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龍と廃嫡皇女のシェアハウス  作者: 三連九
第2章 目覚める町
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第12話 眠る坑道

 オスカー・ベルナーが帰ったあと、白嶺の仮住まいには、少しだけ紙が増えた。


 冬野菜。羊毛。干し肉。薬草。温泉の湯気で乾かしたもの。


 それらは、前の日まで白嶺の暮らしの中にあった。売るものではなく、使うものだった。


 けれど、オスカーはそれを、外の町へ運べる品として見た。


 アリアは、机の上に置いた紙を一枚ずつ見直した。字はまだ少し小さい。急いで書いたところは曲がっている。それでも、消したくはなかった。


「売るものがあっても、作れなければ意味がありません」


 アリアが言うと、ルークスは顔を上げた。


「はい」


「白嶺の一番の産業を知りたいのです」


 ルークスは、すぐには答えなかった。


 仮住まいの窓の外では、湯気が細く上がっている。遠くには、白嶺山脈の黒い岩肌が見えた。朝の光を受けても、そこだけは少し暗い。


「一番となると」


 ルークスは、机の上の地図へ指を置いた。


「鉱山ですね」


「鉱山」


「白嶺は、もともと鉱山で栄えた町です。鍛冶も、加工も、荷運びも、みんなそこから広がりました」


 レクス・ノアは、暖炉の前から顔を上げた。小さな体は丸くなっていたが、耳のように見える角のあたりが、少し動いた。


「閉じた穴か」


「はい。閉じた穴です」


 ルークスは苦笑した。


「ただ、今も鉱山を知っている人はいます」


「会えますか」


「会うだけなら」


 その言い方に、アリアは少し首を傾げた。


「難しい方ですか」


「難しいというより、硬い方です。石より少し柔らかいくらいです」


 ノアが小さく笑った。


「石より、ちょっと」


「はい。ちょっとだけ」


 ルークスは地図の端、町の外れにある小さな印を指した。


「ディート・クラウス。元鉱山頭です」


* * *


 ディート・クラウスの家は、白嶺の町外れにあった。


 石造りの古い家。壁の一部は黒ずみ、屋根には雪が残っている。扉の横には、使い込まれたつるはしが一本、壁にかけられていた。


 家の前で、老人が薪を割っていた。


 背は高くない。けれど、肩と腕は太い。年を取って細くなった体ではなく、長いあいだ道具を使い続けた人の体。


 斧が下り、薪が割れる。音は乾いていた。


 アリアが一歩近づく前に、老人は顔を上げた。


「掘らん」


 アリアは足を止めた。まだ、何も言っていない。ルークスが困ったように笑う。


「ディートさん。まだ何も」


「顔に書いてある」


 老人は斧を地面に立てた。


「鉱山だろう。掘らん」


 アリアは、胸元で手を握りかけて、すぐにほどいた。


 怖い人、というより、閉じている人だと思った。


 家の扉も、古いつるはしも、老人の声も、同じように固かった。


「今日は、掘ってくださいとは言いません」


 アリアは言った。


 ディートの目が、少しだけ細くなる。


「なら、何だ」


「どうして閉じたのか、教えてください」


 ルークスが、アリアを見た。


 ディートは黙った。


 風が、割った薪の匂いを運んでくる。乾いた木の匂いに、古い鉄の匂いが少し混ざっていた。


 ディートは斧を拾い上げた。もう一度、薪を割る。


 それから、短く言った。


「石はあった」


 アリアは、すぐに口を挟まなかった。


「道もあった。水も抜けた。支えも、まだ持った」


 ディートは、割れた薪を脇へ寄せる。


「だが、人が倒れた」


 その言葉は、薪が割れる音より重かった。


「最初は、一人だった。疲れだと言った。年だと言った。酒の飲みすぎだと言った」


 ディートの手は、次の薪を台に置いた。


「次は三人。その次は七人。朝、起き上がれん。坑道へ入っても腕が上がらん。足がもつれる。怪我が増える」


 斧が下りる。薪が割れる。


「若いのが去った。親が止めた。嫁が泣いた。残った者も、疲れ切った」


 アリアは息をのんだ。


 白嶺の町には人がいる。温室も、湯気も、道具もある。


 でも、いなくなった人もいた。


 ここに残らなかった人。残れなかった人。


 その気配が、急に近くなった。


「医者も来た。薬師も来た。神官も来た。分からんと言った」


 ディートは、斧を台に置いた。


「わからんのに、噂が広まった。一気に……」


「噂……」


「龍の呪いだとよ! 実にくだらん!」


 吐き捨てるように言う。レクス・ノアの尻尾が、ゆっくり止まった。


 ディートは小さな龍を見、一つため息をこぼす。

 

