第19話 湯気の流れる先
翌朝の広場には、昨日の賑わいがまだ残っていた。
机を置いた跡。椅子を引きずった跡。石壁には、子供たちが背比べに使った白い線が何本も残っている。
その真ん中で、アルヴィンは地図を広げていた。
目の下が少し暗い。
「寝ていないのですか」
アリアが聞くと、アルヴィンは顔を上げた。
「少しは寝ました」
「どれくらいですか」
「途中で数えなくなりました」
ルークスが地図の向こうから、ため息をついた。
「寝ていない人の言い方です」
地図には、昨日の小さな印が増えていた。共同浴場。温室。マルタの畑。湯の排水溝。鉱山へ向かう道。そして、旧鉱道口の少し手前。
アルヴィンは、細い炭の線で三つの場所を結んでいる。
ただし、三つをつなぐ一本の水路があるわけではない。浴場へ引く湯は山側の湧き口から石樋を下り、旧鉱道口の排水溝は別の斜面へ抜けている。
アルヴィンが結んだのは、水の道ではなく、温かさや石に残る変化が似ていた場所だった。
「見てください」
差し出された指先は、共同浴場から温室を通り、旧鉱道口へ向かっていた。
「湯と土と、旧鉱道口の近くに出た印が、ばらばらではありません。今日、ここを見たいのです」
「旧鉱道口の中は見ません」
ルークスはすぐに言った。
「承知しています。外側だけでも」
「外側でも、近づき方を決めます」
マルタが広場の端から歩いてきた。手には小さな籠があり、朝摘んだ葉がのぞいている。
「昨日、畑の邪魔をした分、何か分かったんだろうね」
「まだ、分かったとは言えません」
「学者の『まだ』は長そうだね」
「長いです」
アルヴィンは迷いなく答えた。
マルタは呆れたように目を細めたが、地図を覗き込んだ。
アリアも線を見る。湯気のある場所と、温かい土のある場所と、誰も近づきたがらない古い坑道。その三つが、紙の上では近くに見えた。
「アルヴィン先生、この線は、みんなが繋がっているということですか?」
アルヴィンは「先生」と呼ばれて、少し驚いたように顔を上げた。
「かもしれない、ということです。確かめる必要がある、というご相談です」
アルヴィンの答えに頷きつつ、少し考えてから、アリアは地図の上に指を置いた。
「温泉の湯が出るところと、温室の下の水のところと、旧鉱道口の外だけなら、何ができますか」
アルヴィンは、地図とアリアを見比べた。
「湯口と温室では、流れ方と残るものを見比べられます。旧鉱道口では、水の音と、外へ出る湯気と、排水溝の様子を記録できます。どれも、持ち出さずに」
「それを、お願いします。すぐに動かしたり、壊したりしたくないです」
アリアの真剣な表情を見て、アルヴィンは首肯した。
「十分です」
「十分ではないと思います」
ルークスが言う。
「でも、そのくらいなら見張れます」
レクス・ノアが、アリアの腕から身を乗り出した。地図の温室の絵へ、小さな前足を伸ばす。
「ここ、あったかい気がする」
ノアの声だった。
「地図は温度を持たない」
レクスがすぐに言う。
「でも、湯気の絵みたい」
アルヴィンの手が観測帳へ伸びた。
「地図上の温感反応として——」
「それはたぶん、感想です」
ルークスが止めた。
「感想も、異常の入口です」
「寝不足の入口でもあるね」
マルタが言った。
アリアは、こらえきれずに少し笑った。
* * *
共同浴場の裏手は、朝から白い湯気で霞んでいた。
浴場の中へ引かれる前の湯が、石で囲まれた湯口から細く流れ出している。近くへ寄ると、冷えた頬がすぐにゆるんだ。
浴場の管理をしている老人が、腰へ手を当てて立っていた。
「こんなところまで見るのかい」
「見せてください」
アリアが頼むと、老人は頷いた。
