第20話 作業着で来いと言われたので
仮住まいの小さな居間で、アリアは両腕を少しだけ持ち上げた。
厚い上衣が、むくりと鳴る。中に綿を詰めたような、見慣れない作業着だった。膝には革の当てものがあり、手には大きめの手袋がある。足元もいつもの靴ではなく、底の厚い木靴だった。
「重いです」
暖炉のそばで丸くなっていたレクス・ノアが顔を上げた。
「歩ける」
「もこもこ、歩く」
ノアの声が弾んだ。
アリアは一歩、二歩と進んでみる。いつもより足が重い。けれど、転びそうにはならなかった。
「少し、歩きにくいです」
「それでいい」
戸口から、ディートが言った。
手には古いカンテラを持っている。カンテラの金具はよく磨かれ、ガラスには曇りがなかった。
「坑道で楽な格好をしたがる奴は、たいてい余計なところへ行く」
アリアは上衣の袖口を見た。手首まで隠れている。昨日まで、坑道へ行くには道具と人がいるのだと思っていた。けれど、着るものにも理由があるらしい。
レクス・ノアは、机に置かれた布帽子へ鼻先を近づけた。
「茸だ」
「帽子です」
「茸の帽子」
「載せるなよ」
レクスの声が少し早くなった。
帽子へ伸びかけた小さな前足が、すごすごと引っ込む。アリアは帽子を拾い上げ、自分の頭へそっと載せた。
「わたしのです」
「きのこ……」
残念そうなノアの声に、レクスは何も言わなかった。
ディートの口元が、ほんの少しだけ動いた。
* * *
仮住まいの外には、ルークスとアルヴィンが待っていた。ルークスの腰には縄があり、アルヴィンはいつもの鞄に加えて、小さな木箱を抱えている。
「先生も、作業着ですか」
アリアが言うと、アルヴィンは自分の上衣を見下ろした。
その服は、たしかに帝都で着ていたものより丈夫そうだった。けれど、袖口には昨日の墨が残っている。
「借りました。とても動きやすいです」
「それは何よりだ」
ディートは言ったが、声はあまり褒めていなかった。
アリアの前にしゃがみ込み、木靴の紐へ手を伸ばす。結び目を指で引くと、すぐにほどけた。
「あ」
「見ろ」
ディートはアリアを見上げず、紐を結び直した。
「坑道でほどける紐は、石より怖い」
太い指が、きつく結び目を作る。
「石は音で知らせる。紐は黙って足を取る」
アリアは黙って頷いた。
ディートは立ち上がり、今度は全員を見た。
「今日、見るのは第1坑の入口だけだ」
アルヴィンが小さく頷く。鞄の口を閉じる手つきまで、いつもより静かだった。
「奥へ行かん。壁に触らん。排水を開けん。カンテラの火が揺れたら止まる。俺が帰れと言ったら、理由を聞かず帰る」
ディートは一つずつ指を折った。
「それから、学者を一人にせん」
「はい」
ルークスが答えるより先に、アリアが返事をした。
アルヴィンが少しだけ肩をすくめる。
「私も、同意しています」
「本当に?」
「……同意しています」
アリアは鞄から小さな紙を出した。朝、何度も書き直した紙だ。上には、少し曲がった字で題がある。
旧坑道立入仮規則。
ディートの言葉を聞きながら、アリアは紙へ短く書き足した。
入るのは入口だけ。
帰ると言われたら帰る。
紐を見る。
書いた最後の行を見て、ルークスが息をこぼした。
「大事ですね」
「大事です」
アリアは紙を胸元へしまった。
「アルヴィン先生が足を取られたら、困りますから」
「気をつけます」
「気をつけるだけでは足りん。歩く前に足元を見ろ」
ディートが言った。
アルヴィンは口を閉じた。
* * *
第1坑は、前に見た旧鉱道口から斜面を少し上がったところにあった。
山肌に横たわる口は、前の入口より低い。太い木で半分を塞がれ、その前には新しい縄が張られている。入口の左右には、雪を避けるように黒い石が積まれていた。
石工は、その縄のそばで待っていた。
背の曲がった男だったが、両手は石粉で白い。挨拶の代わりに、入口の木を顎で示した。
