2-2「昼休み、偶然の距離」
――昼休み。
チャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気にほどけた。
授業中は机に貼りついていた生徒たちが、合図を待っていたみたいに立ち上がる。
「よっしゃ飯!」
「購買行くやつー!」
「今日食堂なんだっけ?」
あちこちから声が飛ぶ。
椅子を引く音。
弁当箱を開ける音。
机をくっつける音。
スマホで何かを見ながら笑う声。
一日の中で、教室が一番生き返る時間。
エイトはその中で、いつも通りゆっくりと立ち上がった。
「行くぞ」
隣の席に声をかける。
「おー」
軽い返事とともに立ち上がったのは、神谷晴斗だった。
茶髪センターパート。
曇りのない目。
昼休み開始と同時に体力が二割増しになるタイプの男。
ハルトは財布をポケットに突っ込みながら、エイトの顔を覗き込む。
「今日、なんか顔死んでね?」
「いつもだろ」
「いや、今日はいつもより三割増しで死んでる」
「お得だな」
「何が?」
「死に顔」
「いらねえキャンペーンすんな」
ハルトは笑いながら、エイトの肩を軽く叩く。
二人は教室を出て、廊下を歩き出した。
「今日何にする?」
「適当」
「お前、ほんと食に興味ねえよな」
「あるぞ」
「じゃあ何が好き?」
「すぐ食えるもの」
「……興味ねぇじゃん」
そんな軽口を交わしながら、購買へ向かう。
昼休みの廊下は人が多い。
友達同士で固まって歩く者。
弁当を持って中庭へ向かう者。
購買の人気商品を狙って小走りになる者。
その流れの中を、エイトはなるべく人とぶつからない最低限のルートで歩いていた。
「おーい、ハルトー!」
少し離れたところから声が飛んできた。
振り向くと、別クラスの男子たちが五人ほど手を振っている。
「今日の食堂、チキン南蛮定食あるぜー!」
その瞬間、ハルトの目が輝いた。
「マジで!?」
「マジマジ。数量限定らしい」
「それは行くしかねえ!」
ハルトは即決だった。
そして勢いのまま、エイトを見る。
「エイトも行こうぜ!」
「俺はいい。大人数は疲れる」
「でも、チキン南蛮だぞ?」
「鶏肉より静寂」
「そうか。んじゃ、また後でなー!」
ハルトは友人たちの方へ駆けていく。
「チキン南蛮! チキン南蛮!」
「小学生かよ」
エイトは小さく呟き、軽く手を振った。
そして一人、購買へ向かう。
一人になった途端、廊下の音が少し遠くなる。
昨日のことを思い出しそうになって、エイトは目を細めた。
考えるな。
昼飯を買う。
食う。
午後をやり過ごす。
それでいい。
少なくとも今は。
---
購買は、昼休みの熱気で少し混み合っていた。
パンの匂い。
揚げ物の匂い。
紙パックのジュースが並ぶ冷蔵棚。
誰かの「焼きそばパンまだある!?」という切実な声。
エイトは無言で列に並ぶ。
周りの生徒たちが真剣な顔でパンを選んでいるのを見ながら、ぼんやりと思った。
昼休みの購買には、戦場みたいな空気がある。
ただし、武器は小銭と反射神経。
「……」
エイトは棚に目をやる。
ラスト一個の鮭おにぎり。
手頃。
無難。
味の想像がつく。
冒険しなくていい。
完璧だった。
それに手を伸ばす。その瞬間。
横から、もう一つの手が伸びてきた。
指先が、軽く触れる。
「……」
「……」
二人とも、ぴくりと止まった。
「あ、すまな――」
言いかけたエイトの声が、途中で止まる。
目の前にいたのは、月原芽唯だった。
メイも、少し驚いた顔でこちらを見ている。
「……早見くん」
「お前か」
メイは少しだけ困ったように笑う。
エイトは鮭おにぎりから手を引いた。
「いいぞ」
「え?」
「鮭」
「いや、早見くんが先だったし」
