第22話 石のなかの春
第1坑の入口には、春の風が通っていた。
新しい札の下で、見回り組の若者が台帳へ名前を書く。入った時刻、持っていく道具、持ち出す予定のもの。
最後の欄には、大きな字で「なし」と書かれた。
「今日は、掘る日ではありません」
アリアは皆の顔を見回した。
「確かめる日です」
ディートが頷く。
「それを忘れた奴から、坑道に食われる」
アリアの足元で、レクス・ノアが顔を上げた。
「坑道、また食べる?」
「比喩だ」
「半分は本当だ」
ディートが続けた。
小さな体が、ぴたりと止まる。
「半分、食べる?」
「怖がらせないでください、ディートさん」
アリアが言うと、ルークスが笑いをこらえながら入坑者の紙を確認した。
アリア、ルークス、アルヴィン、ディート、レクス・ノア。見回り組が二人と、石工が一人。
確かめるのは、廃坑荒らしが削っていた白い筋の周りだけだ。
排水が少し通り、入口側の空気は以前より軽くなっている。それでも、入れる範囲が急に広がったわけではない。
ディートはカンテラの火を確かめた。
「奥へ行かん。赤い印を越えん。壁へ勝手に触らん」
「採らない」
ノアが覚えた規則を口にする。
「そうです。今日は採りません」
「見るだけ」
「見るだけです」
レクス・ノアは得意そうに胸を張った。
「ノア」
「なに?」
「見るだけで済ませろ」
先回りして釘を刺され、小さな鼻先が不満そうに下を向いた。
* * *
カンテラの光の中で、白い筋は細い根のように石の内側を走っていた。
表面には、廃坑荒らしがつけた新しい傷が残っている。そこだけ石の色が明るく、古い壁から浮いて見えた。
アルヴィンは壁から一歩離れたところへ、三枚の紙を並べた。
「共同浴場の白い沈殿物。温室で使っている白い粉。第1坑の水と白筋石片」
紙には、細かな線と数字がびっしり書かれている。
「乾いた時の残り方、水に触れた時の変化、観測器具に出る偏り。似ているところがあります」
「同じものなのですか」
「いいえ」
アルヴィンは、はっきり首を振った。
「同じものではありません。ですが、同じ流れから生まれたものかもしれません」
アリアは白い筋を見た。
温泉の縁に残る白いもの。マルタが畑へほんの少しだけ使う白い粉。第1坑を流れる水。
離れて見えたものが、地面の下では近くにあるのかもしれない。
「白筋石の近くは、沈殿物より強い偏りが出ています」
アルヴィンは続けた。
「強ければ役立つ、とは限りません。量を誤れば、植物にも人にも負担になる可能性があります」
レクス・ノアの鼻先が、白い筋へ少し伸びた。
「白いすじすじ、あったかい」
「近づくな」
前足が半歩進みかけ、その場で止まった。
「きれい」
「だから危険だ」
「きれいと危険、いっしょ?」
「よくある」
ノアは納得できないようだったが、小さな体はそれ以上進まなかった。
ディートは石工へ目を向けた。
「傷んだ表面だけだ。奥へ刃を入れるな」
石工は短い槌と薄い工具を取り出した。
「浮いてるところを落とす。落ちる分だけだ」
採るためではない。
廃坑荒らしが傷つけ、剥がれかけた石を、そのまま残さないためだった。
石工が工具を差し込み、槌を一度だけ当てる。
こつん。
薄い石片が、受け布の上へ落ちた。
その奥で、何かが光った。
アリアは最初、水滴だと思った。
けれど、水のようには流れない。
カンテラの火が揺れるたび、砂粒より少し大きな一点だけが、淡い光を返していた。
「星のかけら?」
ノアが小さく言った。
アルヴィンが息を止めた。
ディートも何も言わない。
レクスだけが、答えなかった。
「アルヴィン先生?」
「触らないでください」
アルヴィンは震えかけた手を、自分でもう片方の手首ごと押さえた。
「私も触りません。石工さん、そのまま。少しだけ待ってください」
