「白嶺を、買いたいのですか?」
「そう見えます」
アリアは申し出の紙を閉じた。
良い値段なら、白嶺に必要なものが買える。
けれど、採取地も、作り方も、坑道のことも渡せば、次に売るものがなくなるだけでは済まない。
山へ知らない者が入る。
薬草は採り尽くされるかもしれない。白い粉は、量も分からないまま運び出される。第1坑の結晶を知れば、あの一粒を欲しがる者も来る。
「白嶺で作ったものは、売れます」
アリアは閉じた紙を、三枚目の隣へ置いた。
「でも、白嶺そのものは売りません」
オスカーは何も足さず、深く頷いた。
* * *
最初に白嶺の名前をつける品は、薬草の温め包みに決まった。
試験用の白い粉は、使い方を一緒に伝えなければならない。
温室野菜は傷みやすく、白嶺の食卓を先に満たす必要がある。
微細結晶粒は売らない。
薬草の温め包みなら、運びやすい。食料を減らさず、使い方も難しくない。
「名前が要ります」
ルークスが言うと、ノアの声が弾んだ。
「あったか草袋」
「分かりやすくはあります」
「ぽかぽか袋」
「子供向けみたいだね」
マルタが返す。
「お風呂ぽちゃん」
「商品名として不適切だ」
レクスが切り捨てた。
「使用時に湯へ入れることを明示するなら、白嶺高地乾燥薬草配合温熱補助包――」
「ながーい」
今度はノアが切り捨てる。
アルヴィンが口を閉じた。
アリアは、布の上に並べた乾燥薬草へ触れた。
白嶺では、長い冬の間も温室で芽を守る。
雪が残っていても、地面の下では水が動く。春が来るまで、火と湯と保存食を分け合って待つ。
「春待ち包み、はどうでしょう」
皆がアリアを見る。
「春、入ってる?」
ノアが尋ねた。
「入ってはいません」
アリアは少し笑った。
「春を待つ間に、使うものです」
ノアはしばらく考え、小さな体で一度だけ頷いた。
「春待ち」
「それでいこう」
マルタが決めた。
* * *
十袋の試作品を作ることになった。
マルタとトーマスが薬草を選ぶ。
布仕事のできる住民が、小さな袋を縫う。縫い目には少しずつ違いがあり、口の広さも揃ってはいなかった。
アルヴィンは薬草へ危険な草が混じっていないかを一つずつ確かめ、アリアは誰からどれだけ預かったかを書いた。
「同じ名前で売るなら、同じものに見えた方がよいです」
オスカーが袋を並べ直す。
「同じに見えるだけでいいのですか」
「いいえ。中身も同じでなければ困ります」
十袋を量ると、重いものと軽いものがあった。
乾燥した薬草の色にも差がある。
マルタが一袋を手に取り、鼻を近づけた。
「これは乾かしすぎだね」
「こちらは茎が多い」
アルヴィンが別の袋を開く。
十袋できた。
けれど、十袋すべてが同じ品として売れるかは、まだ分からない。
「次は、どこまで同じなら同じ名前で売れるかを決める必要があります」
オスカーの言葉に、アリアは新しい頁を開いた。
薬草の種類。
一袋の量。
乾き方。
作った人。
作った日。
使い方。
「自分で作ったのに、売れた金が全部は戻らんのか?」
袋を縫った男が尋ねた。
「布と糸のお金がかかります。運ぶお金も必要です」
アリアは誤魔化さずに答えた。
「共同の乾燥棚を直すなら、その分も皆さんへお伝えしてから残します」
「先に引かれると、分からなくなりそうだな」
「何に使ったか、全部書きます」
アリアは男を見上げた。
「分からないまま、引くことはしません」
男は十袋と帳面を見比べ、ゆっくり頷いた。
「なら、頼む」
夕方、オスカーが持ってきた空箱へ、春待ち包みが収められた。
一つ、二つ。
十個。
今すぐ山の外へ運ぶためではない。
同じ名で売れる品かを、次に確かめるための箱だ。
蓋の上には一枚の紙が載っている。作った人、預かった数、希望する値段、運賃、売れた場合に返す金額を、一枚にまとめたものだ。
以前の白嶺には、必要のなかった紙だった。
レクス・ノアが箱の縁へ前足をかけ、中を覗き込む。
「これ、白嶺?」
「白嶺で作ったものです」
アリアは答えた。
「白嶺じゃない?」
「はい。白嶺そのものではありません」
「その違いは重要だ」
レクスが言う。
空だった箱には、白嶺で初めて名前を与えられた品物が十個並んでいた。
山も、坑道も、温室も、そこで暮らす人々も、箱には入らない。
入ったのは、春を待つ間の温かさだけだった。