「こいつは、替える」
「まだ、入っていないのにですか」
アリアが聞くと、石工は木の根元を靴先で軽く蹴った。
乾いた皮が、ぱらりと落ちる。
「入る前だから替える」
ディートが頷いた。
「第1坑は、昔は見習いも使った。浅い。入口も広い」
アリアは、少しだけ安心しかけた。
「死ににくいだけだ」
ディートの声で、その気持ちはすぐに引っ込んだ。
「怖いと思うなら、怖がっとけ。怖がる奴は、足元を見る」
アリアは木靴の先を見た。雪の下から、黒い土がのぞいている。
「怖いから、規則を守ります」
ディートはカンテラの火を確かめた。
「それでいい」
入口の中は、外よりずっと暗かった。冷たい空気が出てくると思っていたのに、頬へ触れたのは湿った、ぬるい風だった。
レクス・ノアの尻尾が、足元で止まる。
「濡れている」
「石が、汗をかいてる」
「水分だ」
「汗も水分」
レクスは返さなかった。
* * *
まず入ったのはディートと石工だった。
二人は入口から数歩のところで立ち止まり、支え木を見上げる。石工が木へ耳を寄せ、ディートはカンテラを高く掲げた。
火は、まっすぐ燃えている。
ディートが壁を拳で二度叩いた。
硬い音が、坑道の奥へ走る。
「ここは生きとる」
次に、少し右の壁を叩く。
今度の音は、短く鈍かった。
「こっちは鈍い。触るな」
アリアは思わず、手袋を胸へ引き寄せた。
アルヴィンは縄の外で木箱を開け、小さな温度器具と目盛りのある硝子管を並べている。細い棒を足元の水へ差し、しばらく待ってから帳面へ数字を書いた。
「水は冷たくありません。けれど、入口の外より揺れが遅い」
「何が、遅いのですか」
「硝子管の中の水です。温かさに合わせて動くはずなのですが」
アルヴィンは首を傾げた。
「ここでは、少し考えてから動いています」
レクス・ノアが壁を見た。
「石が返事をしている」
「空洞の反響だ」
「返事」
「現象だ」
ディートは二人の声を聞き、カンテラを下ろした。
「鉱夫には同じことだ」
アリアは壁を見た。石は何も言っていない。ただ、叩かれたところだけが、少し違う音を返した。入口の紙へ、その違いを一行だけ書き留めた。
「入るぞ」
ディートが言った。
「数える。二十歩で止まる」
アリアは頷いた。
ルークスが先に縄を持ち、アリアのすぐ後ろへつく。レクス・ノアはアリアの足元を歩き、アルヴィンはその後ろで器具を抱えた。誰も前後を離れなかった。
一歩。
二歩。
木靴の底が、湿った土へ沈む。
十歩目で、カンテラの火がかすかに傾いた。
ディートの手が上がる。
全員が止まった。
アリアは息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。
「揺れました」
「まだ消えん」
ディートは火を見たまま答える。
「だが、進むな」
足元の端を、細い水が流れていた。黒い土の上を通り、壁の下へ吸い込まれている。その音を、レクス・ノアがじっと聞く。
「流れは、奥だけではない」
レクスの声は低かった。
「下と、横」
「横も?」
アリアが聞くと、レクス・ノアは濡れた壁へ鼻先を向けた。
「ここから、あっちへ行ってる」
ノアの声は、外から見れば何もない闇を指していた。
ディートは水の音へ顔を向ける。
「見るな。聞け」
アリアも目を伏せた。
ぽた、ぽた、と落ちる音の下に、ごく小さく、ごぼり、と鳴るものがある。水がどこかで息をしているようだった。
アルヴィンの硝子管の液面が、ゆっくり揺れた。
「外の排水溝と、同じではありません」
アルヴィンは声を抑えて言った。
「けれど、関係はあるかもしれない。水が奥から来るだけではなく、途中で下や横へ分かれているなら……」
「言い切るな」
ディートが遮った。
アルヴィンはすぐに口を閉じた。
「坑道は人を食う。分かった気になった奴から、奥へ入る」
カンテラの火が、もう一度だけ揺れた。
「戻るぞ」