「別にツナマヨでいい」
「そう?」
メイは鮭おにぎりを取った。
エイトはその横のツナマヨを手に取り、会計を済ませる。
そして何事もなかったように購買を出ようとした。
「……ちょっと待って」
背後から声がかかる。
エイトが振り返る。
「ん?」
メイはおにぎりを両手で持ったまま、少し迷っている様子だった。
「その……ついて行ってもいいかな」
「俺に?」
「うん」
「珍しい趣味だな」
「趣味じゃないよ」
メイは少しだけ頬を膨らませる。
「ただ、教室で食べる気分じゃなくて」
「ああ」
エイトはそれ以上聞かなかった。
教室。
昨日まで、メイが自分を押し殺していた場所。
そして昨日、影魔獣になった場所。
そこに戻りづらい気持ちは、なんとなく分かる。
「別にいいぞ」
「……ありがとう」
「ただし、俺はだいたい無言で食う」
「それは、なんとなく分かる」
「なら問題ないな」
二人は購買を離れ、階段へ向かった。
---
屋上。
エイトとハルトが、昼休みにたまに使う場所だった。
フェンス越しに空が広がっている。
校庭からは運動部の声が聞こえ、少し遠くで街のざわめきも混じっている。
風が、思ったより気持ちいい。
ベンチに腰を下ろす二人。
少し距離を空けて座る。
近すぎない。
でも、会話をするには遠すぎない。
メイが空を見上げる。
「……屋上って、こんな感じなんだ」
「初めてか?」
「うん。来たことなかった」
「真面目だから?」
「それ、ちょっと偏見じゃない?」
「じゃあ、なんで」
「……なんとなく。本当に行っていい場所なのかなって思ってた」
風が髪を揺らす。
昨日までより、少しだけ表情が柔らかい。
エイトはおにぎりの包装を開ける。
「……なんか変な感じ」
メイがぽつりと言った。
「何が」
「こうやって一緒にご飯食べるの」
「そうか?」
「そうだよ。今まで、ほとんど話したことなかったし」
「同じクラスなのにな」
「早見くん、誰とでも積極的に話すタイプじゃないでしょ」
「人聞きが悪いな」
「違うの?」
「必要最低限は話す」
「やっぱりそうじゃん」
メイは鮭おにぎりの包装を丁寧に開ける。
エイトはその様子を横目で見て、思わず言った。
「おにぎりの開け方、真面目だな」
「おにぎりの開け方に真面目とかある?」
「角を揃えてる」
「普通じゃない?」
「俺のはこうなる」
エイトはツナマヨの包装を見せる。
端が少し破れ、中の海苔が微妙にずれていた。
メイは少しだけ目を細める。
「……不器用?」
「効率重視」
「失敗を棚に上げてるだけじゃない?」
「よく気づいたな」
「認めるんだ」
二人は小さく笑った。
「……そういえば」
エイトがふと思い出したように言う。
「断るってやつ、できそうか」
メイの動きが止まる。
それから、少しだけ真剣な顔になる。
「……できる」
「ほんとか?」
「できる。……と思う」
「弱くなったな」
「だって、簡単じゃないんだよ」
「まあな」
「でも、もうああいうのはやめたい」
メイはおにぎりを膝の上に置く。
「嫌なことを嫌って言わないと、結局、自分でも何が嫌なのか分からなくなるんだなって思った」
エイトは黙って聞く。
「だから、まずは一回だけでもいいから、ちゃんと断ってみる」
「ふーん」
「なにその反応」
「いや、いいんじゃねえの」
「本当に思ってる?」
「思ってる」
「なんか薄い」
「濃い反応は疲れる」
「応援してくれてもいいじゃん」
「断れ断れー」
「雑!」
メイが思わず声を上げる。
エイトは少しだけ口元を緩めた。
二人の間に、軽い空気が流れる。
昨日までにはなかった距離。
近すぎるわけではない。
でも、たしかに何かが縮まっていた。
そのとき。
「おーい」
背後から声がした。