「白嶺は終わった。そう言われた」


 穏やかな声が、かえって痛かった。


「それから、人がどんどんいなくなった」


「そうなるともう、閉じるしかなかった」


 アリアは、つるはしを見た。


 壁にかけられたそれは、まだ錆びきっていない。誰かが時々、手入れをしている。


「鉱石が、なくなったからではないのですね」


「違う」


 ディートは即答した。


「白嶺の山は、まだ死んではおらん」


 その言い方には、怒りがあった。


 山を愛した人の怒りが。


* * *


 ディートは、閉鎖坑道まで案内してくれた。


 案内してくれた、と言っても、優しくはなかった。振り返らずに歩き、遅れると待たない。けれど、道が凍っている場所では、何も言わずに歩幅を少しだけ縮めた。


 アリアはそれに気づいて、転ばないように歩いた。


町外れから少し上ったところに、その坑道はあった。


道の脇には、雪に埋もれた二本の溝が続いていた。重い荷車が何度も通った跡だと、ディートが短く教えた。


斜面の下には、段になった石床と、苔のついた細い水路が残っている。木でできていたものはほとんど失われ、石だけが山の形に逆らうように並んでいた。


掘った石は、坑口から出せば終わりではなかったのだろう。


前にレクス・ノアが岩を見つめた場所。


 小さな崩落で、町の人たちが集まった場所。


 あの時は、ただ危ない穴に見えた。けれど今日は、ディートの背中が前にあるだけで、同じ入口が少し違って見えた。


 山の斜面に、黒い口が開いている。


 入口には太い木が渡され、古い封鎖札が下がっていた。雪が積もっているのに、その周りだけは少し湿っている。


 近くで、細い湧き水が石の間から流れていた。


「ここから先は入らん」


 ディートは言った。


「崩れる」


 アリアは頷いた。


「入りません」


 言ってから、少しだけ自分の靴を見た。


 温室では木靴だった。今日は普通の靴だ。坑道に入るには、たぶん、どちらでも足りない。


 レクス・ノアが、坑道の前へ歩いていく。


 小さな体は、雪の上に足跡を残した。


 レクス・ノアは、岩を見た。次に、地面を見た。


 湧き水のそばで鼻先を動かし、坑道の入口へ向き直る。


「……静かだ」


 レクスが言った。


「静か、ですか」


「ねむってる」


 ノアの声は、少し小さかった。


 アリアは坑道を見た。


 黒い口。古い木。湿った石。中からは、何の音もしない。


「何が、眠っているのですか」


 レクスはすぐには答えなかった。


 小さな前足が、坑道の前の石に触れる。中へは入らない。けれど、そこにある何かを確かめているようだった。


「流れ」


 それだけの言葉。


 アリアには、まだ分からない。


 でも、思い出すことはできた。


 閉鎖坑道の近くの岩にあったらしい不思議な紋様。


 マルタの温室に撒かれた湯の縁の白い沈殿物が、土に少しだけ残すもの。


 レクス・ノアが観て、湯から来ている、とレクスは言った。

 

