第12話 眠る坑道
オスカー・ベルナーが帰ったあと、白嶺の仮住まいには、少しだけ紙が増えた。
冬野菜。羊毛。干し肉。薬草。温泉の湯気で乾かしたもの。
それらは、前の日まで白嶺の暮らしの中にあった。売るものではなく、使うものだった。
けれど、オスカーはそれを、外の町へ運べる品として見た。
アリアは、机の上に置いた紙を一枚ずつ見直した。字はまだ少し小さい。急いで書いたところは曲がっている。それでも、消したくはなかった。
「売るものがあっても、作れなければ意味がありません」
アリアが言うと、ルークスは顔を上げた。
「はい」
「白嶺の一番の産業を知りたいのです」
ルークスは、すぐには答えなかった。
仮住まいの窓の外では、湯気が細く上がっている。遠くには、白嶺山脈の黒い岩肌が見えた。朝の光を受けても、そこだけは少し暗い。
「一番となると」
ルークスは、机の上の地図へ指を置いた。
「鉱山ですね」
「鉱山」
「白嶺は、もともと鉱山で栄えた町です。鍛冶も、加工も、荷運びも、みんなそこから広がりました」
レクス・ノアは、暖炉の前から顔を上げた。小さな体は丸くなっていたが、耳のように見える角のあたりが、少し動いた。
「閉じた穴か」
「はい。閉じた穴です」
ルークスは苦笑した。
「ただ、今も鉱山を知っている人はいます」
「会えますか」
「会うだけなら」
その言い方に、アリアは少し首を傾げた。
「難しい方ですか」
「難しいというより、硬い方です。石より少し柔らかいくらいです」
ノアが小さく笑った。
「石より、ちょっと」
「はい。ちょっとだけ」
ルークスは地図の端、町の外れにある小さな印を指した。
「ディート・クラウス。元鉱山頭です」
* * *
ディート・クラウスの家は、白嶺の町外れにあった。
石造りの古い家。壁の一部は黒ずみ、屋根には雪が残っている。扉の横には、使い込まれたつるはしが一本、壁にかけられていた。
家の前で、老人が薪を割っていた。
背は高くない。けれど、肩と腕は太い。年を取って細くなった体ではなく、長いあいだ道具を使い続けた人の体。
斧が下り、薪が割れる。音は乾いていた。
アリアが一歩近づく前に、老人は顔を上げた。
「掘らん」
アリアは足を止めた。まだ、何も言っていない。ルークスが困ったように笑う。
「ディートさん。まだ何も」
「顔に書いてある」
老人は斧を地面に立てた。
「鉱山だろう。掘らん」
アリアは、胸元で手を握りかけて、すぐにほどいた。
怖い人、というより、閉じている人だと思った。
家の扉も、古いつるはしも、老人の声も、同じように固かった。
「今日は、掘ってくださいとは言いません」
アリアは言った。
ディートの目が、少しだけ細くなる。
「なら、何だ」
「どうして閉じたのか、教えてください」
ルークスが、アリアを見た。
ディートは黙った。
風が、割った薪の匂いを運んでくる。乾いた木の匂いに、古い鉄の匂いが少し混ざっていた。
ディートは斧を拾い上げた。もう一度、薪を割る。
それから、短く言った。
「石はあった」
アリアは、すぐに口を挟まなかった。
「道もあった。水も抜けた。支えも、まだ持った」
ディートは、割れた薪を脇へ寄せる。
「だが、人が倒れた」
その言葉は、薪が割れる音より重かった。
「最初は、一人だった。疲れだと言った。年だと言った。酒の飲みすぎだと言った」
ディートの手は、次の薪を台に置いた。
「次は三人。その次は七人。朝、起き上がれん。坑道へ入っても腕が上がらん。足がもつれる。怪我が増える」
斧が下りる。薪が割れる。
「若いのが去った。親が止めた。嫁が泣いた。残った者も、疲れ切った」
アリアは息をのんだ。
白嶺の町には人がいる。温室も、湯気も、道具もある。
でも、いなくなった人もいた。
ここに残らなかった人。残れなかった人。
その気配が、急に近くなった。
「医者も来た。薬師も来た。神官も来た。分からんと言った」
ディートは、斧を台に置いた。
「わからんのに、噂が広まった。一気に……」
「噂……」
「龍の呪いだとよ! 実にくだらん!」
吐き捨てるように言う。レクス・ノアの尻尾が、ゆっくり止まった。
ディートは小さな龍を見、一つため息をこぼす。
「白嶺は終わった。そう言われた」
