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龍と廃嫡皇女のシェアハウス  作者: 三連九
第3章 白嶺の再始動
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第19話 湯気の流れる先

 翌朝の広場には、昨日の賑わいがまだ残っていた。


 机を置いた跡。椅子を引きずった跡。石壁には、子供たちが背比べに使った白い線が何本も残っている。


 その真ん中で、アルヴィンは地図を広げていた。


 目の下が少し暗い。


「寝ていないのですか」


 アリアが聞くと、アルヴィンは顔を上げた。


「少しは寝ました」


「どれくらいですか」


「途中で数えなくなりました」


 ルークスが地図の向こうから、ため息をついた。


「寝ていない人の言い方です」


 地図には、昨日の小さな印が増えていた。共同浴場。温室。マルタの畑。湯の排水溝。鉱山へ向かう道。そして、旧鉱道口の少し手前。


 アルヴィンは、細い炭の線で三つの場所を結んでいる。


 ただし、三つをつなぐ一本の水路があるわけではない。浴場へ引く湯は山側の湧き口から石樋を下り、旧鉱道口の排水溝は別の斜面へ抜けている。


 アルヴィンが結んだのは、水の道ではなく、温かさや石に残る変化が似ていた場所だった。


「見てください」


 差し出された指先は、共同浴場から温室を通り、旧鉱道口へ向かっていた。


「湯と土と、旧鉱道口の近くに出た印が、ばらばらではありません。今日、ここを見たいのです」


「旧鉱道口の中は見ません」


 ルークスはすぐに言った。


「承知しています。外側だけでも」


「外側でも、近づき方を決めます」


 マルタが広場の端から歩いてきた。手には小さな籠があり、朝摘んだ葉がのぞいている。


「昨日、畑の邪魔をした分、何か分かったんだろうね」


「まだ、分かったとは言えません」


「学者の『まだ』は長そうだね」


「長いです」


 アルヴィンは迷いなく答えた。


 マルタは呆れたように目を細めたが、地図を覗き込んだ。


 アリアも線を見る。湯気のある場所と、温かい土のある場所と、誰も近づきたがらない古い坑道。その三つが、紙の上では近くに見えた。


「アルヴィン先生、この線は、みんなが繋がっているということですか?」


 アルヴィンは「先生」と呼ばれて、少し驚いたように顔を上げた。


「かもしれない、ということです。確かめる必要がある、というご相談です」


 アルヴィンの答えに頷きつつ、少し考えてから、アリアは地図の上に指を置いた。


「温泉の湯が出るところと、温室の下の水のところと、旧鉱道口の外だけなら、何ができますか」


 アルヴィンは、地図とアリアを見比べた。


「湯口と温室では、流れ方と残るものを見比べられます。旧鉱道口では、水の音と、外へ出る湯気と、排水溝の様子を記録できます。どれも、持ち出さずに」


「それを、お願いします。すぐに動かしたり、壊したりしたくないです」


 アリアの真剣な表情を見て、アルヴィンは首肯した。


「十分です」


「十分ではないと思います」


 ルークスが言う。


「でも、そのくらいなら見張れます」


 レクス・ノアが、アリアの腕から身を乗り出した。地図の温室の絵へ、小さな前足を伸ばす。


「ここ、あったかい気がする」


 ノアの声だった。


「地図は温度を持たない」


 レクスがすぐに言う。


「でも、湯気の絵みたい」


 アルヴィンの手が観測帳へ伸びた。


「地図上の温感反応として——」


「それはたぶん、感想です」


 ルークスが止めた。


「感想も、異常の入口です」


「寝不足の入口でもあるね」


 マルタが言った。


 アリアは、こらえきれずに少し笑った。


* * *


 共同浴場の裏手は、朝から白い湯気で霞んでいた。


 浴場の中へ引かれる前の湯が、石で囲まれた湯口から細く流れ出している。近くへ寄ると、冷えた頬がすぐにゆるんだ。


 浴場の管理をしている老人が、腰へ手を当てて立っていた。


