シリーズ気まぐれ読書感想文⑦ サルトル「存在と無」 読まずに死ねるか
初出:令和8年10月9日
さて、ジャンポール・サルトル「存在と無」を読了した。
以前、某SNSの某文学グループで某人物から「おまえはサルトルと大江に詳しいからってマウントを取るな」と書き込まれ、マウントを取られたことがある。
大江健三郎も気づいてみれば未読の小説は大量にあったことは前々回に書いたが、サルトルに関してはもっとひどい。と言うのは小生はサルトルの哲学書を読んだことがなかった。
昔、人文書院と新潮文庫で翻訳された小説と戯曲はすべて読破したと思うが、サルトルの本業は哲学者である。哲学書を読まずしてサルトル通を自認するのはおこがましいかもしれない。
そこで今回、「存在と無」を読んでみた。
以下、オレ流感想文を書く。あくまでオレ流なので、反論やコメントがある方は感想をお願いしたい。
1.緒言「存在の探究」は、「実存は本質に先立つ」
ところで訳者による本書の解説によると緒言は難しいので、哲学書を読み慣れてない読者は第一部から読んでほしいと書いてある。
しかしながら小生は緒言が一番よく理解できた。そしてそれ以外はほとんど意味がわからない。
緒言は精読したが長時間要したので、これではいつまでたっても読了できないと気づき、SRS速読に切り替えた。
それもギアを上げ最高速で読んだ。ギアを上げると読むスピードは速くなるが、その分、読んでいる内容がわからなくなる。
こうした原因もあって緒言以外、何が書いてあるかよく理解できなかった。
要するにサルトルの一番有名な金言「実存は本質に先立つ」で緒言はだいたい読み解けると思うのだ。
存在するものはすべて、われわれが認識できる現象だけで理解すべきで、その裏にある本質を深読みするな、といったことをサルトルは主張しているのだと思う(反論、コメントある方、感想でお願いします)。
サルトルは存在の例として何と”電流”を持ち出している。
”電流”とは何かについては物理学者に任せておけばいいと思うのだが、これもまた本質より、現象だけ観察して”電流”なるものを理解せよ、とサルトルは主張しているのか。
2.サルトルの思想 =(フッサールの思想 足す ハイデッガーの思想)割る2
「意識は何かについての意識である」
これはサルトルの言葉なのか、フッサールからのパクリなのかわからないが(詳しい方、感想お願いします)、本書でよく出てくる表現だ。
デカルトの「われ思う故にわれあり」の独我論?からは一歩進化した認識論といった感じか。
サルトルがミスター現象学、フッサールの激推しであることは間違いないだろう。
この他、ハイデッガーの名前も本書によく登場する。ハイデッガーの主著は「存在と時間」(未読)。タイトルからして「存在と無」は「存在と時間」と”存在つながり”で共通しており、中身も共通項があるのではと思われる。
ざっくり推測すると本書でのサルトルの思想はフッサールとハイデッガーの思想を足して二で割ったものとニアイコールなのではないか。そんな感想を持った。
ただし細かい点でサルトルは二人と意見が違う。
本書の中でフッサールにもハイデッガーにもサルトルはダメ出ししている。ただしどんなふうにだめなのかは理解できなかった(理解している方、感想をよろしく)。
3.言葉遊び「無は存在しないが、非存在は存在する」
言葉遊びの哲学というとポストモダンを想起するが、サルトルの時代にもすでも言葉遊びは始まっていたのか。
歴史的に言えば、サルトルの後に構造主義が来て、その後にポストモダンが来るのだが、サルトルが属する現代哲学の前にデカルト、カント、ヘーゲルなどの近代哲学があり、近代哲学はいい意味で言葉遊びに陥っていなかった。小生はこのように理解している。
悪く言えば近代哲学がすべてをやりつくしたので現代哲学者はやることがなくなり、いつしか哲学者たちは言葉遊びをするしか仕事がなくなった。
だがサルトルの哲学も時代的に現代哲学のため、早くも言葉遊びに毒されていたということなのか。
「無は存在しないが、非存在は存在する」と言われても、ナンノコッチャとずっこけてしまう。
ところでピエール(本書でサルトルがよく使う)と喫茶店でデートの待ち合わせをしたのに約束の時間にピエールが来ていなかったら、ピエールの存在だけが「無」でなく、背景の喫茶店まで含めて「無」が形成される、というようなことが書いてあったかどうか自信がないのだが(理解している方、感想お願いします)、「存在と無」の「無」に関するサルトルの記述はよく理解できなかったというのが正直な感想だ。
4.全編のキーワードは「対自」か
即自、対自、意識、コギト。全編に渡り、よく出てくる言葉だ。
このうち即自を除けば、すべて自意識を意味する語のようだ。
即自は道に落ちている石ころのような存在。つまりわれわれが存在を意識する物だ。
一方、対自とは即自を認識するわれわれの自我、もしくは自意識そのものであり、全編中、最も重要な概念のようだ。
