第16話 異端の学者
帝都学術院の資料室は、昼でも薄暗い。
高い窓から入る光は細く、棚の上に積もった埃を白く浮かせている。古い革表紙の本が壁を埋め、巻かれた地図が筒の中で眠り、誰も借りなくなった記録簿が机の端で傾いていた。
その一番奥の机で、アルヴィン・クラウゼ・ヴァイスフェルドは古文献を書き写していた。
紙はもう何枚も重なっている。
北方の土地の気温。
井戸水の硬さ。
鉱山近くの村で流行した疲労。
温泉地で冬でも枯れなかった薬草。
家畜の病が、山を一つ越えただけで軽くなったという古い報告。
それらは、帝都学術院ではまとめて「雑記」と呼ばれるものだった。
戦に役立つわけではない。
税を増やす方法でもない。
宮廷で喜ばれる薬の調合法でもない。
だから、誰も読まない。
アルヴィンだけが読む。
「また土地の帳面か」
背後から声がした。
同僚の一人が、書棚の隙間から顔だけを出している。手には新しい論文束を持っていたが、アルヴィンの机を見ると、肩をすくめた。
「土地が人に影響する。水が気力に影響する。鉱物が作物に影響する。君の話は、いつも迷信すれすれだ」
「迷信とは、証明されていないものを信じることです」
アルヴィンは羽根ペンを止めずに答えた。
「私は、まだ信じていません」
「では何をしている」
「記録しています」
同僚は笑った。
悪意は少ない。けれど、敬意も少ない笑いだった。
「君が若いころ、その研究に家の金をつぎ込んで、どれだけ笑われたか忘れたのか」
「忘れていません」
「では、やめればいい」
「忘れていないので、やめられません」
羽根ペンの先が、紙の上を細く滑った。
同僚は何か言いかけて、結局やめた。アルヴィンの机の上には、使いかけの蝋燭、冷えた茶、ひびの入った硝子器具、乾いたパンが一切れ置かれている。
パンには、手がつけられていない。
「食べろよ」
「あとで」
「昨日もそう言っていた」
「では、一昨日でしょう」
「違う」
同僚はため息をつき、資料室を出ていった。
扉の閉まる音が、紙の匂いの中に沈む。
アルヴィンはそこで、ようやく顔を上げた。
机の反対側に、一人の老人が立っていた。
身なりの良い老人だった。
色の濃い外套を着て、手袋をはめ、杖を持っている。学術院の教授ではない。役人のようにも見えたが、役人にしては足音がなかった。
いつからいたのか。
アルヴィンは、そこをまず考えた。
「アルヴィン・クラウゼ・ヴァイスフェルド先生でしょうか」
「先生と呼ばれるほど、立派な椅子には座っていません」
「では、ヴァイスフェルド殿」
「そちらの方が正確です」
老人は小さく頷いた。
アルヴィンは羽根ペンを置く。
「ご用件は」
「北方で、あなたのお力を必要としている方がおられます」
「北方」
アルヴィンの目が、机の上の地図へ落ちた。
「どのあたりです」
「白嶺です」
資料室の空気が、少しだけ変わった。
白嶺。
かつて鉱山で知られ、今は呪われた土地として語られる場所。
文献には、鉱石の記録がある。
湧水の記録もある。
人口が減った記録もある。
ただし、何が起きたのかは書かれていない。
アルヴィンは、机の端に積んでいた紙束を一枚引いた。そこには、北方の古い地名が小さく書き込まれている。
「面白そうですね」
老人の目が、ほんのわずかに細くなった。
「危険かもしれません」
「でしょうね」
「寒い土地です」
「北方ですから」
「人も少ない」
「だから、記録が足りない」
アルヴィンは立ち上がった。
椅子が床をこすり、古い資料室に乾いた音を残す。
「白嶺で、何を調べれば」
「それを、見に行っていただきたいのです」
老人は答えだけを置いた。
名乗らない。
詳しく話さない。
頼み込まない。
ただ、白嶺という地名だけを机の上に置いていく。
アルヴィンは、そこが一番気に入った。
答えを持ってくる者より、問いだけを置いていく者のほうが信用できる。
少なくとも、研究には向いている。
「明日、出ます」
「ご決断が早い」
老人は、少し笑った。
「本は運べます。服は……これで十分」
「食事は」
「頭が回らなくなったら?」
老人は、そこで初めて困ったような顔をした。
「食事と睡眠は、大事かと」