「こんなところまで見るのかい」


「見せてください」


 アリアが頼むと、老人は頷いた。


「見るだけならな。石を外したりはするなよ」


「しません」


 湯口の石の縁には、白いものが薄くこびりついていた。


 雪のように見えるけれど、触れればざらりとしている。湯の流れが細くなったところほど、白さは厚かった。


 アルヴィンがしゃがみ込み、顔を近づける。


「古い湯口の方が、残り方が多い」


「そりゃ、長く使ってるからだろう」


「それだけではなさそうです。こちらは同じくらい古いのに、薄い」


 マルタも隣にしゃがんだ。


 指先で石の端をこすり、白いものを見つめる。


「温室で使う白い粉と同じものだよ。湯の縁にたまったのを乾かして、砕くと、ああなる」


 アリアは顔を上げた。


「畑に使っているものですか」


「少しだけだよ。土が重いときに、ほんの少し。撒きすぎると根が駄目になる」


「では、湯口のものと、温室の粉を、ここで見比べてもよいですか」


 アルヴィンは観測帳を胸に抱えたまま聞いた。


「石を削るんじゃないよ。指先についた分だけならいい」


「ありがとうございます。持ち出しません」


「それと、今ついたものを、そのまま畑に撒くんじゃないよ」


「はい。使い方の方も、先に教わります」


 アルヴィンはすぐに観測帳へ書いた。


 レクス・ノアは、石の上の白いものをじっと見ている。


「おふろの粉」


 ノアが言った。


「土にあったものと近い」


 レクスの声は短い。


「じゃあ、畑もおふろ?」


「違う」


「でも、おふろの粉でごはんが育つ」


「言い方が危険だ」


 ノアは首を傾げながら、白い石の縁へ鼻先を近づけた。


 もう少しで舐めそうになり、アリアは慌てて抱き上げる。


「ノア、だめです」


「調査」


「不味かったら許さぬ」


 レクスが言う。ノアが目をパチクリさせた。


 ルークスは口元を押さえて横を向いた。


 アルヴィンだけが、真剣な顔で観測帳を開く。


「龍種の味覚反応も、ひとつの——」


「舐めて調べる学問なら、畑に入れるんじゃないよ」


 マルタの声で、観測帳は閉じられた。


 アリアは抱き上げたままの小さな体を見下ろす。


「これは、まだ分からないものです」


 レクス・ノアの翼が、少しだけたたまれた。


「食べない」


「はい」


 湯気の向こうで、老人が小さく笑った。


* * *


 温室の扉を開けると、外の冷たさが背中から離れた。


 中は湿って暖かい。土の匂いと、葉の青い匂いが混ざり、硝子屋根には朝の水滴が並んでいる。


 畝の下には、共同浴場の方から引いた湯が細く通っている。見えない場所で温められた土から、冬の野菜がまっすぐ葉を伸ばしていた。


 ノアが目を丸くする。


「ここ、春の箱」


「温室だ」


「春の箱」


「訂正が反映されない」


 マルタは畝の端へ腰を下ろした。


「春の箱か。悪くないね」


 レクスは少し黙った。


 マルタは、土の表面を手の甲で軽く撫でる。


「湯が強すぎると、根が弱る。弱すぎると、芽が止まる。白い粉も、少しだけ。撒きすぎると、根が焼ける」


「量は、どうやって決めるのですか」


 アリアが聞く。


「土の色。葉の先。朝の匂い」


「朝の匂い」


「雨の前と、雪の前と、湯が変な日の匂いは違うよ」


 アルヴィンは器具を取り出した。土の近くに置き、硝子管を覗き込む。


 針がゆっくり動き、途中で震え、止まった。


「また、揃わない」


「紙より先に、土を見な」


 マルタが言った。


 アルヴィンは一度、観測帳を見た。それから、器具を脇へ置く。


「見ます」


 アリアも、板へ書こうとしていた手を止めた。


 土を見る。


 湿ったところ。少し乾いたところ。葉の先が濃いところ。細い根が地面からわずかにのぞいているところ。


 昨日まで、全部、土だった。


 けれど今は、同じ土には見えない。


 レクス・ノアも畝の端へ近づき、鼻先を土へ寄せた。


