第14話 帝都の冬
帝城の政務室には、朝から火が入っていた。
それでも、部屋は暖かいというほどではない。石の壁は冬の冷えを含み、窓の外には薄い雪が残っている。
オスヴァルト・レオ・ヴァルグレインは、机に置かれた書類へ目を落としていた。
北部警備隊の人員補充。
春に向けた備蓄量の再計算。
税制改革に対する門閥貴族からの請願。
辺境諸領の道路修繕費。
どれも、後回しにすれば誰かが困る。どれも、今すぐ決めれば誰かが不満を持つ。
皇帝の机には、そういう紙ばかりが積まれていた。
「北部警備は先に回せ。冬の終わり際がいちばん崩れる」
控えていた文官が、すぐに控え書きへ筆を走らせる。
「春の備蓄は削るな。数字が足りぬなら、式典費を削れ」
「よろしいのですか」
「飢えた民に旗を見せても腹は膨れん」
文官は一礼し、書類を抱えて下がった。
扉が閉まる。
政務室に、紙の匂いと火の小さな音だけが残った。
オスヴァルトは次の書類へ手を伸ばしかけ、そこで止まった。
机の隅に、一通の封書が置かれている。
帝室管理局の封蝋。
何かの儀礼日程か、部屋の修繕願いか、古い備品台帳かもしれない。緊急の書類なら、文官がそう告げる。だから、今すぐ手に取る必要はなかった。
「……帝室か」
声は、誰に向けたものでもなかった。
兄がいた場所。
義姉が笑っていた場所。
幼い姪が、まだ皇女として歩いていた場所。
帝国は背負える。
軍も、税も、貴族の請願も、飢えも、道も、書類になれば決裁できる。
けれど、帝室だけは遠かった。
誰かに止められているわけではない。皇帝である彼が行こうと思えば、誰も門を閉ざせない。
それでも、足は向かない。
オスヴァルトは封書から視線を外した。
次の書類へ判を押す。赤い印が、白い紙に沈んだ。
火の中で、薪が細く割れた。
* * *
ヴァルガルド侯爵家の別邸では、庭師が朝から困っていた。
困っている理由は、木ではない。
冬の庭木は静かなものだ。枝を整え、雪の重みで折れそうなところを支えれば、それで済む。
問題は、その庭木の前に、皇太后エレノーラ・フィア・ヴァルグレインが立っていることだった。
しかも、剪定鋏を持っている。
「皇太后様」
侍女が、駆け寄るというより滑り込むように近づいた。
「また門を越えようとなさいましたね」
エレノーラは振り返り、明るく笑った。
「今回は庭を見ていただけよ」
「誰も信じません」
「ひどいわ」
「先週は馬小屋を見ていただけでした。その前は、妹君の演習場まで散歩に行くつもりではなかった、とおっしゃいました」
「今日は鋏しか持っていないもの」
「鋏を持って門を越えないでください」
庭師がそっと目をそらした。
エレノーラは楽しそうに笑って、鋏を侍女へ渡した。庭木の足元には、門の方へ向かう小さな足跡が残っている。雪が薄いので、隠しようがなかった。
「旦那様がお怒りになります」
「お父様は、怒ると長いのよね」
「ご存じならお控えください」
侍女は深くため息をついた。
侯爵家は、エレノーラを丁重に遇している。
食事も、部屋も、服も、使用人も、何一つ不足はない。誰も無礼には扱わない。むしろ、触れれば壊れる宝物のように守っている。
けれど、門の外へは出さない。
それが今の帝都だった。
エレノーラは庭の向こう、白い空を見上げた。さっきまでの笑みが、少しだけ薄くなる。
「あの子は、ちゃんとご飯を食べているかしら」
侍女は、すぐには答えられなかった。
「寒いところへ行ったのでしょう。あの子、子供の頃から、冷えると手を胸の前で握るの」
エレノーラは、自分の手をそっと重ねた。
「誰か、温かいものを食べさせてくれているといいのだけれど」
庭木の枝から、雪が小さく落ちた。
侍女は鋏を抱えたまま、目を伏せた。
* * *
帝都北演習場の空を、数頭のワイバーンが横切った。
雪雲の下を、影が走る。
一頭、二頭、三頭。
翼は大きく、動きは乱れない。風を切る音が遅れて地上へ落ち、演習場の端に立つ兵たちの外套を揺らした。
イルゼ・レーヴェン・ヴァルガルドは、手袋をした手を上げた。
合図は小さい。
