2-1「朝焼けの共有」
――朝。
校舎はまだ、完全には目を覚ましていなかった。
廊下に響く足音はまばらで、教室の窓から差し込む光も、昼間ほど強くない。
昨日の夕焼けとは違う、薄くて柔らかい光。
三年二組の教室にも、まだ誰もいない。
机は整然と並んでいる。
黒板には、昨日の授業の跡がうっすら残っている。
窓際のカーテンが、朝の空気に少しだけ揺れていた。
その中に、一人。
早見影都は、自分の席に座っていた。
「……」
頬杖をつき、ぼんやりと前を見ている。
机の上には、教科書もノートも出ていない。
鞄も、足元に置いたまま。
ただ、頭の中だけがずっと騒がしかった。
――影。
――怪物。
――月原の声。
――自分の手から放たれた黒い弾。
――影魔封。
――白いローブの男。
ルキ。
「……なんだったんだよ、あれ」
小さく呟く。
当然、答えは返ってこない。
昨日、家に帰ってからも眠れなかった。
布団には入った。
目も閉じた。
寝ようとした。
でも、瞼の裏に何度もあの教室が浮かんだ。
夕焼けに染まった床。
うねる黒いツタ。
食虫植物みたいに裂けた口。
そして、足元に影のない男。
眠れるわけがなかった。
いつもなら、エイトは遅刻ギリギリに教室へ滑り込む。
ハルトに「今日もギリギリすぎ」と笑われて、適当に返す。
それが今日は、始業の一時間前。
自分でも意味が分からない。
そのとき。
――ガラッ。
教室のドアが開いた。
エイトは反射的に顔を上げる。
そこに立っていたのは、月原芽唯だった。
「……」
「……」
メイもまた、こちらを見て固まった。
いつものように整った制服。
少し茶色がかった黒髪。
小柄で、真面目そうな雰囲気。
けれど、目元にはうっすら疲れが残っている。
たぶん、彼女も眠れていない。
「「あ……」」
声が、同時に重なった。
その瞬間、二人とも少しだけ気まずそうに目を逸らす。
誰もいない朝の教室。
昨日、怪物になった少女。
昨日、その少女を助けた少年。
改めて向かい合うには、なかなか気まずい組み合わせだった。
メイは、鞄を胸の前でぎゅっと握る。
「あの……」
エイトも同時に口を開いた。
「「昨日――」」
「「……」」
また重なった。
メイが少しだけ困ったように笑う。
「……先、どうぞ」
「いや、そっちでいい」
「でも、早見くんが」
「こういうのは真面目な方が先に言った方がいいだろ」
「何その雑な譲り方」
メイは一瞬きょとんとして、それからほんの少しだけ笑った。
昨日の夜のことを考えれば、笑えるだけで十分だった。
メイはゆっくりと教室に入り、エイトから少し離れた席に座った。
近すぎない。でも、遠くもない。
そんな距離。
「……あれ、なんだったんだろう」
メイがぽつりと言った。
その声には、まだ少し震えが残っている。
エイトは頬杖を解いた。
「俺にも分からない」
正直に答える。
「でも、覚えてるんだな」
「全部じゃないよ」
メイは自分の手を見つめる。
「断片的に、だけど」
「断片?」
「黒いところにいた感じがするの。苦しくて、暗くて……声が遠くて」
メイは少しだけ眉を寄せる。
「あと、誰かが呼んでくれた」
エイトは黙る。
メイがこちらを見る。
「戻ってこいって」
「……」
「早見くん?」
エイトは少し目を逸らした。
「気のせいじゃねえの」
「昨日もそれ言ってた」
メイは小さく息を吐く。
呆れたような、でも少し安心したような顔だった。
「……でも、夢じゃないんだよね」
「たぶんな」
「たぶん?」
「確定って言えるほど、俺も正気に自信がない」
「それ、ちょっと怖いんだけど」
「俺も怖い」
「そこは否定してよ」
「無理なものは無理だろ」
エイトの返事に、メイは思わず小さく笑った。それから、また表情を引き締める。
「どうして私、あんな風になったんだろう」
「何か心当たりはないのか」
「心当たり……」
メイは考え込む。
昨日の教室。
一昨日の放課後。
夕焼けの廊下。
耳元の声。
「……あ」
何かを思い出したように、顔を上げる。
「そういえば、一昨日の放課後」
「うん」
「廊下に、変な人がいた」
エイトの目が少し細くなる。
「変な人?」
「白いローブを着てて、フードで顔が見えなくて……」
その言葉だけで、エイトの中で点が繋がった。
「……そいつ、足音しなかったか?」
メイが驚いたように目を開く。
「そう。気づいたら近くにいて」
「何か言われた?」
「君のような“器”を探していたよ、って」
「器……」
エイトは低く呟く。
嫌な言葉だった。
人を人として見ていない。
何かを入れるための容れ物みたいに扱っている。
ルキが言いそうな言葉だと思った。
「あと」
メイは少し言いにくそうに続ける。
「耳元で、変なことを」
「変なこと?」
「……うしろのしょうめんだ〜あれ、って」
教室の空気が、一瞬だけ冷えた気がした。
エイトは無言になる。
昨日、影魔獣になったメイ。
その前に接触した白いローブの男。
呪いのような言葉。
もう、偶然では片づけられない。
「やっぱり、アイツか」
「アイツ?」
「ルキ」
エイトは言った。
「昨日、あの後会った。白いローブの男だ」
「……ルキ」
メイは、その名前を小さく繰り返す。
名前を口にしただけで、空気に薄い影が落ちるような感じがした。
「そいつが、そう名乗った」
エイトは続ける。
「昨日の月原を、“傑作”って言ってた」
「……傑作?」
メイの表情が変わった。
昨日までなら、たぶん困ったように笑って飲み込んでいた。
でも今は違う。
