1-7「影のない男」
教室は、静まり返っていた。
さっきまでの破壊が、嘘みたいだった。
吹き飛んだはずの机は、元の列に戻っている。
砕けたはずの椅子も、何事もなかったように並んでいる。
黒く侵食された床も、溶けた壁も、ひび割れた窓も。
全部、元通りだった。
夕焼けだけが、変わらず教室に差し込んでいる。
赤い光が、机の影を長く伸ばしていた。
「……」
早見影都は、その場に立ち尽くしていた。
右手を見下ろす。
さっき、そこから黒い弾が出た。
影が集まって、形になって、怪物を撃ち抜いた。
確かにそうだった。
なのに今、その手には何もない。
傷もない。
黒い痕もない。
熱も、痛みもない。
ただ、少しだけ指先が冷えている気がした。
「……夢、じゃねえよな」
呟いた声は、夕焼けの教室に小さく消えた。
夢だった。
そう思えたら、どれだけ楽だっただろう。
でも、床には月原芽唯が倒れている。
「……おい」
エイトはしゃがみ込む。
メイは教室の床に横たわっていた。
制服は乱れているが、怪我らしい怪我は見当たらない。
顔色は悪い。
けれど、胸は小さく上下している。
生きている。
その事実に、エイトは自分でも気づかないくらい浅く息を吐いた。
「月原」
肩を軽く揺する。
「起きろ」
「……ん……」
小さな声。
メイのまつ毛が震え、ゆっくりと瞼が開いた。
ぼんやりとした瞳が、天井を見上げる。
「……あれ……?」
状況が分かっていない顔だった。
当然だ。
分かっていたら、むしろ困る。
メイはゆっくりと身体を起こそうとして、途中でふらついた。
エイトは一瞬だけ手を伸ばしかける。
けれど、触れていいのか分からず、その手は宙で止まった。
「……私、なんで……」
メイは周囲を見回した。
いつもの教室。
夕焼け。
机。
椅子。
黒板。
壊れた痕跡は、どこにもない。
「……寝てた?」
「たぶん」
エイトは短く答えた。
嘘ではない。
たぶん、という言葉の便利さに、今だけ少し感謝した。
「そっか……」
メイは小さく頷いた。
けれど、その顔は納得していなかった。
何か大事なことを忘れている。
でも思い出そうとすると、胸の奥がざわつく。
そんな表情だった。
「……ごめん」
メイがぽつりと言った。
「なんか……迷惑かけた気がする」
「……」
エイトは一瞬、言葉に詰まる。
迷惑。
たしかに、机は吹き飛んだ。
ツタは飛んできた。
酸みたいなものも吐かれた。
命の危険もあった。
普通に考えれば、だいぶ迷惑だ。
でも。
エイトは視線を少し逸らした。
「気のせいだろ」
ぶっきらぼうに言う。
メイが顔を上げる。
「……そう、かな」
「そういうことにしとけ」
「……うん」
メイは小さく笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
その目元には、まだ泣いたあとの赤みが残っている。
エイトはそれを見て、さっき影の中から聞こえた声を思い出した。
――タスケテ。
――イラナイコ。
喉の奥に、何かが引っかかる。
でも、うまい言葉は出てこない。
だから、代わりに言った。
「立てるか」
「……うん」
メイは机に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
だが、足元がふらつく。
「おっと」
エイトは今度こそ手を伸ばした。
メイの腕を支えようとして――
寸前で、少しだけ止まる。
そして、乱暴にならない程度に、机の方を指さした。
「そこ掴め」
「……あ、うん」
メイは机に手を置き、体勢を立て直す。
少し距離のある優しさ。
エイトらしいと言えば、たぶんそうだった。
「無理すんなよ」
「……ありがとう」
その言葉に、エイトは少しだけ目を逸らす。
「別に」
沈黙が落ちる。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
さっきまで教室を満たしていた黒い圧は、もうない。
ただ、何かが変わってしまった空気だけが残っている。
メイは自分の手を見つめていた。
「……私、変な夢を見た気がする」
エイトの目が少し動く。
「どんな」
「分からない。黒くて、苦しくて……でも」
メイは胸元を押さえる。
「誰かが、呼んでくれた気がする」
「……」
「戻ってこいって」
エイトは黙っていた。
