シリーズ気まぐれ読書感想文⑧ ヌーヴォー・ロマン三昧 「弑逆者」「心変わり」
初出:令和8年10月23日
さて、最近、ヌーヴォー・ロマンの小説を立て続けに近所の図書館から借りてきた。
ヌーヴォー・ロマンとは第二次大戦後、1950年代末から60年代にフランスで流行った一連の前衛小説を指すらしい。ヌーヴォー・ロマンに分類される小説の作家名としては
・アラン=ロブ・グリエ
・ミシェル・ピュートル
・クロード・シモン
・ナタリー・サロート
などが有名とのことだ、
本来ならヌーヴォー・ロマンの代表的作品をアマゾンあたりで購入すべきところだろうが、そこは貧乏性の習癖で近所の図書館から無料で借りられるものだけを選んだ。
ところがあまりに難解なため、ほぼ読めなかった。あるいは理解できなかった。もとより速読のため、読んんだ部分も、ぼんやりとしか内容を認識していない。
以降、訳者の解説やAI検索の情報も借り、感想文を書く。完全に読んだとは言えないので”非読書感想”といったところか。
1.弑逆者 VS 心変わり
①弑逆者 アラン・ロブ・グリエ
唯一まともに読めた小説。
海岸沿いの自然環境豊かな田舎(リゾート地?)で暮らす「私」の一人称小説と、工場に勤める工員ボリスを主人公にした三人称小説が交錯する。
訳者の解説では、ボリスの空想がリゾート地での「私」の生活とのこと。
ストーリーはない。ボリスは労働運動に興味を持ち、王制打倒?を支持する。王制はフランス革命以前か、あるいは第二王制の時代か?舞台は現代のようなので、ここはパラレルワールドのフランスだろうか。とは言え、ボリスは積極的に労働運動に加わるわけでも、左翼思想が展開されるわけでもない。
一方、リゾート地で暮らす「私」の方も海辺だけが舞台でなく、地域の名物おじいさんが出てきて会話するようだが、大したストーリーの進展はない。
オチらしいオチがないまま物語は終わる。
②心変わり ミシェル・ピュートル
二人称小説。主人公の「きみ」は妻子ある中年男性だが、パリからローマまで一人で一日かけて長時間の列車旅行を楽しんでいる。
実は「きみ」にはローマにセシルという愛人がいる。今回の列車旅の目的は、「きみ」が妻子と別れ、セシルをパリに連れてきて同棲しようという魂胆だった。だが、結果的にセシルに会わずに去っていく。
乗車中、「きみ」は過去を回想する。この回想シーンがメインストーリーである列車旅行に頻繁に挿入される。回想シーンの合計はメインストーリーとほぼ同じ、もしくはもっと多いようだ。
ラスト付近では”小説”が登場する。この”小説”を「きみ」はまだ読んでない、といった文章が出てくるが、この”小説”とは本編「心変わり」自体を指すのではないかと思われる。
つまり入れ子構造のように小説の主人公が小説の中でその小説自身を読み、その小説の中の主人公がまたその中で小説を読み……という具合に無限ループを発生させるのだ。
あるいは二人称小説にした理由がそこにあり、読者がこの小説を読むことで無限ループに強制参加させられているという意味か。
ただしAIの解説ではこの小説の最期に主人公の「きみ」は本編を書こうと決意するところで終わるとしている。
2.ヌーヴォー・ロマンの魅力とは
ところでヌーヴォー・ロマンはどこが面白いのだろうか。
①起床時の寝室の描写がヌーヴォー・ロマンの魅力か?
文学フリマで買った小説で、こういうのがあった。
休日、主人公が寝室で目覚める。まだベッドから起き上がらず、寝室の描写が延々と続く。
主人公の意識の流れの描写もあったかもしれない。
いずれにせよ、主人公が起き上がるまで短編一編分ぐらいの文章が続き、起き上がったところで物語が終わる。
プロ作家ではバロウズだったか島田雅彦だったか記憶が曖昧だが、こういう作品があったかもしれない。
実は「弑逆者」の冒頭も同様にボリスの寝起きシーンで始まる。ストーリーはなく、寝室の描写だけで延々と文章が続いていく。
ストーリーはなく、寝室の描写だけ。これがなぜか”おしゃれ”に思える。
ヌーヴォー・ロマンが後の文学にいい意味で影響を与えているのはこのへんかなと想像した。
②二人称小説の意味?
「心変わり」だが二人称小説にすべき必然性が弱いように思った。
二人称小説を選択することで前衛小説を書こうという意気込みは伝わるが、全編を通じて三人称小説にした方がしっくりくると思った。
また時間の流れもわかりづらかった。
福永武彦「死の島」も東京から広島へ1日かけて主人公が新幹線で旅をする話がメインストーリーになっている。このメインストーリーに過去を回想したサブストーリーが随所に挿入されるのだが、サブストーリーには章を設け、「3日前」、「20日前」といった具合にどの時間帯のストーリーかを章のタイトルごとに明記して進行する。これなら読者は小説の全体構造を理解しやすい。
おそらく福永は「死の島」執筆時、「心変わり」を意識したのかもしれない。
ラスト付近で出てくる小説が本編自身で、「入れ子構造の無限ループ」を作者が意図していたとしたら、それが唯一、二人称小説にした妥当な理由ということになるだろう。
3.まとめとして
この他、クロード・シモン「ル・パラス」、ナタリー・サロート「マルトロー」、アラン・ロブ・グリエ「嫉妬」などを読んでみたが、すべて中途挫折した。
ヌーヴォー・ロマンを読むのは苦行に近い。
同時期のフランス文学でサルトルやカミュが日本でも人気なのに、ヌーヴォー・ロマンが不人気なのは難解過ぎるせいか。
ただし現代の日本文学でヌーヴォー・ロマンの手法をパクり、読みやすくアレンジした小説がいくらでもあると思うので、なおさらわれわれがヌーヴォー・ロマンを読む必然性は低いと考える。
(つづく)