「見るだけならな。石を外したりはするなよ」
「しません」
湯口の石の縁には、白いものが薄くこびりついていた。
雪のように見えるけれど、触れればざらりとしている。湯の流れが細くなったところほど、白さは厚かった。
アルヴィンがしゃがみ込み、顔を近づける。
「古い湯口の方が、残り方が多い」
「そりゃ、長く使ってるからだろう」
「それだけではなさそうです。こちらは同じくらい古いのに、薄い」
マルタも隣にしゃがんだ。
指先で石の端をこすり、白いものを見つめる。
「温室で使う白い粉と同じものだよ。湯の縁にたまったのを乾かして、砕くと、ああなる」
アリアは顔を上げた。
「畑に使っているものですか」
「少しだけだよ。土が重いときに、ほんの少し。撒きすぎると根が駄目になる」
「では、湯口のものと、温室の粉を、ここで見比べてもよいですか」
アルヴィンは観測帳を胸に抱えたまま聞いた。
「石を削るんじゃないよ。指先についた分だけならいい」
「ありがとうございます。持ち出しません」
「それと、今ついたものを、そのまま畑に撒くんじゃないよ」
「はい。使い方の方も、先に教わります」
アルヴィンはすぐに観測帳へ書いた。
レクス・ノアは、石の上の白いものをじっと見ている。
「おふろの粉」
ノアが言った。
「土にあったものと近い」
レクスの声は短い。
「じゃあ、畑もおふろ?」
「違う」
「でも、おふろの粉でごはんが育つ」
「言い方が危険だ」
ノアは首を傾げながら、白い石の縁へ鼻先を近づけた。
もう少しで舐めそうになり、アリアは慌てて抱き上げる。
「ノア、だめです」
「調査」
「不味かったら許さぬ」
レクスが言う。ノアが目をパチクリさせた。
ルークスは口元を押さえて横を向いた。
アルヴィンだけが、真剣な顔で観測帳を開く。
「龍種の味覚反応も、ひとつの——」
「舐めて調べる学問なら、畑に入れるんじゃないよ」
マルタの声で、観測帳は閉じられた。
アリアは抱き上げたままの小さな体を見下ろす。
「これは、まだ分からないものです」
レクス・ノアの翼が、少しだけたたまれた。
「食べない」
「はい」
湯気の向こうで、老人が小さく笑った。
* * *
温室の扉を開けると、外の冷たさが背中から離れた。
中は湿って暖かい。土の匂いと、葉の青い匂いが混ざり、硝子屋根には朝の水滴が並んでいる。
畝の下には、共同浴場の方から引いた湯が細く通っている。見えない場所で温められた土から、冬の野菜がまっすぐ葉を伸ばしていた。
ノアが目を丸くする。
「ここ、春の箱」
「温室だ」
「春の箱」
「訂正が反映されない」
マルタは畝の端へ腰を下ろした。
「春の箱か。悪くないね」
レクスは少し黙った。
マルタは、土の表面を手の甲で軽く撫でる。
「湯が強すぎると、根が弱る。弱すぎると、芽が止まる。白い粉も、少しだけ。撒きすぎると、根が焼ける」
「量は、どうやって決めるのですか」
アリアが聞く。
「土の色。葉の先。朝の匂い」
「朝の匂い」
「雨の前と、雪の前と、湯が変な日の匂いは違うよ」
アルヴィンは器具を取り出した。土の近くに置き、硝子管を覗き込む。
針がゆっくり動き、途中で震え、止まった。
「また、揃わない」
「紙より先に、土を見な」
マルタが言った。
アルヴィンは一度、観測帳を見た。それから、器具を脇へ置く。
「見ます」
アリアも、板へ書こうとしていた手を止めた。
土を見る。
湿ったところ。少し乾いたところ。葉の先が濃いところ。細い根が地面からわずかにのぞいているところ。
昨日まで、全部、土だった。
けれど今は、同じ土には見えない。
レクス・ノアも畝の端へ近づき、鼻先を土へ寄せた。
「鼻を突っ込みすぎるんじゃないよ」
