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龍と廃嫡皇女のシェアハウス  作者: 三連九
第2章 目覚める町
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16/26

第16話 異端の学者

 帝都学術院の資料室は、昼でも薄暗い。


 高い窓から入る光は細く、棚の上に積もった埃を白く浮かせている。古い革表紙の本が壁を埋め、巻かれた地図が筒の中で眠り、誰も借りなくなった記録簿が机の端で傾いていた。


 その一番奥の机で、アルヴィン・クラウゼ・ヴァイスフェルドは古文献を書き写していた。


 紙はもう何枚も重なっている。


 北方の土地の気温。

 井戸水の硬さ。

 鉱山近くの村で流行した疲労。

 温泉地で冬でも枯れなかった薬草。

 家畜の病が、山を一つ越えただけで軽くなったという古い報告。


 それらは、帝都学術院ではまとめて「雑記」と呼ばれるものだった。


 戦に役立つわけではない。

 税を増やす方法でもない。

 宮廷で喜ばれる薬の調合法でもない。


 だから、誰も読まない。


 アルヴィンだけが読む。


「また土地の帳面か」


 背後から声がした。


 同僚の一人が、書棚の隙間から顔だけを出している。手には新しい論文束を持っていたが、アルヴィンの机を見ると、肩をすくめた。


「土地が人に影響する。水が気力に影響する。鉱物が作物に影響する。君の話は、いつも迷信すれすれだ」


「迷信とは、証明されていないものを信じることです」


 アルヴィンは羽根ペンを止めずに答えた。


「私は、まだ信じていません」


「では何をしている」


「記録しています」


 同僚は笑った。


 悪意は少ない。けれど、敬意も少ない笑いだった。


「君が若いころ、その研究に家の金をつぎ込んで、どれだけ笑われたか忘れたのか」


「忘れていません」


「では、やめればいい」


「忘れていないので、やめられません」


 羽根ペンの先が、紙の上を細く滑った。


 同僚は何か言いかけて、結局やめた。アルヴィンの机の上には、使いかけの蝋燭、冷えた茶、ひびの入った硝子器具、乾いたパンが一切れ置かれている。


 パンには、手がつけられていない。


「食べろよ」


「あとで」


「昨日もそう言っていた」


「では、一昨日でしょう」


「違う」


 同僚はため息をつき、資料室を出ていった。


 扉の閉まる音が、紙の匂いの中に沈む。


 アルヴィンはそこで、ようやく顔を上げた。


 机の反対側に、一人の老人が立っていた。


 身なりの良い老人だった。


 色の濃い外套を着て、手袋をはめ、杖を持っている。学術院の教授ではない。役人のようにも見えたが、役人にしては足音がなかった。


 いつからいたのか。


 アルヴィンは、そこをまず考えた。


「アルヴィン・クラウゼ・ヴァイスフェルド先生でしょうか」


「先生と呼ばれるほど、立派な椅子には座っていません」


「では、ヴァイスフェルド殿」


「そちらの方が正確です」


 老人は小さく頷いた。


 アルヴィンは羽根ペンを置く。


「ご用件は」


「北方で、あなたのお力を必要としている方がおられます」


「北方」


 アルヴィンの目が、机の上の地図へ落ちた。


「どのあたりです」


「白嶺です」


 資料室の空気が、少しだけ変わった。


 白嶺。


 かつて鉱山で知られ、今は呪われた土地として語られる場所。


 文献には、鉱石の記録がある。

 湧水の記録もある。

 人口が減った記録もある。


 ただし、何が起きたのかは書かれていない。


 アルヴィンは、机の端に積んでいた紙束を一枚引いた。そこには、北方の古い地名が小さく書き込まれている。


「面白そうですね」


 老人の目が、ほんのわずかに細くなった。


「危険かもしれません」


「でしょうね」


「寒い土地です」


「北方ですから」


「人も少ない」


「だから、記録が足りない」


 アルヴィンは立ち上がった。


 椅子が床をこすり、古い資料室に乾いた音を残す。


「白嶺で、何を調べれば」


「それを、見に行っていただきたいのです」


 老人は答えだけを置いた。


 名乗らない。

 詳しく話さない。

 頼み込まない。


 ただ、白嶺という地名だけを机の上に置いていく。


 アルヴィンは、そこが一番気に入った。


 答えを持ってくる者より、問いだけを置いていく者のほうが信用できる。


 少なくとも、研究には向いている。


「明日、出ます」


「ご決断が早い」


 老人は、少し笑った。


「本は運べます。服は……これで十分」 


「食事は」


