第17話 泡のように浮かぶもの
犬が吠えた。
白嶺の朝は、湯気の白さから始まる。共同浴場の屋根から細い煙のように湯気がのぼり、温室の硝子には霜が薄く張っていた。村人たちは桶を抱え、薪を運び、まだ眠そうな声で互いに挨拶を交わしている。
アリアはレクス・ノアを抱えて、温室へ向かっていた。
小さな龍は、腕の中でじっとしている。昨日の丘で何度も雪へ突っ込んだせいか、今朝は少しおとなしい。
「眠いのですか」
「眠くはない」
「ねむいー」
同じ口から、すぐ別の声が出た。
アリアは歩きながら、少しだけ笑う。
「では、今日はゆっくり歩きましょう」
「必要ない」
「ゆっくりがいい」
村の女が、湯桶を抱えたまま足を止めた。
「おはようございます、アリア様。今日も龍さまと散歩ですかい」
「おはようございます。温室へ行くところです」
「転ばないようにな。道の端、まだ凍ってますから」
「はい」
アリアは凍った場所を避けて歩く。靴の先で雪を踏むと、薄い皮が割れるような音がした。
別の家の前では、男が薪を割っていた。斧の音が朝の空気に短く響く。アリアを見ると、男は斧を下ろして頭を下げた。
「昨日の板、助かりました。風よけ、ちゃんと直りました」
「よかったです」
「ルークス様にも伝えておきます」
礼を言われるたび、アリアはまだ少し背中がむずむずした。けれど、逃げ出すほどではない。白嶺の道は、もう全部知らない道ではなくなっている。
温室の前では、マルタが土を見ていた。
膝をつき、指先で表面を崩し、色を確かめる。土を握って開き、指についた湿りを眺めてから、鼻を鳴らした。
「昨日より締まってるね」
「水が多かったのですか」
「多いってほどじゃない。けど、ここは日が当たる前に湯気が来る。端と真ん中で違う」
マルタはそれだけ言って、木べらを土へ差し込んだ。
アリアは板を取り出しかけたが、腕の中でレクス・ノアが少し動いたため、いったん戻した。
「あとで書きます」
「忘れないなら、それでいいよ」
「忘れません」
「昨日、桶を忘れて帰った子が言うねえ」
アリアは目を瞬かせた。
レクスが低く言う。
「忘れていた」
「桶は歩かないからね」
ノアの声が明るく混じった。
「桶、まってた」
マルタの肩が少し揺れた。
そのとき、村の入口の方で犬がまた吠えた。今度は一匹ではない。細い声と太い声が重なり、坂道の向こうへ向かっている。
アリアは顔を上げた。
雪の残った道の先に、馬車が見えた。
* * *
馬車は、白嶺の入口で止まった。
御者が降り、後ろの扉を開ける。中からまず出てきたのは、革鞄だった。次に、紙束。さらに細長い筒、木箱、布で包んだ硝子器具、紐で束ねた観測帳。
最後に、その荷物の間から男が降りた。
身なりは整っている。濃い外套も、手袋も、靴も、帝都のものに見える。けれど、襟は少し曲がり、髪には紙の切れ端が一つついていた。
男は地面に降りると、まず空を見た。
次に、共同浴場の屋根を見る。
温室の硝子、道端の霜、馬の鼻先からこぼれる白い息、足元の土、遠くの鉱山の斜面。
視線が忙しく動く。
「湯気が、風と逆に残っている」
男は小さく呟いた。
「雪の縁が早い。馬の呼吸は落ち着いている。地面の湿りは、路面温度だけでは……いや、まだ早い」
彼は鞄から観測帳を出そうとして、別の箱に引っかけた。箱が傾き、中の小瓶が鳴る。
ルークスが、ちょうど坂道を上がってきたところだった。
いつもの軽い笑みはある。けれど、目だけは笑っていなかった。
「お客様、ようこそ白嶺へ。まず、お名前をうかがっても?」
男は観測帳から顔を上げた。
「アルヴィン・クラウゼ・ヴァイスフェルドです」
「ご所属は」
「帝都学術院の自然学研究員です」
「目的は」
「記録です」
ルークスの笑みが、少し薄くなった。
「もう少し、こちらに伝わる言葉でお願いします」
「土地、水、鉱物、植物、住民の体調、家畜、雪解け、湯気、気温、井戸水、それらの関係を記録します」
「増えましたね」
「減らすと不正確になります」
アルヴィンはまじめに答えた。
ルークスは一度だけ息を吐く。
「誰の許可で白嶺へ来ましたか」
「……許可」
「はい」
「北方で、力を必要としている方がいると」
「誰に言われました」
「身なりの良い老人です」
「お名前は」
「聞いていません」
ルークスの手が、腰の短剣に近づいた。
