第21話 春先の足跡
白嶺の冬は、ある朝いきなり終わるものではなかった。
昼になると、屋根の端から雫が落ちた。
次の日には、積もった雪が大きな音を立てて滑り落ちた。
水路を覆っていた氷は、真ん中から細くなった。共同温室では、昨日まで二枚だった葉のあいだから、三枚目の緑が顔を出した。
そして山道には、雪の上ではなく、柔らかい泥の上に足跡が残るようになった。
そのあいだ、第1坑の入口でも、少しずつ音が増えていた。
腐った板を一枚外し、新しい板に替える。
入口側の支え木へ、もう一本、横木を添える。
排水溝は奥へ手を入れず、外から届くところの泥だけを掻き出す。
壁の鈍いところには赤い印をつけ、カンテラを置いてよい場所には白い印をつけた。
「そこまでだ」
ディートが言えば、作業をしていた石工は手を止めた。
少し先に、まだ取れそうな泥が残っていても、止めた。
アリアは入口脇の机で、紙に線を引いた。
入った時刻。出た時刻。名前。持って入った道具。持って出たもの。
一日に埋まるのは、ほんの数行だった。それでも空白の紙は、一日ごとに白嶺の文字で埋まっていった。
ある昼下がり、アルヴィンが机の半分を借りた。
硝子管、小さな皿、細い秤。紙束の端には、共同浴場、温室、第1坑と書かれている。
「温泉の沈殿物と、温室の土。それから、第1坑の白い筋の近くで記録した水です」
アルヴィンは三本の線を指でたどった。
「同じ条件にすると、似た偏りが出ます。ただし、同じものだとはまだ言えません」
「名前はありますか」
アリアが尋ねると、アルヴィンは少し考えた。
「仮に、白筋反応としておきます」
机の下で丸くなっていたレクス・ノアが、ぴくりと顔を上げた。
「しろすじ?」
「仮称だ」
「白い、すじすじ」
アルヴィンのペン先が、紙の上で動きかけた。
「先生、それは正式名称にしないでください」
見回りの札を持ってきたルークスが言った。
アルヴィンは、書きかけた二つ目の『すじ』を静かに消した。
「親しみやすさはあるのですが」
「ありすぎます」
アリアは少し笑った。
けれど、三枚の紙を見て、すぐに口元を戻した。
「白嶺の外へ出す記録には、まだ書かないでください」
温泉の沈殿物も、温室の土も、白い筋のある石も、何なのかは分かっていない。分からないものに名前がつけば、知ったつもりになる人がいるかもしれない。
アルヴィンは、消した文字の跡を見て頷いた。
「分からないものに、早く名前を与えすぎない。ですね」
「はい。白嶺で調べる紙には、分かるように書いてください。でも、外へ出す紙には、まだです」
「分けて記録します」
アリアは自分の台帳にも、小さく書き足した。
――外へ出す記録は、別にすること。
字はまだ、大人のようには整っていない。
けれど、一つずつの文字は、まっすぐだった。
* * *
第1坑の前には、新しい札が立っていた。
許可なき者、立入禁止。
石、金具、道具の持ち出しを禁ず。
入坑、出坑、すべて記すこと。
レクス・ノアは札を見上げ、小さな体ごと首を傾げた。
「白嶺、字で怒ってる」
「警告文だ」
「まあ、間違っちゃいねえ」
ディートが鼻を鳴らした。
札の前には、ルークスが集めた四人が並んでいた。若者が二人。壮年の男が二人。持っているのは短槍や杖、鉈、縄、それに笛だった。
揃いの服も、立派な名前もない。
ルークスはひとまず、白嶺見回り組と呼んだ。
「やることは四つです」
ルークスは指を一本ずつ立てた。
「見つける。知らせる。近づけない。追いすぎない」
若者の一人が、短槍の柄を握り直した。
「捕まえなくていいんですか」
「捕まえられる時でも、坑道の奥へ追いません。まず笛を鳴らしてください」
ディートが、入口の暗がりへ顎を向けた。
「坑道番は、強い奴より戻れる奴がいい」
