専門家
パァン、と乾いた音が鳴り響き、次の瞬間には狐は地面に倒れていた。
「狐ッ!?」
咄嗟に駆け寄り、彼女を覗き込む。胸元からじわじわと血が滲み、着物を赤く染めていく。撃たれたのか、と平和ボケした頭で遅れて理解する。
「やってくれたね、白蓮」
背後から大人びた女性の声が聞こえた。声のした方を向くと、ブラウンのトレンチコートを纏った気怠そうな女性が立っている。年齢は……大体二十代後半くらいだろうか。ぶらりと下げられた手には、狐を撃ったのであろう拳銃が握られていた。
「遅い到着じゃのう……専門家」
狐がか細い声で言った。専門家と呼ばれたその女性は、手に持った拳銃をくるくると回しながら、一歩ずつこちらへ近づいてくる。
——次は、僕か?
背筋を冷たいものが這い上がる。銃口から目を離せない。拳銃で撃たれることを想像するだけで、心臓が耳の奥でうるさく鳴った。
逃げたい。この危機から一分でも一秒でも早く逃げ出したい。けれど、僕のそんな望みも虚しく、体はただ震えて立ち尽くすことしかできなかった。
幸か不幸か、女性が最初に目をつけたのは狐だった。
「まさか契約で生き延びるとは。いやはや、狐の悪知恵とは厄介だ」
「かかっ、貴様の性格ほどじゃないがの……」
「ん、余裕そうだね。もう一発鉛玉をぶち込まれたいのかい?」
その一言で狐が黙り込む。怪異といえど、何発も銃弾を受ければ致命傷になるようだった。
ただ黙って睨む狐を見て勝ちを確信したのだろう。女性は満足したような顔をすると、今度はこちらへ視線を向けた。
「君もすまなかったね。こんなことに巻き込んでしまうなんて」
「いえ……そんな……別に……」
女性が僕に向ける声色は優しく、なんと言葉を返せばいいのか分からない。
誰が僕の敵で、僕は誰の味方なのか。立場が宙ぶらりんのままだった。
「本当は一般人を巻き込む前に対処しなきゃなんだけど、あの狐に何かされなかったかい?」
キスをされた、とは言わなかった。
どの情報が彼女の命を奪う引き金になるか分からない。
自分の発言が狐の死因になるのは避けたかった。
黙り込む僕から情報を得られないと思ったのか、女性は再び狐へ銃を向ける。
「まぁいいか。ここで殺せば問題ないし」
そう言って女性は引き金に手をかけ、無慈悲にもそれを引こうとする——
「どういうつもりだい?少年」
気づけば、僕は女性の前に立ちふさがっていた。女性からの冷たい視線が突き刺さる。
「そこを退いてくれないかな。私はその狐を殺さないといけないんだ」
殺す。その言葉が強く耳に残った。
僕が動けば、狐が殺されてしまう。
「……どうして、どうしてこの子が殺されないといけないんですか?」
「君が庇っているのは可哀想な狐じゃない。人に害をなす化け物だよ。人を騙し、欺く。君自身だってその対象だ」
押し売りまがいの結婚をさせられた僕に、その言葉は強く刺さった。実際、何で助けようとしているのだろうか。自分にも明確な理由は分からない。
だけど、僕の心のどこかが狐を助けるべきだと自分自身を動かしていた。
「意地でも動かないつもりか……。良いよ、それじゃあこうしよう」
女性が狐に向けていた銃口を自身の腹部に押し付ける。意味が分からずに戸惑っていると、彼女は不敵に笑って見せた。
「君が撃たれた狐が可哀想だと思うなら、私の腹にも穴を開けようじゃないか。それなら対等だろう?」
冷静に考えたらそれのどこが対等なのか分からないが、僕はその時、彼女の狂気に飲み込まれてしまった。彼女の瞳には、必ずやるという覚悟が感じられた。
「私がここまで言うのは、それだけその狐が恐ろしいということだ。私も女性だからね。本当は体に傷はつけたくないんだけど」
女性はそのような軽口を言うが、腹部に銃を撃てば命の保証すらされないだろう。僕のせいでそんな危険をおかしてほしくはない。
女性が目を閉じる。数秒後には、彼女は本当に自分を撃つだろう。何か、何か手を考えないと……。
僕は、ゆっくりと銃身に手を伸ばし、その銃口を自分の胸に向けた。