観測器具を近づける。硝子管の液面が、これまでより高い位置で止まった。
「沈殿物ではありません」
アルヴィンは一度言葉を切った。
「少なくとも、乾いたものが付着した形ではない。石の内側でできた、結晶に見えます」
「見えます、ですか」
「はい。まだ、それだけです」
石工が薄い工具を引いた。
粒は、傷ついた表面からすでに浮きかけていた。受け布の上へ、ころりと落ちる。
たった一粒だった。
ノアの言う星のかけらにしては、ずいぶん小さい。
けれど、アルヴィンもディートも、目を離さなかった。
「ここで終わりだ」
ディートが言った。
石工はすぐに道具を下ろした。
壁には、それ以上触れなかった。
* * *
「もし、この粒が白い粉や沈殿物と同じ流れに属するなら、農業だけではありません」
第1坑の外へ戻る途中から、アルヴィンの言葉は速くなっていた。
「水との反応を調べれば治療や衛生に、熱の保ち方を調べれば工芸に、さらに一定の偏りを保つなら観測器具や魔道具にも応用できる可能性が――」
「先生」
ルークスが呼んだ。
「はい」
「まだ一粒です」
アルヴィンは口を閉じた。
「一粒で、お店?」
ノアが尋ねる。
「お店はできません」
「では、二粒なら?」
「その増え方ではありません」
ルークスが答え、アリアは思わず笑った。
アルヴィンも眼鏡の位置を直した。
「ですが、大きな価値を持つ可能性はあります」
「掘れば町が救われる、なんて顔をするな」
ディートの低い声が、浮きかけた空気を止めた。
皆の足も止まる。
「掘って人が倒れたから、坑道は閉じた」
ディートは受け布の上の粒を見なかった。
「宝に見えるものほど、人を急がせる」
アリアは、淡い一点を見つめた。
「これは、白嶺を助けるものですか」
それから、ディートの横顔を見る。
「それとも、白嶺を壊すものですか」
アルヴィンは答えなかった。
答えられないのだと、アリアにも分かった。
「両方だ」
レクスが言った。
ノアの意識に引かれたように、小さな首が粒の方へ伸びる。けれど、前足はその場を動かない。鼻先も途中で止まり、ゆっくり戻った。
「もう少しだけ」
「駄目だ」
「見るだけ」
「見るだけで済まない」
レクスの声は、いつもより低かった。
アリアは小さな体のそばへしゃがんだ。
「何が分かるのですか」
「これは、粒だ」
「はい」
「粒なのに、奥がある」
それ以上、レクスは言わなかった。
分からないから言わないのか、知っていて言えないのか。それもアリアには分からない。
ただ、レクスがここまで強くノアを止めることは、書いておくべきことだと思った。
その時、坑道の外で笛が鳴った。
短く二度。
見回り組の合図だった。
* * *
「外へ出ろ。中で騒ぐな」
ディートの声で、皆が動いた。
受け布の粒は、石工が持っていた小さな蓋つきの石箱へ仮に収めた。アルヴィンが箱を両腕で抱える。
第1坑を出ると、春の日差しが眩しかった。
「山道の上です!」
見張りが指した先で、灰色の小さな角獣が三頭、岩陰から顔を出していた。
山羊より少し大きい。額の短い角を振り、地面の匂いを嗅ぎながら、坑口の方へ近づいてくる。
「右から、もうひとつ」
ノアが言った。
レクス・ノアの鼻先が、木立の方を向く。
遅れて、四頭目が枝の間から現れた。
「見回り組、道を空けてください。囲まない。山側へ戻します」
ルークスが杖を構えた。
見回りの二人は盾代わりの板を持ち、角獣の正面ではなく左右へ広がる。
「笛は一度ずつ。驚かせすぎないで」
高い音が鳴る。
角獣の一頭が跳ね、別の一頭へぶつかった。二頭まとめて向きを変え、また同じ方へ戻ろうとして、角をこつんと合わせる。
「あの子たち、行きたい方が分かっていません」
「僕たちも同じです」
ルークスが一歩ずつ進路を作る。
アルヴィンも後ろへ下がった。
