↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
龍と廃嫡皇女のシェアハウス  作者: 三連九
第3章 白嶺の再始動
PR
21/26

第21話 春先の足跡

 白嶺の冬は、ある朝いきなり終わるものではなかった。


 昼になると、屋根の端から雫が落ちた。


 次の日には、積もった雪が大きな音を立てて滑り落ちた。


 水路を覆っていた氷は、真ん中から細くなった。共同温室では、昨日まで二枚だった葉のあいだから、三枚目の緑が顔を出した。


 そして山道には、雪の上ではなく、柔らかい泥の上に足跡が残るようになった。


 そのあいだ、第1坑の入口でも、少しずつ音が増えていた。


 腐った板を一枚外し、新しい板に替える。


 入口側の支え木へ、もう一本、横木を添える。


 排水溝は奥へ手を入れず、外から届くところの泥だけを掻き出す。


 壁の鈍いところには赤い印をつけ、カンテラを置いてよい場所には白い印をつけた。


「そこまでだ」


 ディートが言えば、作業をしていた石工は手を止めた。


 少し先に、まだ取れそうな泥が残っていても、止めた。


 アリアは入口脇の机で、紙に線を引いた。


 入った時刻。出た時刻。名前。持って入った道具。持って出たもの。


 一日に埋まるのは、ほんの数行だった。それでも空白の紙は、一日ごとに白嶺の文字で埋まっていった。


 ある昼下がり、アルヴィンが机の半分を借りた。


 硝子管、小さな皿、細い秤。紙束の端には、共同浴場、温室、第1坑と書かれている。


「温泉の沈殿物と、温室の土。それから、第1坑の白い筋の近くで記録した水です」


 アルヴィンは三本の線を指でたどった。


「同じ条件にすると、似た偏りが出ます。ただし、同じものだとはまだ言えません」


「名前はありますか」


 アリアが尋ねると、アルヴィンは少し考えた。


「仮に、白筋反応としておきます」


 机の下で丸くなっていたレクス・ノアが、ぴくりと顔を上げた。


「しろすじ?」


「仮称だ」


「白い、すじすじ」


 アルヴィンのペン先が、紙の上で動きかけた。


「先生、それは正式名称にしないでください」


 見回りの札を持ってきたルークスが言った。


 アルヴィンは、書きかけた二つ目の『すじ』を静かに消した。


「親しみやすさはあるのですが」


「ありすぎます」


 アリアは少し笑った。


 けれど、三枚の紙を見て、すぐに口元を戻した。


「白嶺の外へ出す記録には、まだ書かないでください」


 温泉の沈殿物も、温室の土も、白い筋のある石も、何なのかは分かっていない。分からないものに名前がつけば、知ったつもりになる人がいるかもしれない。


 アルヴィンは、消した文字の跡を見て頷いた。


「分からないものに、早く名前を与えすぎない。ですね」


「はい。白嶺で調べる紙には、分かるように書いてください。でも、外へ出す紙には、まだです」


「分けて記録します」


 アリアは自分の台帳にも、小さく書き足した。


 ――外へ出す記録は、別にすること。


 字はまだ、大人のようには整っていない。


 けれど、一つずつの文字は、まっすぐだった。


* * *


 第1坑の前には、新しい札が立っていた。


 許可なき者、立入禁止。


 石、金具、道具の持ち出しを禁ず。


 入坑、出坑、すべて記すこと。


 レクス・ノアは札を見上げ、小さな体ごと首を傾げた。


「白嶺、字で怒ってる」


「警告文だ」


「まあ、間違っちゃいねえ」


 ディートが鼻を鳴らした。


 札の前には、ルークスが集めた四人が並んでいた。若者が二人。壮年の男が二人。持っているのは短槍や杖、鉈、縄、それに笛だった。


 揃いの服も、立派な名前もない。


 ルークスはひとまず、白嶺見回り組と呼んだ。


「やることは四つです」


 ルークスは指を一本ずつ立てた。


「見つける。知らせる。近づけない。追いすぎない」


 若者の一人が、短槍の柄を握り直した。


「捕まえなくていいんですか」


「捕まえられる時でも、坑道の奥へ追いません。まず笛を鳴らしてください」


 ディートが、入口の暗がりへ顎を向けた。


「坑道番は、強い奴より戻れる奴がいい」


 アルヴィンも手を挙げた。


「第1坑では急に走ると乾いた粉じんが舞い上がり、カンテラの火の見え方が変わります。また、足元の水や壁際の粉の乱れが消えるため、危険箇所と白筋反応を記録した位置が――」


