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龍と廃嫡皇女のシェアハウス  作者: 三連九
第3章 白嶺の再始動
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18/26

第18話 白嶺を測る日

「検診をしましょう」


 翌朝、アルヴィンはそう言った。


 白嶺の集会所には、昨日使った机と椅子がまだ残っていた。片づける前にもう一度使わせてほしい、とアルヴィンが言い出したためだ。


 机の上には、観測帳、細い硝子管、目盛りのついた板、布に包まれた小さな器具、そして紙束が置かれている。


 紙束は、昨日より増えていた。


 ルークスはそれを見て、まず顔をしかめた。


「ヴァイスフェルド殿。父への確認はまだ取れていません」


「承知しています」


「単独行動も禁止です」


「承知しています」


「その紙の量は、承知している人の量ではありません」


 アルヴィンは紙束を見た。


「必要な質問を削った結果です」


「削る前を見なくてよかったです」


 マルタは腕を組んで、集会所の入口に立っていた。


「検診だか何だか知らないけどね、畑は待ってくれないよ」


「短時間で終えます」


「学者の短時間は信用できない」


「よく言われます」


「でしょうね」


 外では、話を聞きつけた住民たちが集まり始めていた。戸口から顔を出す者、窓の外で足を止める者、子供を抱えたまま様子を見る者。


 声が小さく重なる。


「病人扱いされるのか」


「帝都へ名前を書かれるんじゃないか」


「湯を調べられて、取り上げられたりしないだろうな」


「変な薬を飲まされるなら、俺は帰るぞ」


「鉱山を勝手に開けろと言われても困る」


 アリアはその声を聞いて、集会所の扉の前に立った。


 胸の奥が少しだけ緊張する。けれど、逃げるほどではなかった。


 昨日、土は食べものと一緒だと言った。


 なら、今日も白嶺のものを守る言葉がいる。


「調べるのは、白嶺を守るためです」


 アリアの声は、大きくはない。


 けれど、近くにいた人たちが静かになった。


「嫌なことは、しません。名前を書いたものは、白嶺の外へ出しません。土も、湯も、石も、作物も、勝手に持っていきません」


 アルヴィンが顔を上げる。


 アリアは続けた。


「分かったことは、村に説明してください。アルヴィンさんは、一人で歩かないでください」


「はい」


 アルヴィンは即答した。


 ルークスが少しだけ驚いた顔をする。


「そこはもう少し渋るかと思いました」


「条件が明確です。守れます」


「紙は?」


「減らします」


 アルヴィンは紙束の上から三枚抜いた。


 ルークスが黙って見つめる。


 アルヴィンはさらに五枚抜いた。


 まだ多い。


 ノアの声が、アリアの足元から弾んだ。


「紙、やま」


「山ではない。丘だ」


 レクスの訂正は、あまり訂正になっていなかった。


* * *


 検診所は、結局、村の広場に作られた。


 集会所の中では入りきらない。誰かがそう言い、別の誰かが机を運び出し、また別の誰かが椅子を持ってきた。共同浴場から布が届き、温室から空き箱が運ばれ、湯番の老人が湯飲みを並べた。