「頭が回らなくなったら?」


 老人は、そこで初めて困ったような顔をした。


「食事と睡眠は、大事かと」


「よく言われます」


 アルヴィンが答えると、老人は軽く礼をした。


 次に顔を上げたときには、もう半歩退いていた。資料室の入口までの距離は短い。けれど、その退き方は、不思議と人目に残らない。


「では、北方で」


 老人はそれだけ言い、古い扉の向こうへ消えた。


 アルヴィンはしばらく扉を見ていた。


 それから、机の上の冷えたパンを手に取る。


 一口かじり、すぐに顔をしかめた。


「硬い」


 昨日のパンだった。


 たぶん。


* * *


 翌朝、アルヴィンの研究室は、出立前とは思えないほど散らかっていた。


 箱が三つ。

 いや、五つ。


 床の上には、本が積まれている。地図が丸められ、観測帳が紐で束ねられ、小さな秤、硝子の管、温度を測る器具、土を入れる袋、水を入れる小瓶が並んでいた。


 衣類は、椅子の背にかかっている一着だけ。


 その一着も、半分は本の下に埋もれていた。


「本当に行くのか」


 昨日の同僚が、扉のところで呆れていた。


「行きます」


「白嶺だぞ」


「はい」


「呪われた土地だ」


「だから行きます」


 アルヴィンは箱の中へ、分厚い本を一冊入れた。


 箱が沈む。


 同僚が眉を寄せた。


「その箱、持てるのか」


「御者が持つでしょう」


「御者が気の毒だ」


「では、少し減らします」


 アルヴィンは箱から本を一冊抜いた。


 抜いた本を見て、しばらく考える。


 また箱に戻した。


「減っていない」


「必要でした」


「君は本当に変わらないな」


「土地は変わります。人も変わります。水も変わります。変わらないものまで私が変わると、比較が難しくなる」


「そういう話ではない」


 同僚は額を押さえた。


 けれど、引き止める声はもう弱い。


 アルヴィンが本当に行くと分かってしまったからだ。


「白嶺で、何を見つけるつもりだ」


「分かりません」


「分からないのに行くのか」


「分かっていたら、ここで論文を書きます」


 アルヴィンは最後の観測帳を鞄に入れた。


 鞄の留め金が閉まらない。


 押した。


 閉まらない。


 膝で押した。


 少し閉まった。


「手伝う」


「助かります」


 二人で鞄を押し、ようやく留め金が鳴った。


 その音は、研究室の中で少しだけ明るく響いた。


 アルヴィンは机の上に残った紙を見た。


 白嶺。


 古い鉱山。

 温泉。

 湧水。

 減った人口。

 残った噂。


 誰も見なくなった土地。


 誰も見なくなった研究。


 奇妙に、同じ机へ置ける題材に見えた。


 その一文を書きかけて、アルヴィンは羽根ペンを止めた。


 紙の余白に、代わりに小さく書く。


「記録対象」


 それから、鞄を持ち上げようとして、持ち上がらなかった。


 同僚が黙って片側を持った。


* * *


 馬車は学術院の裏門に来ていた。


 表門ではない。


 朝の人通りはまだ少なく、石畳には夜の湿り気が残っている。馬の鼻先から白い息がこぼれ、御者が荷の重さを見て短く唸った。


「これを全部ですか」


「はい」


「人が乗る場所がなくなります」


「私は隙間に座れます」


「本が座る場所ではなく、人が座る場所を先に考えてください」


 御者は真面目な声で言った。


 アルヴィンは、少し考えた。


 箱を一つ、馬車の奥へ押す。


 人が一人、斜めに座れるだけの隙間ができた。


「解決しました」


「たぶん、していません」


 御者の声が低くなった。


 そのとき、石畳に杖の音がした。


 昨日の老人が立っていた。


 朝の光の中でも、身なりの良さは変わらない。けれど、目立たない。学術院の裏門にいても、不思議と誰も気に留めない。


「出立前に」


 老人は一通の封書を差し出した。


 白い封筒だった。封蝋は小さい。


 アルヴィンが受け取ると、老人はそれ以上何も言わなかった。


「あなたは」


 アルヴィンが口を開く。


 老人は、静かに首を横へ振った。


「道中でお読みください」


 馬車の扉が閉まる。


 車輪が動き出す。老人はその場で馬車を見送っている。


 学術院の裏門が遠ざかり、石畳の音が馬車の床を伝ってくる。


 アルヴィンは荷箱の間に体を斜めに入れ、膝の上で封書を開いた。


 中の紙は短い。


 アリア様のこと、よろしくお願いいたします。


 エーヴァルト・レインベルク。


 署名の横に、帝室書簡印があった。


 アルヴィンは紙を見たまま、しばらく瞬きをしなかった。


 かの老人が……あの?