要はわれわれの自我である対自がすべてを認識するわけであり、この原理一本でサルトルの思想は解釈可能なのではないか。
たとえば「羞恥」についても言及しているが、われわれがへまをやり、他人から笑われて恥をかいた場合も、他人が恥をかかせたというよりも、最終的にはわれわれの対自が恥ずかしいと感じたから「羞恥」を覚えたのであって、気にしなければ「羞恥」は発生しないということか。
サルトルはまた他者や身体についても言及している。
他者も自分の身体も対自からしてみれば、すべて一緒にしてまとめて即自だと認識してしまえばそれまでなのだが、世間常識では自分の身体は自分の一部であるという考えがある。だからわざわざ身体の章を設けて言及したのだろうか。
ところで話は脱線するが、昔、メルロー・ポンディーの「知覚の現象学」を読んだことがある。
メルロー・ポンティーはサルトル同様、現象学に造詣が深い哲学者で、しばしばサルトルの弟分の思想家と評価されているが、ポンディーはさらに突っ込んで「身体」に言及している。
ポンティーによると、事故で手を失った患者が最初のうちは手がまだそこにあるかのような感覚を持つことがあるという事実に着目し、現象学的視点から身体の感覚を分析しているが、こういうことは医学や大脳生理学者の領域であって、哲学者が口を出すべきではないと思った。
先に述べた通り、本書の緒言でも、サルトルは「電流」の存在について言及しているが、「電流」のことは電気工学者の研究領域で、哲学者が言及するのは”治外法権”ではないか、というのが個人的感想だ。
閑話休題、自意識の話に戻そう。サルトルは”意識”について、なぜか分析を拒んでいるのが気になった。ここで言う”意識”は対自とどう違うのか、よくわからなかったが、”意識”は最初から存在するので分析不可としているようだ(このへんを理解している方、解説お願いします)。
5.決定論と自由
本書の第一分冊で「ハイゼンベルクの不確定世原理」の話が登場した。
そして第二分冊でサルトルは決定論について言及している。
この二つを合わせれば、例の量子力学の決定論について考察するかと思いきや、近代哲学にある?一昔前の決定論の話だった。
つまりわれわれの周囲の環境がわれわれの行動をすべて決定していて、自由意志などないという仮説がここで言う決定論だ。
これに対し、サルトルはわれわれの自我、つまり対自は自由だと説く。
対自と即自の認識について「過去」、「現在」、「未来」についてそれぞれ章を設けているのだが、要するに過去にどんな経験をしようが、一切の存在は現在にしか存在しないので過去で規定せず、現在の現象で一切の存在を評価すべきであり、また未来は自由であり、対自は自由に未来に向けて投企し、超越すべきというのがサルトルの思想だろう。
少し脱線するが、個人的には、サルトルの自由は対自の自由であり、わかりやすく言えば頭で何を考えても自由という程度のものではないかと解釈している。これは小生にとり、どちらでもいい話だ。
小生としては哲学的自由より社会科学上の自由に関心がある。つまり悪政で税金が高すぎると庶民の生活に自由がなくなる。庶民の生活を豊かにするための自由を確保するにはどうしたらいいか。こっちの方に関心が動いてしまうのだ。
ただし「自由」は「対自」同様、本書(特に後半)の最重要キーワードになっているようだ。
6.「われわれ」と社会階級
さて、「われわれ」という概念とともに「ブルジョワジー」、「プロレタリアート」という言葉が第二分冊の最期に登場する。
サルトルと言えば、中年期以降はアンガージュマンの左翼活動家として知られるが、いよいよサルトルが政治の話題、あるいはマルクス主義について言及するかと思いきや、さにあらず。本書はあくまで哲学書であり、認識論の論文なのだ。
対自から考えると「われわれ」という概念も社会階層も客観的に存在するというより、そういう集団があると考えている仮定に過ぎないとしている。
「ブルジョワジー」、「プロレタリアート」は存在していないとは言ってないが、対自が勝手に思っているだけではまだ根拠が弱いという意味か。
ただし冒頭の緒言とラストの結論で、サルトルは「われわれ」という表現をよく使う。
これは第二分冊の最期の「われわれ」という概念とは違う意味だろう。
大学の講義で教授が学生たちを「諸君」と呼ぶように、論文の筆者や講義をする教授が「私」のかわりに「われわれ」という語を使い、議論を論理的に証明していくのが、アカデミズムの古き良き流儀なのかもしれない。
7.結論のオーラス文章が気になった
ところで一番気になったのが第三分冊における結論の全編オーラスの文章だ。
「われわれは本書に続く著作をこの問題にためににささげるであろう。」
「存在と無」を苦労して全編読んだのにまだ終わりではないのか。
本書のつづきは「弁証法的理性批判」かも知れない。こちらも読まなければサルトルの思想は語れない、という意味か。
押し活をするのにはハードルが高すぎるアイドルの哲学者バージョン。それがサルトルといったところなのだろう。
(つづく)