 広場の真ん中に、机が三つ。


 椅子が六つ。


 記録板が二枚。


 測定器具がいくつか。


 そして、なぜか山羊が一頭。


「山羊は呼んでいません」


 ルークスが言った。


 山羊を連れてきた少年は、胸を張った。


「毛づやを見るって言ってた!」


「後でです」


「鶏もいる」


「なぜ増えるんですか」


 木箱の中から、鶏が一羽、首を伸ばした。


 広場の端では、子供たちが背比べを始めている。最初は測ってもらう順番を待っていただけなのに、いつの間にか石の壁の前へ並び、頭の上に板を置いていた。


「俺の方が高い」


「髪の分だろ」


「髪も俺だ」


 老人たちは老人たちで、腰痛の話を始めていた。


「わしの腰は冬になると鳴る」


「鳴る腰はまだ若い。わしのは鳴る前に固まる」


「それは自慢なのですか」


 アルヴィンが真顔で聞き、老人たちが一斉に笑った。


 温泉番の老人は、湯の効能を語り始めると止まらない。


「ここの湯はな、冷えた膝にいい。肩にもいい。あと、眠れる」


「眠れるのは重要です」


「そうだろう。だから若いのも入れ。湯を侮るな」


「はい」


 アルヴィンはすぐ書く。


 速い。


 とても速い。


「記録が多い」


 彼の声は、少しだけ明るかった。


「困っている顔ではありませんね」


 ルークスが列を整えながら言う。


「幸福です」


「検診で幸福にならないでください」


「情報が多いので」


「でしょうね」


 マルタは、広場の端から何度も畑へ戻ろうとした。


「マルタさん、まだです」


 アリアが呼ぶ。


「あたしはもう話したよ」


「どの畑で、だれが作業していたか、あとで教えてください」


「あんたも人使いが荒くなったね」


「すみません」


「謝るなら、ちゃんと使いな」


 マルタはそう言って、結局戻ってきた。


 アリアは板を抱え、広場を見渡した。


 このままでは、全部が混ざる。


「畑のお仕事の方は、こちらです。温泉によく入る方は、湯番さんの近くへお願いします。鉱山で働いていた方は、ルークスさんの机へ。子供は、背比べをしてからこちらです。山羊と鶏は……」