 アリア様……。


 なぜ、白嶺?


 頭の中で、別々に置かれていた点が、細い線でつながりそうでつながらない。


「……ま、行けばわかりますか」


 馬車の外で、御者が「何か言いましたか」と聞いた。


「いいえ」


 アルヴィンは手紙を畳んだ。


 そして、観測帳の最初の頁を開く。


 白嶺行。


 目的。


 未定。


 その下に、もう一行。


 未観測事象あり。


 文字は、馬車の揺れで少し曲がった。


* * *


 白嶺では、朝から湯気が立っていた。


 共同温室の屋根はうっすら濡れ、硝子の内側に細かな水滴がついている。マルタは袖をまくり、苗床の横で土を崩していた。


「そこ、踏むんじゃないよ」


「はい」


 アリアは慌てて足を引いた。


 靴の先が、柔らかい土の端で止まる。


 マルタは鼻を鳴らし、けれど怒らなかった。手にした木べらで土を寄せ、指先で少しだけつまむ。


「昨日より乾いてる。水をやるなら、端からだ」


「真ん中ではないのですか」


「真ん中からやると、流れて根が浮く」


 アリアは小さな板に書き留める。


 水は端から。

 根を浮かせない。


 字はまだ少し丸い。


 けれど、行はまっすぐになってきた。


 温室の外では、ルークスが住民と話している。薪置き場の順番のこと。共同浴場の湯冷めを防ぐ布のこと。次に男爵領へ頼む釘の数。


 声は軽い。


 けれど、聞くことは細かい。


 少し離れた坑道前では、ディートが古い支柱を見ていた。入るわけではない。入口の周りを確かめ、雪で隠れた石を杖で叩いているだけだ。


 白嶺は、まだ大きく変わったわけではない。


 けれど、朝になると誰かが湯を見に行く。

 昼になると誰かが温室へ顔を出す。

 夕方になると、ルークスのところへ困りごとが集まる。


 町が、少しずつ自分の音を取り戻しつつある。


 アリアは板を胸に抱えたまま、温室の外を見た。


「アリア」


 低い声が、足元からした。


 レクス・ノアが、温室の入口でこちらを見ている。


 小さな体は、外の冷たい空気をまとっていた。翼の端に雪が少しついている。


「どうしましたか」


「丘へ行く」


「またですか」


「まただ」


「まただー!」


 同じ口から、弾む声が続く。


 マルタが土の上から顔を上げた。


「落ちるなら、雪の厚いところにしな」


「落ちぬ」


「昨日もそう言ったね」


「昨日とは違う」


「一昨日もそう言った」


 レクス・ノアの尾が、ぴたりと止まった。


 ノアの声が、小さく笑う。


「一昨日も言った」


「記録するな」


 アリアは口元を押さえた。


 マルタは笑わず、苗床へ水をやり始めた。肩だけが少し揺れている。


* * *


 丘の上には、まだ雪が残っていた。


 ただ、日当たりの良い斜面だけは土が見えている。草の細い芽が、雪の縁から顔を出していた。


 アリアは少し離れたところに立ち、今日の記録をつけるために、両手で板を持つ。


 レクスが自分でそう言った、記録をつけよ、と。


「今度は、走らないでください」


「走っていない」


「走ってたよ!」


「勢いをつけただけだ」


「それを走ると言います」


 アリアが言うと、レクス・ノアは不満そうに鼻を鳴らした。


 小さな体が、丘の上で低く構える。


 翼が開く。


 風が、薄い膜を押した。


 次の瞬間、レクス・ノアは雪の斜面を蹴った。


 跳ぶ。


 翼が空気を受ける。


 少し浮く。


 けれど、すぐに前へ流れた。


「あっ」


 アリアが声を上げる前に、レクス・ノアは雪へ突っ込んだ。


 白い粉が跳ねる。


 小さな尾だけが、雪の中から出ていた。


「無事ですか」


「無事だ」


「つめたーい!」


 尾が震え、雪の中から顔が出た。鼻先に雪がついている。


 アリアは駆け寄りかけて、途中で止まった。助けに行くと、レクスがまた不服そうな顔をする。


 レクス・ノアは、自分で雪から出た。


 翼を振る。雪が散る。


「もう一度だ」


「休まなくていいのですか」


「必要ない」


「ちょっと必要ある!」


 ノアの声が混じった。


 けれど、小さな体はまた丘の上へ戻る。