 そして、今、レクスは坑道の前で、流れ、と言う。


 別々の言葉が、白嶺の山の中で、少しずつ近づいている気がした。


「水か」


 ディートが言った。レクス・ノアは湧き水を見た。


「水も」「石か」「石も」「では、何だ」


 レクスは、坑道の奥を見た。


「まだ分からない」


 ディートは鼻を鳴らした。


「分からんまま、掘るな」


「はい」


 アリアは小さく答えた。


「だから、先に知りたいです」


 ディートはアリアを見た。その目は、薪割り場で見た時よりも少しだけ鋭かった。


「知って、どうする」


 アリアは、すぐには答えられなかった。


 どうする。


 掘る、と言うには、早すぎる。


 救う、と言うには、大きすぎる。


 だから、いちばん小さい言葉を選んだ。


「知らないまま進んだら、また誰かが倒れるかもしれません」


 ディートは黙った。


「それは、いやです」


 アリアの声は、小さかった。


「だから、掘る前に、ちゃんと知りたいです」


 坑道の中からは、何も返ってこなかった。


 けれど、ディートはそれ以上、帰れとは言わなかった。


* * *


 坑道の横には、小さな崖があった。


 崖というより、雪が積もった土の段差。大人なら降りられる。子供は、少し怖がるだろう。小さな龍には、ちょうどよい挑戦に見える高さだった。


 レクス・ノアが、その上に立った。


「レクス・ノア?」


 アリアは、嫌な予感がした。


「実験だ」


 レクスが言った。


「ぴょんの時間」


 ノアの声は、もう楽しそうだった。


「危なくないですか」


「低い」


「止まれないでしょう」


 レクス・ノアは答えなかった。


 その沈黙が、答えのように思えた。


 ルークスが半歩前に出る。


「受け止めましょうか」


「不要」


 小さな翼が広がる。


 アリアが止めるより早く、レクス・ノアの体が段差から跳んだ。


 前より、長かった。


 一瞬ではない。ほんの少しだけ、空気の上に乗っている時間があった。翼が風を受け、体が雪の上をすべる。


「浮いてます」


 アリアは思わず言った。


「滑空だ」


 真剣な声。


「ふわー」


 ノアは楽しそうにしている。


 次の瞬間、小さな体はまっすぐ進みすぎた。


 止まらない。


 曲がらない。


 雪の吹きだまりへ、頭から突っ込んだ。


 雪が、ふわりと跳ねる。


 アリアは駆け寄った。


「大丈夫ですか」


 雪の中から、尻尾が出ていた。少し遅れて、角が出る。最後に鼻先が出た。


「……距離は伸びた」


 レクスが言った。


「雪まで飛んだ」


 ノアが言った。


「それは成功なのですか」


「部分的成功」


「すごく白い成功」


 アリアは、レクス・ノアの頭についた雪を払った。小さな体は震えていない。怪我はなさそうだった。


 ディートが、腕を組んだまま見ていた。


「飛ぶのも修行か」


 レクス・ノアは、雪をかぶったままディートを見る。


「修行だ」


「止まれん修行か」


 レクスの目が、少しだけ細くなった。


「次は止まる」


「坑道と同じだな」


 ディートが言った。


 アリアは顔を上げた。


「同じ、ですか」


「掘るだけなら、誰でも進めたがる」


 ディートは、坑道の入口を見た。


「ここで止める、が一番難しい」


 その言葉に、アリアは黙った。


 ディートは、もう何も言わなかった。


 レクス・ノアも、珍しく言い返さなかった。


* * *


 帰り道、アリアは何度も坑道の方を振り返った。


 黒い入口は、すぐに木々に隠れて見えなくなった。それでも、そこにあることは分かる。


 眠っている。


 ノアはそう言った。


 流れ。


 レクスはそう言った。


 ディートは何も言わず、前を歩いていた。家の前まで戻ると、斧を拾い上げた。


 もう話は終わりだ、と背中が言っている。


 アリアは、その背中へ声をかけた。


「また来てもいいですか」


 斧を持つ手が止まった。


 ディートは振り返らなかった。


「勝手に来い」


 ルークスが、少しだけほっとした顔をした。


 アリアも、小さく息を吐く。


 けれど、ディートは続けた。


「ただし」


 アリアは背筋を伸ばした。


「今度は作業着で来い」


「作業着」


「坑道は、ドレスで入る場所じゃない」


 アリアは自分の服を見下ろした。


 今日は動きやすい服を選んだつもりだった。けれど、ディートから見れば、まだ全然足りないのだろう。


「はい」


 アリアは頷いた。


「用意します」「靴もだ」「はい」「手袋も」「はい」


 ディートは、そこでようやく少しだけ振り返った。


「返事だけで来るな」


「はい」


 アリアがまた返事をすると、ルークスが小さく笑った。


 ディートは何も言わず、薪割り台の前へ戻った。


 斧が下りる。薪が割れる。


 その音は、最初に聞いた時より、少しだけ近く聞こえた。


* * *


 夜、仮住まいの机に、アリアは今日のことを書き留めた。


 鉱石は残っている。


 坑道も残っている。


 水も抜けた。


 支えも、まだ持った。


 けれど、人が倒れた。


 若者が去った。


 残った人も疲れ切った。


 アリアは、そこで手を止めた。


 短い言葉をそのまま並べると、紙の上で重くなりすぎる気がした。だから、少し考えてから、一つの文にした。


 失われたのは、鉱石ではなく、人だった。


 その文を書いたあと、アリアはしばらく筆を置いた。


 レクス・ノアは窓辺にいた。


 小さな体は、夜の窓の下で静かに座っている。外には白嶺山脈がある。暗くて形はよく見えない。それでも、そこにある。


「まだ、流れている」


 レクスが呟いた。


 アリアは顔を上げる。


「どこへですか」


「奥だ」


 ノアの声が、少し眠そうに続いた。


「山の奥。深いところ」


 アリアは窓の外を見た。


 白嶺の町は静かだった。湯気だけが、夜の中で白く動いている。閉じた坑道の奥から、さっき聞いた水音がもう一度返ってきた。


 アリアは紙の最後へ、坑道、湧き水、温泉の三つを並べ、右端に「次に確かめる」と書いた。レクス・ノアの「奥」という言葉は、まだその欄の外にある。


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