「撃つなら、僕を撃ってください」
「……本気かい?」
女性の狂気が鎮まり、代わりに彼女は驚きの表情を浮かべた。こんな状況だったが、専門家である彼女を一泡吹かせたことがほんの少し痛快だった。これから受けるであろう痛みに比べれば、微々たるものだろうけど。
「旦那様……」
背後から弱々しい声が聞こえてくる。振り返ると、倒れた狐の姿が目に入った。血で濡れた着物が痛々しい。彼女のために、僕はこの銃身を離してはならない。
「分からないな。私が君を撃って、その後に狐を仕留める可能性だってあるだろう?」
「それをするなら、貴方は最初から僕のことを撃ってますよ」
だけど、それをしなかった。
「どうせ僕は大した戦力にはなりませんしね。僕に一発撃って見逃してもらえるなら、めっけものですよ」
命が惜しくないわけじゃないし、マゾヒストというわけでもない。
それでも、僕の命で狐と女性が助かるなら、賭ける甲斐があるってもんだ。
「だから、僕は貴方を信じてベットします」
本当に、なんでこんなことになってしまっているのだろうか。いつもと同じ、ただの日常だったはずなのに、大雨に降られるわ、狐にキスをされるわ、拳銃で脅されるわ、さんざんな目に遭った。今すぐ逃げ出して布団にくるまってもいいくらいだ。
けれど、僕の答えは最初から決まっている。我ながら馬鹿らしいが、それ以外の選択肢は見つからなかった。
たとえ悪人でも、たとえ人間ですらなかったとしても。
僕に助けを求めてくれた彼女のことを、助けてあげたいと思ってしまったから。
重苦しい空気が場に充満した。誰も何も言わず、指一本動かすことすらままならない。
何分経った頃だろうか。女性が全ての鬱憤を込めたような深いため息を吐き出した。
「参ったよ、参った。まったく、最近の若者は強情だねぇ」
「それじゃあ!!」
「……殺処分は取り止めよう」
これで少女が殺されないで済む。感動のあまりそのまま抱きつこうとして——
「あっ」
そうだった。安堵したあまり失念していたけれど、狐は既に一発撃たれた後なのだ。傷口からさらに血が溢れ、着物は赤く染まっている。
「専門家さん、被弾してできた傷を治せる薬とか持ってたりしませんか?」
「私は別に薬学の専門家じゃないよ。でも大丈夫、今回はそんな薬は必要ない」
そう言って女性は一拍置いて、
「白蓮、いい加減起き上がったらどうだ?」
「いや、専門家さん……それはいくらなんでも無茶なんじゃ……」
怪異の生命力がどれほどかは知らないけれど、血を流して苦しそうにしていたじゃないか。もしやこのまま見殺しにする気かと女性を問い詰めようとした時、狐の耳がぴくりと動いたのが視界に入った。
「……まさかバレていたとはな」
倒れて瀕死だったはずの少女が、当たり前のようにむくりと立ち上がる。
「いや……は? ……え?」
「ドッキリ大成功、というやつじゃ」
……返す言葉が見つからなかった。命を懸けて助けた相手がこれでは、あまりにも報われない。
「だから言っただろ? 君自身も騙されるって」
僕の滑稽すぎる反応に、女性が声を上げて笑う。
これから騙されるのは承知の上だと覚悟していたけれど、まさかそう誓っている瞬間に、既に騙されていたとは思いもしなかったのだ。
「妾にかかればこれくらいお茶の子さいさいじゃ」
狐が誇らしげに胸を張った。見ると、銃痕は跡形もなく消え、血の跡も眩しいほど綺麗な真っ白になっている。
「は〜、笑った笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだよ」
笑い疲れたとばかりに女性がため息をつく。見ると、目の端には少し涙が浮かんでいた。……どれだけ笑ってたんだよ。
「だけど、笑ってばかりいられる状況じゃないからね。ここからは笑えない話をしようか。君と、そこの狐——白蓮の今後の話をね」
今し方大笑いしていたのが嘘だったかのように真面目な顔をして、専門家はそう宣言するのだった。




