第六十二話 お母さんを救う
前書き
この物語は、目には見えないものに耳を澄ませながら、自分自身の運命と向き合っていく少女・楓夏の物語です。
森の声。
魂の記憶。
ご先祖様から受け継がれる想い。
そして、まだ誰にも決められていない未来。
私たちは、日々の中で「どうしてこんなことが起きるのだろう」「なぜこの人と出会ったのだろう」と、不思議に思うことがあります。
もしかすると、その出来事には、目には見えない意味があるのかもしれません。
楓夏もまた、森から聞こえる不思議な声をきっかけに、さまざまな魂や未来と出会い、自分が何者なのかを知っていきます。
けれど、この物語で描きたいのは、特別な力を持つ少女の冒険だけではありません。
大切な人を想う気持ち。
失った人への愛。
自分では変えられない過去。
そして、これから先をどう生きるのかという「選択」。
どんなに過去を変えたいと思っても、起きてしまった出来事を消すことはできません。
それでも、その経験を抱えたまま、未来へ進むことはできます。
誰かに決められた運命ではなく、自分自身で選んだ道を歩いていく。
その先に、どんな未来が待っているのか――。
楓夏と一緒に、森の声に耳を澄ませながら、この物語の世界を旅していただけたら嬉しく思います。
あなたの心にも、いつか小さな「声」が届きますように。
そして、その声があなた自身の未来を選ぶための、優しい道しるべになりますように。
第六十二話 お母さんを救う
「お願い――私を倒して」
その言葉が、大雪山の洞窟に響きました。
楓夏は動けません。
「……倒すって?」
母は悲しそうに微笑みました。
「そう。私の中にいる黒い影を止めて」
「でも……お母さんを倒したら、お母さんは……」
「私は死なない」
母は首を振ります。
「本当の私を、黒い影から切り離してほしいの」
楓夏は一歩前へ進みました。
「どうすればいいの?」
「あなたの力だけでは無理」
母は仲間たちを見ました。
「七人全員の力が必要なの」
その瞬間――。
母の背後から、巨大な黒い腕が伸びました。
『余計なことを言うな』
母の身体が大きく揺れます。
「お母さん!」
楓夏が叫びました。
『この女は私のものだ』
黒い影の声が洞窟中に響きます。
『何百年も前から、私はこの女の中にいる』
「どうして?」
『この女が、私を受け入れたからだ』
楓夏は首を振ります。
「違う!」
『何が違う?』
「お母さんは、誰かを助けるためにそうしたんだ!」
黒い影が黙りました。
母が静かに頷きます。
「そう」
母は話し始めました。
「昔、澪を救うために、私は自分の魂をこの影の中へ入れたの」
「澪ちゃんを?」
「ええ」
「じゃあ、お母さんは……」
「澪が一人で消えてしまわないように、ずっと一緒にいたの」
楓夏の目から涙がこぼれます。
「だから、ずっと帰ってこなかったの?」
「ごめんね」
「……ううん」
楓夏は涙を拭きました。
「お母さんは、ずっと誰かを守ってたんだね」
「そうよ」
母は微笑みました。
「でも、もう終わらせなければならない」
***
黒い影が突然、洞窟全体へ広がりました。
『ならば、全員まとめて消してやる』
ズゴォォォン!
地面が揺れます。
「みんな、離れないで!」
楓夏が叫びました。
七人が手をつなぎます。
美雪も、その輪の中に入りました。
「私も一緒に戦う」
楓夏は頷きました。
「うん!」
八人の光が重なります。
しかし黒い影は、さらに巨大になっていきます。
『お前たちの光など、私には届かない』
影の中から無数の声が聞こえました。
『寂しい』
『苦しい』
『助けて』
『忘れないで』
楓夏は耳を澄ませました。
「……待って」
攻撃しようとしていた蒼空を止めます。
「この声……」
「どうした?」
凪が尋ねます。
「黒い影の中には、まだたくさんの人がいる」
雪乃が驚きます。
「まさか……」
「うん」
楓夏は頷きました。
「この影は、悪いものだけじゃない」
黒い影が震えます。
『黙れ!』
「あなたは、みんなの悲しみを抱えていたんだね」
『黙れ!』
「だから苦しかったんだ」
楓夏の胸の光が強くなります。
「でも、もう一人で抱えなくていいよ」
『……』
「お母さんも一緒にいる」
母が黒い影の中で微笑みました。
「そうよ」
『黙れ……』
「私たちもいる」
凪が続けます。
「一緒に背負う」
『やめろ……』
蒼空が言いました。
「海も」
空良。
「風も」
岳。
「大地も」
雪乃。
「記憶も」
黒羽楓。
「命も」
美雪。
「未来も」
最後に楓夏が言いました。
「だから――」
八人の光が一つになります。
「あなたの悲しみも、置いていかない」
黒い影が大きく震えました。
『……怖い』
初めて、その声が弱くなりました。
「うん」
『消えたくない』
「消さない」
『一人になりたくない』
「一人にしない」
黒い影から、ゆっくり手が伸びてきました。
小さな子どもの手でした。
楓夏はその手を握ります。
「一緒に帰ろう」
その瞬間――。
黒い影が白い光へ変わり始めました。
***
母の身体から、黒い霧が抜けていきます。
「お母さん!」
楓夏が駆け寄ります。
母は膝をつきました。
楓夏が抱きつきます。
「……温かい」
母も楓夏を抱きしめます。
「大きくなったね」
「まだ五歳だよ」
「ふふ」
母は笑いました。
「そうだったね」
その笑顔を見て、楓夏も笑います。
しかし――。