穏やかな声が、かえって痛かった。
「それから、人がどんどんいなくなった」
「そうなるともう、閉じるしかなかった」
アリアは、つるはしを見た。
壁にかけられたそれは、まだ錆びきっていない。誰かが時々、手入れをしている。
「鉱石が、なくなったからではないのですね」
「違う」
ディートは即答した。
「白嶺の山は、まだ死んではおらん」
その言い方には、怒りがあった。
山を愛した人の怒りが。
* * *
ディートは、閉鎖坑道まで案内してくれた。
案内してくれた、と言っても、優しくはなかった。振り返らずに歩き、遅れると待たない。けれど、道が凍っている場所では、何も言わずに歩幅を少しだけ縮めた。
アリアはそれに気づいて、転ばないように歩いた。
町外れから少し上ったところに、その坑道はあった。
道の脇には、雪に埋もれた二本の溝が続いていた。重い荷車が何度も通った跡だと、ディートが短く教えた。
斜面の下には、段になった石床と、苔のついた細い水路が残っている。木でできていたものはほとんど失われ、石だけが山の形に逆らうように並んでいた。
掘った石は、坑口から出せば終わりではなかったのだろう。
前にレクス・ノアが岩を見つめた場所。
小さな崩落で、町の人たちが集まった場所。
あの時は、ただ危ない穴に見えた。けれど今日は、ディートの背中が前にあるだけで、同じ入口が少し違って見えた。
山の斜面に、黒い口が開いている。
入口には太い木が渡され、古い封鎖札が下がっていた。雪が積もっているのに、その周りだけは少し湿っている。
近くで、細い湧き水が石の間から流れていた。
「ここから先は入らん」
ディートは言った。
「崩れる」
アリアは頷いた。
「入りません」
言ってから、少しだけ自分の靴を見た。
温室では木靴だった。今日は普通の靴だ。坑道に入るには、たぶん、どちらでも足りない。
レクス・ノアが、坑道の前へ歩いていく。
小さな体は、雪の上に足跡を残した。
レクス・ノアは、岩を見た。次に、地面を見た。
湧き水のそばで鼻先を動かし、坑道の入口へ向き直る。
「……静かだ」
レクスが言った。
「静か、ですか」
「ねむってる」
ノアの声は、少し小さかった。
アリアは坑道を見た。
黒い口。古い木。湿った石。中からは、何の音もしない。
「何が、眠っているのですか」
レクスはすぐには答えなかった。
小さな前足が、坑道の前の石に触れる。中へは入らない。けれど、そこにある何かを確かめているようだった。
「流れ」
それだけの言葉。
アリアには、まだ分からない。
でも、思い出すことはできた。
閉鎖坑道の近くの岩にあったらしい不思議な紋様。
マルタの温室に撒かれた湯の縁の白い沈殿物が、土に少しだけ残すもの。
レクス・ノアが観て、湯から来ている、とレクスは言った。
そして、今、レクスは坑道の前で、流れ、と言う。
別々の言葉が、白嶺の山の中で、少しずつ近づいている気がした。
「水か」
ディートが言った。レクス・ノアは湧き水を見た。
「水も」「石か」「石も」「では、何だ」
レクスは、坑道の奥を見た。
「まだ分からない」
ディートは鼻を鳴らした。
「分からんまま、掘るな」
「はい」
アリアは小さく答えた。
「だから、先に知りたいです」
ディートはアリアを見た。その目は、薪割り場で見た時よりも少しだけ鋭かった。
「知って、どうする」
アリアは、すぐには答えられなかった。
どうする。
掘る、と言うには、早すぎる。
救う、と言うには、大きすぎる。
だから、いちばん小さい言葉を選んだ。
「知らないまま進んだら、また誰かが倒れるかもしれません」
ディートは黙った。
「それは、いやです」
アリアの声は、小さかった。
「だから、掘る前に、ちゃんと知りたいです」
坑道の中からは、何も返ってこなかった。
けれど、ディートはそれ以上、帰れとは言わなかった。
* * *
坑道の横には、小さな崖があった。
崖というより、雪が積もった土の段差。大人なら降りられる。子供は、少し怖がるだろう。小さな龍には、ちょうどよい挑戦に見える高さだった。
レクス・ノアが、その上に立った。
「レクス・ノア?」
アリアは、嫌な予感がした。
「実験だ」
レクスが言った。
「ぴょんの時間」
ノアの声は、もう楽しそうだった。