周りにいた村人たちも、少しずつ距離を取る。アリアはレクス・ノアを抱えたまま、その空気の変わり方を見ていた。
アルヴィンは、そこでようやく自分の説明が足りないことに気づいたらしい。荷物の間を探り、外套の内側を探し、鞄を開け、紙束を崩しかけた。
「封書がありました」
「封書」
「帝都を出る前に渡されました。道中で読めと」
「今はお持ちですか」
「あります。たぶん」
ルークスの眉が上がる。
アルヴィンは真剣な顔で鞄の底を探った。観測帳が一冊落ち、硝子の管が布の中で鳴り、ようやく白い封書が出てくる。
ルークスは受け取った。
封蝋は割られている。中の紙は短い。ルークスは目を通し、すぐに眉を寄せた。
彼には、その署名にも印にも確信が持てないのだろう。
「アリア様」
呼ばれて、アリアは一歩前へ出た。
ルークスは封書を開いたまま、膝を少し折って、アリアの高さへ紙を差し出した。
「ご確認いただけますか」
アリアはレクス・ノアを片腕で抱き直し、もう片方の手で紙を受け取る。
文字は短かった。
アリア様のこと、よろしくお願いいたします。
エーヴァルト・レインベルク。
署名の横に、帝室書簡印がある。
アリアの指が、紙の端を握った。
帝城の廊下の匂いが、ふと近くなる。磨かれた床、古い扉、朝の紅茶。出立の日、馬車の外に残った老執事の白い手袋。
紙の上の文字は静かだった。
けれど、遠くから届いた声のように見えた。
「アリア」
レクスの声が、腕の中で低く響く。
アリアは瞬きをした。
涙は落ちなかった。
ただ、目の奥が熱い。アリアは紙を丁寧に畳み、胸に抱いた。
「エーヴァルトです」
声は少し小さくなった。
「私の、帝城の執事長です」
ルークスはその反応を見て、短剣から手を離した。
けれど、警戒そのものは消さない。
「分かりました。ヴァイスフェルド殿、父に確認を取ります。それまでは、単独行動を控えてください」
「単独行動」
「畑、湯、鉱山、村人への聞き取り。どれも、俺かアリア様が同席します」
「記録は」
「同席のうえで」
「水は」
「同席のうえで」
「土は」
「同席のうえで」
アルヴィンは少し考えた。
「妥当です」
ルークスが意外そうに目を細める。
「反論しないのですか」
「私は白嶺を知りません。知らない土地で、知っている人の許可を得るのは当然です」
アルヴィンは、そこでアリアを見た。
名前と、書簡印と、目の前の少女の面差しが、ようやく同じ場所へ並んだらしい。
「……アリア・セレフィア殿下」
言ってから、アルヴィンは少しだけ瞬きをした。
「失礼。今は、アリア様とお呼びした方がよろしいですね」
「はい」
「白嶺のことを、教えてください」
アリアは、胸に抱いた手紙を少しだけ強く押さえた。
「私も、まだ教わっているところです」
「では、一緒に記録できます」
アルヴィンは真顔で言った。
ノアの声が、小さく笑う。
「へんなひと」
「同意する」
レクスが短く続けた。
アルヴィンは少しだけ首を傾げる。
「今の声は、どちらが」
「そこも、同席のうえでお願いします」
ルークスが即座に遮った。
アルヴィンは観測帳を開きかけた手を止めた。
「承知しました」
* * *
白嶺を歩くアルヴィンは、まっすぐ進まなかった。
共同浴場へ向かう道の途中でしゃがみ、雪の縁を見る。温室の前では硝子についた水滴を眺め、馬小屋の前では馬の鼻先に手を近づけようとして、ルークスに止められた。
「馬に先に聞いてください」
「馬に?」
「近づいていいか、という意味です」
「なるほど」
アルヴィンは馬に向かって、まじめに頭を下げた。
馬は返事をしなかった。
ノアが、アリアの腕の中で小さく息を弾ませる。
「馬、こまってる」
「観察対象に礼をする姿勢は評価できる」
「評価するんですか」
アリアが思わず聞くと、レクスは当然のように答えた。
「無礼よりはよい」
ルークスは口元を押さえていた。
アルヴィンは気づいていない。道端の土を見て、共同浴場の屋根からのぼる湯気を見て、遠くの鉱山へ顔を向ける。
「単独ではありませんね」
彼は観測帳へ書きながら言った。
「何がですか」
「土、湯、山です。別々に見えるのに、変化の向きが似ています」
アリアには、まだよく分からない。
けれど、レクス・ノアの体が少しだけ硬くなった。
レクスの目が、共同浴場の湯気から温室の土へ移る。次に、鉱山の方へ。
