第15話 白嶺の湯
「今日は、レクス・ノアも一緒ですよ」
夕暮れの仮住まいで、アリアは湯浴み用の布を畳みながら言った。
小さな体が、ぴたりと止まる。
暖炉のそばで丸くなっていたレクス・ノアは、顔だけをこちらへ向けた。尾の先が床に触れたまま、動かない。
「断る」
「おふろー!」
同じ口から、まったく違う声が出た。
前足が一歩だけ前へ出る。
後ろ足が、敷物の端を踏んで踏ん張った。
アリアは布を抱えたまま、少しだけ目を丸くする。それから、口元に力を入れた。笑ってはいけない。たぶん、笑うとレクスがむっとする。
「喧嘩しないでください」
「喧嘩ではない」
「行きたーい!」
レクス・ノアの体が、前へ半歩進み、そこで止まった。尾だけが左右に迷い、翼が小さく開きかけて、また畳まれる。
忙しい。
とても忙しい。
アリアは湯浴み布と着替えを籠に入れ、そっとレクス・ノアの前へしゃがんだ。
「白嶺のお湯は、あったかいですよ」
「熱いものは危険だ」
「あったかいの、好き!」
「好き嫌いで判断するな」
「好きー!」
アリアはとうとう、少しだけ笑ってしまった。
「では、わたしが抱いて行きます」
「待て。協議が終わっていない」
「わーい!」
レクス・ノアの体を抱き上げると、小さな爪がアリアの袖をつかんだ。力は強くない。けれど、前足の片方は進む気で、もう片方は抗議するように袖を押している。
「我は連行されている」
「わーい、連行ー!」
「その言葉を喜ぶな」
アリアは籠を片腕にかけ、レクス・ノアを抱き直した。
外では、白嶺の夕方が湯気の色に変わり始めている。
* * *
共同浴場は、仮住まいから少し下った場所にあった。
石造りの低い建物で、屋根の隙間から白い湯気が細くのぼっている。入口の脇には木桶が重ねられ、乾かした布が縄に掛けられていた。
道の途中では、子供たちが石畳の端を飛び越えて遊んでいる。老人たちは湯気の当たる壁際に腰を下ろし、小さな盤を挟んで木片を動かしていた。
「あら、アリアちゃん」
井戸のそばにいた女の人が、手を振った。
アリアは少し照れながら、頭を下げる。
「こんばんは」
「今日は一緒なんだねぇ」
視線が、アリアの腕の中へ向いた。
レクス・ノアは胸を張ろうとして、アリアの腕に支えられていることに気づいたらしい。小さな顎が、少しだけ引っ込んだ。
「捕まったのではない」
「つかまったー!」
近くにいた子供が、ぱっと笑った。
「ちび龍、しゃべった!」
「前からしゃべるよ」
「二つしゃべる!」
「一匹で賑やかだねぇ」
老人の一人が、盤から目を上げずに言った。
前なら、その言葉のあとに少しだけ沈黙があったかもしれない。龍、という響きに、大人たちの肩が硬くなる時間。
けれど今日は、子供たちが笑い、湯気が揺れ、木片が盤の上でこつんと鳴った。
アリアは腕の中の小さな体を少し抱き直す。
レクス・ノアの尾が、アリアの袖の下で小さく動いた。
* * *
共同浴場の中は、外よりずっと暖かかった。
石の床に湯が薄く流れ、桶の音と人の声が重なっている。湯気は白く、天井の梁を隠し、時々ふわりとほどけた。
最初にここへ来たとき、アリアは少し戸惑った。
帝都の湯殿は静かだった。湯の温度も、布も、香油も、侍女たちが先に整えてくれる。声は低く、手順は決まっていて、アリアが何かを探す前に誰かが差し出してくれた。
白嶺の共同浴場は違う。
桶は自分で取る。
布も自分で置く。
子供が走れば誰かが叱り、年寄りが笑い、湯のそばで今日の野菜の出来を話している。
アリアはまだ、全部に慣れたわけではない。けれど、木桶の置き場所はもう分かる。濡れると滑る石の場所も、マルタがよく座る隅も覚えた。
「あいかわらず、白くて細いねぇ」
その隅から、マルタが遠慮のない声を投げてきた。
アリアは桶を抱えたまま、背筋を伸ばす。
「ちゃんと食べてるかい」
「はい」
「返事はいいんだよ。肉も食べな」
「はい」
同じ返事になってしまい、アリアは少しだけ頬を熱くした。
腕の中で、レクス・ノアが湯気を見上げている。翼はきゅっと畳まれ、尾はアリアの手首に巻きつきかけていた。
「帰還を提案する」
「泡のにおいがする!」
「泡に匂いはない」
「あるよ。あったかい匂い」