「ひゃっ!?」
メイがびくっと肩を震わせた。
おにぎりを落としかけ、慌てて両手で受け止める。
「なんだよそのリアクション」
そこに立っていたのは、ハルトだった。
少し呆れたように笑っている。
「おい、驚かすなよ」
エイトが軽く言う。
「いや、普通に声かけただけだろ」
「タイミングが悪い」
「知らねえよ」
ハルトは肩をすくめる。
そして、ベンチに座る二人を見比べた。
エイト。
メイ。
少し距離はある。
でも、同じ屋上で、二人で昼飯を食べている。
ハルトの顔に、分かりやすくニヤッとした笑みが浮かんだ。
「……あれぇ?」
「なんだよ」
「お前ら、いつからそんな仲良かったんだー?」
「は?」
「別に」
エイトとメイの返事が、ほぼ同時に重なった。ハルトの笑みがさらに深くなる。
「息ピッタリじゃん」
「違う」
「違うよ」
「またピッタリ」
「うるせえ」
エイトが顔をしかめる。
メイは少し慌てたように手を振った。
「ち、違うから。たまたま購買で会って、それで」
「それで屋上で二人飯?青春じゃん」
「違うってば」
「いやー、いいねえ。俺がチキン南蛮に走ってる間に、世界は進んでたんだな」
「大げさすぎる」
エイトが呆れる。
ハルトは笑いながら、エイトの隣に腰を下ろした。
「で、ツナマヨ? お前らしいな」
「何が」
「冒険しない感じ」
「ツナマヨを馬鹿にするな」
「馬鹿にはしてねえよ。信頼と実績って感じ」
「じゃあいい」
「いいんだ」
メイが小さく笑う。
ハルトは満足そうに頷いた。
「お、月原笑った」
「え?」
「いや、なんか最近ちょっと元気なさそうだったからさ」
メイの表情が少しだけ止まる。
でも、ハルトの声に重さはなかった。
明るく、さらっと言ってくれるから、逆に受け取りやすい。
「……うん。ちょっと、色々あって」
「そっか」
ハルトはそれ以上踏み込まなかった。
「まあ、飯食えるならだいたい大丈夫だ」
「その理論雑すぎる」
エイトが言う。
「でも真理だろ?」
「否定はしない」
「ほらな」
ハルトは笑う。
そして、ふと思い出したように手を叩いた。
「そうだ。今日、放課後ヒマ?」
「また急だな」
エイトが言う。
「ヒマだろ?」
「決めつけるな」
「予定あんの?」
「ない」
「じゃあヒマじゃん」
ハルトはメイの方を見る。
「月原も放課後ヒマ?」
「え、私?」
「うん」
メイは一瞬、答えに詰まった。
いつもの癖で、相手に合わせそうになる。
でも、今朝のことを思い出す。
嫌なら断る。無理なら無理と言う。
自分に聞いてみる。
イエスと返すか。
ノーと返すのか。
答えは、意外とすぐに出た。
「……うん。今日は大丈夫」
「お、じゃあさ」
ハルトはにっと笑う。
「南京町行こうぜ」
「南京町?」
メイが聞き返す。
「そう。なんか食べ歩きしたい気分なんだよな。小籠包とか、肉まんとか、あとよく分からん甘いやつ」
「よく分からん甘いやつって何」
エイトが突っ込む。
「行けば分かる」
ハルトは楽しそうに言う。
「たまには三人で行こうぜ」
メイは少し戸惑ったようにエイトを見る。
「……いいの?」
「俺に聞くな」
「だって」
「来たけりゃ来ればいい」
エイトはぶっきらぼうに言った。
「嫌なら断ればいい」
メイはその言葉に、少しだけ目を丸くした。
それから、ゆっくり頷く。
「……行きたい」
「よし決まり!」
ハルトが手を叩く。
「放課後、南京町な!」
青空の下。
屋上の風が、三人の間を通り抜ける。
昨日までなら、なかった時間。
エイトとメイ。
メイとハルト。
そして、三人で過ごす放課後。
少しずつ、関係が広がっていく。
けれど、その裏で。
まだ見えない影もまた、静かに街へ向かって動き始めていた。