「鼻を突っ込みすぎるんじゃないよ」


 マルタが言う。


「鼻は調査道具」


 ノアが答えた。


「たしかに嗅覚器官ではある」


 レクスが続ける。


「道具なら、ちゃんと手入れしてから使いな」


 ノアは考え込み、自分の鼻を前足でこすろうとした。


 小さな体がぐらりと傾く。


「危ない」


 アリアはすぐに両手を出した。


 レクス・ノアは腕の中へ収まり、何事もなかったように瞬きをした。


 アルヴィンが真剣に見ている。


「龍種は嗅覚器官の自己清掃を——」


「書くんじゃないよ」


 マルタが言った。


 アルヴィンは、今度は紙を出さなかった。


 アリアは温室の向こうを見た。硝子の外では白い雪が残り、その下で温かい湯が土を通っている。


「アルヴィン先生が地図にしてくれたから、温室と湯口がつながって見えました」


 アルヴィンがこちらを見る。


「白いものも、ここで見比べてください。外へは、まだ出しません」


「はい」


「持ち出さなくても、比べられることはあります。乾かした前後の重さ、湯への溶け方、土に混ぜたときの様子。マルタさんの手順を崩さない範囲で、記録します」


「お願いします」


 アリアが言うと、アルヴィンは頷いた。


「任せてください」


 マルタは返事をしなかった。


 ただ、アリアの前にあった小さな籠を、少しだけ畝から離れた場所へ置き直した。


* * *


 旧鉱道口の近くまで来ると、空気が急に冷たくなった。


 温室の湿り気は、服の内側にまだ少し残っている。それが、山から下りてくる乾いた冷たさに押されていく。


 坑道口の前には、古い板と鎖が渡されていた。小さな崩落の跡には、石が不揃いに積まれ、脇の排水溝には苔が貼りついている。


 岩の一部には、白い筋が走っていた。


 ルークスは持ってきた縄を張り、近づける場所を決める。


「ここから先は駄目です」


「分かっています」


 アルヴィンは答えたが、目は坑道の暗がりへ向いていた。


「先生、中へ入るのは別の日にしましょう」


 アリアは、縄の向こうの暗がりを見た。


「でも、外から調べられることは、まだありますか」


 アルヴィンは目を閉じ、息をひとつ吐いた。それから、排水溝と坑道口を順に見た。


「あります。水の量と温かさ、湯気の出る場所、音が変わる時刻を記録します。縄の外からで足ります」


「では、それをお願いします」


 レクス・ノアは、アリアの足元で坑道口を見ていた。


 その小さな体が、わずかに固くなる。


 流路。


 熱。


 沈殿。


 詰まり。


 圧。


 言葉とも、記憶とも違うものが、レクスの中に短く浮かんでは消えた。


「ここ、息がしにくい」


 ノアの声が小さくなる。


 アリアは、思わず抱き上げた。


「苦しいですか」


「苦しいのと、ちょっと違う。ここ、怒ってる石の匂い」


「石は怒らない」


「じゃあ、むすっとしてる」


「石はむすっともしない」


 マルタが坑道口を見た。


「古い坑道なら、むすっともするだろうさ」


「マルタさんまで乗らないでください」


 ルークスが言った。


 けれど、誰も笑わなかった。


 坑道の奥は暗い。


 暗がりの前に立つと、古い板のきしみさえ、こちらを止めているように聞こえた。


 そのときだった。


 ごぼり、と低い音がした。


 脇の排水溝で、石蓋がわずかに持ち上がる。


 隙間から、白い湯気がひとすじ漏れた。


 次の瞬間、温かい水が、ほんの少しだけ逆へ流れた。


 マルタの顔色が変わる。


「水は、そっちへ戻らない」


 アルヴィンも、何も書かなかった。


 レクス・ノアが石蓋を見つめる。


「詰まっている」


 レクスの声は低い。


「おなかいっぱい?」


「水路に胃はない」


「でも、詰まって、戻した」


 レクスは少し黙った。


「比喩としては不快だが、近い」


 アルヴィンが、思わず頷いた。


「……比喩としては、かなり近いです」


「そこで納得するんですか」


 ルークスが言った。