「よく言われます」
アルヴィンが答えると、老人は軽く礼をした。
次に顔を上げたときには、もう半歩退いていた。資料室の入口までの距離は短い。けれど、その退き方は、不思議と人目に残らない。
「では、北方で」
老人はそれだけ言い、古い扉の向こうへ消えた。
アルヴィンはしばらく扉を見ていた。
それから、机の上の冷えたパンを手に取る。
一口かじり、すぐに顔をしかめた。
「硬い」
昨日のパンだった。
たぶん。
* * *
翌朝、アルヴィンの研究室は、出立前とは思えないほど散らかっていた。
箱が三つ。
いや、五つ。
床の上には、本が積まれている。地図が丸められ、観測帳が紐で束ねられ、小さな秤、硝子の管、温度を測る器具、土を入れる袋、水を入れる小瓶が並んでいた。
衣類は、椅子の背にかかっている一着だけ。
その一着も、半分は本の下に埋もれていた。
「本当に行くのか」
昨日の同僚が、扉のところで呆れていた。
「行きます」
「白嶺だぞ」
「はい」
「呪われた土地だ」
「だから行きます」
アルヴィンは箱の中へ、分厚い本を一冊入れた。
箱が沈む。
同僚が眉を寄せた。
「その箱、持てるのか」
「御者が持つでしょう」
「御者が気の毒だ」
「では、少し減らします」
アルヴィンは箱から本を一冊抜いた。
抜いた本を見て、しばらく考える。
また箱に戻した。
「減っていない」
「必要でした」
「君は本当に変わらないな」
「土地は変わります。人も変わります。水も変わります。変わらないものまで私が変わると、比較が難しくなる」
「そういう話ではない」
同僚は額を押さえた。
けれど、引き止める声はもう弱い。
アルヴィンが本当に行くと分かってしまったからだ。
「白嶺で、何を見つけるつもりだ」
「分かりません」
「分からないのに行くのか」
「分かっていたら、ここで論文を書きます」
アルヴィンは最後の観測帳を鞄に入れた。
鞄の留め金が閉まらない。
押した。
閉まらない。
膝で押した。
少し閉まった。
「手伝う」
「助かります」
二人で鞄を押し、ようやく留め金が鳴った。
その音は、研究室の中で少しだけ明るく響いた。
アルヴィンは机の上に残った紙を見た。
白嶺。
古い鉱山。
温泉。
湧水。
減った人口。
残った噂。
誰も見なくなった土地。
誰も見なくなった研究。
奇妙に、同じ机へ置ける題材に見えた。
その一文を書きかけて、アルヴィンは羽根ペンを止めた。
紙の余白に、代わりに小さく書く。
「記録対象」
それから、鞄を持ち上げようとして、持ち上がらなかった。
同僚が黙って片側を持った。
* * *
馬車は学術院の裏門に来ていた。
表門ではない。
朝の人通りはまだ少なく、石畳には夜の湿り気が残っている。馬の鼻先から白い息がこぼれ、御者が荷の重さを見て短く唸った。
「これを全部ですか」
「はい」
「人が乗る場所がなくなります」
「私は隙間に座れます」
「本が座る場所ではなく、人が座る場所を先に考えてください」
御者は真面目な声で言った。
アルヴィンは、少し考えた。
箱を一つ、馬車の奥へ押す。
人が一人、斜めに座れるだけの隙間ができた。
「解決しました」
「たぶん、していません」
御者の声が低くなった。
そのとき、石畳に杖の音がした。
昨日の老人が立っていた。
朝の光の中でも、身なりの良さは変わらない。けれど、目立たない。学術院の裏門にいても、不思議と誰も気に留めない。
「出立前に」
老人は一通の封書を差し出した。
白い封筒だった。封蝋は小さい。
アルヴィンが受け取ると、老人はそれ以上何も言わなかった。
「あなたは」
アルヴィンが口を開く。
老人は、静かに首を横へ振った。
「道中でお読みください」
馬車の扉が閉まる。
車輪が動き出す。老人はその場で馬車を見送っている。
学術院の裏門が遠ざかり、石畳の音が馬車の床を伝ってくる。
アルヴィンは荷箱の間に体を斜めに入れ、膝の上で封書を開いた。
中の紙は短い。
アリア様のこと、よろしくお願いいたします。
エーヴァルト・レインベルク。
署名の横に、帝室書簡印があった。
アルヴィンは紙を見たまま、しばらく瞬きをしなかった。
かの老人が……あの?