 アリアは少し迷った。


「……逃げないようにしてください」


「お任せください」


 少年が誇らしげに山羊の縄を握った。


 ノアが山羊を見上げる。


「つの、いい」


「噛まれるな」


 レクスが低く言った。


「噛むの?」


 山羊が、レクス・ノアの尾の先を見た。


 アリアは慌ててレクス・ノアを抱き上げた。


 広場に笑い声が広がる。


 白嶺で、こんなに人が一度に集まることは少ない。


 誰かが湯飲みを配り、誰かが子供を呼び戻し、誰かが老人の椅子を直す。調査のはずの場所は、いつの間にか小さな祭りのようになっていた。


* * *


 アルヴィンの器具は、よく分からない音を立てた。


 細い針が揺れる。


 板の目盛りが少し動く。


 硝子管の中の液が、ゆっくり上がって、途中で止まり、また下がった。


「もう一度お願いします」


 アルヴィンは言った。


 温泉によく入る女が、手を差し出したまま首をかしげる。


「さっきもやったよ」


「値が揃いません」


「あたしが悪いのかい」


「いいえ。測り方が合っていない可能性があります」


 女は少し考えた。


「じゃあ、あんたが悪いんだね」


「今のところは」


 あっさり認めたので、周りがまた笑った。


 鉱山仕事をしていた男たちは、器具への反応が強かった。けれど、体調が悪い者ばかりではない。顔色のよい者もいれば、昔の坑道帰りだけがつらかったと話す者もいる。


「奥へ行った日は、飯がまずく感じた」


「俺は逆だな。腹だけは減った」


「でも眠れなかったろ」


「ああ、それはある」


 アルヴィンは書く。アリアも書く。


 全部は追いつかない。


 ルークスが横から、名前と家を別の板に記していく。


「アリア様、言葉の方をお願いします」


「はい」


 アリアは、男が言った言葉をそのまま残そうとした。


 飯がまずい。


 眠れない。


 腹は減る。


 手が重い。


 同じようで、少しずつ違う。


「人の言葉は、あとで小さくすると分からなくなります」


 アリアが呟くと、アルヴィンの手が止まった。


「その通りです」


 アルヴィンは真顔で言った。


「要約で失われるものがあります」


「では、できるだけそのまま書きます」


「助かります」


 畑仕事組では、手荒れの話になっていた。


「こっちの畑を触った日は、ひび割れが少ない」


「湯の排水が近いところだろ」


「あの畝は根がよく張る。昔からそうだよ」


 マルタが横から短く言う。


「そこは土が違う」


「どのように」


「見れば分かる」


「見ます」


「今じゃない」


 マルタに止められて、アルヴィンはすぐ座り直した。


 子供たちは寒さに強い。


 少なくとも、そう見えた。


 薄着で走り回り、順番を待つ間に雪玉を作り、ルークスに注意されて解散し、また別の場所で背比べを始める。


「子供の測定は難しいですね」


「止まりませんからね」


 ルークスが疲れた声で言った。


 鶏の卵殻を持ってきた女は、机の上にそっと置いた。


「最近、殻が少し厚いんだよ」


「いつからですか」


「湯を引いたあとくらいかねえ」


 山羊は、途中でアルヴィンの紙束を食べようとした。


「だめです」


 アリアが止める。


「それは食べものではありません」


「紙も植物由来です」


 アルヴィンが言う。


「食べものではありません」


 アリアがもう一度言うと、アルヴィンは「はい」と答えた。


 山羊は不満そうに鳴いた。


* * *


 流れの中で、アリアも測られることになった。


 最初に言い出したのは子供だった。


「アリア様も測らないの?」


 広場の視線が、少しだけこちらへ集まる。


 アリアは板を抱えたまま、ルークスを見た。ルークスはすぐに止めようとしたが、アルヴィンの方が先に口を開いた。


「嫌なら、しません」


 その言い方が、昨日の約束と同じだった。


 アリアは少し考え、頷いた。


「痛くないものだけなら」


「痛くありません」


 アルヴィンは、細い板を手首の近くに当て、硝子管を光に透かし、目盛りを確認する。アリアは椅子に座り、レクス・ノアを膝に乗せた。


 ノアは、アリアの膝の上で丸くなる。


「くすぐったい?」


「少し」


 アルヴィンは目盛りを見た。


 針は、ゆっくり上がった。


 帝都で見慣れた範囲を越え、それでも止まらない。


 高いところで、ぴたりと静まった。


 彼はもう一度測った。


 同じ位置だった。


 ルークスの表情が硬くなる。


 レクスの目も、細くなった。


「わたし、変ですか」


 アリアの声は、自分で思ったより小さかった。


 広場の音が、少し遠くなる。


 アルヴィンはすぐに答えなかった。


 器具を見て、アリアを見て、もう一度、器具を見た。


「変なのではありません」


 彼はようやく言った。


「測り方が悪いのです」


「測り方」


「はい。これは、あなたを帝都の基準で測る道具ではありませんでした」


 アルヴィンは器具を布の上へ置いた。


「熱も脈も、年齢相応です。反応だけが高い。でも、乱れてはいない」


「病の反応ではありません。少なくとも、私が知っている病の形ではない」


 ルークスが静かに息を吐く。


 レクスはまだ警戒を解かない。


「なぜ揺れる」


「分かりません」


 アルヴィンは答えた。


「分からないので、病と呼びません」


 ノアがアリアの膝の上で、顔を上げた。


「アリア、へんじゃない」


「ありがとうございます」


「でも、ぽこぽこする」


「ぽこぽこ?」


「おゆのあわみたい」


 アルヴィンの手が、ほんの少し観測帳へ伸びた。


 アリアは首を横に振った。


 手は止まる。


「書きません」


 アルヴィンは言った。


 ルークスの目が、少しだけ和らいだ。


* * *


 レクス・ノアの騒動は、そのあと起きた。


 ノアが、机の上の湯飲みを覗き込もうとしただけだった。


 少なくとも、本人はそのつもりだった。


「いいにおい」


「湯だ」


「おふろじゃない?」


「飲む湯だ」


 レクスが答える。


 ノアは湯飲みに鼻先を近づけた。


 その横に置かれていた器具の針が、急に跳ねた。


 かん、と小さな音がする。


