第18話 白嶺を測る日
「検診をしましょう」
翌朝、アルヴィンはそう言った。
白嶺の集会所には、昨日使った机と椅子がまだ残っていた。片づける前にもう一度使わせてほしい、とアルヴィンが言い出したためだ。
机の上には、観測帳、細い硝子管、目盛りのついた板、布に包まれた小さな器具、そして紙束が置かれている。
紙束は、昨日より増えていた。
ルークスはそれを見て、まず顔をしかめた。
「ヴァイスフェルド殿。父への確認はまだ取れていません」
「承知しています」
「単独行動も禁止です」
「承知しています」
「その紙の量は、承知している人の量ではありません」
アルヴィンは紙束を見た。
「必要な質問を削った結果です」
「削る前を見なくてよかったです」
マルタは腕を組んで、集会所の入口に立っていた。
「検診だか何だか知らないけどね、畑は待ってくれないよ」
「短時間で終えます」
「学者の短時間は信用できない」
「よく言われます」
「でしょうね」
外では、話を聞きつけた住民たちが集まり始めていた。戸口から顔を出す者、窓の外で足を止める者、子供を抱えたまま様子を見る者。
声が小さく重なる。
「病人扱いされるのか」
「帝都へ名前を書かれるんじゃないか」
「湯を調べられて、取り上げられたりしないだろうな」
「変な薬を飲まされるなら、俺は帰るぞ」
「鉱山を勝手に開けろと言われても困る」
アリアはその声を聞いて、集会所の扉の前に立った。
胸の奥が少しだけ緊張する。けれど、逃げるほどではなかった。
昨日、土は食べものと一緒だと言った。
なら、今日も白嶺のものを守る言葉がいる。
「調べるのは、白嶺を守るためです」
アリアの声は、大きくはない。
けれど、近くにいた人たちが静かになった。
「嫌なことは、しません。名前を書いたものは、白嶺の外へ出しません。土も、湯も、石も、作物も、勝手に持っていきません」
アルヴィンが顔を上げる。
アリアは続けた。
「分かったことは、村に説明してください。アルヴィンさんは、一人で歩かないでください」
「はい」
アルヴィンは即答した。
ルークスが少しだけ驚いた顔をする。
「そこはもう少し渋るかと思いました」
「条件が明確です。守れます」
「紙は?」
「減らします」
アルヴィンは紙束の上から三枚抜いた。
ルークスが黙って見つめる。
アルヴィンはさらに五枚抜いた。
まだ多い。
ノアの声が、アリアの足元から弾んだ。
「紙、やま」
「山ではない。丘だ」
レクスの訂正は、あまり訂正になっていなかった。
* * *
検診所は、結局、村の広場に作られた。
集会所の中では入りきらない。誰かがそう言い、別の誰かが机を運び出し、また別の誰かが椅子を持ってきた。共同浴場から布が届き、温室から空き箱が運ばれ、湯番の老人が湯飲みを並べた。
広場の真ん中に、机が三つ。
椅子が六つ。
記録板が二枚。
測定器具がいくつか。
そして、なぜか山羊が一頭。
「山羊は呼んでいません」
ルークスが言った。
山羊を連れてきた少年は、胸を張った。
「毛づやを見るって言ってた!」
「後でです」
「鶏もいる」
「なぜ増えるんですか」
木箱の中から、鶏が一羽、首を伸ばした。
広場の端では、子供たちが背比べを始めている。最初は測ってもらう順番を待っていただけなのに、いつの間にか石の壁の前へ並び、頭の上に板を置いていた。
「俺の方が高い」
「髪の分だろ」
「髪も俺だ」
老人たちは老人たちで、腰痛の話を始めていた。
「わしの腰は冬になると鳴る」
「鳴る腰はまだ若い。わしのは鳴る前に固まる」
「それは自慢なのですか」
アルヴィンが真顔で聞き、老人たちが一斉に笑った。
温泉番の老人は、湯の効能を語り始めると止まらない。
「ここの湯はな、冷えた膝にいい。肩にもいい。あと、眠れる」
「眠れるのは重要です」
「そうだろう。だから若いのも入れ。湯を侮るな」
「はい」
アルヴィンはすぐ書く。
速い。
とても速い。
「記録が多い」
彼の声は、少しだけ明るかった。
「困っている顔ではありませんね」
ルークスが列を整えながら言う。