「つまり、走るなで済む」


 ディートが言った。


「あるびん、長い」


「要約能力に課題がある」


 二つの声に続けて言われ、アルヴィンは眼鏡の位置を直した。


「正確に伝えることも必要です」


「笛を吹く前に話が終わらなさそうですね」


 ルークスにまで言われ、アルヴィンは少しだけ肩を落とした。


 その日の確認では、排水溝の水が前より素直に流れていた。


 入口へ置いたカンテラの火も、以前ほど大きく揺れない。


 ディートは支え木を見て、石を二度叩いた。硬い音が返る。


「入口だけなら、前よりましだ」


 石工が、わずかに笑った。


 ディートの言葉としては、とても褒めているらしい。


 アルヴィンは排水の横へしゃがみ、目盛りのついた硝子管を見た。


「白筋反応が強く出た場所と、水の流れが悪かった場所は近いようです」


「白いものが、水を止めていますか」


「そこまでは言えません」


 アルヴィンはすぐに答えた。


「湯と水と石のあいだを、何かが移動しているように見えます。ですが、それが何かも、どちらが先かも、まだ分かりません」


 アリアは台帳を開いた。


「では、分からないまま、記録します」


「はい」


「分かったふりよりは、ましだ」


 ディートがぼそりと言った。


 第1坑は、ほんの少しだけ息を取り戻していた。


 けれど、閉じていた入口に人が立ち、板を替え、カンテラを置けば、山道からもそれが見える。


 開き始めたものは、外からも見つけられるのだった。


* * *


 午後の見回りが交代する少し前だった。


 レクス・ノアが、ふいに顔を上げた。


 鼻先が、第1坑の裏手へ向く。


「知らない足」


「匂いだ」


「知らない足の匂い」


 ルークスの表情が変わった。


 すぐに皆で入口の裏へ回る。雪の残る斜面と、土の出た山道の境目に、深い足跡があった。


 白嶺の者が使う道から、少し外れている。


 ディートがしゃがみ、泥へ指を近づけた。触れずに、窪みの形を見る。


「三人だ」


 少し先には、片側だけ深い跡が続いていた。


「一人は荷を背負っとる。一人は右足を引きずってるな」


「坑道の人ですか」


 アリアも足跡を見た。


「山道には慣れとる。だが、坑道を知っとる歩き方じゃない」


 アルヴィンは足跡ではなく、その横へ目を向けた。


 泥の上に、白い粉が細く散っている。


「白い筋のある石を、選んで削った可能性があります」


 ディートの目が細くなった。


 ルークスは笛を一度、短く鳴らした。


 見回り組が、声を立てずに集まる。


「四つの決まりを忘れないでください。奥へ追わない。勝手に走らない」


 ルークスの声に、四人が頷いた。


 アリアの胸が、強く鳴った。


 知らない人がいる。


 今度は、残された跡だけではない。


 怖い。


 それでも、アリアは台帳を胸に抱え、ルークスの後ろを歩いた。


* * *


 第1坑へ入ると、春の明るさはすぐに背中へ遠ざかった。


 見回り組が掲げる二つのカンテラだけが、坑道の壁を丸く照らしている。光の縁では赤い印も薄れ、その先は、壁があるのか道が続くのかさえ分からない闇だった。


 少し奥に、もう一つカンテラの火が揺れていた。


 盗掘者たちのカンテラだ。


 その黄色い光が動くたび、三人の影が支え木から天井へ長く伸び、また縮んだ。


 一人が袋を押さえ、一人が壁に掛けたカンテラを外している。


 もう一人は、支保工に留められた鉄の金具へ、粗末な工具をかけていた。


「それを抜くな!」


 坑道の空気を震わせるほどの声で、ディートが怒鳴った。


 男の手が止まった。


 三人が振り返る。けれど、顔はカンテラの逆光に沈み、目も口もよく見えなかった。


「何だよ。廃坑だろ」


「誰も使ってねえと思ったんだ」


「外に札があったでしょう」


 アリアは一歩、前へ出た。


 カンテラの光も、一緒に一歩進む。靴の先にあった石が見え、すぐ先の闇はそのぶんだけ後ろへ退いた。


 膝が固くなりそうだった。けれど、隣ではルークスが杖を構えている。後ろにはディートと見回り組がいるはずだった。振り返らなくても、もう一つのカンテラが作る影で分かった。