 二度目。


 三度目。


 滑る。

 浮く。

 落ちる。


 雪に丸い跡が増えていった。


 アリアは板に書く。


 勢いをつけると前へ行きすぎる。

 翼を広げると少し浮く。

 止まれない。


 四度目のときだった。


 レクス・ノアは丘の上から跳び、いつものように翼を開いた。


 風を受ける。


 前へ流れる。


 着地の直前、小さな体が翼を止めた。


 いつもなら、そのまま落ちる。


 けれど、落ちなかった。


 ほんの一息。


 足が雪に触れない。


 翼も動かない。


 小さな体が、空中で止まっている。


 アリアは息を止めた。


 レクス・ノアの前足が、そろりと前へ出る。


 一歩。


 もう一歩。


 三歩目で、すとんと落ちた。


 今度は雪に突っ込まなかった。


 足が雪を踏み、少し沈む。


 翼が遅れて震えた。


「飛んだ!」


 ノアの声が、丘に跳ねた。


「飛んではいない」


 レクスの声は低かった。


 けれど、いつもより少しだけ遅い。


 自分でも、何が起きたのか確かめている声だった。


「でも、落ちませんでした」


 アリアは板を抱えたまま近づく。


「翼ではない」


 レクス・ノアは、雪の上に立ったまま翼を見る。


 それから、自分の胸のあたりへ視線を落とした。


「支えている」


「何がですか」


「内側からだ」


 短い沈黙。


 小さな体の尾が、雪の上でゆっくり動いた。


「まだ掴めぬ」


「じゃあ、もう一回!」


「当然だ」


「少し休んでからです」


 アリアが言うと、レクス・ノアの顔がこちらを向いた。


 レクスは不服そうだった。


 ノアは、たぶん早くもう一度やりたい顔だった。


 同じ顔なのに、アリアには両方分かった。


「休んでからです」


 もう一度言うと、レクス・ノアは雪の上に座った。


 翼の端が、まだ小さく震えている。


 アリアは板に新しい行を書いた。


 落ちなかった。


 その下に、少し迷ってから書き足す。


 中から支えている。


 字は、ほんの少し曲がった。


* * *


 馬車は北へ進んでいた。


 帝都を離れてから、道は少しずつ細くなっている。石畳は土の道に変わり、家の数は減り、川の音が近くなった。


 アルヴィンは馬車の中で、観測帳を膝に置いていた。


 揺れる。


 書きづらい。


 それでも書く。


 北上五日目。

 街道脇の雪、予想より薄い。

 川、凍結なし。

 橋の北側、湯気のような白い気配あり。


 御者が前から声をかけた。


「寒くありませんか」


「寒いです」


「膝掛けを使ってください」


「どこにありますか」


「あなたの右です」


 アルヴィンは右を見た。


 本があった。


「本があります」


「その下です」


 本を三冊どけると、膝掛けが出てきた。


「ありました」


「使ってください」


「はい」


 アルヴィンは膝掛けを広げ、半分だけ膝にかけた。


 もう半分は、観測帳を支えるために使った。


 御者は何か言いかけて、やめた。


 馬車が坂を上がる。


 遠くの山が見えた。


 白い。


 けれど、白だけではない。


 斜面の一部に、冬とは思えない薄い緑が残っていた。谷の底からは、細い湯気が上がっている。川は流れ、岩の間で光を返していた。


 アルヴィンは身を乗り出した。


「危ないですよ」


「文献と違う」


「何がです」


「白嶺周辺の冬季記録です。もっと凍結が多い。もっと道が閉じる。少なくとも、この標高で川がここまで動く記録は少ない」


「今は運がいいのでは」


「運も記録します」


 アルヴィンは書いた。


 文献と違う。


 それだけでは足りない気がして、さらに書く。


 現地確認を要する。


 馬車の車輪が石に乗り上げ、文字が大きく跳ねた。


 インクが紙に点を作る。


 アルヴィンはその点の脇へ、川が流れている、湯気が上がっている、斜面に緑が残る、と書き足した。白嶺の名の横には、現地で確かめる、とだけ記す。


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