「幸福です」
「検診で幸福にならないでください」
「情報が多いので」
「でしょうね」
マルタは、広場の端から何度も畑へ戻ろうとした。
「マルタさん、まだです」
アリアが呼ぶ。
「あたしはもう話したよ」
「どの畑で、だれが作業していたか、あとで教えてください」
「あんたも人使いが荒くなったね」
「すみません」
「謝るなら、ちゃんと使いな」
マルタはそう言って、結局戻ってきた。
アリアは板を抱え、広場を見渡した。
このままでは、全部が混ざる。
「畑のお仕事の方は、こちらです。温泉によく入る方は、湯番さんの近くへお願いします。鉱山で働いていた方は、ルークスさんの机へ。子供は、背比べをしてからこちらです。山羊と鶏は……」
アリアは少し迷った。
「……逃げないようにしてください」
「お任せください」
少年が誇らしげに山羊の縄を握った。
ノアが山羊を見上げる。
「つの、いい」
「噛まれるな」
レクスが低く言った。
「噛むの?」
山羊が、レクス・ノアの尾の先を見た。
アリアは慌ててレクス・ノアを抱き上げた。
広場に笑い声が広がる。
白嶺で、こんなに人が一度に集まることは少ない。
誰かが湯飲みを配り、誰かが子供を呼び戻し、誰かが老人の椅子を直す。調査のはずの場所は、いつの間にか小さな祭りのようになっていた。
* * *
アルヴィンの器具は、よく分からない音を立てた。
細い針が揺れる。
板の目盛りが少し動く。
硝子管の中の液が、ゆっくり上がって、途中で止まり、また下がった。
「もう一度お願いします」
アルヴィンは言った。
温泉によく入る女が、手を差し出したまま首をかしげる。
「さっきもやったよ」
「値が揃いません」
「あたしが悪いのかい」
「いいえ。測り方が合っていない可能性があります」
女は少し考えた。
「じゃあ、あんたが悪いんだね」
「今のところは」
あっさり認めたので、周りがまた笑った。
鉱山仕事をしていた男たちは、器具への反応が強かった。けれど、体調が悪い者ばかりではない。顔色のよい者もいれば、昔の坑道帰りだけがつらかったと話す者もいる。
「奥へ行った日は、飯がまずく感じた」
「俺は逆だな。腹だけは減った」
「でも眠れなかったろ」
「ああ、それはある」
アルヴィンは書く。アリアも書く。
全部は追いつかない。
ルークスが横から、名前と家を別の板に記していく。
「アリア様、言葉の方をお願いします」
「はい」
アリアは、男が言った言葉をそのまま残そうとした。
飯がまずい。
眠れない。
腹は減る。
手が重い。
同じようで、少しずつ違う。
「人の言葉は、あとで小さくすると分からなくなります」
アリアが呟くと、アルヴィンの手が止まった。
「その通りです」
アルヴィンは真顔で言った。
「要約で失われるものがあります」
「では、できるだけそのまま書きます」
「助かります」
畑仕事組では、手荒れの話になっていた。
「こっちの畑を触った日は、ひび割れが少ない」
「湯の排水が近いところだろ」
「あの畝は根がよく張る。昔からそうだよ」
マルタが横から短く言う。
「そこは土が違う」
「どのように」
「見れば分かる」
「見ます」
「今じゃない」
マルタに止められて、アルヴィンはすぐ座り直した。
子供たちは寒さに強い。
少なくとも、そう見えた。
薄着で走り回り、順番を待つ間に雪玉を作り、ルークスに注意されて解散し、また別の場所で背比べを始める。
「子供の測定は難しいですね」
「止まりませんからね」
ルークスが疲れた声で言った。
鶏の卵殻を持ってきた女は、机の上にそっと置いた。
「最近、殻が少し厚いんだよ」
「いつからですか」
「湯を引いたあとくらいかねえ」
山羊は、途中でアルヴィンの紙束を食べようとした。
「だめです」
アリアが止める。
「それは食べものではありません」
「紙も植物由来です」
アルヴィンが言う。
「食べものではありません」
アリアがもう一度言うと、アルヴィンは「はい」と答えた。
山羊は不満そうに鳴いた。
* * *
流れの中で、アリアも測られることになった。
