シリーズ世界文学最高峰⑧ 「ティモシー・アーチャーの転生」はディックの純文学か?
初出:令和7年11月13日
フィリップ・K・ディックの晩年の大作にいわゆるヴァリス三部作がある。
「ヴァリス」、「聖なる侵入」、「ティモシー・アーチャーの転生」の三作品だ。
このうち「聖なる侵入」はSF寄り、「ティモシー・アーチャーの転生」は純文学寄り、そして「ヴァリス」はその中間といった分類もできる。
「ティモシー・アーチャーの転生」は三部作の最後の作品であり、ディックの死後刊行された遺作のようだ。
80年代末、サンリオSF文庫があり、上記三部作を購入したが、「ティモシー・アーチャーの転生」だけは完読せず、数ベージだけ読んで挫折した。
その後、ゼロ年代にサンリオSF文庫の「ティモシー・アーチャーの転生」が5万円でネットで売買されているのを知り、いつか売って儲けようと考えた。ところが、引っ越しなどのタイミングで結果的にブックオフあたりに二束三文で同書を売ってしまったと記憶している。
ところでディックのファンとは別にヴァリス三部作ファンもいるのではないか。
かくいう小生もヴァリス”信者”を自認しているが、死ぬ前に「ティモシー・アーチャーの転生」を読んでおくべきだと思い、このほど早川文庫の新訳で同作品を読んだ次第。
1.あらすじ&ネタバレ
以下、「ティモシー・アーチャーの転生」のあらすじを書く。ネタバレの箇所もあるので、まだ未読の方は自己責任でお読みいただきたい。
タイトルロールのティモシー・アーチャー(以下、ティム)はキリスト教系宗教団体「聖公会」(イギリス国教会?)の主教。
ティムはその著作や講演会が人気で、マスコミで話題の有名人であり、社会的地位も財産もある。
その息子、ジェフはいわゆるプロ学生(大学を卒業したら就職せずまた大学で学ぶ)でニート状態だが、主人公エンジェルはジェフの嫁で弁護士事務所兼ローソク店で働いている。
またあるときティムに未亡人の秘書兼愛人ができる。
彼女の名はキルスティン。ビルという自動車修理工で精神病院に入退院を繰り返す青年の一人息子がいる。
死海文書の発見などで原始キリスト教の歴史が覆るといった学説に興味を持ったティムとキルスティンは研究のためロンドンに向かうが、その間、ジェフが拳銃で自殺する。
ジェフの自殺の動機については様々な説が唱えられるが、ティムとキルスティンは夜寝ているときにジェフの霊を見たとのことで、有名な霊媒師のギャレットに霊視してもらう。
するとギャレットはキルスティンの死を予言する。エンジェルもその場に居合わせた。
キルスティンは病院に通っていて癌が進行している情報をギャレットは入手したのかもしれないし、ジェフの自殺の件はマスコミで騒がれたので事前にギャレットが様々なことを当てたのも霊視ではないとエンジェルは見破る。
ただしジェフとエンジェルの行きつけの飲食店の店員をジェフがKGBのスパイと呼んでいたことをギャレットは当てた。これはジェフとエンジェルの二人しか知らない情報なのでギャレットはジェフの霊を本当に呼び寄せたとしか思えない。エンジェルはそう思う。
その後、キルスティンは入院し、自分で睡眠薬を多量に飲んで自殺する。
キルスティンの葬儀を済ませた後、ティムはエンジェルに一緒にイスラエルに行こうと提案する。
キリストは最後の晩餐のとき、アノキという不老不死のキノコは食べたというのがティムの自説だがそれを探しにイスラエルに行くという。
結局、エンジェルは断り、ティムは一人でイスラエルの砂漠に向かうがそこで事故死してしまう。
このころ、エンジェルはレコード店の店長になっている。以前勤めていた弁護士事務所兼ローソク店は潰れ、レコード店の店員に転職したが、そのうちに店長に昇進したのだった。
エンジェルはベアファット牧師のセミナーを受ける。するとビルに会う。ベアファットはエンジェルがセミナー中、居眠りをしていたので注意するが、ベアファットがティム主教の後輩であることを知り、ベアファットの方もエンジェルがティムの義理の娘であることを知る。
またビルは自分にはティムの霊が憑いていると主張するが、そのへんに生えているキノコをアノキだというのでエンジェルは半信半疑。
その後、ビルは精神病院に入院し、医者はエンジェルにもう面会するなと言われる。
ところがベアファットはビルがティムしか知らないラテン語やギリシア語をしゃべるので本当にティムの霊が降りていると確信する。そこでビルを引き取り、エンジェルにビルの世話をするため自分の離れに住むよう提案する。
エンジェルはお気に入りのレコードをダビングしてもらうことを条件にベアファットの提案を受け入れる。
2.ティモシーは裏ヴァリス
この小説の魅力として最初に上げられるのが、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」を彷彿とさせる軽妙洒脱な語り口だ。これはもともとの作品でなく、翻訳の技量なのかもしれないが、エンジェルの一人称小説であるこの作品は、口語調とスラング満載の文体で構成される。またエンジェルという若い女性特有のシニカルな視点も見逃せない。
このシニカルな視点は、”神批判”、”キリスト教批判”といった作品全体の基調低音となる虚無感と直結する。
小生は本作「ティモシー・アーチャーの転生」は裏「ヴァリス」ではないかと考える。あるいは「ヴァリス」を補完する小説なのだ。
どちらの作品も主人公の周囲で自殺、麻薬中毒、精神病患者が相次ぐ。絶望的な実存に直面させられる。
「ヴァリス」の主人公フォースラバー・ファットはテレビCMを見ても神からのメッセージだと信じ、自殺することなく果敢に人生を生きることを選択する。
常識的に考えて超常現象ではないことをファットは神からの恩寵と解釈するのだ。
これに対し、「ティモシー・アーチャーの転生」の主人公エンジェル・アーチャーは超常現象を一切認めない。宗教家の説く奇跡の手品のからくりを皮肉たっぷりに暴きまくる。
それはとりもなおさず、この世に神の救いなどないことを証明しているのだが、エンジェルは自殺することなく果敢に、そしてしたたかに人生を生きていく。
3.偽善者ティムの神学論争
本作の特に前半部ではティムの偽善ぶりが目につく。
マスコミから聖人君主のように報道されるティムだが、彼はガソリンスタンドで機器を破損させながら黙って車で逃げようとする。
またティムは息子がいながら未亡人を愛人にしてしまう。そのことをエンジェルにとがめられると、パウロの福音書を取り出し、自分も未亡人も現在は法的に独身だからこれは不倫ではなく、キリストの教えに反していないと弁解する。
ティムは無料で講演を引き受けた後、主催者から多額の寄付金を要求する。
このような偽善者でありながら、全編に渡る神学論争でティムは主人公エンジェル以上にこの作品における最重要人物と言える。
ヴァリス三部作はディック教、またはヴァリス教といわれるディック独自が構築した宗教哲学がベースになっている。
これは文学作品としての三部作のテーマとは別の次元にある思想体系であり、これを正しく読み解いてこそディックの真の思想に行きつけるのかもしれない。
(つづく)




