100回記念 シリーズ世界文学最高峰⑩ 「失われた時を求めて」(後編)読まずに死ねるか!
初出:令和8年1月11日
さて、「どうてもいい話」シリーズも今回が100回目。
前回に引き続き、「失われた時を求めて」の感想文を書く。前回をまだ読んでない方は合わせてお読みいただきたい。
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2.どこが面白いか
学生時代、最初にこの作品を読んだとき、どこか面白いのかわからなかった。小説というより、評論に近い。心理分析、または哲学的分析に終始して、小説らしくない。唯一、主人公の人生を幼少時代から回想するというところがかろうじて小説になっている。そんな感じだ。
ところが「マドレーヌ体験」ぐらいの箇所まで来たとき、もう一度最初から読み直してみた。
するとこの小説が散文詩になっていることが理解できた。
小説でもあり、評論でもあり、詩でもある。
文学作品の四代ジャンルである、小説、詩、戯曲、文芸評論のうち、戯曲以外の三要素を融合させている。ここがこの作品のすごいところだと思う。
ちなみに同時並行してウイリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」も読んでいた。当時話題のサイバーパンクSFである。
こちらの作品も第1章を読んでどこが面白いのかわからなかった。しかしもう一度、第1章を読み直してみると、サイバーパンクのすごさが理解でき、そのまま最後まで一気に読了した。
いずれも、じっくり読まないと面白さがわからない小説といった感じだろうか。
3.「コンブレ」だけは名作
さて、前回小生は第1部「スワンの家の方へ」は傑作で、残りは駄作だと書いた。
この「スワンの家の方へ」はさらに、①「コンブレ」、②「スワンの恋」、③「土地の名・名」に三分割される。
このうち「コンブレ」は傑作、「土地の名・名」はそれに準ずる傑作。「スワンの恋」は微妙。
実は「スワンの恋」はちょうど小生がこの作品を読んでいた学生時代に映画化され、日本でも上映された。もちろん小生はロードショーで観た。
「スワンの恋」はストーリーがあり、「コンブレ」や「土地の名・名」にくらべ、世間一般受けするのではないかと思われるが、これはプルーストの独自ワールドではない。
小説+評論+散文詩の文章こそ、プルーストの真骨頂なのだ。
なお、本作は前半までが作者が生前発表した作品であり、それ以降は死後、遺族たちの手で発表されたとのこと。つまり編集者の目が通ってないので、普通に考えると後半はつまらないはずだ。
ところが死後出版の最初の部分、第5部「囚われの女」は、特に冒頭部分の文章が面白い。
こちらはパリにある自宅の部屋の描写から始まるのだが、「コンブレ」同様、プルーストワールドのテイストが感じられる。要するに散文詩になっている。
また作品全体を「私」とアルベルチーヌの恋愛小説としてとらえると、「囚われの女」こそ本編の中核部分と考えられる。
一方、最も退屈だったのは第3部「ゲルトマントの方」。特に社交界サロンでの貴族たちの会話がつまらない。これは作者が貴族カルチャー全体を揶揄しているという意味かもしれないが。
4.ユダヤ人推し
全編を通じてドレフェス事件が話題になる。これは要するにユダヤ人差別をどう思うかといった問題である。
主要キャラのスワンがユダヤ人だが、ユダヤ人を嫌ってはいけないというテーマが作品全体を覆っている。
実はプルースト自身も母親がユダヤ系とのこと。
この他、フリーメーソンもよく話題になるなど、陰謀論的に考えると、ユダヤ金融資本=ディープステートのプロパガンダを疑ってしまう。
以前このシリーズで紹介した「ユリシーズ」同様、20世紀の世界文学の名作は彼らに乗っ取られてしまったのか。
5.LGBT推し
ユダヤ人推しと同様、LGBT推しが全編に流れる基調低音だ。ゲイやレズがこの作品には数多く登場する。
実はプルースト自身もゲイだった。
「失われた時を求めて」を映画化したビスコンティー監督もゲイだったようだが、彼はこの作品はゲイにしかわからない美的センスに満ちていると評した。
アニメ「パタリロ」を見てもわかるとおり、ゲイにはノンケにはわからない女性のような美意識があり、小説でありながら散文詩の美しさを表現した本作は、さながら”ゲイ術作品”といったところか。
6.「失われた時を求めて」の最高の評論は「失われた時を求めて」
本作のラスト「見出された時」で「私」はオレ流「千夜一夜物語」を書くことを決意する。
ただしアラビア文学の名作「千夜一夜物語」と本作の共通項はただ小説の長さだけだろう。
人間は平均寿命ぐらいまで生きる場合、子供、青年、中年、老年の各時代を経験し、同一人物でも外見も変わるが、内面も変わる。若い時にとんがった性格の人が老後は丸くなるといった感じだ。
人間だけではない。街の風景もビルが建設されたり、道路工事が行われたりして、20年前とはかなり変わってしまうこともある。
普通の小説はキャラクラーの性格は描くが、彼/彼女が年齢とともに性格が変わり、外見も変わるのを描いた小説、つまり<時>を描いた小説は存在しない。
そう考えた「私」、つまり作者マルセル・プルーストは最後に本作の執筆を決意するのだ。
「失われた時を求めて」とは何か。その答えが「見出された時」のラストに書かれている。
こうした「失われた時を求めて」論自体が「失われた時を求めて」の作品自体に包含されている。
さながら最後にタネを明かす手品といった趣向か。
(つづく)