マルタが言う。
「鼻は調査道具」
ノアが答えた。
「たしかに嗅覚器官ではある」
レクスが続ける。
「道具なら、ちゃんと手入れしてから使いな」
ノアは考え込み、自分の鼻を前足でこすろうとした。
小さな体がぐらりと傾く。
「危ない」
アリアはすぐに両手を出した。
レクス・ノアは腕の中へ収まり、何事もなかったように瞬きをした。
アルヴィンが真剣に見ている。
「龍種は嗅覚器官の自己清掃を——」
「書くんじゃないよ」
マルタが言った。
アルヴィンは、今度は紙を出さなかった。
アリアは温室の向こうを見た。硝子の外では白い雪が残り、その下で温かい湯が土を通っている。
「アルヴィン先生が地図にしてくれたから、温室と湯口がつながって見えました」
アルヴィンがこちらを見る。
「白いものも、ここで見比べてください。外へは、まだ出しません」
「はい」
「持ち出さなくても、比べられることはあります。乾かした前後の重さ、湯への溶け方、土に混ぜたときの様子。マルタさんの手順を崩さない範囲で、記録します」
「お願いします」
アリアが言うと、アルヴィンは頷いた。
「任せてください」
マルタは返事をしなかった。
ただ、アリアの前にあった小さな籠を、少しだけ畝から離れた場所へ置き直した。
* * *
旧鉱道口の近くまで来ると、空気が急に冷たくなった。
温室の湿り気は、服の内側にまだ少し残っている。それが、山から下りてくる乾いた冷たさに押されていく。
坑道口の前には、古い板と鎖が渡されていた。小さな崩落の跡には、石が不揃いに積まれ、脇の排水溝には苔が貼りついている。
岩の一部には、白い筋が走っていた。
ルークスは持ってきた縄を張り、近づける場所を決める。
「ここから先は駄目です」
「分かっています」
アルヴィンは答えたが、目は坑道の暗がりへ向いていた。
「先生、中へ入るのは別の日にしましょう」
アリアは、縄の向こうの暗がりを見た。
「でも、外から調べられることは、まだありますか」
アルヴィンは目を閉じ、息をひとつ吐いた。それから、排水溝と坑道口を順に見た。
「あります。水の量と温かさ、湯気の出る場所、音が変わる時刻を記録します。縄の外からで足ります」
「では、それをお願いします」
レクス・ノアは、アリアの足元で坑道口を見ていた。
その小さな体が、わずかに固くなる。
流路。
熱。
沈殿。
詰まり。
圧。
言葉とも、記憶とも違うものが、レクスの中に短く浮かんでは消えた。
「ここ、息がしにくい」
ノアの声が小さくなる。
アリアは、思わず抱き上げた。
「苦しいですか」
「苦しいのと、ちょっと違う。ここ、怒ってる石の匂い」
「石は怒らない」
「じゃあ、むすっとしてる」
「石はむすっともしない」
マルタが坑道口を見た。
「古い坑道なら、むすっともするだろうさ」
「マルタさんまで乗らないでください」
ルークスが言った。
けれど、誰も笑わなかった。
坑道の奥は暗い。
暗がりの前に立つと、古い板のきしみさえ、こちらを止めているように聞こえた。
そのときだった。
ごぼり、と低い音がした。
脇の排水溝で、石蓋がわずかに持ち上がる。
隙間から、白い湯気がひとすじ漏れた。
次の瞬間、温かい水が、ほんの少しだけ逆へ流れた。
マルタの顔色が変わる。
「水は、そっちへ戻らない」
アルヴィンも、何も書かなかった。
レクス・ノアが石蓋を見つめる。
「詰まっている」
レクスの声は低い。
「おなかいっぱい?」
「水路に胃はない」
「でも、詰まって、戻した」
レクスは少し黙った。
「比喩としては不快だが、近い」
アルヴィンが、思わず頷いた。
「……比喩としては、かなり近いです」
「そこで納得するんですか」
