夏と樫の木
冬童話2013出品作品
----------------------------
夏の日、「僕」が経験した不思議な話
初めてその人を見たのは、いつだったろうか。
確か、まだずっと幼いときだったような気がする。ずっとずっと幼くて、今みたいにひねくれてなかった頃だったと思う。
僕は幼い頃、夏になれば母方の実家へ遊びに行っていたものだが、そこにその人はいた。
その人が現れるのは、決まって暑い盛りの、陽炎立ち上る昼間だった。
母方の実家は今住んでいる場所よりは田舎と言えたけれど、それでも田園風景なんかとは無縁のコンクリートジャングルの只中で、夏の昼間ともなれば熱せられたアスファルトの照り返しがひどく肌を焼いたし、かといって日陰が涼しいかと言えば、それは日向よりはマシ、という程度のものだった。
そんな茹だる様なまちの中で僕がいっとう訪れていたのが、ビルと住宅街に囲まれるようにぽつんと佇む小さな公園だった。
公園と言っても遊具やグラウンドがあるわけではなくて、大きな樫の木とバーゴラと、申し訳程度のベンチがあるだけの、子供にしてみれば何の面白みも無い公園だ。だけれども、干からびてしまいそうな町の中でここだけは涼やかで、どこか潤いのようなものがあったから、僕はその公園が好きだった。
初めてその人を見たのは、いつだったろうか。
もしかしたら、初めてその公園を発見したときにまで遡るのかもしれない。
母方の祖父母は、とても良い老人だった。僕は母がそこそこ年を召してから出来た、それも初孫であったから、それはもう、僕のことを猫可愛がりしてくれた。ただ、それはどうにもうっとおしく感じられて、僕が母方の実家に行ったときは寝食の時間以外、逃げるようにして街に飛び出していた。
僕が高校生の頃に母方の祖父母は他界してしまったから、今にして思えばあの時もっと一緒にいてあげればよかったと痛感するのだけど、それを遊びたい盛りのこどもに言うのは酷だろうとも思う。
話を戻して、その年の夏も、僕は祖父母の家を飛び出して、町の探検に出かけたのだ。
商店街やオフィス街なんていう人の多いところには近づかないよう厳命されていたこともあって、探検と言えどせいぜい半径200m程度のものだ。とはいえ幼い僕にとっては、それは天外魔境に挑む偉大な冒険であった。
その公園を見つけたのは、そんな可愛い冒険の最中のことだった。
自分で言うのもなんだけれど僕は都会っ子だったから、その大きな樫の木に圧倒されたことを良く覚えている。その根元にこじんまりと佇むバーゴラが、その斜め格子の壁に絡んだ緑と相まって、とても神秘的だった。
樫の枝葉を伝う風は涼やかで、秋を先取りしたような。そんな気分があって、僕はすぐにその場所が大好きになった。
その日から僕は、頻繁にその公園を訪れるようになった。
多分、そんなときだったんだと思う。
あの日は確か例年に稀に見る猛暑で、僕も探検なんかしている気分ではなくなって、早々にあの公園へ向かったのだ。その公園はそんな極暑と言って良いような茹だる暑さの中でも、どこか涼やかだった。
僕はベンチに腰掛けると、祖母の持たせてくれた、冷えた麦茶の入った魔法瓶を取り出して、一口。覚えている限り、あれほど爽快感を感じたことは無かった。暑い暑い夏のコンクリートジャングルに、ぽっかりと開いたクールスポットで飲む冷えた麦茶。それは火照って熱を持った体をやんわりと冷やして、汗ばんだ体を撫でる微風は涼やかで。それはとても、心地よかったのだ。
だから僕はついうとうとして、そのままベンチをベッドに眠ってしまった。
それからどの程度時間が過ぎたのかはわからなかったけれど、目を覚ましたときにはまだ日は高かったので、そんなに眠っていたわけではないのだと思う。眠たい目をこすって大きなあくびをして。そうして、気がついた。
人がいた。
二脚あったベンチの、僕が眠っていたほうでないほうに。黒い、長い髪をした、端正な顔立ちの女の人が、静かに座っていた。
僕は、その人があまりにも綺麗だったから、凄くどぎまぎしていたと思う。公園に通うようになって、初めて会った人だからというのもあった。あんなに快適な場所だと言うのに、思い返せば、その人以外に人を見たことが無かったような気がする。
その人はその切れ長の、長いまつげの目で僕を見て、小さく笑った。
「こんにちわ」
小鳥のさえずりのような、美しい声だった。その人が僕に声をかけたのだとわかるまで、たっぷり数秒はかかったんじゃないだろうか。
「こんにちわ」
多少まごついてはいたと思うけど、僕もそう返事を返したはずだ。そのとき僕は、こんな綺麗な人とお話を出来るなんて、まるでまだ夢から醒めないでいるんじゃないかと思っていた。とはいえもうずっと前のことだから、実はそんなに覚えていない。けれど少なくとも今の僕なら、そう思うだろう。