「白嶺は、捨てられた場所ではありません」


 盗掘者の足元で、袋が傾いていた。カンテラが揺れるたび、口から覗く錆びた鉄具が鈍く光る。その下にカンテラの部品と、小さな鉱石片がある。白い筋の入った石片だけが、火を受けるたび短く浮かび上がった。


 ディートは、男が工具をかけていた金具を指した。


「石を盗るだけなら、まだ馬鹿で済んだ」


 低い声だった。


「支えを抜けば、人が死ぬ」


「知らねえよ。白い筋の石は、山麓で買う奴がいるって聞いただけだ」


 白い筋。


 その言葉に、アルヴィンの視線が袋へ動いた。


「誰が買うのですか」


「名前なんか知らねえ」


「どこで聞きましたか」


「酒場だよ。たぶんな」


 三人のうち、足を引きずっていた男が後ずさった。


 光の縁にあった足が、闇へ半分沈む。


 その踵が、石片を蹴った。乾いた音だけが、見えない奥へ跳ねていく。


「逃げるぞ!」


 一人が、坑道の奥へ身を翻した。


 盗掘者のカンテラが大きく振られた。


 光が壁を走り、支え木が次々と現れては消える。三人の姿も一度に崩れ、どれが誰の影なのか分からなくなった。


「奥へ追い込まない!」


 ルークスが叫ぶ。


「入口側へ回せ! 笛!」


 甲高い音が、坑道に響いた。


 音だけが先へ届き、暗がりから幾重にも返ってくる。


 若者の一人が駆け出しかける。


「走るな! 坑道で走る奴は死ぬ!」


 ディートの声に、若者は足を踏みしめて止まった。


 見回りのカンテラが横へ振られた。


 光の中へ、逃げた男の肩が突然飛び込んでくる。壮年の一人が杖を伸ばし、入口側の道を塞いだ。


 ぶつかった靴が、乾いた粉を巻き上げる。


 粉じんはカンテラの光を白く濁らせた。さっきまで見えていた赤い印が消え、別の男の姿も壁際の闇へ溶ける。


「右です! その先は支えが弱いです!」


 舞い上がった粉と、濁った光の向こうに一瞬だけ見えた赤い印を頼りに、アルヴィンが声を上げた。


 ルークスは男の姿ではなく声の方向へ杖を出した。硬い手応えがあり、影がよろめく。カンテラを持つ見回り役が半歩ずれると、男の背中が光の中へ戻った。


 レクス・ノアの小さな体が前へ出かけた。


「追う?」


「止まれない」


 レクスが短く告げる。


「追わないでください」


 アリアも言った。


 レクス・ノアは不満そうに鼻を鳴らした。けれど、その場に留まり、光の届かない方へ鼻先を動かす。


 倒れた袋のこちら側は照らされていた。だがその向こう側は、アリアの目では暗闇で見通せない。


「袋、くさい」


「人だ」


 袋の向こうで、闇がわずかに息をした。


 見回り役がカンテラを低く差し出す。


 光が袋の下をくぐり、泥のついた靴を照らした。一人が身を縮め、荷物の陰へ貼りついている。


 見回り組の二人が、カンテラを正面に残したまま左右から縄を持って近づいた。影ごと逃げ道を塞ぎ、腕を取る。


 入口へ向かった男も、足を引きずる男も、ほどなく地面へ座らされた。


 大きな剣を振るう者はいなかった。


 誰も、坑道の奥まで追わなかった。


 二つのカンテラと、笛と杖と縄があった。


 ディートの規則と、わずかな印を見落とさなかったアルヴィンの目と、暗がりの向こうを嗅ぎ分けたレクス・ノアの鼻があった。


 それで三人は、全員捕まった。


* * *


 入口の外へ運び出した袋を、アリアは一つずつ確認した。


「古い鉄具、三つ。カンテラの部品、二つ。白い筋のある石片、五つ。小さな鉱石片、四つ」


 ルークスが読み上げ、アリアが台帳へ書く。


「粗末な工具、一つ。支保工の金具は、外される前でした」


「外そうとしたことも、書きます」


 アリアは、もう一行を足した。


 アルヴィンは白い筋のある石片を見つめていた。


 とても調べたそうな顔だった。


「証拠です」


 アリアが言う。


 アルヴィンの手が止まった。


