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龍と廃嫡皇女のシェアハウス  作者: 三連九
第3章 白嶺の再始動
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第20話 作業着で来いと言われたので

 仮住まいの小さな居間で、アリアは両腕を少しだけ持ち上げた。


 厚い上衣が、むくりと鳴る。中に綿を詰めたような、見慣れない作業着だった。膝には革の当てものがあり、手には大きめの手袋がある。足元もいつもの靴ではなく、底の厚い木靴だった。


「重いです」


 暖炉のそばで丸くなっていたレクス・ノアが顔を上げた。


「歩ける」


「もこもこ、歩く」


 ノアの声が弾んだ。


 アリアは一歩、二歩と進んでみる。いつもより足が重い。けれど、転びそうにはならなかった。


「少し、歩きにくいです」


「それでいい」


 戸口から、ディートが言った。


 手には古いカンテラを持っている。カンテラの金具はよく磨かれ、ガラスには曇りがなかった。


「坑道で楽な格好をしたがる奴は、たいてい余計なところへ行く」


 アリアは上衣の袖口を見た。手首まで隠れている。昨日まで、坑道へ行くには道具と人がいるのだと思っていた。けれど、着るものにも理由があるらしい。


 レクス・ノアは、机に置かれた布帽子へ鼻先を近づけた。


「茸だ」


「帽子です」


「茸の帽子」


「載せるなよ」


 レクスの声が少し早くなった。


 帽子へ伸びかけた小さな前足が、すごすごと引っ込む。アリアは帽子を拾い上げ、自分の頭へそっと載せた。


「わたしのです」


「きのこ……」


 残念そうなノアの声に、レクスは何も言わなかった。


 ディートの口元が、ほんの少しだけ動いた。


* * *


 仮住まいの外には、ルークスとアルヴィンが待っていた。ルークスの腰には縄があり、アルヴィンはいつもの鞄に加えて、小さな木箱を抱えている。


「先生も、作業着ですか」


 アリアが言うと、アルヴィンは自分の上衣を見下ろした。


 その服は、たしかに帝都で着ていたものより丈夫そうだった。けれど、袖口には昨日の墨が残っている。


「借りました。とても動きやすいです」


「それは何よりだ」


 ディートは言ったが、声はあまり褒めていなかった。


 アリアの前にしゃがみ込み、木靴の紐へ手を伸ばす。結び目を指で引くと、すぐにほどけた。


「あ」


「見ろ」


 ディートはアリアを見上げず、紐を結び直した。


「坑道でほどける紐は、石より怖い」


 太い指が、きつく結び目を作る。


「石は音で知らせる。紐は黙って足を取る」


 アリアは黙って頷いた。


 ディートは立ち上がり、今度は全員を見た。


「今日、見るのは第1坑の入口だけだ」


 アルヴィンが小さく頷く。鞄の口を閉じる手つきまで、いつもより静かだった。


「奥へ行かん。壁に触らん。排水を開けん。カンテラの火が揺れたら止まる。俺が帰れと言ったら、理由を聞かず帰る」


 ディートは一つずつ指を折った。


「それから、学者を一人にせん」


「はい」


 ルークスが答えるより先に、アリアが返事をした。


 アルヴィンが少しだけ肩をすくめる。


「私も、同意しています」


「本当に?」


「……同意しています」


 アリアは鞄から小さな紙を出した。朝、何度も書き直した紙だ。上には、少し曲がった字で題がある。


 旧坑道立入仮規則。


 ディートの言葉を聞きながら、アリアは紙へ短く書き足した。


 入るのは入口だけ。


 帰ると言われたら帰る。


 紐を見る。


 書いた最後の行を見て、ルークスが息をこぼした。


「大事ですね」


「大事です」


 アリアは紙を胸元へしまった。


「アルヴィン先生が足を取られたら、困りますから」


「気をつけます」


「気をつけるだけでは足りん。歩く前に足元を見ろ」


 ディートが言った。


 アルヴィンは口を閉じた。


* * *


 第1坑は、前に見た旧鉱道口から斜面を少し上がったところにあった。


 山肌に横たわる口は、前の入口より低い。太い木で半分を塞がれ、その前には新しい縄が張られている。入口の左右には、雪を避けるように黒い石が積まれていた。