アリア様……。
なぜ、白嶺?
頭の中で、別々に置かれていた点が、細い線でつながりそうでつながらない。
「……ま、行けばわかりますか」
馬車の外で、御者が「何か言いましたか」と聞いた。
「いいえ」
アルヴィンは手紙を畳んだ。
そして、観測帳の最初の頁を開く。
白嶺行。
目的。
未定。
その下に、もう一行。
未観測事象あり。
文字は、馬車の揺れで少し曲がった。
* * *
白嶺では、朝から湯気が立っていた。
共同温室の屋根はうっすら濡れ、硝子の内側に細かな水滴がついている。マルタは袖をまくり、苗床の横で土を崩していた。
「そこ、踏むんじゃないよ」
「はい」
アリアは慌てて足を引いた。
靴の先が、柔らかい土の端で止まる。
マルタは鼻を鳴らし、けれど怒らなかった。手にした木べらで土を寄せ、指先で少しだけつまむ。
「昨日より乾いてる。水をやるなら、端からだ」
「真ん中ではないのですか」
「真ん中からやると、流れて根が浮く」
アリアは小さな板に書き留める。
水は端から。
根を浮かせない。
字はまだ少し丸い。
けれど、行はまっすぐになってきた。
温室の外では、ルークスが住民と話している。薪置き場の順番のこと。共同浴場の湯冷めを防ぐ布のこと。次に男爵領へ頼む釘の数。
声は軽い。
けれど、聞くことは細かい。
少し離れた坑道前では、ディートが古い支柱を見ていた。入るわけではない。入口の周りを確かめ、雪で隠れた石を杖で叩いているだけだ。
白嶺は、まだ大きく変わったわけではない。
けれど、朝になると誰かが湯を見に行く。
昼になると誰かが温室へ顔を出す。
夕方になると、ルークスのところへ困りごとが集まる。
町が、少しずつ自分の音を取り戻しつつある。
アリアは板を胸に抱えたまま、温室の外を見た。
「アリア」
低い声が、足元からした。
レクス・ノアが、温室の入口でこちらを見ている。
小さな体は、外の冷たい空気をまとっていた。翼の端に雪が少しついている。
「どうしましたか」
「丘へ行く」
「またですか」
「まただ」
「まただー!」
同じ口から、弾む声が続く。
マルタが土の上から顔を上げた。
「落ちるなら、雪の厚いところにしな」
「落ちぬ」
「昨日もそう言ったね」
「昨日とは違う」
「一昨日もそう言った」
レクス・ノアの尾が、ぴたりと止まった。
ノアの声が、小さく笑う。
「一昨日も言った」
「記録するな」
アリアは口元を押さえた。
マルタは笑わず、苗床へ水をやり始めた。肩だけが少し揺れている。
* * *
丘の上には、まだ雪が残っていた。
ただ、日当たりの良い斜面だけは土が見えている。草の細い芽が、雪の縁から顔を出していた。
アリアは少し離れたところに立ち、今日の記録をつけるために、両手で板を持つ。
レクスが自分でそう言った、記録をつけよ、と。
「今度は、走らないでください」
「走っていない」
「走ってたよ!」
「勢いをつけただけだ」
「それを走ると言います」
アリアが言うと、レクス・ノアは不満そうに鼻を鳴らした。
小さな体が、丘の上で低く構える。
翼が開く。
風が、薄い膜を押した。
次の瞬間、レクス・ノアは雪の斜面を蹴った。
跳ぶ。
翼が空気を受ける。
少し浮く。
けれど、すぐに前へ流れた。
「あっ」
アリアが声を上げる前に、レクス・ノアは雪へ突っ込んだ。
白い粉が跳ねる。
小さな尾だけが、雪の中から出ていた。
「無事ですか」
「無事だ」
「つめたーい!」
尾が震え、雪の中から顔が出た。鼻先に雪がついている。
アリアは駆け寄りかけて、途中で止まった。助けに行くと、レクスがまた不服そうな顔をする。
レクス・ノアは、自分で雪から出た。
翼を振る。雪が散る。
「もう一度だ」
「休まなくていいのですか」