最初に言い出したのは子供だった。
「アリア様も測らないの?」
広場の視線が、少しだけこちらへ集まる。
アリアは板を抱えたまま、ルークスを見た。ルークスはすぐに止めようとしたが、アルヴィンの方が先に口を開いた。
「嫌なら、しません」
その言い方が、昨日の約束と同じだった。
アリアは少し考え、頷いた。
「痛くないものだけなら」
「痛くありません」
アルヴィンは、細い板を手首の近くに当て、硝子管を光に透かし、目盛りを確認する。アリアは椅子に座り、レクス・ノアを膝に乗せた。
ノアは、アリアの膝の上で丸くなる。
「くすぐったい?」
「少し」
アルヴィンは目盛りを見た。
針は、ゆっくり上がった。
帝都で見慣れた範囲を越え、それでも止まらない。
高いところで、ぴたりと静まった。
彼はもう一度測った。
同じ位置だった。
ルークスの表情が硬くなる。
レクスの目も、細くなった。
「わたし、変ですか」
アリアの声は、自分で思ったより小さかった。
広場の音が、少し遠くなる。
アルヴィンはすぐに答えなかった。
器具を見て、アリアを見て、もう一度、器具を見た。
「変なのではありません」
彼はようやく言った。
「測り方が悪いのです」
「測り方」
「はい。これは、あなたを帝都の基準で測る道具ではありませんでした」
アルヴィンは器具を布の上へ置いた。
「熱も脈も、年齢相応です。反応だけが高い。でも、乱れてはいない」
「病の反応ではありません。少なくとも、私が知っている病の形ではない」
ルークスが静かに息を吐く。
レクスはまだ警戒を解かない。
「なぜ揺れる」
「分かりません」
アルヴィンは答えた。
「分からないので、病と呼びません」
ノアがアリアの膝の上で、顔を上げた。
「アリア、へんじゃない」
「ありがとうございます」
「でも、ぽこぽこする」
「ぽこぽこ?」
「おゆのあわみたい」
アルヴィンの手が、ほんの少し観測帳へ伸びた。
アリアは首を横に振った。
手は止まる。
「書きません」
アルヴィンは言った。
ルークスの目が、少しだけ和らいだ。
* * *
レクス・ノアの騒動は、そのあと起きた。
ノアが、机の上の湯飲みを覗き込もうとしただけだった。
少なくとも、本人はそのつもりだった。
「いいにおい」
「湯だ」
「おふろじゃない?」
「飲む湯だ」
レクスが答える。
ノアは湯飲みに鼻先を近づけた。
その横に置かれていた器具の針が、急に跳ねた。
かん、と小さな音がする。
子供たちが一斉に振り向いた。
「今の何?」
「龍さまが鳴らした!」
「もう一回!」
「しない」
レクスの声が低くなる。
ノアは目を丸くしている。
「ぼく?」
「お前だ」
「ぼく、鳴ってない」
「器具が鳴った」
アルヴィンは、真剣な顔で器具を見ていた。
とても書きたそうだった。
とても。
アリアは、じっと見る。
アルヴィンは観測帳を開きかけ、止めた。
「……記録しません」
「ありがとうございます」
「ただ、記憶はします」
ルークスが即座に言う。
「ほどほどにしてください」
「努力します」
「努力ではなく制御してください」
子供たちは残念そうだったが、すぐに別の遊びを見つけた。今度は、自分たちが器具を鳴らせるかどうかを試そうとして、ルークスに止められる。
マルタがため息をついた。
「検診ってのは、もっと静かなもんじゃないのかい」
「帝都では静かです」
アルヴィンが答える。
「白嶺では違うね」
「はい」
彼は広場を見回した。
山羊。
鶏。
背比べをする子供。
腰痛自慢の老人。
湯を語る湯番。
畑の土を手で示すマルタ。
列を直すルークス。
板を抱えたアリア。
膝の上で湯飲みを見ているレクス・ノア。
「白嶺では、こちらの方が正しいのかもしれません」
「何が」
「人を測るなら、人がいる場所で測るべきです」
マルタは返事をしなかった。
けれど、鼻で笑う音は、さっきより少し柔らかかった。
* * *
昼を少し過ぎる頃、広場の騒ぎはようやく落ち着いた。
机の上には、簡単な白嶺の地図が広げられている。