マルタが喉の奥で笑った。
「まず洗ってからだよ。湯船に入る前の作法も知らない龍なんざ、白嶺の湯には入れないね」
レクス・ノアの小さな体が、ほんの少し固まる。
「作法なら理解する」
「じゃあ、いい子に洗われな」
レクスは黙った。
ノアの声だけが、明るく跳ねる。
「洗われるー!」
* * *
洗い場の石は、足の裏に少しざらついた。
アリアは小さな腰掛けに座り、レクス・ノアを膝に乗せる。桶の湯を手で確かめてから、少しずつ背中へかけた。
小さな体が、びくりと震える。
「熱い」
「ぬるめです」
「想定より熱い」
「あったかーい!」
アリアは笑わないようにしながら、灰を混ぜた石鹸を手に取った。白嶺では、温泉のそばで作った灰石鹸を使う。香りは強くない。少しだけ木灰の匂いがして、泡は細かい。
「翼を広げてください」
「必要性を感じない」
「洗えません」
「洗わなくてよい」
「泡だ!」
前足が泡へ伸びた。
レクス・ノアの体が、アリアの膝の上で前へ傾く。アリアは慌てて胸のあたりを支えた。
「勝手に動かすな」
「えへへ」
「仲良くしてください」
「我は常に理性的だ」
「泡、逃げた!」
前足がまた伸びる。
翼は広がらない。
尾は桶の縁を叩く。
アリアは、どうにか片方の翼を指で支えた。小さな翼の骨は細く、膜は薄い。湯で濡れると、いつもより少し透けて見える。
「痛くありませんか」
「痛くはない」
「くすぐったい!」
「痛覚とくすぐったさは別だ」
「くすぐったーい!」
周りから、また笑い声が起きた。
アリアの膝の上で、レクス・ノアはむずむずと身じろぎする。けれど、逃げ出そうとはしなかった。泡が翼の端を滑り、湯で流れて、石の床へ細く消えていく。
マルタが湯を汲みながら、目を細めた。
「一匹で、本当に忙しいねぇ」
「同感だ」
「楽しいね!」
同じ口が、すぐに別の答えを返す。
アリアは泡のついた指を湯で流し、今度こそ笑った。
* * *
湯船の湯は、白く濁ってはいなかった。
深い石の底から熱が上がり、湯面には細かな揺れがある。端のほうでは、泡が時々ぶくぶくと上がっていた。
アリアはレクス・ノアを抱いたまま、ゆっくり湯へ入る。
小さな体が、また硬くなった。
翼がぴたりと脇へ寄る。
尾が丸まる。
前足が、アリアの腕をぎゅっと押さえた。
「深い」
「わたしが持っています」
「あったかーい!」
ノアの声が、湯気の中で弾んだ。
レクスは何も言わない。
アリアは湯船の縁に背を預け、レクス・ノアの体が湯に浮きすぎないよう両腕で支えた。湯が小さな背に触れ、翼の付け根を包む。
しばらくすると、尾の先がほどけた。
次に、翼から力が抜ける。
小さな顎が、アリアの腕の上に乗った。
目が、ゆっくり細くなる。
「気持ちいいですか」
アリアが小声で聞くと、レクス・ノアのまぶたが少しだけ上がった。
「……静かだ」
「気持ちいいって顔してる!」
「顔は証言ではない」
「してるー」
「していない」
言葉ではそう言うのに、尾は湯の中でまっすぐ伸びている。翼も畳まれたまま、力が入っていない。
アリアはレクス・ノアが湯面に浮いてしまわないよう、そっと支え直した。
「浮かんでしまいますよ」
「問題ない」
「沈んだら大変です」
「我は沈まぬ」
「ぷかぷかー!」
レクス・ノアの体が、本当に少しだけ湯面へ浮きかける。
アリアは慌てて抱え直した。
近くの女の人が吹き出し、子供たちが湯船の端で笑った。湯気が揺れて、笑い声が天井へ上がっていく。
レクス・ノアは目を細めたまま、何も言わなかった。
* * *
湯船の底から、泡が上がった。
ぶく。
少し遅れて、もう一つ。
ぶくぶく。
ノアの声がすぐに反応する。
「泡!」
レクス・ノアの首が、泡を追って動いた。前足が湯の中へ伸びる。けれど、泡は触れる前に弾けて消えた。
「逃げた!」
「泡は逃げていない」
「逃げたよ」
「形を保てなかっただけだ」
レクスの声は冷静だった。
けれど、視線は泡の出る底をじっと見ている。
「地下から押し上げられた気体だ」
言ってから、レクス・ノアは黙った。
細い尾の先が、湯の中で止まる。
レクスは泡の消えた場所を見つめたまま、まぶたを少しだけ伏せた。今の言葉を、自分で確かめ直しているようだった。