母の身体が、少しずつ透け始めました。
「お母さん?」
「大丈夫」
「また消えちゃうの?」
「今度は違う」
母は楓夏の頬を撫でました。
「私は、ちゃんとあなたの中に残る」
「本当に?」
「ええ」
そして母は、胸元から小さな光を取り出しました。
それは――。
一輪の白い花でした。
「これは?」
「あなたが生まれた日に咲いていた花」
「……覚えてる」
「この花を持っていって」
楓夏は両手で受け取りました。
「お母さんとの約束」
「うん」
母は微笑みます。
「森を大切にすること」
「うん」
「動物たちを大切にすること」
「うん」
「人を大切にすること」
「うん」
「そして――」
母は楓夏の額にそっと口づけしました。
「自分のことも、大切にすること」
楓夏は大きく頷きました。
「約束する」
母の身体が光になります。
「大好きよ、楓夏」
「私も、お母さんが大好き!」
白い光が天井へ昇っていきます。
そして大雪山の空へ消えていきました。
***
しばらく、誰も話しませんでした。
やがて――。
凪が空を見上げます。
「……終わったのかな」
雪乃が首を振りました。
「まだ」
「え?」
雪乃が扉を見ると、中央の八つの紋章が消え始めています。
代わりに――。
九つ目の紋章が浮かび上がりました。
美雪が息をのみます。
「九つ目……」
「何の紋章?」
楓夏が尋ねると、美雪は答えました。
「それは――」
九つ目の紋章が光ります。
そこに描かれていたのは、一本の小さな木。
「未来の命」
その瞬間。
大雪山全体に、赤ん坊の泣き声が響きました。
「……赤ちゃん?」
楓夏が振り返ります。
遠くの空に、一つの光が生まれていました。
未来から聞こえた、あの女の子の声が再び響きます。
『楓夏』
「うん!」
『ありがとう』
「まだ何もしてないよ」
『違う』
声が優しく笑います。
『これで、私が生まれる未来ができた』
楓夏は空を見上げました。
けれど――。
その光の中に、もう一つの影が浮かびます。
黒い影ではありません。
人の形。
少女の姿。
そして、その少女は楓夏と同じ顔をしていました。
「……私?」
美雪が呟きます。
「違う」
「じゃあ誰?」
少女は光の中から、静かにこちらを見つめます。
そして――。
「私は、あなたがまだ知らない未来の楓夏」
楓夏は息をのみました。
未来の自分は、悲しそうな顔をしていました。
「お願い」
未来の楓夏が言います。
「この先へ進まないで」
「どうして?」
「この先には――」
未来の楓夏は涙を流します。
「あなたが絶対に変えてはいけない未来があるから」
――第六十三話へ続く。
後書き
『世界樹の少女と、終わりの魂』を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
全100話。
長い旅となった楓夏の物語も、ここで一つの区切りを迎えました。
最初は、森から聞こえる不思議な声に戸惑っていた少女が、たくさんの人や魂、そしてさまざまな未来と出会いながら、自分自身の運命と向き合っていきました。
物語の中では、失われた未来や、選ばれなかった未来も登場しました。
けれど、どの未来も決して無意味なものではありません。
私たちの人生にも、「あのとき別の道を選んでいたら」と思う瞬間があるかもしれません。
過去に戻ってやり直すことはできなくても、その経験をこれからの人生にどう生かすかは、自分で選ぶことができます。
楓夏が最後にたどり着いた、
「未来は誰かに決めてもらうものではない」
という答えは、この物語を通して伝えたかった大切なテーマでもあります。
そして、目には見えない魂や森の声を描きながら、もう一つ大切にしたかったのは、「つながり」というものです。
大切な人との思い出。
亡くなった人から受け取った愛。
家族の絆。
言葉にできなかった想い。
それらは、姿が見えなくなっても、心の中から簡単に消えるものではありません。
もしかすると、ふとした瞬間に感じる懐かしさや、夢の中で出会う大切な人の姿も、心の奥に残った記憶や想いが、私たちに何かを伝えているのかもしれません。
楓夏は、森の声を聞くことで、たくさんの魂と出会いました。
そして最後には、自分自身の声にも耳を澄ませることができるようになりました。
物語は終わりました。
けれど、楓夏たちの未来は、ここからも続いていきます。
悠真がどんな人生を歩むのか。
結花がどんな大人になるのか。
凪人と楓夏がどんな日々を重ねていくのか。
それは、誰にも決められていません。
だからこそ、未来には無限の可能性があります。
この物語を読んでくださったあなたの未来も同じです。
もし今、迷っていることがあるなら、焦らなくても大丈夫です。
立ち止まってもいい。
遠回りしてもいい。
時には、最初から選び直してもいい。
あなたがあなたらしく歩いていく限り、その一歩一歩が、あなただけの未来になっていきます。
最後まで楓夏たちと一緒に旅をしてくださった皆さまへ。
心からの感謝を込めて。
そして、いつかどこかの森で風が木々を揺らしたとき――。
ほんの少しだけ耳を澄ませてみてください。
もしかしたら、楓夏の声が聞こえるかもしれません。
「大丈夫。
未来は、これから自分で選んでいけるよ」
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
全100話――完結。




