第13話 帝都からの手紙
男爵家からの定期便が着いたのは、朝の湯気がまだ町の低いところに残っている時間だった。
荷馬車は一台だけ。
けれど、その一台から出てくるものは多かった。
袋に入った豆。油の小樽。厚手の布。釘。紙。小さな薬箱。塩。針と糸。
どれも、白嶺の暮らしには必要なものばかりだ。豪華な品は一つもない。けれど、紙の束を見た時、アリアは思わず両手で受け取った。
「紙まで、入れてくださったのですね」
「父が、姫様には必要だろうと」
ルークスが荷札を確かめながら言った。
アリアは紙の端をそっと撫でた。白嶺に来てから、紙はいつも足りなかった。覚えておきたいことは増えるのに、書ける場所は少ない。
鉱山のこと。
温室のこと。
薬草のこと。
レクス・ノアが言った、流れという言葉。
紙は、そういうものを逃がさないための小さな場所だった。
荷を下ろしていた若い男が、最後に革の袋を一つ、ルークスへ渡した。ルークスは中を改め、少しだけ目を細める。
「姫様」
「はい」
「封書が一通あります」
アリアは顔を上げた。
「わたしに、ですか」
「はい。差出人は、オスカー・ベルナー殿です」
暖炉のそばで丸くなっていたレクス・ノアが、ぱっと顔を上げた。小さな爪が床を叩く。
「てがみ」
ノアの声が弾んだ。
「帝都からか」
レクスの声は、少し低い。
アリアは封書を受け取った。白嶺の冷たい空気に触れていたはずなのに、指先の中でそこだけ温かいもののように感じた。
遠くにいる人の言葉が、ここまで届いた。
白嶺にも、外から言葉が来る。
封蝋を見つめていると、ルークスが小さく笑った。
「中で読みましょう。ここは寒い」
アリアはこくりと頷き、封書を胸に抱えた。
* * *
仮住まいの炉に薪が足されると、室内の空気が少しやわらかくなった。
アリアは机の前に座り、封書を開いた。字は大人の字だった。整っていて、読みやすい。ところどころ、商人らしく数字が横に添えられている。
アリアは最初の挨拶を読み、それから少し息を吸った。
「『白嶺で見た品について、帝都でいくつか当たりました』」
ルークスが向かいに座る。レクス・ノアは机の横へ来て、前足を椅子の足に置いた。紙は読めないはずなのに、文字を見ようとしている。
「『冬野菜、羊毛、薬草、保存食、温泉の湯気を使った乾燥品。いずれも値は付きます』」
アリアの声が、少し明るくなった。
「値が付く、そうです」
「良い知らせですね」
ルークスは頷いた。
けれど、手紙はそこで終わっていなかった。
アリアは次の行を読む。少しだけ、眉を寄せた。
「『ただし、今すぐ高く売れる、という意味ではありません』」
レクス・ノアの尻尾が止まる。
「『量が少ない。品質が揃わない。道が遠く、輸送費が高い。なにより、白嶺という名に、まだ信用がありません』」
信用。
アリアはその言葉を、指でなぞった。
「信用は、品物のよしあしとは違うのですか」
「近いですが、同じではありません」
ルークスは少し考えた。
「良いものが一度届けば、喜ばれます。でも、次も同じように届くか分からない。数が揃うか分からない。約束の日に着くか分からない。そういう時、人は高い値では買いにくいのです」
「一回だけでは、だめなのですね」
「はい。何度も守って、少しずつ積むものです」
アリアは頷き、手紙の横に置いた紙へ小さく書いた。
信用。
字が少し曲がった。アリアは唇を結び、もう一度、隣に書き直す。
今度は少しまっすぐになった。
手紙には、さらに続きがあった。
「『少ないからといって、安く売ってはいけません。安いものとして覚えられた名は、後で高くするのが難しいからです』」
アリアは目を瞬いた。
「少ないなら、高くしてはいけないのかと思いました」
「普通は、そう考えます」
ルークスは苦笑した。
「でも、オスカー殿は、白嶺を使い捨ての安物にしたくないのでしょう」
「安物」
レクスが短く言った。
「名を傷つける」
「そうですね」
ルークスは頷いた。
ノアが机の脚に顎を乗せる。
「名前、だいじ」
「はい」
アリアは小さく返した。
レクス・ノアの名前を決めた夜を、少しだけ思い出す。
名前をもらうこと。
名前で呼ばれること。
それは、ただの音ではなかった。
白嶺という名にも、同じように何かを積むことができるのだろうか。
アリアは、手紙を持つ指に少し力を入れた。
* * *
読み進めたところで、アリアの声が止まった。