石箱ばかり見ていたせいで、踵が石に当たる。
「うわっ」
体が傾いた。
「先生!」
アリアと見回りの若者が、左右から上衣を掴んだ。
石箱は落ちなかった。
アルヴィンも落ちなかった。
「結晶より、先生を先に守ってください」
アリアが言う。
「両方守るつもりでした」
「順番です」
「はい」
ノアが小さく笑った。
「あるびん、箱になりそうだった」
「抱えている側です」
もう一度、笛が鳴る。
角獣たちはようやく坑口へ背を向けた。見回り組が距離を保ったまま進むと、四頭は斜面を駆け上がり、木立の向こうへ消えていった。
誰も傷つかなかった。
角獣も傷つけなかった。
春の山道には、丸い蹄の跡だけが残った。
「あの粒に寄ってきたのでしょうか」
見回りの若者が尋ねた。
「分かりません」
アルヴィンは今度こそ、箱ではなく足元を見ながら答えた。
「露出した直後に来た。それは記録できます。原因だとは、まだ言えません」
「流れが、外へこぼれた可能性はある」
レクスも言った。
「可能性だけだ」
アリアは角獣の足跡と石箱を交互に見た。
きれいな一粒は、人だけでなく、山の生き物にも何かを感じさせるのかもしれない。
なら、なおさら、急いではいけなかった。
* * *
「白嶺が豊かになるかもしれませんね」
若者の目は明るかった。
ルークスも石箱を見る。
「価値が分かれば、欲しがる人は出るでしょう」
「調べたい項目は、すでに二十七あります」
アルヴィンが言った。
「増えていませんか」
「角獣が来たので、六つ増えました」
「増えていますね」
アリアは石箱の前に立った。
「採れるから、採るのではありません」
皆が黙った。
「守れる分だけです」
指を一本立てる。
「分かる分だけです」
二本目。
「白嶺の人が、倒れない分だけです」
三本目を立てた。
ディートがアリアを見た。
「欲に負けるなよ」
「はい」
アリアは頷いた。
「負けないために、決まりにします」
「まず、もう採りません。次に確かめる時も、わたし一人では決めません」
アリアはディートを見た。
「もし次に確かめるなら、どれくらいまでなら止められますか」
「安全な量は、まだ分からん」
ディートはすぐに答えた。
「だから、次も今日と同じ一粒までだ。それで何か変わったら、そこで終わりだ」
アリアは頷き、アルヴィンへ向き直った。
「何を確かめればいいですか」
「採った場所と量。立ち会った人。それから、採る前と後の水音、空気、動物の動きです」
アルヴィンは指を折りながら答えた。
「変化が一つでもあれば、次は採らない。少なくとも、それが必要です」
「外へ売ったり、持っていったりする話は、まだ止めましょう」
ルークスも言った。
「男爵家には、広めないようお願いして、見つけたことと決まりだけを知らせます」
ルークスが紙へ書く。
追加で採らない。
次に確かめる時は、アリア、ディート、アルヴィンの三人が揃う。
一度に扱うのは一粒まで。
前と後を比べる。
外へ売らない。持ち出さない。
アリアは、並んだ短い行を一つずつ読んだ。
「これで、だいじょうぶでしょうか」
ディートが頷き、ルークスも頷いた。
「調査項目二十七のうち、二十六は後回しになります」
「だいじょうぶではないのですか」
「いいえ。報告です」
アルヴィンは残念そうだったが、頷いていた。
回収した一粒は、石工の小箱へ入れたまま、施錠できる石蔵へ運ぶことになった。
石箱には、微細結晶粒だけを入れる。
「箱に入れる前と、入れた後で、石蔵の観測器具の値を比べます」
アルヴィンが説明した。
「保管したことで、周りの水や空気に変化が出ていないかを確かめるためです」
アリアは石箱の蓋へ紙を貼った。
結晶保管一号。
ゆっくり書いた文字を、ノアが覗き込む。
「星、しまわれた」
「閉じ込めたのではない。守っている」