 アルヴィンは石蓋と、地図の入った筒を見比べる。


「白嶺に何かが湧いているのではなく、本来は流れるものが、どこかで詰まり、分かれ、別の場所へ漏れているのかもしれません」


 アリアは、温室の葉を思い出した。


 湯気。土。白いもの。暖かな畝。


 それから、暗い坑道口。


「源ではなく、詰まりかもしれません」


 アルヴィンの言葉は、冷たい空気の中へ消えた。


 答えのようには聞こえなかった。


 まだ、入口に立っただけの言葉だった。


* * *


「石蓋を外せば、見られます」


 アルヴィンが言った。


「外しません」


 ルークスは即答した。


「中に何があるか、確かめるだけでも」


「道具が足りません。人手も」


 マルタが言う。


「畑とは違って、崩れたら一人じゃ元へ戻せないんだよ」


 アリアは、ずれた石蓋を見た。


 そこから湯気が細く上がっている。


 蓋を動かせば何かが分かるかもしれない。でも、分からなくなるものがあったら……。


「先生が見つけてくれたから、『ここ』になにかあるかもしれないってわかりました」


 アリアは言った。


 アルヴィンがこちらを見る。


「蓋は準備がいりそうです。次に、外からできることはありますか」


「毎日、同じ時刻に水の量と温かさを見ます。湯気の出る場所も地図に足します。古い水路図があれば、今の流れと重ねられます」


「それを先にしましょう」


 アリアは指を一本ずつ折った。


「坑道のことですから、まずディートさんに話を聞きます。古い水路の図と、坑道の図を探します。石を見られる人も呼びます。それまでは、ここは立ち入りを制限します」


 ルークスが頷く。


「縄も増やします」


「温室と浴場は、いつもどおり使います。でも、変わったことがあったら教えてください」


 マルタは短く頷いた。


「先生、準備ができるまで、外から見てできることをお願いします」


「承知しています」


 アルヴィンは、今度はすぐに答えた。


 ノアが、アリアの腕の中で考え込んだ。


「準備は、えらい待つ?」


「えらい待つ、です」


 アリアは頷いた。


「意味は不明だが、方針としては正しい」


 レクスが言った。


 ルークスは、少しだけ笑った。


 マルタも、口元だけを動かした。


* * *


 夜、仮住まいの机には、昼間の地図が広げられていた。


 アルヴィンが三つの場所を線で結び、ルークスが旧鉱道口の近くへ大きな丸をつける。マルタは温室の方を指して、朝と夕方で葉がどう変わるかだけを短く教えた。


 アリアは、それを板へ書き写した。


 共同浴場の湯気。


 温室の土。


 旧鉱道口の水音。


 板の上では、毎日使う湯と、困らせた場所の水音が一本の線で結ばれた。水路が別でも、次に確かめる場所は見えてきた。


 怖いから、全部をやめるわけにはいかない。


 でも、分からないから、勝手に使ってもいけない。


 レクス・ノアは机の端に座り、地図を見ていた。


 小さな前足が、温室と旧鉱道口の間に置かれる。


「ここ、つまってる」


 ノアが言った。


「でも、あったかい」


 レクスは否定しなかった。


 マルタが地図を見て、ふうん、とだけ言う。


 しばらくして、ノアは温室の絵を指した。


「明日も春の箱?」


「夜明け前に来るならね」


 マルタが答える。


「アリア、起きる?」


 アリアの手が止まった。


「起きます」


「起床支援は可能だ」


 レクスが言う。


「どのようにですか」


「顔をぺしぺし」


「有効だ」


 アリアは、しばらくレクス・ノアを見た。


「それは、できれば遠慮したいです」


 窓の外で、共同浴場の湯気が白く上がっていた。


 温室の下では、湯が静かに流れている。


 そして旧鉱道口では、ずれた石蓋の下から、一度だけ水音がした。


 ごぼり。


 流れに逆らうような、低い音だった。


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