そこには、帝都でのことが書かれていた。
白嶺の名を出すと、市場では笑われました。
文字は丁寧だった。
だからこそ、胸に小さく刺さる。
呪われた土地。終わった土地。人の去った町。山奥の役に立たない場所。
そう言われたのだろう。手紙には全部は書いていない。けれど、アリアには少し分かった。
白嶺の人たちが、外でどんなふうに呼ばれてきたのか。
ディートが吐き捨てた、龍の呪いという言葉。
マルタが当然のように言った、冬野菜なんぞ売れんよ、という声。
外の笑いは、白嶺の中にも少しずつ染み込んでいたのかもしれない。
「姫様」
ルークスが静かに呼んだ。
アリアは手紙へ目を戻した。
次の行を読む。
「『知らない者ほど、よく笑うものです』」
声が、少しだけ震えた。
「『私は見ました。あそこは終わった土地ではありません』」
炉の中で、薪が小さく鳴った。
レクス・ノアが、紙ではなくアリアを見ている。
「終わっていない」
レクスが言った。
「うん」
ノアの声は、いつもより少し静かだった。
アリアは手紙を伏せず、机の上に置いた。見えないように隠したくはなかった。
白嶺は笑われている。
でも、白嶺を見てくれた人もいる。
その人は、遠い帝都で、白嶺は終わっていないと書いてくれた。
アリアは指で手紙の端を押さえた。紙が少しだけしわになる。
「ルークスさん」
「はい」
「マルタさんと、ディートさんに来てもらえますか」
ルークスは一瞬だけ目を丸くした。
「今からですか」
「はい。大きなお話ではありません」
アリアは手紙を見た。
「でも、一人で読んで終わりにしたくありません」
ルークスは、すぐに立ち上がった。
「分かりました。声をかけてきます」
扉が開き、冷たい空気が入る。
アリアは手紙をもう一度見た。
知らない者ほど、よく笑うものです。
その文字の形を、アリアはしばらく目で追っていた。
* * *
仮住まいに集まったのは、ほんの数人だった。
アリア。ルークス。マルタ。ディート。レクス・ノア。
会議というほど立派なものではない。机も一つ。椅子も足りない。マルタは自分で持ってきた古い腰掛けに座り、ディートは壁際に立ったままだった。
炉の上では、湯が小さく音を立てている。
「で、冬野菜が売れるって?」
マルタが最初に言った。
疑っている声だった。怒ってはいない。ただ、まだ信じていない。
「手紙には、そう書いてありました」
アリアは紙を広げる。
「薬草も、羊毛も、保存食も、値が付くそうです」
「鉱石は掘らんぞ」
ディートが低く言った。
早かった。アリアは少しだけ瞬き、それから首を横に振った。
「今日は、掘ってくださいのお話ではありません」
「なら何だ」
「白嶺に何があるか、並べたいのです」
ルークスが机の端に紙を置いた。
「まずは、知るところからです。外でどう見られるかも含めて」
マルタは腕を組み、紙を覗き込んだ。
「冬野菜なんて、白嶺じゃ食べ物だよ」
「帝都では、冬に青い葉をそろえるのが難しいそうです」
「そりゃ、寒いからね」
「白嶺も寒いです」
「白嶺には湯がある」
マルタは当たり前のように言った。
アリアは、その言葉を紙へ書いた。
湯がある。
字にしてみると、とても短い。けれど、その短い言葉の中に、温室も、湯気も、湿った土も、冬の葉も入っている気がした。
「薬草のことも、書いてありました」
アリアは手紙の次の箇所を示した。
「帝都の薬師さんが、白嶺の薬草は乾き方がよい、と言ったそうです。あと、同じ葉の束でも、香りが揃っている、と」
マルタの眉が動いた。
「へえ」
短い声。
でも、少しだけ嬉しそうだった。
「腹の薬や冷えの薬は、昔からここで採れたよ。湯の近くの草は、冬でも強い」
「薬売りも来ていた」
ディートが言った。
アリアは顔を上げる。
「薬売りさんが」
「昔はな」
ディートは壁に背を預けたまま、遠くを見るような目をした。
「鉱山に人が多かったころは、薬もよく売れた。腹を壊す奴、冷える奴、腰をやる奴。いくらでもいた」
「それは、良いことなのですか」
アリアが聞くと、マルタが笑った。
「怪我や腹痛は良いことじゃないよ。でも、薬が役に立ってたってことさ」
レクス・ノアが、机の上の干し薬草へ鼻先を近づけた。
「湯」
レクスが言う。
「土」
ノアが続ける。
「草」
レクス・ノアは、そこで少し黙った。
「同じ流れだ」
アリアの手が止まった。