アルヴィンも手を挙げた。
「第1坑では急に走ると乾いた粉じんが舞い上がり、カンテラの火の見え方が変わります。また、足元の水や壁際の粉の乱れが消えるため、危険箇所と白筋反応を記録した位置が――」
「つまり、走るなで済む」
ディートが言った。
「あるびん、長い」
「要約能力に課題がある」
二つの声に続けて言われ、アルヴィンは眼鏡の位置を直した。
「正確に伝えることも必要です」
「笛を吹く前に話が終わらなさそうですね」
ルークスにまで言われ、アルヴィンは少しだけ肩を落とした。
その日の確認では、排水溝の水が前より素直に流れていた。
入口へ置いたカンテラの火も、以前ほど大きく揺れない。
ディートは支え木を見て、石を二度叩いた。硬い音が返る。
「入口だけなら、前よりましだ」
石工が、わずかに笑った。
ディートの言葉としては、とても褒めているらしい。
アルヴィンは排水の横へしゃがみ、目盛りのついた硝子管を見た。
「白筋反応が強く出た場所と、水の流れが悪かった場所は近いようです」
「白いものが、水を止めていますか」
「そこまでは言えません」
アルヴィンはすぐに答えた。
「湯と水と石のあいだを、何かが移動しているように見えます。ですが、それが何かも、どちらが先かも、まだ分かりません」
アリアは台帳を開いた。
「では、分からないまま、記録します」
「はい」
「分かったふりよりは、ましだ」
ディートがぼそりと言った。
第1坑は、ほんの少しだけ息を取り戻していた。
けれど、閉じていた入口に人が立ち、板を替え、カンテラを置けば、山道からもそれが見える。
開き始めたものは、外からも見つけられるのだった。
* * *
午後の見回りが交代する少し前だった。
レクス・ノアが、ふいに顔を上げた。
鼻先が、第1坑の裏手へ向く。
「知らない足」
「匂いだ」
「知らない足の匂い」
ルークスの表情が変わった。
すぐに皆で入口の裏へ回る。雪の残る斜面と、土の出た山道の境目に、深い足跡があった。
白嶺の者が使う道から、少し外れている。
ディートがしゃがみ、泥へ指を近づけた。触れずに、窪みの形を見る。
「三人だ」
少し先には、片側だけ深い跡が続いていた。
「一人は荷を背負っとる。一人は右足を引きずってるな」
「坑道の人ですか」
アリアも足跡を見た。
「山道には慣れとる。だが、坑道を知っとる歩き方じゃない」
アルヴィンは足跡ではなく、その横へ目を向けた。
泥の上に、白い粉が細く散っている。
「白い筋のある石を、選んで削った可能性があります」
ディートの目が細くなった。
ルークスは笛を一度、短く鳴らした。
見回り組が、声を立てずに集まる。
「四つの決まりを忘れないでください。奥へ追わない。勝手に走らない」
ルークスの声に、四人が頷いた。
アリアの胸が、強く鳴った。
知らない人がいる。
今度は、残された跡だけではない。
怖い。
それでも、アリアは台帳を胸に抱え、ルークスの後ろを歩いた。
* * *
第1坑へ入ると、春の明るさはすぐに背中へ遠ざかった。
見回り組が掲げる二つのカンテラだけが、坑道の壁を丸く照らしている。光の縁では赤い印も薄れ、その先は、壁があるのか道が続くのかさえ分からない闇だった。
少し奥に、もう一つカンテラの火が揺れていた。
盗掘者たちのカンテラだ。
その黄色い光が動くたび、三人の影が支え木から天井へ長く伸び、また縮んだ。
一人が袋を押さえ、一人が壁に掛けたカンテラを外している。
もう一人は、支保工に留められた鉄の金具へ、粗末な工具をかけていた。
「それを抜くな!」
坑道の空気を震わせるほどの声で、ディートが怒鳴った。
男の手が止まった。
三人が振り返る。けれど、顔はカンテラの逆光に沈み、目も口もよく見えなかった。
「何だよ。廃坑だろ」
「誰も使ってねえと思ったんだ」