それだけで、空の隊列が変わる。
右へ流れ、上昇し、旋回し、再び一直線に並ぶ。号令はほとんどない。人の声より先に、ワイバーンと騎手が互いの呼吸で動いている。
演習が終わると、ワイバーンたちは順に地上へ降りた。
雪が舞う。
騎手が鞍から下り、手綱を緩める。誰も乱暴に引かない。ワイバーンもまた、命じられた獣のようには頭を下げなかった。
その中の一頭だけが、着地したあとも動かなかった。
首を上げ、北東の空を見る。
白嶺山脈の方角だった。
副官が近づく。
「またです」
イルゼは返事をしなかった。
風が、彼女の短い髪を揺らす。顔にはほとんど表情がない。けれど、その目は、ワイバーンが見つめる先を正確に追っていた。
「……気になるか」
ワイバーンが、小さく喉を鳴らした。
甘える声ではない。
怯える声でもない。
遠くに何かを見つけた時の、低い音。
副官が声を落とす。
「斥候を出しますか」
「出さない」
イルゼはすぐに答えた。
「竜は命令では飛ばない。だが、軍は勝手には動かん」
副官は背筋を正した。
「今はまだ飛ぶな」
イルゼはワイバーンへ言った。
ワイバーンは、しばらく北東を見つめていた。やがて、ゆっくりと翼を畳む。
雪空の向こうにあるものを、誰もまだ知らない。
ただ、ワイバーンの瞳だけが、しばらく白嶺の方角を映していた。
* * *
アイゼンフェルト侯爵家の応接室は、冬でも花の香りがした。
庭から切らせたものではない。温室で咲かせた花を、毎朝、決まった数だけ飾らせている。
豪奢ではある。
だが、暖かくはなかった。
アーデルハイト・フォン・アイゼンフェルトは、長椅子に腰掛け、報告を聞いていた。
報告役の男は、声を低く保っている。
「白嶺へ出入りする商人がおります」
アーデルハイトは、手元の茶器を置いた。
「名前は」
「オスカー・ベルナー。帝都南市場の卸売商人です。ヴァルド男爵家と古くから取引があります」
「商人は、利益の匂いへ群がるものです」
静かな声だった。
報告役は頭を下げる。
「監視を強めますか」
「必要になれば考えます」
アーデルハイトは、もうその報告書へ視線を戻さなかった。
白嶺。
かつて鉱山で栄え、今は呪われた土地と呼ばれる辺境。商人が荷を運んだところで、すぐに帝都の均衡を揺らすものではない。
第一皇女生存の可能性。
北方へ抜けた痕跡。
龍種らしき噂。
それらはまだ、一枚の地図の上で一本の線にはなっていなかった。
「ヴァルド男爵家の動きは」
「白嶺への物資移送を増やしております。ただ、規模は小さく、軍事行動とは見えません」
「ならば、今は商人の帳面の中の話です」
アーデルハイトは、茶器をもう一度手に取った。
「帳面の数字が政治になる時は、必ず前触れがあります。その時に見ればよろしい」
「かしこまりました」
報告役が下がる。
応接室には、温室の花の香りだけが残った。
窓の外で、雪が音もなく降っている。
* * *
帝城の第一皇女居室は、毎日掃除されていた。
誰も住んでいない。
朝の支度もない。
衣装を選ぶ声もない。
小さな足音も、もうしない。
それでも、窓は磨かれ、机は拭かれ、寝台の布は皺一つなく整えられている。
アンは、枕の角をそろえた。
それから一歩下がって、左右を見比べる。
少しだけ右が高い。
直す。
新人侍女が、扉のそばで戸惑ったように立っていた。
「あの、アン先輩」
「何ですか」
「毎日、お掃除をなさるのですか」
アンは手を止めなかった。
「はい」
「でも、こちらのお部屋は……」
新人侍女は、言い切れずに口を閉じた。
誰もいない部屋。
そう言いたかったのだろう。
アンは寝具の端を整え、静かに答えた。
「姫様がお戻りになります」
新人侍女は困ったように笑った。
「本当に、ですか」
アンの手が止まった。
叱るような空気が、一瞬だけ部屋に立つ。新人侍女は慌てて背筋を伸ばした。
けれど、アンは声を荒らげなかった。
「お帰りになった時、埃だらけでは叱られてしまいます」
「叱られるのですか」
「とてもお優しいので、たぶん叱りません」
アンは布の端を撫でた。
「だから、なおさら駄目です」
