20世紀世界文学とエロスのどうでもいい話
初出:令和8年2月9日
昨年、サマセット・モームの『世界十大小説』のうち、まだ読んでない小説を読み、フィールディング『トム・ジョウンズ』以外の九作品をすべて読破した。
読書とは山登りに似ていて、やり終えたときに達成感がある。山を登頂しても本を読み終えても、えらくもなんともないが、本人には一仕事やり終えた達成感、もしくは充足感があったりする。
かてて加えて20世紀世界文学の二大傑作、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』とマルセル・プルースト『失われた時を求めて』を昨年末から今年の年初に完読した。
文学三昧に明け暮れる日々だが、このうち20世紀世界文学の方はまだ余韻が残っている。
だから何だと言われれば元も子もなく、身も蓋もないが、20世紀世界文学の方はいずれもエロスが印象に残っているので、どうでもいい話だがそのことに言及したくなった。
ちなみにいずれもSRS速読(知らない人はググってください)で読んでいるので、熟読とちがって全体をほんやりとしか理解していない。だがら真面目な文学論でなく、あなたがこれから読むのはいい加減な素人の感想文ではある。
1.『失われた未来を求めて』 ”淫語”で萎えるエロス
主人公「私」と全編のヒロイン、アルベルチーヌの恋愛がこの小説のメインストーリーだ。
「私」は一人称小説の語り手であるとともに、日本文学の私小説同様、作者プルースト自身がモデルになっていることは推測できる。
一方、アルベルチーヌは10代のころ、”花咲く乙女たち”という、今で言うアイドルグループのトップスターだった美女だ。
推し活をしている「私」がいつの間にか恋人同士になっていたという、ドルオタがうらやむ設定だが、なぜか二人の関係は破綻する。
破綻した理由として、アルベルチーヌが同じ”花咲く乙女たち”のメンバー、アンドレとレズの関係だったと説明されるが。この他にも「私」を萎えさせる理由が複数あったようだ。
その一つとして「私」とアルベルチーヌのベッドシーンで、アルベルチーヌがお下劣な”淫語”をしゃべったので「私」がたちまち萎えてしまうというエピソードがある。
「私」は下級貴族階級の出身で彼女は庶民階級の出なので、なおさら「私」は庶民が口にする卑猥な表現には抵抗感が強いのだろう。
具体的にこの”淫語”は、「割って」(訳)、「me faire casser」(原文)とのこと。
「女陰を左右に広げよ」の意味か。はたまた「その後、逸物を挿入せよ」まで含むのか。
いずれにせよ、フランス人の方がアメリカ人よりもエッチだという考えはフランス、アメリカの両国民が認める共通認識らしいが、上記の表現から、フランス語の方が日本語よりエッチだという考えも成り立つと私には思えるのだ。
2.『ユリシーズ』 「ええいいことよイエス」のエロス
『ユリシーズ』を最初に読んで感じたのは、私の中で相対的にバロウズ『裸のランチ』が”上がり”、ジョイス『ユリシーズ』が”下がった”ことだ。
『ユリシーズ』を読む前は権威ある評論家から評価された20世紀の古典だから、すばらしい作品にちがいないと思っていた。
前衛小説どころかパッパラパーの文学に思えても、そこには深い意味があるはず。こうした先入観があった。
一方、『裸のランチ』は下ネタ満載で麻薬中毒の幻想体験をただ書いただけのパッパラパーな三文小説だと軽視していた。
ところが読んでみると『ユリシーズ』にも下ネタがあることを知り、二つの作品の文学史上における前衛文学の系譜を感じた。
もしかしたらバロウズ先生は『ユリシ-ズ』を”お勉強済み”で、その上でオレ流『ユリシーズ』を書いたら『裸のランチ』になったのかもしれない。
『裸のランチ』は最初の第一章だけストーリーがあり、それ以降は荒唐無稽と言ってよい。
『ユリシーズ』は最初の第一章と第二章の前半ぐらい?、それと後半の最初の章だけストーリーがあり、後は荒唐無稽。ただしラストは中年女性の内的独白が延々と続き、ここは他のパッパラパー部分の中では読みやすい。そして最後に有名な名文?「ええそうよイエス」で全編が終わる。
この中年女性は主人公の妻なのだが、延々と自分がいかに男好きの淫乱であるかを述べているようなものだ。
文学とは人間の人生を描く以上、すべからく性やエロスを表現をせざるを得ないものかもしれないし、20世紀の古典がエロスを中核にした小説であったとしても「ええいいことよイエス」と納得すべきかもしれない。
(つづく)