「外に札があったでしょう」
アリアは一歩、前へ出た。
カンテラの光も、一緒に一歩進む。靴の先にあった石が見え、すぐ先の闇はそのぶんだけ後ろへ退いた。
膝が固くなりそうだった。けれど、隣ではルークスが杖を構えている。後ろにはディートと見回り組がいるはずだった。振り返らなくても、もう一つのカンテラが作る影で分かった。
「白嶺は、捨てられた場所ではありません」
盗掘者の足元で、袋が傾いていた。カンテラが揺れるたび、口から覗く錆びた鉄具が鈍く光る。その下にカンテラの部品と、小さな鉱石片がある。白い筋の入った石片だけが、火を受けるたび短く浮かび上がった。
ディートは、男が工具をかけていた金具を指した。
「石を盗るだけなら、まだ馬鹿で済んだ」
低い声だった。
「支えを抜けば、人が死ぬ」
「知らねえよ。白い筋の石は、山麓で買う奴がいるって聞いただけだ」
白い筋。
その言葉に、アルヴィンの視線が袋へ動いた。
「誰が買うのですか」
「名前なんか知らねえ」
「どこで聞きましたか」
「酒場だよ。たぶんな」
三人のうち、足を引きずっていた男が後ずさった。
光の縁にあった足が、闇へ半分沈む。
その踵が、石片を蹴った。乾いた音だけが、見えない奥へ跳ねていく。
「逃げるぞ!」
一人が、坑道の奥へ身を翻した。
盗掘者のカンテラが大きく振られた。
光が壁を走り、支え木が次々と現れては消える。三人の姿も一度に崩れ、どれが誰の影なのか分からなくなった。
「奥へ追い込まない!」
ルークスが叫ぶ。
「入口側へ回せ! 笛!」
甲高い音が、坑道に響いた。
音だけが先へ届き、暗がりから幾重にも返ってくる。
若者の一人が駆け出しかける。
「走るな! 坑道で走る奴は死ぬ!」
ディートの声に、若者は足を踏みしめて止まった。
見回りのカンテラが横へ振られた。
光の中へ、逃げた男の肩が突然飛び込んでくる。壮年の一人が杖を伸ばし、入口側の道を塞いだ。
ぶつかった靴が、乾いた粉を巻き上げる。
粉じんはカンテラの光を白く濁らせた。さっきまで見えていた赤い印が消え、別の男の姿も壁際の闇へ溶ける。
「右です! その先は支えが弱いです!」
舞い上がった粉と、濁った光の向こうに一瞬だけ見えた赤い印を頼りに、アルヴィンが声を上げた。
ルークスは男の姿ではなく声の方向へ杖を出した。硬い手応えがあり、影がよろめく。カンテラを持つ見回り役が半歩ずれると、男の背中が光の中へ戻った。
レクス・ノアの小さな体が前へ出かけた。
「追う?」
「止まれない」
レクスが短く告げる。
「追わないでください」
アリアも言った。
レクス・ノアは不満そうに鼻を鳴らした。けれど、その場に留まり、光の届かない方へ鼻先を動かす。
倒れた袋のこちら側は照らされていた。だがその向こう側は、アリアの目では暗闇で見通せない。
「袋、くさい」
「人だ」
袋の向こうで、闇がわずかに息をした。
見回り役がカンテラを低く差し出す。
光が袋の下をくぐり、泥のついた靴を照らした。一人が身を縮め、荷物の陰へ貼りついている。
見回り組の二人が、カンテラを正面に残したまま左右から縄を持って近づいた。影ごと逃げ道を塞ぎ、腕を取る。
入口へ向かった男も、足を引きずる男も、ほどなく地面へ座らされた。
大きな剣を振るう者はいなかった。
誰も、坑道の奥まで追わなかった。
二つのカンテラと、笛と杖と縄があった。
ディートの規則と、わずかな印を見落とさなかったアルヴィンの目と、暗がりの向こうを嗅ぎ分けたレクス・ノアの鼻があった。
それで三人は、全員捕まった。
* * *
入口の外へ運び出した袋を、アリアは一つずつ確認した。
「古い鉄具、三つ。カンテラの部品、二つ。白い筋のある石片、五つ。小さな鉱石片、四つ」
ルークスが読み上げ、アリアが台帳へ書く。