「きみは、どこの子?」
そう、確かそんな問答があったはずだ。僕は、当時住んでいた家の住所を言ったと思うのだけれど、その人はそれを聞いてひとしきり首をかしげていた。その仕草もまた、優美で可憐だった。
「おばあちゃんの家に遊びに来てるんだ」
「ああ、そうなのね」
その人はどうにも困っていたようだったから、僕はそう付け加えた。自慢じゃないが、昔の僕は空気を読むのが上手かったのだ。いつ落っことしたのか、今はそんなでもないけれど。
僕がそういうと、その人は納得したように花のような微笑を浮かべた。その微笑がまたすばらしいほどに美しくて、僕は心臓が張り裂けるんじゃないかと思うほど高鳴ったのを覚えている。
そのあとに交わした会話はもう覚えていないけれど、そんなに大したことの無い、他愛ないおしゃべりだったと思う。
やがて日が傾ぐころまでおしゃべりを続けて、暗くなる前にと帰されたはずだ。その人はその色白で華奢な手を、見えなくなるまで振ってくれていたと思う。
翌日も、僕は公園にいった。やっぱりその日も暑い日で、道には陽炎が揺らめいていた。
そしてやっぱり公園の中は涼やかで、大変心地が良かったけれど、あの人はいなかった。
僕は少し残念な気持ちで、ベンチに腰掛けて麦茶を飲んでいた。するとまたあの抗いがたい眠気が来て目を瞬くと、そこには昨日と同様、あの美しい人がいた。
僕はたいそう驚いたけれど、その人に再び会えたことが嬉しくって、また日が暮れるまでおしゃべりに興じたのだ。
それは僕が祖父母の家に泊まっている間毎日繰り返された。とうとう家に帰る日が来て、その日も公園に行くと、やっぱり一瞬の眠気のあとにその人は居た。
「ぼく、今日おうちに帰るんだ」
「そうなの?」
その人は、少し寂しそうだったと思う。
「また来年、きっと来るよ」
「ええ、また来年。約束よ」
僕はその人と小指を絡めた。すごくどきどきしたのを良く覚えている。
そのあと、僕は毎年夏になると公園に行って、その人と話をした。
小学校に上がっても、中学校に上がっても。僕は夏にその公園を訪れ続けた。
けれど高校生のとき、祖父母が他界したのを最後に、僕はあの公園を訪れなくなった。
流石に高校生にもなると、あの人がどれだけ異質な存在かということに気づいていた。初めてあったあの日から、最後にあった高校一年の夏休みまで。あのひとは、いつも変わらずそこにいた。
初めて会ったその日から、なんら変わらない姿で。美しい姿のままで。
僕は、あの茹だるように暑い夏の日を境に、公園に足を運ぶことは無くなった。
それから何年たったろうか。おそらく十年ではきかないくらい。それだけ久しぶりに、僕はあの公園を訪ねていた。
空には入道雲が幅を利かせ、蝉の煩い、陽炎立つ夏の日だ。
何故今日訪ねる気になったのかと聞かれれば、特に理由は無い。ただ、なんとなく足を運んで見る気になっただけだ。
公園は、変わらずそこにあった。
僕は樫の大木の根元の、少し傷んだ気のするバーゴラの、ベンチに腰をかける。
子供のころはずいぶん余裕のあったベンチも、今では少し窮屈だ。樫の枝葉を揺らして、涼やかな風が舞い込んできた。
ふと、あの懐かしい感覚が襲った。あの、抗いがたい眠気だ。僕はそれにしたがって、眠りに身を任せる。
どれだけ時間がたったろう。まだ日は高く、そんなに時間はたっていないようであった。僕はゆっくり目を開ける。
向かいのベンチに、その人はいなかった。僕は、少し残念に思ったが、もしかするとこれでいいのではないか、と思い直した。
「おとうさーん」
ふと、まだ幼い声が耳朶を叩く。声のするほうへ目をやれば、一人の少女が駆けて来ていた。その少女は僕の下まで来ると、隣に腰掛けて僕を見上げてきた。
「なにしてたの?」
「人に会えるかな、とおもったんだ」
「どんなひと?」
「綺麗な人さ」
「お母さんより?」
「かも知れないな」
僕は、娘の質問に答えながら、もうあの人には会えないのだろうなと確信した。何故と言われてもわからないが、確かにそう思ったのだ。
「いこう。お母さんも待ってるんだろう?」
「あ、そうだった!」
娘はそういってはにかんだ。僕は微笑を浮かべて、娘の小さな手をとってベンチを立つ。
「……さよなら。ありがとう」
「んー?」
古びたバーゴラにそう声をかける僕を、不思議そうな目で娘が見上げる。僕はなんでもないよと娘に言うと、手をつないで暑い町へと歩き出した。
あの人がなんだったのか、それは今になってはもうわからないけれど。
初めて会った日のように、あの人が手を振ってくれているような気がして振り返ってみたけれど。
そこにはただ、夏風に揺れる樫の大木があるだけだった。