言うべきことが見つからなかった。
メイは顔を上げる。
「早見くん?」
「……気のせいだろ」
「また?」
「便利なんだよ、その言葉」
メイは、少しだけ笑った。
今度は本当に、少しだけ。
「そっか」
「そういうことにしとけ」
エイトはロッカーへ向かい、置きっぱなしにしていた教科書を鞄に入れた。
それを取りに来ただけだった。
本当に、ただそれだけだったはずなのに。
「じゃ、先帰るわ」
「あ……うん」
エイトは教室の扉へ向かう。
その背中を、メイは少しだけ見つめていた。
「早見くん」
呼び止められ、エイトは振り返る。
「……ありがと」
何に対してのありがとうなのか。
たぶん、メイ自身にも分かっていない。
エイトは少しだけ間を置いてから、短く答えた。
「……寝落ちの見守り代、今度なんか奢れ」
「えっ」
「冗談」
「冗談に聞こえなかったよ」
「半分本気だからな」
メイは、ほんの少しだけ困ったように笑った。
その顔を見て、エイトは小さく息を吐く。
少なくとも、今は大丈夫そうだ。
「じゃあな」
「うん」
エイトは教室を出た。
扉が閉まる直前、メイはもう一度、自分の足元を見た。
夕焼けに伸びる、自分の影。
それはいつも通り、静かにそこにあった。
けれどメイには、なぜか少しだけ、怖く見えた。
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廊下は、赤く染まっていた。
夕焼けが窓から差し込み、床に長い影を落としている。
エイトは一人、廊下を歩いていた。
「……なんなんだよ」
ぽつりと呟く。
今日一日の出来事を思い返す。
月原の様子がおかしかった。
教室で怪物になった。
自分の影が動いた。
黒い弾が出た。
知らない言葉が、頭に浮かんだ。
影魔封。
「……意味わかんねえ」
エイトは右手を握ったり開いたりする。
もう何も出ない。
出そうとも思わない。
でも、完全に消えた感じもしない。
何かが身体の奥に残っている。
ずっと前からそこにあったものに、今日初めて気づいてしまったような感覚。
気持ち悪い。
そして、少しだけ懐かしい。
「……は?」
自分の感覚に、自分で眉をひそめる。
懐かしいってなんだ。
そのときだった。
「――素晴らしい」
背後から、声がした。
エイトの足が止まる。
ゆっくり振り返る。
そこに、男が立っていた。
白いローブ。
深く被ったフード。
顔は見えない。
見えるのは、口元だけ。
薄く、楽しげに笑っている。
「……誰だ、お前」
エイトの声が低くなる。
男は答えない。
ただ、拍手でもするように、ゆっくりと両手を合わせた。
ぱち。
ぱち。
音は妙に乾いて、静かな廊下に響いた。
「見事だったよ」
男は言う。
「まさか、あの子を壊さずに戻すとは思わなかった」
「……」
エイトの目が細くなる。
「あの子?」
「月原芽唯」
男は当然のように名前を口にした。
「とても良い影だった。優しくて、脆くて、よく育っていた」
その言い方に、エイトの中で何かが冷えた。
「お前」
一歩、前に出る。
「月原に何かしたのか」
男はくすりと笑った。
「何か、というほど大げさなことはしていないよ」
「……」
「ただ、少しだけ背中を押しただけさ」
エイトの足元の影が、わずかに揺れた。
本人も気づかないほど小さく。
「ふざけんな」
低い声だった。
自分でも驚くくらい、はっきり怒っていた。
男は、それを見て嬉しそうに口元を緩める。
「いい反応だ」
「質問に答えろ。あれは何だ」
「影魔獣」
男はあっさりと言った。
「人の内側にある影が、形を持ったものだよ」
「影……?」
「負の感情。傷。欠落。見ないふりをしてきた本音」
白いローブの男は、ゆっくりと歩き出す。
足音はしない。
「人はみんな、影を持っている。けれど大抵は、それを隠して生きている」
一歩。
「笑顔の下に押し込めて」
一歩。
「優しさの名前で誤魔化して」
一歩。
「“いい子”のまま、少しずつ壊れていく」
エイトは動かない。
動けないのではない。
相手から目を逸らしたら、その瞬間に何かを見落とす気がした。
「月原をああしたのは、お前か」
「彼女の影は、彼女自身のものだよ」
男は微笑む。
「僕はただ、それに名前を与えた」
「言い方変えただけだろ」
「そうかもしれないね」
悪びれない。焦りもしない。