「……証拠が先です」


 ルークスが小さく笑った。


「先生が我慢を覚えていますね」


「記録のためです。証拠としての番号と、後で調査を許された場合の研究番号を別にして、同じ石だと分かるようにすべきでしょう」


「同じ石でも、見る場所が違うのですね」


「はい。ですが、同じものだと分からなくなってはいけません」


 アリアは台帳の石片の横に、小さな丸を書いた。


 捕らえた男たちは、買い手の名前を知らないと言った。


 誰かに雇われたのかと聞けば、三人とも答えが違った。仕事を聞いた。酒場で噂を聞いただけだ。白い石なら何でもよかった。


 どれが本当なのか、アリアには分からなかった。


 集まった白嶺の若者たちは、三人を睨んでいた。


「山から放り出せばいい」


「ワイバーンにでもくれてやれ」


 レクス・ノアが真面目に顔を上げた。


「ワイバーン、食べる?」


「食性による」


「検討しないでください」


 ルークスがすぐに止めた。


「やめとけ。腹を壊す」


 ディートが言い、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


 けれど、アリアは笑わなかった。


「人を、誰かに食べさせるものにはしません」


 若者たちが黙る。


 アリアは台帳を閉じなかった。


「逃がしません。今夜は、縄をつけて見張ります」


 三人の男を見る。怖さは、まだ胸の中に残っていた。


「盗ったものと、危ないことをした記録を、明日の朝、男爵家へ持っていきます。この人たちも、一緒にお願いします」


「白嶺で罰しないのですか」


 見回り組の若者が尋ねた。


 アリアは少し考えた。


「罰は、正しく扱える場所へお願いします」


 そして、第1坑の札へ目を向けた。


「でも、白嶺のものを守ることは、白嶺で始めます」


 ルークスが、まっすぐ頷いた。


「承りました」


 ディートも何も言わず、一度だけ頷いた。


* * *


 その夜、仮住まいの机には五冊の薄い帳面が並んだ。


 鉱山立入台帳。


 見張り当番。


 持ち出し記録。


 白筋反応記録。


 侵入者記録。


 アリアは、同じ日付を五度書いた。


 アルヴィンは、証拠の石片へ触れず、対応する番号だけを自分の紙へ写した。


 ルークスは翌朝の護送に出る者を決めた。見張りが空にならないよう、残る者の名も書く。


 ディートは暖炉のそばで、古いカンテラの芯を切っていた。


「開ければ、人が来る」


 小さな火が、明るく整う。


「人が来れば、守る手が要る」


 アリアは五冊の帳面を見た。


 第1坑を戻すことは、石を掘ることではない。


 人が入っても帰れるようにすること。


 誰が入り、何を持ち、何を持ち出したのか、分かるようにすること。


 白嶺の入口を開くなら、白嶺の手で守ること。


「はい」


 アリアは最後の一行を書き終えた。


 翌朝、三人の男は縄でつながれた。


 ルークスと見回り組の二人が、盗品と記録を持ち、男爵領へ向かう。


 アリアは山道の端で、それを見送った。


 怒りは、まだあった。


 怖さも、なくなってはいない。


 それでも、山へ放り出さなかった。盗品と記録を分け、三人を男爵領へ渡す。その手順だけを、アリアは最後まで見届けた。


 見送りを終え、第1坑へ戻る。


 入口には、新しい札が立っていた。


 許可なき者、立入禁止。


 持ち出し、禁ず。


 入坑、出坑、すべて記すこと。


 レクス・ノアが札を見上げた。


「白嶺、起きた?」


「少なくとも、眠ったままではない」


 春先の風が、札の端を揺らした。


 坑道の奥で、水音がする。


 ごぼり。


 雪解けの水が、見えないどこかで流れを変えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。