 石工は、その縄のそばで待っていた。


 背の曲がった男だったが、両手は石粉で白い。挨拶の代わりに、入口の木を顎で示した。


「こいつは、替える」


「まだ、入っていないのにですか」


 アリアが聞くと、石工は木の根元を靴先で軽く蹴った。


 乾いた皮が、ぱらりと落ちる。


「入る前だから替える」


 ディートが頷いた。


「第1坑は、昔は見習いも使った。浅い。入口も広い」


 アリアは、少しだけ安心しかけた。


「死ににくいだけだ」


 ディートの声で、その気持ちはすぐに引っ込んだ。


「怖いと思うなら、怖がっとけ。怖がる奴は、足元を見る」


 アリアは木靴の先を見た。雪の下から、黒い土がのぞいている。


「怖いから、規則を守ります」


 ディートはカンテラの火を確かめた。


「それでいい」


 入口の中は、外よりずっと暗かった。冷たい空気が出てくると思っていたのに、頬へ触れたのは湿った、ぬるい風だった。


 レクス・ノアの尻尾が、足元で止まる。


「濡れている」


「石が、汗をかいてる」


「水分だ」


「汗も水分」


 レクスは返さなかった。


* * *


 まず入ったのはディートと石工だった。


 二人は入口から数歩のところで立ち止まり、支え木を見上げる。石工が木へ耳を寄せ、ディートはカンテラを高く掲げた。


 火は、まっすぐ燃えている。


 ディートが壁を拳で二度叩いた。


 硬い音が、坑道の奥へ走る。


「ここは生きとる」


 次に、少し右の壁を叩く。


 今度の音は、短く鈍かった。


「こっちは鈍い。触るな」


 アリアは思わず、手袋を胸へ引き寄せた。


 アルヴィンは縄の外で木箱を開け、小さな温度器具と目盛りのある硝子管を並べている。細い棒を足元の水へ差し、しばらく待ってから帳面へ数字を書いた。


「水は冷たくありません。けれど、入口の外より揺れが遅い」


「何が、遅いのですか」


「硝子管の中の水です。温かさに合わせて動くはずなのですが」


 アルヴィンは首を傾げた。


「ここでは、少し考えてから動いています」


 レクス・ノアが壁を見た。


「石が返事をしている」


「空洞の反響だ」


「返事」


「現象だ」


 ディートは二人の声を聞き、カンテラを下ろした。


「鉱夫には同じことだ」


 アリアは壁を見た。石は何も言っていない。ただ、叩かれたところだけが、少し違う音を返した。入口の紙へ、その違いを一行だけ書き留めた。


「入るぞ」


 ディートが言った。


「数える。二十歩で止まる」


 アリアは頷いた。


 ルークスが先に縄を持ち、アリアのすぐ後ろへつく。レクス・ノアはアリアの足元を歩き、アルヴィンはその後ろで器具を抱えた。誰も前後を離れなかった。


 一歩。


 二歩。


 木靴の底が、湿った土へ沈む。


 十歩目で、カンテラの火がかすかに傾いた。


 ディートの手が上がる。


 全員が止まった。


 アリアは息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。


「揺れました」


「まだ消えん」


 ディートは火を見たまま答える。


「だが、進むな」


 足元の端を、細い水が流れていた。黒い土の上を通り、壁の下へ吸い込まれている。その音を、レクス・ノアがじっと聞く。


「流れは、奥だけではない」


 レクスの声は低かった。


「下と、横」


「横も?」


 アリアが聞くと、レクス・ノアは濡れた壁へ鼻先を向けた。


「ここから、あっちへ行ってる」


 ノアの声は、外から見れば何もない闇を指していた。


 ディートは水の音へ顔を向ける。


「見るな。聞け」


 アリアも目を伏せた。


 ぽた、ぽた、と落ちる音の下に、ごく小さく、ごぼり、と鳴るものがある。水がどこかで息をしているようだった。


 アルヴィンの硝子管の液面が、ゆっくり揺れた。


「外の排水溝と、同じではありません」


 アルヴィンは声を抑えて言った。


「けれど、関係はあるかもしれない。水が奥から来るだけではなく、途中で下や横へ分かれているなら……」


「言い切るな」


 ディートが遮った。


 アルヴィンはすぐに口を閉じた。


「坑道は人を食う。分かった気になった奴から、奥へ入る」


