名前
「旦那様の名前が十月霞なら、妾の名前は十月白蓮ということじゃな」
僕と火ノ川さんが契約の握手を終えると、突然白蓮がそんなことを言い出した。婚姻の儀——結婚しているのだから当然と言えば当然なのだけれど、それでもやはり抵抗感はあった。
「……火ノ川さん。仲良くするにあたって、結婚を取りやめてまずはお友達から、とかには出来ませんかね?」
「少年の気持ちを汲みたいんだけど、残念ながらそれは出来ないかな」
火ノ川さんが首を横に振る。
「理由は二つある。一つ目、契約は基本的に結んだ両者間でしか変えることが出来ない。縁切りの神社とかだと話は変わるんだけどね」
完全に盲点だった。縁切り神社。怪異との契約を解消するのに、それ以上適した場所はないだろう。
契約解消の兆しが見えてきた。そう思ったのも束の間、次の火ノ川さんの言葉で呆気なくその希望は打ち砕かれてしまった。
「そして二つ目、契約を解消したら白蓮は死ぬ」
「……白蓮、いくら何でも死にやす過ぎじゃない?」
「妾をそんな風に虚弱体質みたいに言うでないッ!!」
白蓮が語気を荒げて否定するが、そう思わずにはいられなかった。婚姻を破棄されただけで死ぬって……狐も寂しくて死ぬのだろうか?
「妾が今生きておるのは、『狐の嫁入り』でより『狐』の怪異という設定に近づいて力を得たからじゃ。それが無くなったら必然的に、妾は出会った時の状態に戻る」
僕と最初に出会った時、白蓮は死ぬ一歩手前という様子だった。あの状態に戻ると言うのなら、契約を解除したら死ぬからくりも何となく理解出来る。
「それなら、契約を解消するわけにはいきませんね」
「何事にも妥協は必要ということだよ……そして、白蓮。次は君が妥協をする番だ」
火ノ川さんが白蓮に視線を向けると、白蓮は口元だけを動かして挑戦的な笑みを浮かべた。
「妾に妥協せよと申すか。面白い、何でも申してみよ」
「君には名前を変えてもらう」
空間が沈黙に包まれる。虫や風までもが僕たちに遠慮して静かにしているようだった。
隣から禍々しいオーラを感じながら恐る恐る白蓮を見ると、先程までの挑戦的な笑みはどこへやら、殺意に満ちた表情をしている。
「……専門家、貴様本気で申しておるのか?」
彼女の声とは思えない、重厚な低い声。まるで獣が唸っているようだった。
「私は冗談でこんなことは言わないよ」
「は、冗談でないなら尚更タチが悪いわ。怪異にとって名前は命そのもの。それを変えろと、本気で言うておるのか!!」
白蓮が牙を剥き鋭く睨みつけるが、火ノ川さんも真剣な表情でそれを受け止めた。
「君の旦那様は私の銃口の前に立って、正しく命を懸けたんだ。君も命を差し出すくらいの覚悟を見せたらどうだい?」
勘違いしないでほしいんだけどね、と火ノ川さんが続ける。
「君は生き延びたんじゃなくて、生かされたんだ。私と少年にね」
それが決め手だったのか、白蓮の覇気が萎んでいくのがわかる。
「その、火ノ川さん。どうして名前を変える必要があるんですか?」
あまりにその姿が痛々しくて、僕は火ノ川さんにそう尋ねた。
「白蓮という名前は、百の美しい白い尾を持つ狐の怪異に付けられた名前なんだよ。今の彼女とはかけ離れてしまっている。このままその名を語り続けたら、婚姻の解消をせずとも近いうちに死ぬだろうね」
火ノ川さんが冷酷に言い渡した。
名前を変えるのは命を落とすに等しいけれど、このまま名前を変えなければ実際に命を落とす。完全な板挟みだったが、白蓮は悩んだ末、最後には決断した。
「分かった、貴様の話に乗ろう。しかし妾からも条件を出したい」
「名前を変えると決めてくれたんだ。大抵のことは飲み込むよ」
火ノ川さんが快く頷いたのを見て、白蓮はなぜか僕のことを指し示した。なんだか嫌な予感がする……。そう思ったのも束の間、その予感は的中した。
「妾の新しい名前は旦那様に付けてもらいたいのじゃ」
「えぇ!?」
「それくらいなら全然構わないよ。むしろ大歓迎だ」
困惑する僕を見て、火ノ川さんが楽しそうに笑った。
僕に名付けを任せるなんてどういうつもりだろうか。真意を探ろうと白蓮を見ると、彼女は頬を赤くしてそっぽを向いた。今までとの反応の違いに、さらに困惑する。
「旦那様なら良い名が浮かぶと思っただけじゃ!! 早く考えい!!」
ここまで来たら、きっと名付けをしない限り白蓮は止まらないだろう。火ノ川さんは止めるつもりはなさそうだし……。僕のネーミングセンスで新しい名前を捻り出すしかない。目を瞑って脳みそをフルで回し始める。
狐の怪異なのだから『狐』という漢字は入れた方がいいだろう。名前にはどうなってほしいかを込めるともいうし――
「決めた」
数分後、僕はやっとの思いで彼女の名前を考えついた。これ以上考えても、これより良い名前は思いつかないだろうという力作だ。
白蓮の方を見る。狐の耳が生えた黒髪の少女。出会いは突然だったし、彼女のことはまだ全然理解出来ていないけれど、彼女はこれからを共にする一蓮托生のパートナーだ。乗りかかった船でここまで来てしまったが、そろそろ覚悟を決めた方がいいのかもしれない。
「雅狐」
初めて読んだ名前は、緊張のせいか上手く発音することが出来なかった。名前を呼ぶ感触を確かめるように、彼女にしっかりと聞こえるよう、もう一度発音する。
「これからよろしくな、雅孤」
再び呼んだ名前は、今度はしっかりと彼女の耳に届いた。果たして気に入ってもらえるだろうか。心配になって彼女の顔を盗み見るが、そんな心配は杞憂に終わった。彼女——雅孤は名前が気に入ったようで、ご満悦な表情を浮かべていた。
「こちらこそよろしく頼むぞ、旦那様」