ディートがレクス・ノアを見る。マルタも、干し薬草から小さな龍へ目を移した。
「また、それか」
ディートはそう言ったが、追い払うような声ではなかった。
アリアは紙の隅に、ゆっくりと書いた。
湯。土。草。同じ流れ。
まだ意味は分からない。
でも、消したくない言葉だった。
* * *
「オスカー殿は、もう一つ、大事なことを書いています」
ルークスが手紙を見ながら言った。
「野菜だけで売るな。薬草だけで売るな。鉱石だけで売るな。白嶺という名で覚えてもらえ、と」
マルタは顔をしかめた。
「名前で腹は膨れないよ」
「はい」
ルークスは頷いた。
「だから、腹を膨らませるものと一緒に覚えてもらうんです」
「どういうことですか」
アリアは聞いた。
ルークスは、机の紙を指した。
「たとえば、一つの品だけなら、買った人はその品のことだけ覚えます」
「はい」
「でも、別々の品が同じ土地から何度も届けば、買った人は、白嶺には良いものがある、と覚えます」
アリアは紙を見る。
机の上には、食べ物のこと、薬草のこと、羊毛のこと、鉱山や温泉のことが、まだ曲がった字で並んでいる。
「土地そのものに、信用を付けるのですね」
「はい。たぶん、オスカー殿が言いたいのは、それです」
アリアは筆を持ち直した。
白嶺、という二文字を書き、その周りに小さく丸をつける。
丸は少し歪んだ。きれいな円にはならない。
でも、その歪んだ丸の中に、書いた言葉が少しずつ集まって見えた。
「名は大事だ」
レクスが言った。
「白嶺」
ノアが、楽しそうに続ける。
その声が、炉のそばで跳ねた。重くなりかけた空気が、少しだけゆるむ。
マルタはまだ納得しきっていない顔だった。
「そんなにうまくいくかね」
「すぐには、いかないと思います」
アリアは正直に言った。
「数も、品質も、まだそろわないそうです。道も遠いです」
「分かってるならいい」
ディートが言った。
「分からんまま進むな」
「はい」
アリアは頷く。
その返事に、ディートは何も言わなかった。
ただ、腕を組み直した。
少なくとも、話を終わらせろとは言わなかった。
* * *
夜になって、仮住まいは静かになった。
マルタは帰り際に、干し薬草の束を少し置いていった。ディートは何も置いていかなかったが、戸口で一度だけ振り返り、「鉱石はまだ書くな」と言った。
アリアは「掘るものではなく、あるものとして書きます」と答えた。
ディートは返事をせずに帰った。
それでいいのだと思う。
アリアは机に向かった。新しい紙を一枚、そっと広げる。
紙の上に、白嶺と書いた。
その下へ、一つずつ並べていく。
冬野菜 羊毛 薬草 保存食 温泉 鉱石 鍛冶 温泉の白い沈殿物
書きながら、アリアは何度か指を折った。数えると、思っていたより多い。けれど、どれも大きくはない。冬野菜は少ない。羊毛も多くない。薬草も、きれいに束ねるところから始めなければならない。
それでも、何もないわけではなかった。
「白嶺には、何もないと思っていました」
アリアは小さく言った。
レクス・ノアは、暖炉のそばで顔を上げる。
「でも、違いました」
アリアは紙を見た。
「わたしが、まだ知らなかっただけです」
その言葉を書こうとして、やめた。
代わりに、白嶺の文字の下へ小さな線を引く。
まっすぐ引くつもりだったのに、少しだけ右へ下がった。
アリアは眉を寄せた。レクス・ノアが机の横まで来て、その線を見上げる。
「曲がった」
レクスが言った。
「少しです」
「かなり」
「かなり?」
ノアが明るく言う。
「でも、白嶺っぽい」
「どういう意味ですか」
「まっすぐじゃないけど、ある」
アリアは、少しだけ笑った。
線は曲がっている。
でも、紙の上に残っている。
白嶺の名の下で、ゆっくり乾いていく墨を、アリアはしばらく見ていた。
* * *
翌日、レクス・ノアは丘の上にいた。
白嶺の町を見下ろせる、小さな丘だ。雪は固く締まっていて、ところどころ草の先が出ている。
アリアは外套の前を押さえながら、少し離れて立っていた。ルークスも一緒にいる。前回、止まれず雪へ突っ込んだ姿を見ているので、二人とも近づきすぎないようにしていた。
「今日こそ止まる」
レクスが言った。
「今日こそふわっと止まる」
ノアが言った。
「無理はしないでください」
「無理ではない」
「たぶん無理」
レクスとノアの声が、一つの小さな体から順に出る。