「流路」
低い声が落ちた。
「レクス?」
「沈む。残る。結ぶ」
レクスはそこで黙った。
小さな尾の先が、アリアの腕に触れる。考えている時の動きだった。
「今の言葉は」
アルヴィンが一歩近づいた。
ルークスも一歩前へ出る。
「ヴァイスフェルド殿」
「はい」
「近いです」
「失礼しました」
アルヴィンはすぐ下がった。
その素直さに、アリアは少しだけ目を丸くする。近づきすぎたことには気づかないのに、止められるとすぐ引く。
不思議な人だ。
ノアが、アリアの袖に鼻先を寄せた。
「おゆと、つち、にてる」
「似ているのですか」
「においじゃない。でも、においみたい」
アルヴィンの手が、観測帳へ伸びる。
ルークスの視線が刺さる。
手は、途中で止まった。
「記録しても?」
「アリア様」
ルークスが判断をこちらへ預ける。
アリアはレクス・ノアを抱え直した。
「名前は、書かないでください」
「では、声の主を伏せます」
「はい」
アルヴィンは小さく頷き、観測帳に短く書いた。
声の主、湯と土の類似を感覚で指摘。
文字は細かく、速かった。
* * *
白嶺の集会所の広間には、椅子が六つ並べられた。
共同浴場から少し離れた木造の建物で、寄り合いや物資の確認に使われる場所だ。壁際には折りたたまれた長机と、薪を運ぶための古い籠が寄せてある。
大勢を集めると仕事が止まる。ルークスがそう言って、最初の聞き取りは少人数に絞った。
マルタ。
温室を手伝う農家の女。
共同浴場の湯番をしている老人。
坑道を知る男。
ルークス。
そして、アリア。
アルヴィンは机の前に座り、観測帳を開いた。紙束が横に積まれ、小瓶が机の端に並ぶ。集まった住民たちは、その小瓶を少し警戒して見ていた。
「薬ではありません」
アルヴィンが言う。
「水を入れる瓶です」
「水なら桶でいいだろ」
坑道を知る男が言った。
「桶では、混ざります」
「何が」
「分かりません」
広間が少し静かになった。
アルヴィンは顔を上げる。
「分からないものを混ぜないために、分けます」
マルタが腕を組んだ。
「分からないって、ずいぶんはっきり言うね」
「分かったふりをすると、記録が濁ります」
その返事で、マルタの目つきが少しだけ変わった。
聞き取りは、短い質問で進んだ。
「温室の土は、いつから変わりましたか」
「湯を引いてから、体の重さが変わった人はいますか」
「坑道で光る石を見たことは」
「畑の収穫が安定した時期は」
「雪解けが早い場所は、毎年同じですか」
「家畜の息や足取りに、冬の違いはありますか」
アルヴィンは、答えを遮らない。
ただ、聞く。
時々、言葉を言い換える。
「重い、とは、眠いのではなく、手足が動かしにくい?」
「光る、とは、昼間にも見える光ですか。暗い場所だけですか」
「湯に入った日は眠れる。翌朝はどうです」
アリアは横で聞きながら、自分の板にも短く書いていく。全部は書けない。けれど、アルヴィンの質問は、白嶺の人たちが前から知っていたことを、別の形に並べているようだった。
土の変化。
湯の変化。
山から来る変化。
アルヴィンは最後に、その三つを紙の上へ分けて書いた。
「原因は、分かりません」
彼は言った。
「ただ、同じ時期に、似た向きの変化が出ています。偶然かもしれません。別々の原因かもしれません。記録が足りません」
「つまり、まだ何も分かってないってことかい」
マルタが言う。
「はい」
アルヴィンは迷わず頷いた。
「けれど、分からない場所は少し減りました」
マルタは鼻を鳴らした。
「変な言い方をするね」
「よく言われます」
「でしょうね」
広間の空気が、少しだけ緩んだ。
* * *
「土を、少量調べたいのです」
アルヴィンが言ったのは、温室へ戻ってからだった。
マルタの顔が、すぐに険しくなる。
「持っていくつもりかい」
「できれば」
「だめだね」
返事は短かった。
アルヴィンは観測帳から顔を上げる。
「理由を聞いても?」
「これは白嶺の食べ物を育てる土だ。外から来た人が、勝手に持っていくものじゃない」
「勝手にはしません」
「言うのが遅い」
マルタの声は強い。
温室の中にいた人たちが、手を止める。ルークスはすぐに口を挟まず、アリアを見た。
判断を振られたのだと、アリアにも分かった。