今度は、誰も反対しなかった。
* * *
入口へ戻ったところで、石工が壁の低い位置を指した。
「これは古い」
そこには、細い筋が何本も残っていた。まっすぐではなく、石の目に沿うように続いている。
ディートがしゃがみ込む。
「昔の手だ。石を割る前に、逃げるところを作っていた」
「逃げるところ?」
「石にも、割れやすい向きがある。逆らえば、余計なところまで傷む」
アリアは筋へ触れそうになり、さっきの言葉を思い出して手を止めた。
「白嶺の宝、ですか」
ディートは首を振る。
「早い」
けれど、その声はさっきより少しだけ低かった。
石工が、さらに奥の白い筋を照らした。
そこだけ、石の肌が新しかった。古い跡を横切るように、刃物で削った細い傷が走っている。
ディートの顔から、わずかな柔らかさが消えた。
「新しい」
石工が短く言う。
ディートは壁のすぐ手前まで行き、触れずに見た。少し離れた足元には、錆びた鉄の端が落ちている。支え木の脇にあったはずの留め金が、一つ抜けていた。
その上の天井が、わずかにたわんでいる。
「石を盗っただけなら、まだ馬鹿で済んだ」
ディートの手が、カンテラの柄を強く握った。
「支えを抜いたのか。坑道を知らん手だ」
アリアの背中が、冷たくなった。
石を持っていく人がいる。それだけでも嫌だった。でも、石を取るために、ここへ入る人がいる。支えを抜けば、誰かが歩く場所まで落ちてくるかもしれない。
レクス・ノアは、落ちた鉄の近くで鼻を動かした。
「知らない匂い」
「白嶺の人ではない」
レクスが続ける。
ルークスが入口の外へ目を向けた。
「盗掘か、鉄くず拾いか。どちらにしても、見張りが要りますね」
アルヴィンは、白い筋の前で止まっていた。鞄から小瓶を出しかけて、その手を止める。
「欠片だけでも、見比べられれば」
アリアは壁と、抜かれた留め金を見た。
「先生、それは後でお願いします。今は、ここまでです」
アルヴィンが顔を上げる。
小瓶を持つ手が、ゆっくり鞄へ戻った。
「見つけたから、追うのではありません」
アリアは、自分の手袋を見た。さっきは大きすぎると思った手袋が、今は少しだけ頼もしい。
「見つけたから、守ります」
ディートはしばらくアリアを見ていた。
それから、入口の外へ顎を向けた。
「縄を二重にしろ。木も今日中に替える」
「はい」
「近づく者は、見たら書け。だが、村中へは言うな」
ルークスが頷く。
「坑道を知る人にだけ、先に見てもらいます」
「学者も一人にせん」
「はい」
アリアとルークスの返事が重なった。
ノアが、小さく胸を張った。
「秘密を守る番」
「見張り番だ」
「見張り番。かっこいい」
レクスは訂正しただけだったが、レクス・ノアの尻尾は少し上を向いた。
* * *
夜、仮住まいの居間の机には、新しい印が増えた。
第1坑。排水の音。古い工具跡。新しい切り跡。抜かれた留め金。入口の見張り。
アリアは革紐の小さな欠片を、紙の端に置いた。石工が入口の外で見つけたものだ。濡れて固くなり、誰のものかは分からない。
アルヴィンは、切り跡を写した紙を見ていた。
「地下に、何か価値のあるものがあると知っていたのでしょうか」
「まだ、分かりません」
アリアは答えた。
「分からないから、勝手に取られないようにします」
ルークスが、地図の入口へ小さな丸をつけた。
「見張りは二人ずつにしましょう。知らない人が山道へ入った時も、ここまで知らせが来るようにします」
ディートは椅子へ深く座り、古いカンテラの芯を整えていた。
「鉱山を開けるなら、石のことだけ覚えても足りん」
火が、小さく明るくなる。
「守り方も覚えろ」
アリアは地図の上に手を置いた。
「はい」
窓の外では、山のほうに雲がかかっていた。第1坑の入口は、今ごろ新しい縄で二重に囲まれているはずだ。
その暗い奥で、水が一度だけ低く鳴った。
ごぼり、と。