「守る箱」
「はい。守る箱です」
アリアが言うと、レクス・ノアは満足そうに箱の周りを一度だけ嗅いだ。
今度は、レクスも止めなかった。
* * *
夜の仮住まいで、アリアは新しい台帳を開いた。
結晶保管番号。
採れた場所。量。採った人。立ち会った人。
採った後の水音。空気。動物の動き。
白い粉との比較。持ち出してよいかどうか。
最後の欄には、迷わず「不可」と書いた。
「これは、研究史に残る――」
アルヴィンが言いかけ、止まった。
アリアとルークスが顔を上げる。
「まず、白嶺の中の記録です」
アルヴィンは自分で言い直した。
「まず安全。まず管理。その後で、研究史です」
「覚えましたね、先生」
「私は学者ですから」
少し誇らしそうに言うので、ルークスが笑った。
ディートは窓の外の山を見たまま、台帳の赤い線へ指を置いた。長い間、誰も触れなかった場所を示す線だった。
「白嶺の運命を変えるなら」
アリアは台帳を閉じた。
「白嶺が壊れない変え方にします」
ディートは振り返らなかった。
けれど、短く「ああ」と答えた。
皆で石蔵へ行き、石箱を棚へ収めた。ルークスが鍵をかけ、見回りの当番へ引き継ぐ。
結晶保管一号。
まだ名前もない一粒は、両手に隠れるほど小さな箱の中で、静かに守られることになった。
* * *
石蔵から戻ったあと、アリアは部屋の小さな椅子に座っていた。
軒先から、雪解け水が落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
その音を聞いて、アリアはふと思い出した。
帝城でも、毎年この頃になると、雪解けの音がしていた。
仕立屋が呼ばれ、厨房では甘いものの相談が始まり、アンが去年より少し長いリボンを選んでくれた。
今日は、アリアの誕生日だった。
石の中に、名前もない光を見つけた日。
そして、アリアが九歳になった日。
忙しくて、自分でも夜まで忘れていた。
レクス・ノアが机へ前足をかけた。
「アリア、しょんぼり?」
アリアは少し笑った。
「少しだけです」
「理由は?」
レクスに聞かれ、アリアは膝の上で指を組んだ。
言わなければ、二つの声も知らないままだ。
だから、小さく息を吸った。
「今日、わたしの誕生日だったんです」
「たんじょうび」
「生まれた日を祝い、年を一つ数える習慣だ」
ノアの声が弾んだ。
「誕生日、ほしい!」
アリアは瞬いた。
それから、少し困ったように笑う。
「レクスとノアは、いつ生まれたのか覚えていますか?」
小さな体が首を傾げた。
「アリアと出会った日だな」
「馬車に飛び込んできた日、ですか?」
「うん」
帝都を出た日。
帝城へ帰れなくなった日。
吹雪の中で、レクス・ノアと出会った日。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
でも、あの日がなければ、今ここにある二つの声も知らなかった。
「では、来年の冬に、お誕生会をしましょうね」
「わーい!」
「不要だ」
「いる」
「必要性がない」
「蜂蜜のパン」
「……検討する」
アリアは声を立てて笑った。
少しの沈黙のあと、レクスが珍しく言葉を探すように呼んだ。
「アリア」
「はい?」
「何というのだ。誕生会とやらは」
アリアは首を傾げる。
「祝うのだろう?」
「お祝い!」
アリアの頬が、少し熱くなった。
「お誕生日、おめでとう、と言います」
レクス・ノアが、アリアを見上げた。
「アリア、お誕生日、おめでとう」
「九歳、おめでとう。アリア」
アリアは笑った。
目の奥が熱くなったけれど、今度は隠さなかった。
「はい。ありがとうございます。レクス・ノア」
その夜、白嶺で、アリアは九歳になった。
大勢には知られなくても。
いちばん近くの二つの声には、たしかに祝われて。