アリアは少し困った顔をした。
「意見が分かれています」
「観測だ」
「予感」
レクス・ノアは翼を広げた。
小さな翼。けれど、前より少しだけ力強く見える。
丘の上から、レクス・ノアが跳んだ。
空気に乗る。
前より、すぐには落ちない。翼がばたつき、尻尾が揺れ、体が斜めに流れる。
けれど、やはり止まらない。
雪の上に落ち、ころころと転がった。
「レクス・ノア!」
アリアが駆け寄ると、小さな体は雪の上で起き上がった。
「今のは失敗だ」
「でも転がった」
「転がるのは目的ではない」
レクス・ノアは、また丘へ戻った。
二度目。
三度目。
雪に足跡と、転がった跡が増えていく。
アリアは手袋の中で指を握った。心配だった。けれど、止めるほど危なくはない。レクス・ノアの目が、真剣だったからだ。
四度目。
レクス・ノアは跳んだ。
風が少しだけ強く吹いた。小さな体が流される。
アリアが息をのむ。
その瞬間。
レクス・ノアの体が、空中で止まった。
ほんの一呼吸。
アリアの肩より少し低い高さで、翼が開いたまま、雪にも地面にも触れていない。
落ちるでも、進むでもない。
白い息の中で、小さな龍が浮いていた。
「いま」
アリアは声を出した。
言い終える前に、レクス・ノアは落ちた。
今度は尻から雪に落ちた。雪が丸くへこむ。
「浮いた!」
ノアが叫んだ。
「……近い」
レクスの声は低かったが、少しだけ弾んでいた。
アリアは駆け寄り、レクス・ノアの雪を払った。
「いま、止まりました」
「止まった」
ノアが胸を張るように言う。
「偶然だ」
レクスがすぐに続けた。
「もう一回できますか」
「やる」
レクス・ノアはまた丘へ向かった。
そして、次はきれいに雪へ突っ込んだ。
その次も、転がった。
さらに次は、翼を広げる前に足を滑らせた。
ノアが雪まみれの顔で言う。
「意識すると落ちる」
レクスは、しばらく黙った。
「不本意だ」
アリアは、笑ってはいけないと思った。
けれど、口元が少しゆるんだ。ルークスも横を向いている。たぶん、同じことをしている。
白嶺の丘に、レクス・ノアの足跡と転がった跡が残った。
一つだけ、途中で途切れている跡がある。
そこで、ほんの少しだけ、空に近づいた。
* * *
その日の夕方、アリアはオスカーへの返事を書いた。
最初の文は、何度も書き直した。
ありがとうございます、だけでは足りない気がした。
でも、立派な言葉を書こうとすると、手が止まる。
だから、アリアは短く書いた。
お手紙、ありがとうございます。
白嶺のことを、帝都で聞いてくださって、ありがとうございます。
その次に、今日のことを書いた。
冬野菜の数を調べること。
薬草をきれいに束ねること。
羊毛と保存食も、どれだけ作れるか聞くこと。
鉱石は、まだ掘らないこと。
白嶺という名を、安くしないこと。
書いているうちに、紙の下の方が少なくなった。アリアは文字を少し小さくする。
レクス・ノアは机の横で、まだ少し雪の匂いを残していた。
「狭い」
レクスが言った。
「紙がですか」
「字が」
「小さくしないと、入りません」
「もう一枚使え」
「紙は大事です」
「手紙も大事」
ノアが言う。
アリアは、少し考えてから、新しい紙を一枚出した。
紙は大事だ。
でも、言葉を無理に小さくしすぎれば、届くものまで小さくなる。
最後に、アリアは一文を書き足した。
白嶺を知るために、知恵を貸してくださる方が必要です。
書いてから、しばらくその文を見た。
まだ顔も名前も知らない人へ、白嶺の湯と土と草と石を、アリアたちとは違う目で見てほしいと書いた。
手紙を折り、封をする。封蝋はまだうまく扱えないので、ルークスに手伝ってもらった。蝋が少しだけ端へ流れたが、封は閉じた。
翌朝、その手紙は男爵家へ向かう荷に乗せられた。
荷馬車の車輪が、雪の道に跡を残していく。
アリアは戸口に立ち、見えなくなるまで見送った。
手紙は、白嶺を出ていく。
山道を下り、男爵領を通り、さらに遠い帝都へ。
その先で、まだ白嶺の誰も知らない人の手に、いつか届くかもしれない。
白い息が、朝の空気にほどけて消えた。
アリアは手袋の中で指を握り、昨日、帳面に書いたものを胸の中でもう一度たしかめた。
数え終える前に、丘の方からレクス・ノアの声がした。
「もう一回だ」
「こんどこそ、ふわっと」
アリアは振り返る。
白嶺の湯気が、朝の光の中で細く立ちのぼっていた。