共同浴場。
温室。
マルタの畑。
湯の排水溝。
鉱山へ向かう道。
旧鉱道口。
家畜がよく水を飲む場所。
アルヴィンは、それぞれの場所に小さな印をつけていった。体調の話、畑の話、湯の話、家畜の話、器具の反応。種類ごとに印を変え、横に短い記号を書き込む。
村人たちも、いつの間にか地図を覗き込んでいた。
「うちの畑、ここだ」
「その水場、山羊が好きなところだな」
「湯番さん、ここも湯気が出るって言ってたよ」
「ああ、雪が早く溶ける」
アルヴィンは印を眺めた。
点が増える。
点と点の間に、道ではない線が見え始める。
「これは、場所ではありません」
彼は低く言った。
「流れです」
マルタが腕を組む。
「流れって言うなら、どこからどこへ流れてるんだい」
「分かりません」
「またそれかい」
「はい」
アルヴィンは、けれど嬉しそうだった。
「分からないですが、線は引けます」
ルークスが地図へ目を落とした。
線は、共同浴場の周りを通り、温室の裏をかすめ、マルタの畑の一角へ伸びている。そこから湯の排水溝沿いに曲がり、鉱山へ向かう道へ近づく。
そして、旧鉱道口の少し手前で濃くなっていた。
レクス・ノアが、アリアの腕の中で動いた。
小さな前足が、地図の端へ伸びる。
「ここ、あったかい」
ノアの声だった。
「触っていないだろう」
レクスが言う。
「でも、あったかい」
レクスはしばらく黙った。
「止まっている」
「何がですか」
アリアが聞く。
「流れて、沈んで、ここで遅くなる」
レクスはそこで言葉を切った。
それ以上は出てこないようだった。
アルヴィンの指が、旧鉱道口の少し手前で止まる。
「確認したい」
声は静かだった。
けれど、目だけは完全に研究者のものになっていた。
「だめです」
ルークスが言った。
同時に、マルタも言う。
「軽々しく鉱山へ行くんじゃないよ」
広場がざわつく。
旧鉱道口。
その言葉には、まだ少し重さがある。昔の仕事、倒れた人、閉じられた道、戻らなかった賑わい。
アルヴィンは口を開きかけた。
アリアは、地図を見た。
濃い印。
そこへ向かう線。
分かったことが、白嶺の奥へ手を伸ばしている。
だからこそ、急いではいけない。
「今日は、ここまでです」
アリアは言った。
アルヴィンがこちらを見る。
「けれど」
「分かったばかりなのに、急いだら危ないです」
広場が静かになった。
アリアは地図の端を押さえる。
「調べる人を決めます。子供は連れていきません。村の人へ、今日分かったことを説明します。鉱山の方は、安全を確かめてからです」
ルークスが頷いた。
「その通りです」
マルタも、短く息を吐く。
「やっとまともなことを言ったね」
「今まではまともではなかったのですか」
「子供にしては、ずっとまともだよ」
それは褒め言葉なのか、アリアには少し分からなかった。
アルヴィンは不満そうに地図を見ていた。
だが、観測帳を閉じた。
「従います」
「ありがとうございます」
「ただ、明日は」
「明日も、一人では行かせません」
ルークスが先に言った。
アルヴィンは少しだけ肩を落とした。
ノアが小さく笑う。
「ひとり、だめ」
「お前もだ」
レクスが返した。
* * *
夕方、広場の机が片づけられていった。
子供たちはまだ背比べをしている。老人たちは、自分の検診結果を肴にしながら共同浴場へ向かい、湯番の老人は最後まで湯の話を続けていた。
山羊は、結局、紙を食べなかった。
鶏は卵殻の話をした女に抱えられて帰った。
マルタは土のついた手で、地図をじっと見ている。畑の印と湯の線が重なる場所を、何度も目で追っていた。
アルヴィンは、片づけられかけた机の端で、まだ地図の線をなぞっている。
「片づけますよ」
ルークスに言われ、彼はようやく手を止めた。
アリアは広場に残った足跡を見た。大人、子供、山羊、椅子を引きずった跡が、旧鉱道口の印まで続いている。
笑い声の消えた机の上で、地図の端だけが濃く残っていた。そこは、まだ誰も測り終えていない。
白嶺の湯気が、夕暮れの空へ細く伸びていく。