不快感が、ちゃんと顔に出ている。
「……なにそれ」
低い声。
「最悪」
その一言に、エイトは少しだけ目を動かした。
昨日までのメイなら、たぶん言わなかった言葉だ。
誰かを悪く言うことも、怒りを表に出すことも、避けていた。
けれど今の声には、ちゃんとメイ自身の感情が乗っていた。
「……いいんじゃねえの」
「え?」
「今の」
「今の?」
「最悪ってやつ」
メイは少しだけ目を丸くした。
エイトは頬杖をつく。
「昨日までのお前なら、たぶん“何か事情があるのかも”とか言ってそうだし」
「……言いそう」
自分でも思い当たったのか、メイは小さく苦笑した。
それから、視線を落とす。
「でも、昨日のことがあって……少し分かった気がする」
「何が」
「私、“いい子”って履き違えてた」
朝の光が、メイの横顔を照らしている。
その声はまだ小さい。
けれど、昨日までのように押し殺した声ではなかった。
「頼まれたら断らないこと。嫌でも笑うこと。自分が我慢すれば丸く収まるって思うこと」
メイは膝の上で手を握る。
「でも、それは優しさじゃなかった」
「……」
「ただ、自分の気持ちを後回しにしてただけだった」
エイトは黙って聞いていた。
茶化すことも、励ますこともしない。
ただ、聞いている。
それが今のメイには、ありがたかった。
「課題を押しつけられても断らないことも」
メイは続ける。
「本当は、誰のためにもなってなかったんだと思う」
「そうだな」
エイトは短く言った。
メイが顔を上げる。
「だから、これからはちゃんと断る」
はっきりとした声だった。
まだ少し不安そうだけど、それでも前を向いている。
「嫌なことは、嫌って言う」
「……」
「できないことは、できないって言う」
「……お前…」
エイトが徐に口を開く。
「そんな事も分からなかったのか」
「ハ…ハァ〜??!」
メイが即座に反応した。
朝の静かな教室に、その声がやけに響く。
「し…仕方ないでしょ!私にはそれがいけない事だと思ってた訳で……」
「まあ、そうだな」
「なんか腹立つ……」
メイは頬を膨らませる。
エイトはそれを見て、ふっと息を吐いた。
笑った、というには小さい。
でも、確かに表情が緩んだ。
「……まあ」
「なに」
「元気になったみたいで、よかった」
メイの動きが止まった。
「……え」
エイトは視線を窓の方へ逸らす。
「最近、ずっと暗い顔してたから」
「……見てたの?」
「見えてただけ」
「それ、どう違うの」
「見る気があったかどうか」
「早見くんって、ほんと一言余計だよね」
「ああ、よく言われる。直す気は無い」
「なにそれ」
メイはそう言って、少しだけ笑った。
今度は、ちゃんと自然な笑顔だった。
それを見て、エイトはほんの少しだけ肩の力を抜く。
昨日、影の中で泣いていた少女とは違う。
完全に平気になったわけではない。
きっとまだ怖い。
傷も残っている。
でも、戻ってきた。
それだけは分かった。
「……ありがと」
メイが小さく言った。
「何が」
「色々」
「便利な言葉だな」
「早見くんの“気のせい”よりはマシ」
「否定はしない」
二人の間に、少しだけ穏やかな沈黙が落ちる。
教室には、朝の光が差し込んでいた。
昨日の夕焼けとは違う。
何かが終わった後の光ではなく、何かが始まる前の光。
メイはふと、床を見る。
自分の影がある。
そして、その少し先に、エイトの影もある。
二人分の影が、朝焼けの教室に静かに並んでいた。
昨日までは、ただのクラスメイトだった。
でも今は。
同じ異常を見た。
同じ名前を知った。
同じ影の中に、一度だけ触れた。
「……ねえ、早見くん」
「何」
「このこと、誰かに言う?」
エイトは少し考えた。
先生。
警察。
ハルト。
ノブ爺。
どれも、頭には浮かぶ。
でも、昨日の教室が全部元通りになっていたことを思い出す。
証拠はない。説明もできない。
たぶん、信じてもらえない。
「……今は、やめといた方がいいだろ」
「だよね」
「俺も、自分で聞いてて頭おかしいと思う」
「私も」
メイは苦笑する。
「でも」
エイトは自分の影を見る。
「ルキってやつは、また何かする」
その声は、いつもより少し低かった。
メイも頷く。
「うん」
「だから、何か思い出したら教えてくれ」
「早見くんもね」
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
朝の教室が、少しずついつもの騒がしさを取り戻していく。
メイは自分の席へ戻ろうとして、ふと立ち止まった。
「早見くん」
「ん」
「私、今日ちゃんと断ってみる」
エイトは頬杖をついたまま答える。
「噛むなよ」
「応援の仕方下手すぎない?」
「じゃあ、頑張れ」
「急に普通」
「文句多いな」
メイは呆れたように笑う。
「……でも、ありがと」
エイトは小さく手を振る。
「おう」
その直後。
廊下から、聞き慣れた明るい声が響いた。
教室の扉が勢いよく開く。
「おっはよーーう!!
ってあれっ…エイト早くね!?」
神谷晴斗が、教室の入口で目を丸くしていた。
「え、なに? 今日、世界終わる?」
「俺をなんだと思ってんだ。アホ」
エイトは即答する。
メイが横で小さく笑う。
いつもの教室が、少しずつ戻ってくる。
けれど、昨日までとは違う。
エイトとメイだけが知っている出来事。
もう、普通では説明できないものが潜んでいることを。
そして、白いローブの男――ルキが。
どこかでまた、誰かの影を見つめていることを。