新人侍女は、何も言えなくなった。
アンは窓を開けた。
冬の風が、部屋へ入り込む。冷たい空気に、薄い埃が少しだけ揺れた。すぐに、アンは布巾で窓枠を拭く。
北の空は白かった。
胸の内にあることを、ここで口にするわけにはいかない。
アンは、窓枠の埃をもう一度だけ拭った。
「……姫様は、寒い朝もお嫌いではありませんでした」
小さな声だった。
新人侍女には、返す言葉が見つからなかった。
アンは窓を閉め、もう一度、寝台の布を整えた。
* * *
夜の帝室書庫は、城の中でも静かな場所だった。
外の政務室に明かりが残っていても、ここまで声は届かない。扉を閉めれば、紙と革表紙と古い木の匂いだけになる。
エーヴァルト・レインベルクは、机の上に小さな紙片を置いた。
封書ではない。
商家の荷札にしか見えない紙である。帝城の台所に入る干し肉の数、油の壺、冬布の束。そうした品目の端に、薄い灰色の糸が一本だけ結ばれていた。
普通の者なら、荷造りの癖だと思う。
だが、エーヴァルトはその結び目を知っていた。
旧帝アルフレドの近衛が、まだ夜ごとに城の内外を走っていた頃の符牒である。紙の折り目、糸の向き、品目の数。文字ではなく、手順そのものに意味を忍ばせる古いやり方だった。
使える者は、もう多くない。
まして、それを今の帝城へ通そうとする者は、さらに少ない。
エーヴァルトは細い刃で糸を解いた。
表の品目が、白嶺の近況へ変わっていく。物資の到着。商人の手紙。白嶺の産品。薬草。温泉。鉱山。小さな龍の浮遊失敗と、偶然の成功。
最後に、ひとつだけ余白が残されていた。
そこに、アリアの返書から抜いた一文が置かれている。
白嶺を知るために、知恵を貸してくださる方が必要です。
エーヴァルトは、その行をしばらく見つめた。
表情はほとんど変わらない。
ただ、指先が一度だけ、紙の端を撫でた。
「姫様らしい」
声は、書庫の棚に吸い込まれるほど静かだった。
助けてください、ではない。
兵をください、でもない。
知恵を貸してくれる方が必要です。
あの幼い姫は、遠い白嶺で、人を探し始めている。
エーヴァルトは、解いた糸を指に巻いた。
紙に名はない。
それでも、結び目の癖には見覚えがあった。
旧帝の近くに立っていた近衛の一人。若い頃、何度か同じ符牒で言葉を交わした男。皇帝ではなく、皇帝の背後にいる者たちを守るために、黙って動ける男だった。
エーヴァルトは、そこで初めて思い至った。
アリアを運んだ御者。
そういえば同じような背格好の近衛がいた記憶がある。
表情は変わらない。
ただ、解いた糸だけが、皺の深い指の間で静かに止まった。
旧帝派の符牒ではある。
けれど、エーヴァルトが仕えているのは、過ぎた皇帝ではない。
生きている姫様だった。
エーヴァルトは立ち上がり、奥の棚へ向かった。
古い名簿を一冊、取り出す。
帝都学術院。
地方研究者。
爵位を失った家の子弟。
役に立たぬ研究ばかりすると評された者。
宮廷の主流から外れた者。
名簿の紙は古く、ところどころ端が擦れていた。けれど、エーヴァルトの指は迷わない。
一枚めくる。
もう一枚。
さらに数枚。
やがて、指が止まった。
アルヴィン・クラウゼ・ヴァイスフェルド。
帝都学術院自然学研究員。
余白には、小さな文字でいくつかの評が添えられている。
変人。
実用性なし。
土地、水、鉱物、生物影響の研究に固執。
研究費削減対象。
エーヴァルトは、その文字を読んだ。
それから、机へ戻る。
便箋を一枚出し、ペンを取った。
「長い冬も、そろそろ終わりにいたしましょう」
誰にともなく、そう言う。
インク壺の蓋が、静かに開いた。
ペン先が紙に触れる。
帝都の夜の中で、一通の手紙が書き始められた。
* * *
白嶺では、人が集まり始めていた。
帝都では、人が動き始めていた。
まだ誰も、白嶺へ辿り着いてはいない。
商人の手紙。
古い符牒。
帝室書庫の名簿。
それぞれの紙が、まだ見えない道を作っていく。
冬の帝都に、夜が降りていた。
その夜のどこかで、北へ向かうための最初の文字が乾いていった。