ルークスが言った。
アルヴィンは石蓋と、地図の入った筒を見比べる。
「白嶺に何かが湧いているのではなく、本来は流れるものが、どこかで詰まり、分かれ、別の場所へ漏れているのかもしれません」
アリアは、温室の葉を思い出した。
湯気。土。白いもの。暖かな畝。
それから、暗い坑道口。
「源ではなく、詰まりかもしれません」
アルヴィンの言葉は、冷たい空気の中へ消えた。
答えのようには聞こえなかった。
まだ、入口に立っただけの言葉だった。
* * *
「石蓋を外せば、見られます」
アルヴィンが言った。
「外しません」
ルークスは即答した。
「中に何があるか、確かめるだけでも」
「道具が足りません。人手も」
マルタが言う。
「畑とは違って、崩れたら一人じゃ元へ戻せないんだよ」
アリアは、ずれた石蓋を見た。
そこから湯気が細く上がっている。
蓋を動かせば何かが分かるかもしれない。でも、分からなくなるものがあったら……。
「先生が見つけてくれたから、『ここ』になにかあるかもしれないってわかりました」
アリアは言った。
アルヴィンがこちらを見る。
「蓋は準備がいりそうです。次に、外からできることはありますか」
「毎日、同じ時刻に水の量と温かさを見ます。湯気の出る場所も地図に足します。古い水路図があれば、今の流れと重ねられます」
「それを先にしましょう」
アリアは指を一本ずつ折った。
「坑道のことですから、まずディートさんに話を聞きます。古い水路の図と、坑道の図を探します。石を見られる人も呼びます。それまでは、ここは立ち入りを制限します」
ルークスが頷く。
「縄も増やします」
「温室と浴場は、いつもどおり使います。でも、変わったことがあったら教えてください」
マルタは短く頷いた。
「先生、準備ができるまで、外から見てできることをお願いします」
「承知しています」
アルヴィンは、今度はすぐに答えた。
ノアが、アリアの腕の中で考え込んだ。
「準備は、えらい待つ?」
「えらい待つ、です」
アリアは頷いた。
「意味は不明だが、方針としては正しい」
レクスが言った。
ルークスは、少しだけ笑った。
マルタも、口元だけを動かした。
* * *
夜、仮住まいの机には、昼間の地図が広げられていた。
アルヴィンが三つの場所を線で結び、ルークスが旧鉱道口の近くへ大きな丸をつける。マルタは温室の方を指して、朝と夕方で葉がどう変わるかだけを短く教えた。
アリアは、それを板へ書き写した。
共同浴場の湯気。
温室の土。
旧鉱道口の水音。
板の上では、毎日使う湯と、困らせた場所の水音が一本の線で結ばれた。水路が別でも、次に確かめる場所は見えてきた。
怖いから、全部をやめるわけにはいかない。
でも、分からないから、勝手に使ってもいけない。
レクス・ノアは机の端に座り、地図を見ていた。
小さな前足が、温室と旧鉱道口の間に置かれる。
「ここ、つまってる」
ノアが言った。
「でも、あったかい」
レクスは否定しなかった。
マルタが地図を見て、ふうん、とだけ言う。
しばらくして、ノアは温室の絵を指した。
「明日も春の箱?」
「夜明け前に来るならね」
マルタが答える。
「アリア、起きる?」
アリアの手が止まった。
「起きます」
「起床支援は可能だ」
レクスが言う。
「どのようにですか」
「顔をぺしぺし」
「有効だ」
アリアは、しばらくレクス・ノアを見た。
「それは、できれば遠慮したいです」
窓の外で、共同浴場の湯気が白く上がっていた。
温室の下では、湯が静かに流れている。
そして旧鉱道口では、ずれた石蓋の下から、一度だけ水音がした。
ごぼり。
流れに逆らうような、低い音だった。