 カンテラの火が、もう一度だけ揺れた。


「戻るぞ」


 今度は、誰も反対しなかった。


* * *


 入口へ戻ったところで、石工が壁の低い位置を指した。


「これは古い」


 そこには、細い筋が何本も残っていた。まっすぐではなく、石の目に沿うように続いている。


 ディートがしゃがみ込む。


「昔の手だ。石を割る前に、逃げるところを作っていた」


「逃げるところ?」


「石にも、割れやすい向きがある。逆らえば、余計なところまで傷む」


 アリアは筋へ触れそうになり、さっきの言葉を思い出して手を止めた。


「白嶺の宝、ですか」


 ディートは首を振る。


「早い」


 けれど、その声はさっきより少しだけ低かった。


 石工が、さらに奥の白い筋を照らした。


 そこだけ、石の肌が新しかった。古い跡を横切るように、刃物で削った細い傷が走っている。


 ディートの顔から、わずかな柔らかさが消えた。


「新しい」


 石工が短く言う。


 ディートは壁のすぐ手前まで行き、触れずに見た。少し離れた足元には、錆びた鉄の端が落ちている。支え木の脇にあったはずの留め金が、一つ抜けていた。


 その上の天井が、わずかにたわんでいる。


「石を盗っただけなら、まだ馬鹿で済んだ」


 ディートの手が、カンテラの柄を強く握った。


「支えを抜いたのか。坑道を知らん手だ」


 アリアの背中が、冷たくなった。


 石を持っていく人がいる。それだけでも嫌だった。でも、石を取るために、ここへ入る人がいる。支えを抜けば、誰かが歩く場所まで落ちてくるかもしれない。


 レクス・ノアは、落ちた鉄の近くで鼻を動かした。


「知らない匂い」


「白嶺の人ではない」


 レクスが続ける。


 ルークスが入口の外へ目を向けた。


「盗掘か、鉄くず拾いか。どちらにしても、見張りが要りますね」


 アルヴィンは、白い筋の前で止まっていた。鞄から小瓶を出しかけて、その手を止める。


「欠片だけでも、見比べられれば」


 アリアは壁と、抜かれた留め金を見た。


「先生、それは後でお願いします。今は、ここまでです」


 アルヴィンが顔を上げる。


 小瓶を持つ手が、ゆっくり鞄へ戻った。


「見つけたから、追うのではありません」


 アリアは、自分の手袋を見た。さっきは大きすぎると思った手袋が、今は少しだけ頼もしい。


「見つけたから、守ります」


 ディートはしばらくアリアを見ていた。


 それから、入口の外へ顎を向けた。


「縄を二重にしろ。木も今日中に替える」


「はい」


「近づく者は、見たら書け。だが、村中へは言うな」


 ルークスが頷く。


「坑道を知る人にだけ、先に見てもらいます」


「学者も一人にせん」


「はい」


 アリアとルークスの返事が重なった。


 ノアが、小さく胸を張った。


「秘密を守る番」


「見張り番だ」


「見張り番。かっこいい」


 レクスは訂正しただけだったが、レクス・ノアの尻尾は少し上を向いた。


* * *


 夜、仮住まいの居間の机には、新しい印が増えた。


 第1坑。排水の音。古い工具跡。新しい切り跡。抜かれた留め金。入口の見張り。


 アリアは革紐の小さな欠片を、紙の端に置いた。石工が入口の外で見つけたものだ。濡れて固くなり、誰のものかは分からない。


 アルヴィンは、切り跡を写した紙を見ていた。


「地下に、何か価値のあるものがあると知っていたのでしょうか」


「まだ、分かりません」


 アリアは答えた。


「分からないから、勝手に取られないようにします」


 ルークスが、地図の入口へ小さな丸をつけた。


「見張りは二人ずつにしましょう。知らない人が山道へ入った時も、ここまで知らせが来るようにします」


 ディートは椅子へ深く座り、古いカンテラの芯を整えていた。


「鉱山を開けるなら、石のことだけ覚えても足りん」


 火が、小さく明るくなる。


「守り方も覚えろ」


 アリアは地図の上に手を置いた。


「はい」


 窓の外では、山のほうに雲がかかっていた。第1坑の入口は、今ごろ新しい縄で二重に囲まれているはずだ。


 その暗い奥で、水が一度だけ低く鳴った。


 ごぼり、と。


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