まるで、人を怪物にしたことすら、研究の一部でしかないみたいだった。
「お前、何者だ」
エイトが問う。
男は少しだけ首を傾げる。
「その前に、僕も聞きたいな」
白いフードの奥。
見えないはずの視線が、エイトを射抜く。
「君は、一体どうやって僕の影魔獣を浄化したんだい?」
「知るか」
「知らない?」
「こっちが聞きたいくらいだ」
エイトは右手を見下ろす。
「なんか出た。なんか撃った。なんか封じた。以上」
「……ふ」
男が小さく笑う。
「ひどい説明だ」
「俺もそう思う」
「けれど、面白い」
男は一歩近づく。
エイトは半歩も下がらなかった。
「名前は」
エイトが言う。
「お前の名前」
男は少しだけ間を置いた。
そして、静かに名乗る。
「僕は、ルキ」
その名は、夕焼けの廊下に妙に澄んで響いた。
「ただの人間さ」
「ただの人間?…人を怪物にさせておいてよく言えたな」
「君はそれを人に戻したじゃないか。同じようなもんさ」
「一緒にすんな」
「そう?」
ルキは楽しげに笑う。
「君と僕は、案外近いかもしれないよ」
「……気色悪いこと言うな」
「ひどいな」
軽いやり取り。
けれど、空気は少しも軽くならない。
エイトは、目の前の男から妙な感覚を覚えていた。
嫌悪。
警戒。
不快感。
それなのに、どこか。
見たことがあるような。知っているような。
そんな、説明のつかない違和感。
ルキが一歩、近づく。
「君のことも、少し見せてもらおうかな」
「……何を」
「影を」
ルキの口元が、薄く笑う。
その瞬間、エイトは胸の奥を覗かれたような感覚に襲われた。
ぞわり、と背筋が冷える。
何かが、足元から這い上がってくる。
記憶でもない。
感情でもない。
でも、自分の内側にあるものを、勝手に指でなぞられているような気持ち悪さ。
「……っ」
エイトは思わず一歩踏み込んだ。
「やめろ」
ルキの笑みが深くなる。
「へぇ」
その声は、感心したようでもあり、愉快そうでもあった。
「エイトっていうんだ」
「……!」
エイトの目が見開かれる。
名乗っていない。
誰にも言っていない。
それなのに。
「なんで、俺の名前を……」
「影には残るんだよ」
ルキは静かに言った。
「名前も。記憶も。感情も。その人がその人であるための、輪郭みたいなものが」
「……何言ってんだ」
「まだ分からなくていい」
ルキは後ろへ下がる。
その動きには、戦う気配がなかった。
いや。
戦う必要がない、と言っているようだった。
「今日は十分な収穫があった」
「待て」
エイトは一歩踏み出す。
「逃げんのか」
「逃げる?」
ルキは少しだけ笑う。
「違うよ。今日は挨拶をしに来ただけだ」
「最悪の挨拶だな」
「ふふ」
ルキはゆっくりと踵を返す。
そのとき、エイトは気づいた。
夕焼けは、廊下の床に長い影を伸ばしている。
窓枠の影。
ロッカーの影。
エイト自身の影。
なのに。
ルキの足元にだけ、影がない。
「……お前」
エイトが低く呟く。
「影が……」
ルキは足を止めた。
振り返らない。
ただ、口元だけがわずかに笑う。
「よく見ているね」
その声に、初めてほんの少しだけ感情が混じった。
「またどこかで会おう、エイト」
「おい!」
エイトが走り出そうとした瞬間。
ルキの姿が、すっと夕焼けの中に溶けた。
消えた。
足音もなく。
影も残さず。
まるで最初からそこにいなかったみたいに。
「……は?」
エイトは廊下の真ん中で立ち尽くした。
さっきまでルキがいた場所を見る。
何もない。
ただ、赤い光が床を染めているだけ。
「……なんなんだよ」
同じ言葉が、もう一度こぼれる。
けれど、意味はさっきより重かった。
影魔獣。
ルキと名乗る男。
そして、自分の中から出た、黒い力。
一つも分からない。
分からないことだらけだ。
でも、分かってしまったこともある。
これは、ただの怪異じゃない。
自分とは無関係の事件でもない。
「……面倒くさいことになったな」
ぽつりと呟く。
夕焼けの廊下に、エイトの影だけが長く伸びている。
黒く、細く、当たり前みたいにそこにある。
その影が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
---Chapter 1「目覚める影」 THE END---
To be continued...