「危なくないですか」
「低い」
「止まれないでしょう」
レクス・ノアは答えなかった。
その沈黙が、答えのように思えた。
ルークスが半歩前に出る。
「受け止めましょうか」
「不要」
小さな翼が広がる。
アリアが止めるより早く、レクス・ノアの体が段差から跳んだ。
前より、長かった。
一瞬ではない。ほんの少しだけ、空気の上に乗っている時間があった。翼が風を受け、体が雪の上をすべる。
「浮いてます」
アリアは思わず言った。
「滑空だ」
真剣な声。
「ふわー」
ノアは楽しそうにしている。
次の瞬間、小さな体はまっすぐ進みすぎた。
止まらない。
曲がらない。
雪の吹きだまりへ、頭から突っ込んだ。
雪が、ふわりと跳ねる。
アリアは駆け寄った。
「大丈夫ですか」
雪の中から、尻尾が出ていた。少し遅れて、角が出る。最後に鼻先が出た。
「……距離は伸びた」
レクスが言った。
「雪まで飛んだ」
ノアが言った。
「それは成功なのですか」
「部分的成功」
「すごく白い成功」
アリアは、レクス・ノアの頭についた雪を払った。小さな体は震えていない。怪我はなさそうだった。
ディートが、腕を組んだまま見ていた。
「飛ぶのも修行か」
レクス・ノアは、雪をかぶったままディートを見る。
「修行だ」
「止まれん修行か」
レクスの目が、少しだけ細くなった。
「次は止まる」
「坑道と同じだな」
ディートが言った。
アリアは顔を上げた。
「同じ、ですか」
「掘るだけなら、誰でも進めたがる」
ディートは、坑道の入口を見た。
「ここで止める、が一番難しい」
その言葉に、アリアは黙った。
ディートは、もう何も言わなかった。
レクス・ノアも、珍しく言い返さなかった。
* * *
帰り道、アリアは何度も坑道の方を振り返った。
黒い入口は、すぐに木々に隠れて見えなくなった。それでも、そこにあることは分かる。
眠っている。
ノアはそう言った。
流れ。
レクスはそう言った。
ディートは何も言わず、前を歩いていた。家の前まで戻ると、斧を拾い上げた。
もう話は終わりだ、と背中が言っている。
アリアは、その背中へ声をかけた。
「また来てもいいですか」
斧を持つ手が止まった。
ディートは振り返らなかった。
「勝手に来い」
ルークスが、少しだけほっとした顔をした。
アリアも、小さく息を吐く。
けれど、ディートは続けた。
「ただし」
アリアは背筋を伸ばした。
「今度は作業着で来い」
「作業着」
「坑道は、ドレスで入る場所じゃない」
アリアは自分の服を見下ろした。
今日は動きやすい服を選んだつもりだった。けれど、ディートから見れば、まだ全然足りないのだろう。
「はい」
アリアは頷いた。
「用意します」「靴もだ」「はい」「手袋も」「はい」
ディートは、そこでようやく少しだけ振り返った。
「返事だけで来るな」
「はい」
アリアがまた返事をすると、ルークスが小さく笑った。
ディートは何も言わず、薪割り台の前へ戻った。
斧が下りる。薪が割れる。
その音は、最初に聞いた時より、少しだけ近く聞こえた。
* * *
夜、仮住まいの机に、アリアは今日のことを書き留めた。
鉱石は残っている。
坑道も残っている。
水も抜けた。
支えも、まだ持った。
けれど、人が倒れた。
若者が去った。
残った人も疲れ切った。
アリアは、そこで手を止めた。
短い言葉をそのまま並べると、紙の上で重くなりすぎる気がした。だから、少し考えてから、一つの文にした。
失われたのは、鉱石ではなく、人だった。
その文を書いたあと、アリアはしばらく筆を置いた。
レクス・ノアは窓辺にいた。
小さな体は、夜の窓の下で静かに座っている。外には白嶺山脈がある。暗くて形はよく見えない。それでも、そこにある。
「まだ、流れている」
レクスが呟いた。
アリアは顔を上げる。
「どこへですか」
「奥だ」
ノアの声が、少し眠そうに続いた。
「山の奥。深いところ」
アリアは窓の外を見た。
白嶺の町は静かだった。湯気だけが、夜の中で白く動いている。閉じた坑道の奥から、さっき聞いた水音がもう一度返ってきた。
アリアは紙の最後へ、坑道、湧き水、温泉の三つを並べ、右端に「次に確かめる」と書いた。レクス・ノアの「奥」という言葉は、まだその欄の外にある。