 子供たちが一斉に振り向いた。


「今の何?」


「龍さまが鳴らした!」


「もう一回!」


「しない」


 レクスの声が低くなる。


 ノアは目を丸くしている。


「ぼく?」


「お前だ」


「ぼく、鳴ってない」


「器具が鳴った」


 アルヴィンは、真剣な顔で器具を見ていた。


 とても書きたそうだった。


 とても。


 アリアは、じっと見る。


 アルヴィンは観測帳を開きかけ、止めた。


「……記録しません」


「ありがとうございます」


「ただ、記憶はします」


 ルークスが即座に言う。


「ほどほどにしてください」


「努力します」


「努力ではなく制御してください」


 子供たちは残念そうだったが、すぐに別の遊びを見つけた。今度は、自分たちが器具を鳴らせるかどうかを試そうとして、ルークスに止められる。


 マルタがため息をついた。


「検診ってのは、もっと静かなもんじゃないのかい」


「帝都では静かです」


 アルヴィンが答える。


「白嶺では違うね」


「はい」


 彼は広場を見回した。


 山羊。


 鶏。


 背比べをする子供。


 腰痛自慢の老人。


 湯を語る湯番。


 畑の土を手で示すマルタ。


 列を直すルークス。


 板を抱えたアリア。


 膝の上で湯飲みを見ているレクス・ノア。


「白嶺では、こちらの方が正しいのかもしれません」


「何が」


「人を測るなら、人がいる場所で測るべきです」


 マルタは返事をしなかった。


 けれど、鼻で笑う音は、さっきより少し柔らかかった。


* * *


 昼を少し過ぎる頃、広場の騒ぎはようやく落ち着いた。


 机の上には、簡単な白嶺の地図が広げられている。


 共同浴場。


 温室。


 マルタの畑。


 湯の排水溝。


 鉱山へ向かう道。


 旧鉱道口。


 家畜がよく水を飲む場所。


 アルヴィンは、それぞれの場所に小さな印をつけていった。体調の話、畑の話、湯の話、家畜の話、器具の反応。種類ごとに印を変え、横に短い記号を書き込む。


 村人たちも、いつの間にか地図を覗き込んでいた。


「うちの畑、ここだ」


「その水場、山羊が好きなところだな」


「湯番さん、ここも湯気が出るって言ってたよ」


「ああ、雪が早く溶ける」


 アルヴィンは印を眺めた。


 点が増える。


 点と点の間に、道ではない線が見え始める。


「これは、場所ではありません」


 彼は低く言った。


「流れです」


 マルタが腕を組む。


「流れって言うなら、どこからどこへ流れてるんだい」


「分かりません」


「またそれかい」


「はい」


 アルヴィンは、けれど嬉しそうだった。


「分からないですが、線は引けます」


 ルークスが地図へ目を落とした。


 線は、共同浴場の周りを通り、温室の裏をかすめ、マルタの畑の一角へ伸びている。そこから湯の排水溝沿いに曲がり、鉱山へ向かう道へ近づく。


 そして、旧鉱道口の少し手前で濃くなっていた。


 レクス・ノアが、アリアの腕の中で動いた。


 小さな前足が、地図の端へ伸びる。


「ここ、あったかい」


 ノアの声だった。


「触っていないだろう」


 レクスが言う。


「でも、あったかい」


 レクスはしばらく黙った。


「止まっている」


「何がですか」


 アリアが聞く。


「流れて、沈んで、ここで遅くなる」


 レクスはそこで言葉を切った。


 それ以上は出てこないようだった。


 アルヴィンの指が、旧鉱道口の少し手前で止まる。


「確認したい」


 声は静かだった。


 けれど、目だけは完全に研究者のものになっていた。


「だめです」


 ルークスが言った。


 同時に、マルタも言う。


「軽々しく鉱山へ行くんじゃないよ」


 広場がざわつく。


 旧鉱道口。


 その言葉には、まだ少し重さがある。昔の仕事、倒れた人、閉じられた道、戻らなかった賑わい。


 アルヴィンは口を開きかけた。


 アリアは、地図を見た。


 濃い印。


 そこへ向かう線。


 分かったことが、白嶺の奥へ手を伸ばしている。


 だからこそ、急いではいけない。


「今日は、ここまでです」


 アリアは言った。


 アルヴィンがこちらを見る。


「けれど」


「分かったばかりなのに、急いだら危ないです」


 広場が静かになった。


 アリアは地図の端を押さえる。


「調べる人を決めます。子供は連れていきません。村の人へ、今日分かったことを説明します。鉱山の方は、安全を確かめてからです」


 ルークスが頷いた。


「その通りです」


 マルタも、短く息を吐く。


「やっとまともなことを言ったね」


「今まではまともではなかったのですか」


「子供にしては、ずっとまともだよ」


 それは褒め言葉なのか、アリアには少し分からなかった。


 アルヴィンは不満そうに地図を見ていた。


 だが、観測帳を閉じた。


「従います」


「ありがとうございます」


「ただ、明日は」


「明日も、一人では行かせません」


 ルークスが先に言った。


 アルヴィンは少しだけ肩を落とした。


 ノアが小さく笑う。


「ひとり、だめ」


「お前もだ」


 レクスが返した。


* * *


 夕方、広場の机が片づけられていった。


 子供たちはまだ背比べをしている。老人たちは、自分の検診結果を肴にしながら共同浴場へ向かい、湯番の老人は最後まで湯の話を続けていた。


 山羊は、結局、紙を食べなかった。


 鶏は卵殻の話をした女に抱えられて帰った。


 マルタは土のついた手で、地図をじっと見ている。畑の印と湯の線が重なる場所を、何度も目で追っていた。


 アルヴィンは、片づけられかけた机の端で、まだ地図の線をなぞっている。


「片づけますよ」


 ルークスに言われ、彼はようやく手を止めた。


 アリアは広場に残った足跡を見た。大人、子供、山羊、椅子を引きずった跡が、旧鉱道口の印まで続いている。


 笑い声の消えた机の上で、地図の端だけが濃く残っていた。そこは、まだ誰も測り終えていない。


 白嶺の湯気が、夕暮れの空へ細く伸びていく。


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