アリアは湯の揺れを見下ろす。
「違うのですか」
「……違う」
短い返事。
泡がまた一つ、湯面で弾けた。
「もっと別の……」
「別の?」
「分からぬ」
レクスの声は、いつもより少し低かった。
怖がっているわけではない。怒っているのでもない。何かを見つけかけて、手の中からこぼしたような声だった。
ノアは、その横で泡を追っている。
「ぶくぶく、また来た!」
前足が湯をかいた。
湯面が小さく跳ね、アリアの頬に一粒だけかかる。
「レクス・ノア」
「我ではない」
「ぼく!」
とても正直だった。
アリアは頬の湯を指で拭い、少しだけ笑う。
「では、ノア。静かにしてください」
「はーい」
返事のあと、前足は湯の中でゆっくり動いた。
泡はまた、底から上がる。
掴めないまま、湯面で消えていく。
* * *
「どうしてレクスは、そんなことを知っているのですか」
湯気の中で、アリアは小さく尋ねた。
大きな声ではない。
誰かに聞かせるためでもない。
ただ、泡を見ているレクスの横顔が、いつものレクスとは少し違って見えた。
レクス・ノアは、しばらく黙っていた。
「知らぬ」
「知らないのですか」
「知っているのではない」
アリアは首を傾げる。
「でも、さっき、地下からって」
「浮かぶ」
「浮かぶ?」
ノアが、ぱっと顔を上げた。
「ぶくぶくー!」
「ノア」
「泡みたいにね!」
ノアはとても得意そうだった。
「頭の中で、ぽこんって出るの。あったかいとか、きれいとか、これはこうって」
レクスが深く息を吐く。
「その説明では、我が阿呆のようではないか」
「でも、本当にそんな感じだもん」
「違う」
「ぽこん」
「違う」
「ぽこん」
アリアは湯気の中で、とうとう声をこぼして笑った。
笑うと、湯気が少し揺れる。
レクス・ノアの小さな体も、アリアの腕の中でわずかに揺れた。レクスは不服そうに目を細めている。ノアは泡が上がるたび、耳のあたりをぴくぴく動かした。
知っているのではない。
浮かぶ。
アリアには、まだよく分からない。
けれど、レクス・ノアの中には、ときどき泡のように何かが上がってくるらしい。掴もうとすると、湯面で弾けてしまうもの。言葉にすると、少し形が変わってしまうもの。
アリアはそのことを、胸の小さな場所にしまった。
今は、湯が温かい。
レクス・ノアの体も、もう硬くない。
「また泡が来ました」
「どこ!」
ノアの声が跳ねる。
レクスは何も言わなかったが、視線だけは湯船の底へ向いた。
* * *
湯上がりの夜風は、頬に少し冷たかった。
アリアは浴場の軒下で、柔らかな布を広げる。レクス・ノアを膝の上に乗せ、小さな翼を一枚ずつ丁寧に拭いた。
翼の端から、湯の雫が落ちる。
石畳に、小さな丸い跡ができた。
「また来たい!」
ノアが言った。
「毎日は不要だ」
「毎日!」
「月に一度」
「毎日!」
「三十日に一度」
「毎日!」
アリアは翼の内側を拭きながら、少し考えるふりをした。
「では、また今度来ましょう」
「今度!」
「頻度が不明確だ」
「今度は今度です」
レクス・ノアの尾が、布の上でゆっくり動いた。
不満そうな顔をしているのに、目はまだ少し細い。湯の熱が残っているのか、小さな体はいつもより柔らかく、アリアの膝に重みを預けていた。
マルタが浴場の戸口から顔を出す。
「冷える前に帰りな。湯冷めしたら、せっかく温まった分が逃げるよ」
「はい。ありがとうございます」
「ちび龍もだよ」
「我は湯冷めしない」
「するよ」
「するかも!」
マルタは鼻で笑って、戸を閉めた。
アリアはレクス・ノアを抱き直し、籠を持つ。夜の白嶺には、まだ湯気が立っていた。共同浴場の屋根から、温泉小屋の水路から、家々の隙間から、白い息のように細く上がっている。
空には星が出ていた。
石畳は少し濡れていて、アリアの靴音が小さく響く。
「アリア」
レクスの声が、腕の中から聞こえた。
「はい」
「次は、泡を観察する」
「はい」
「おふろも入る?」
ノアがすぐに重ねる。
少し間があった。
「……観察に必要ならば」
アリアは笑わないように、夜道の先を見た。
白嶺の湯気が、星の下でほどけていく。
腕の中の小さな体は、帰り道の半ばで静かに目を閉じた。