「必要ない」
「ちょっと必要ある!」
ノアの声が混じった。
けれど、小さな体はまた丘の上へ戻る。
二度目。
三度目。
滑る。
浮く。
落ちる。
雪に丸い跡が増えていった。
アリアは板に書く。
勢いをつけると前へ行きすぎる。
翼を広げると少し浮く。
止まれない。
四度目のときだった。
レクス・ノアは丘の上から跳び、いつものように翼を開いた。
風を受ける。
前へ流れる。
着地の直前、小さな体が翼を止めた。
いつもなら、そのまま落ちる。
けれど、落ちなかった。
ほんの一息。
足が雪に触れない。
翼も動かない。
小さな体が、空中で止まっている。
アリアは息を止めた。
レクス・ノアの前足が、そろりと前へ出る。
一歩。
もう一歩。
三歩目で、すとんと落ちた。
今度は雪に突っ込まなかった。
足が雪を踏み、少し沈む。
翼が遅れて震えた。
「飛んだ!」
ノアの声が、丘に跳ねた。
「飛んではいない」
レクスの声は低かった。
けれど、いつもより少しだけ遅い。
自分でも、何が起きたのか確かめている声だった。
「でも、落ちませんでした」
アリアは板を抱えたまま近づく。
「翼ではない」
レクス・ノアは、雪の上に立ったまま翼を見る。
それから、自分の胸のあたりへ視線を落とした。
「支えている」
「何がですか」
「内側からだ」
短い沈黙。
小さな体の尾が、雪の上でゆっくり動いた。
「まだ掴めぬ」
「じゃあ、もう一回!」
「当然だ」
「少し休んでからです」
アリアが言うと、レクス・ノアの顔がこちらを向いた。
レクスは不服そうだった。
ノアは、たぶん早くもう一度やりたい顔だった。
同じ顔なのに、アリアには両方分かった。
「休んでからです」
もう一度言うと、レクス・ノアは雪の上に座った。
翼の端が、まだ小さく震えている。
アリアは板に新しい行を書いた。
落ちなかった。
その下に、少し迷ってから書き足す。
中から支えている。
字は、ほんの少し曲がった。
* * *
馬車は北へ進んでいた。
帝都を離れてから、道は少しずつ細くなっている。石畳は土の道に変わり、家の数は減り、川の音が近くなった。
アルヴィンは馬車の中で、観測帳を膝に置いていた。
揺れる。
書きづらい。
それでも書く。
北上五日目。
街道脇の雪、予想より薄い。
川、凍結なし。
橋の北側、湯気のような白い気配あり。
御者が前から声をかけた。
「寒くありませんか」
「寒いです」
「膝掛けを使ってください」
「どこにありますか」
「あなたの右です」
アルヴィンは右を見た。
本があった。
「本があります」
「その下です」
本を三冊どけると、膝掛けが出てきた。
「ありました」
「使ってください」
「はい」
アルヴィンは膝掛けを広げ、半分だけ膝にかけた。
もう半分は、観測帳を支えるために使った。
御者は何か言いかけて、やめた。
馬車が坂を上がる。
遠くの山が見えた。
白い。
けれど、白だけではない。
斜面の一部に、冬とは思えない薄い緑が残っていた。谷の底からは、細い湯気が上がっている。川は流れ、岩の間で光を返していた。
アルヴィンは身を乗り出した。
「危ないですよ」
「文献と違う」
「何がです」
「白嶺周辺の冬季記録です。もっと凍結が多い。もっと道が閉じる。少なくとも、この標高で川がここまで動く記録は少ない」
「今は運がいいのでは」
「運も記録します」
アルヴィンは書いた。
文献と違う。
それだけでは足りない気がして、さらに書く。
現地確認を要する。
馬車の車輪が石に乗り上げ、文字が大きく跳ねた。
インクが紙に点を作る。
アルヴィンはその点の脇へ、川が流れている、湯気が上がっている、斜面に緑が残る、と書き足した。白嶺の名の横には、現地で確かめる、とだけ記す。