胸の中で、手紙の紙がわずかに鳴る。エーヴァルトの文字は、懐にある。
アリアは温室の土を見た。
ここで育った葉物を食べた。湯気の中で苗を見た。マルタが毎朝、指先で土を確かめていることも知っている。
土は、ただのものではない。
アリアは、レクス・ノアを足元へそっと下ろした。小さな龍はアリアの横に座る。
「土は、食べものと一緒です」
声は大きくない。
けれど、温室の中で消えなかった。
アルヴィンが、まっすぐアリアを見る。
「持っていくなら、マルタさんが許した分だけです」
アリアは一つずつ言葉を置いた。
「調べたことは、白嶺に返してください」
アルヴィンはしばらく黙った。
子供を見る目ではなかった。皇女を見る目でもない。
約束を求める相手を見る目だった。
「記録は白嶺に残します。使う試料は許可されたものだけにします。結果を外へ出す時は、事前に確認します」
彼はそう言って、頭を下げた。
「約束します」
マルタはまだ不機嫌そうだった。
けれど、拒み続ける顔ではなくなっている。
「隅の土を、ほんの少しだよ」
「はい」
「いいかい。ほんの少しだ」
「はい」
「瓶いっぱいとか言ったら、叩くよ」
「小瓶の底に触れる程度で足ります」
「最初からそう言いな」
マルタは木べらで、温室の隅の土をほんの少しだけすくった。小さな皿に落とすと、黒っぽい粒と薄い砂、細かな根の切れ端が混じる。
アルヴィンは両手で皿を受け取った。
その手つきだけは、とても丁寧だった。
* * *
広間の机に、皿が置かれた。
アルヴィンは土を薄く広げ、灯りの位置を変えながら覗き込む。硝子の小さな板をかざし、針の先で粒を寄せる。
マルタは腕を組んだまま、少し離れて見ていた。
ルークスは机の反対側に立ち、アルヴィンの手元だけでなく、顔も見ている。アリアはレクス・ノアの隣にしゃがみ、皿を覗いた。
普通の土に見える。
黒い粒。
茶色い粒。
白っぽい砂。
細い根。
アルヴィンが灯りを少し動かした。
そのとき、針の先ほどの粒が、一瞬だけ淡く光った。
アリアは瞬きをする。
「今の」
「見えましたか」
アルヴィンの声が低くなった。
興奮しているのに、抑えている声だった。
「少しだけ」
「角度で反射しただけかもしれません。もう一度」
彼は灯りを戻し、また動かす。
粒は、すぐには光らなかった。
マルタが眉を寄せる。
「ただの砂に見えるけどね」
「その可能性があります」
アルヴィンは答えた。
「けれど、ただの砂なら、ここで見落としても問題ありません。そうでないなら、見落とすわけにはいきません」
レクス・ノアが、皿の前へ一歩出た。
小さな鼻先が、土に近づく。
「近づきすぎないでください」
アリアが言うと、レクス・ノアは止まった。
目だけが、粒を見ている。
「結び目」
レクスの声が落ちた。
「結び目?」
「細い流れが、ここで丸まっている」
アリアには、皿の上の土しか見えない。
けれど、レクスの目は別のものを見ているようだった。
ノアが首をかしげる。
「おふろのにおい」
「においがするのですか」
「においじゃない。でも、おふろ」
アルヴィンの指が止まった。
温室の土。
共同浴場の湯。
鉱山の方角。
彼の目が、皿から窓の外へ動く。窓の向こうには、白い山の斜面が見えていた。
「土と湯が」
アルヴィンは言いかけて、口を閉じた。
それから、観測帳を開く。
「未確認。要再検証」
小さく、そう書いた。
ルークスが静かに息を吐く。
「結論は?」
「出しません」
「今の顔は、出したそうでした」
「はい」
アルヴィンは素直に認めた。
「ですが、早すぎます」
マルタは、まだ不機嫌そうに皿を見ている。
「土を取られて、早すぎると言われて、こっちは損した気分だよ」
「記録は返します」
「紙じゃ腹はふくれない」
「なら、記録が食べ物を増やす形になるまで続けます」
マルタが黙った。
アリアは懐の手紙に、そっと手を当てた。紙の角が布越しに触れる。
エーヴァルトは遠い。
けれど、白嶺には今、知らないものを見る人が来た。
アルヴィンは皿の上の粒を見つめている。ルークスは鉱山の方へ目をやった。レクス・ノアの小さな体は、考え込むように動きを止めてから、アリアの足へそっと寄る。
灯りが、もう一度だけ角度を変えた。
皿の上の小さな粒が、淡く光る。
窓の外で、白嶺の湯気が朝の雪へ細くほどけていった。




