1-5「壊れる音がした」
――夕焼けは、まだ校舎に残っていた。
けれど、それはもう昼と夜のあいだの優しい色ではなかった。
廊下の床を赤く染める光は、どこか血のように濃く見える。
誰もいないはずの校舎は、しんと静まり返っていた。
さっきまで、たしかに人がいた。
笑い声も、足音も、机を引く音もあった。
それなのに今は、その名残だけが壁に貼りついているみたいだった。
「……めんどくせえ」
早見影都は、誰に言うでもなく呟いた。
教科書を忘れた。
取りに戻る。
ただそれだけだ。
ただそれだけのはずなのに、どうにも足取りが重い。
静かすぎるせいか。
夕方だからか。
それとも――
「……なんか、嫌な感じすんな」
自分でも理由は分からない。
廊下を歩くたび、靴音がやけに響く。
一歩。
また一歩。
自分だけが、この校舎に取り残されたみたいだった。
やがて、三年二組の教室が見えてくる。
ドアは半開きだった。
「……?」
エイトは眉をひそめる。
さっき出るとき、閉まっていた気がする。
いや、気のせいかもしれない。
どちらでもよかった。
エイトはドアに手をかけ、軽く押す。
――ギィ。
鈍く、嫌な音がした。
その音が、妙に長く耳に残る。
教室の中に、夕焼けが差し込んでいた。
誰もいない机。
誰もいない椅子。
置き去りのノート。
黒板に残ったチョークの跡。
放課後の教室らしい景色。
その中で、一つだけ。
人影があった。
「……あれ」
月原芽唯だった。
自分の席に座ったまま、うつむいている。
まだいたのか。
エイトは一瞬そう思った。
けれど、すぐに何かが引っかかる。
様子がおかしい。
肩が、微かに震えていた。
「おーい」
エイトは声をかける。
返事はない。
「月原」
もう一度呼ぶ。
やはり返事はない。
仕方なく、エイトは教室に足を踏み入れた。
その瞬間。
ひやり、とした。
気温が下がったわけじゃない。
でも、空気が冷たい。
いや。
冷たいというより――重い。
「……なんで」
かすれた声が、教室の中に落ちた。
メイの声だった。
「なんで……私ばっかり……」
エイトが足を止める。
「……月原?」
メイは顔を上げない。
ただ、机に手をついたまま、小さく震えている。
「なんで断れないの……」
ぽつり。
「なんで、言えないの……」
ぽつり。
「なんで、笑っちゃうの……」
その声は、誰かに聞かせるものじゃなかった。
ずっと内側に押し込めていた言葉が、蓋の隙間から勝手に漏れ出しているみたいだった。
エイトは少しだけ迷う。
こういうとき、何を言えばいいのか分からない。
慰めるのも柄じゃない。
うまい言葉なんて、持っていない。
でも、放っておくのはもっと無理だった。
「……おい」
エイトは、できるだけ落ち着いた声を出した。
「大丈夫か」
メイの肩が、ぴくりと揺れる。
「大丈夫じゃ、ないよ」
小さな声。
それは返事だった。
でも同時に、何かが決壊する音にも聞こえた。
メイが、ゆっくりと立ち上がる。
椅子の脚が床を引っかいて、耳障りな音を立てた。
「私、ずっと……」
顔はまだ見えない。
髪が垂れて、表情を隠している。
「ちゃんとしてなきゃって思ってた」
一歩。
「いい子でいなきゃって」
一歩。
「迷惑かけちゃだめだって」
一歩。
エイトは無意識に、半歩だけ後ろへ下がっていた。
教室の空気が、おかしい。
圧がある。
目に見えない何かが、メイの周りに集まっている。
「……月原、落ち着け」
「落ち着け?」
メイの動きが、ぴたりと止まる。
その言葉を、理解するのに少し時間がかかったみたいに。
やがて、ゆっくりと顔が上がる。
「……そんな簡単に、言わないでよ」
その目は、涙で濡れていた。
でも、泣いているだけじゃない。
怒っていた。
悲しんでいた。
傷ついていた。
何より、もう限界だった。
「私だって……」
声が震える。
「私だって、ずっと我慢してきたのに」
「……」
「嫌だって言えなくて」
「断れなくて」
「平気なふりして」
「笑って」
「……でも、誰も」
メイの唇が引きつる。
涙が頬を伝う。
「誰も、見てくれない」