「粗末な工具、一つ。支保工の金具は、外される前でした」
「外そうとしたことも、書きます」
アリアは、もう一行を足した。
アルヴィンは白い筋のある石片を見つめていた。
とても調べたそうな顔だった。
「証拠です」
アリアが言う。
アルヴィンの手が止まった。
「……証拠が先です」
ルークスが小さく笑った。
「先生が我慢を覚えていますね」
「記録のためです。証拠としての番号と、後で調査を許された場合の研究番号を別にして、同じ石だと分かるようにすべきでしょう」
「同じ石でも、見る場所が違うのですね」
「はい。ですが、同じものだと分からなくなってはいけません」
アリアは台帳の石片の横に、小さな丸を書いた。
捕らえた男たちは、買い手の名前を知らないと言った。
誰かに雇われたのかと聞けば、三人とも答えが違った。仕事を聞いた。酒場で噂を聞いただけだ。白い石なら何でもよかった。
どれが本当なのか、アリアには分からなかった。
集まった白嶺の若者たちは、三人を睨んでいた。
「山から放り出せばいい」
「ワイバーンにでもくれてやれ」
レクス・ノアが真面目に顔を上げた。
「ワイバーン、食べる?」
「食性による」
「検討しないでください」
ルークスがすぐに止めた。
「やめとけ。腹を壊す」
ディートが言い、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
けれど、アリアは笑わなかった。
「人を、誰かに食べさせるものにはしません」
若者たちが黙る。
アリアは台帳を閉じなかった。
「逃がしません。今夜は、縄をつけて見張ります」
三人の男を見る。怖さは、まだ胸の中に残っていた。
「盗ったものと、危ないことをした記録を、明日の朝、男爵家へ持っていきます。この人たちも、一緒にお願いします」
「白嶺で罰しないのですか」
見回り組の若者が尋ねた。
アリアは少し考えた。
「罰は、正しく扱える場所へお願いします」
そして、第1坑の札へ目を向けた。
「でも、白嶺のものを守ることは、白嶺で始めます」
ルークスが、まっすぐ頷いた。
「承りました」
ディートも何も言わず、一度だけ頷いた。
* * *
その夜、仮住まいの机には五冊の薄い帳面が並んだ。
鉱山立入台帳。
見張り当番。
持ち出し記録。
白筋反応記録。
侵入者記録。
アリアは、同じ日付を五度書いた。
アルヴィンは、証拠の石片へ触れず、対応する番号だけを自分の紙へ写した。
ルークスは翌朝の護送に出る者を決めた。見張りが空にならないよう、残る者の名も書く。
ディートは暖炉のそばで、古いカンテラの芯を切っていた。
「開ければ、人が来る」
小さな火が、明るく整う。
「人が来れば、守る手が要る」
アリアは五冊の帳面を見た。
第1坑を戻すことは、石を掘ることではない。
人が入っても帰れるようにすること。
誰が入り、何を持ち、何を持ち出したのか、分かるようにすること。
白嶺の入口を開くなら、白嶺の手で守ること。
「はい」
アリアは最後の一行を書き終えた。
翌朝、三人の男は縄でつながれた。
ルークスと見回り組の二人が、盗品と記録を持ち、男爵領へ向かう。
アリアは山道の端で、それを見送った。
怒りは、まだあった。
怖さも、なくなってはいない。
それでも、山へ放り出さなかった。盗品と記録を分け、三人を男爵領へ渡す。その手順だけを、アリアは最後まで見届けた。
見送りを終え、第1坑へ戻る。
入口には、新しい札が立っていた。
許可なき者、立入禁止。
持ち出し、禁ず。
入坑、出坑、すべて記すこと。
レクス・ノアが札を見上げた。
「白嶺、起きた?」
「少なくとも、眠ったままではない」
春先の風が、札の端を揺らした。
坑道の奥で、水音がする。
ごぼり。
雪解けの水が、見えないどこかで流れを変えた。