教室の窓が、びり、と細かく震えた。
エイトは目を見開く。
何だ、今の。
風はない。
なのにカーテンが揺れた。
床に落ちる夕焼けの影が、じわりと濃くなる。
「誰も気づいてくれない……!」
メイの声が、急に大きくなった。
同時に、教室の空気が軋む。
みし。
まるで見えない壁にひびが入るみたいな音だった。
「便利なときだけ使って」
「都合がいいときだけ頼って」
「終わったら、何もなかったみたいに笑って……!」
机の脚が、がたがたと揺れ始める。
プリントが一枚、床に落ちた。
その白い紙の上に、メイの足元から伸びる黒い影がじわじわと這っていく。
「……おい」
エイトの声にも、さすがに焦りが混じった。
「ほんとにやばいって。とりあえず座れ」
「座ってどうするの?」
メイが笑う。
壊れたみたいな、ひび割れた笑いだった。
「話聞いてくれるの?」
「……聞く」
エイトは即答した。
うまい言葉は出ない。
でも、それくらいは言える。
「なら、今まで誰も聞いてくれなかったのはなんで?」
その言葉に、エイトは詰まる。
メイは一歩、また一歩と近づいてくる。
そのたび、足元の影が大きくなる。
いや――影が、床から剥がれかけていた。
液体みたいに。
生き物みたいに。
「どうせ……」
メイが呟く。
「どうせ私なんて」
影が、持ち上がる。
床と壁の境目から黒いものがにじみ出し、教室全体へ広がっていく。
「いない方がいいんでしょ」
「そんなわけ――」
「あるよ!!」
メイが叫んだ、その瞬間だった。
――ぶつん。
何かが、完全に切れた。
それはたぶん、メイの中で最後の一本だけ残っていた糸だった。
教室中の影が、一斉に揺れる。
机の影。
椅子の影。
窓枠の影。
黒板の影。
そして、メイ自身の影。
すべてが生き物みたいに蠢いた。
「便利なだけの存在で!」
メイの声が、もう人間のものじゃなくなり始めている。
「いらないなら、最初から――」
影が跳ね上がる。
「最初から、いなければよかったんだ!!」
その叫びと同時に、床が黒く染まった。
いや、染まったんじゃない。
噴き出した。
メイの足元から溢れた影が、一瞬で彼女の身体を包み込む。
「――っ!」
エイトは思わず腕で顔をかばう。
黒い奔流だった。
夕焼けに照らされているはずなのに、そこだけ光を吸い込んでいる。
メイの輪郭が、影の中に沈んでいく。
髪も。
手も。
制服も。
全部が黒に飲まれ、シルエットだけになった。
その影が、膨らむ。
歪む。
軋む。
みし、みし、みし、と。
何かが内側から無理やり形を変えている音がした。
――壊れる音がした。
それは教室の窓かもしれない。
メイの心かもしれない。
それとも、この日常そのものかもしれなかった。
エイトは息を呑む。
目の前で、影の塊がさらに巨大になる。
植物のようにうねる何か。
獣のように膨張する何か。
人の感情が、そのまま怪物の形を取っているみたいだった。
そして。
黒い塊の表面を突き破るように、太いツタのような触手が何本も飛び出した。
ずるり、と。
ぬめるような音。
続けて、巨大な裂け目が開く。
まるで食虫植物の口。
真ん中から裂けたその口の奥は、赤黒く脈打っていた。
夕焼けの教室に、異形が立っている。
机を押しのけ、天井近くまで膨れ上がった、巨大な影の魔獣。
「……なんだよ、これ」
エイトの喉が、ひりつく。
声が、少し震えた。
見たことがない。
理解もできない。
夢だと言われた方が、まだ納得できる。
けれど、目の前のそれは確かに存在していた。
ツタのような触手が、床を叩く。
ばしん、と音が響く。
影の魔獣が、ゆっくりとその“口”を開いた。
そして――
意識が、エイトへ向く。
ぞわり、と全身が粟立つ。
視線なんてないはずなのに、分かった。
狙われている。
「……マジかよ」
逃げる。
その選択肢が頭をよぎる。
でも、足は動かなかった。
怖いからじゃない。
目の前の怪物……メイがまだ助かる
…いや、助けなきゃいけない。
その考えが、理屈より先に身体の奥に落ちていた。
影の魔獣が、低く唸る。
教室の影が、さらに濃くなる。
影が、牙を剥く。




