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KAGEは僕だった  作者: SQAPE
Chapter 1「目覚める影」
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1-4「帰る場所」

――ガチャ。


玄関の扉が開く。


「ただいまー……」


やる気の抜けた声が、古い家の中に転がった。

早見影都は、片足で靴を脱ごうとして少し失敗し、壁に手をついた。


「……危な」


誰に聞かせるでもなく呟いてから、今度はちゃんと靴を脱ぐ。


ただし、揃えはしない。


右足は横向き。

左足は半分ひっくり返っている。


玄関としては、なかなか絶望的な状態だった。


「おかえり、エイト」


居間の方から、落ち着いた声が返ってくる。


「今日は早いのう」


「まあな」


エイトは鞄を肩からずり落としながら、居間へ顔を出した。


畳の部屋。

低いちゃぶ台。

湯呑みから立つ白い湯気。

壁の古い時計が、かち、かち、と律儀に時を刻んでいる。


そのちゃぶ台の前に、老人が座っていた。


大光明道信(オオミヤ ミチノブ)。


エイトは昔から、ノブ爺と呼んでいる。


白い眉が目元を覆い、長い白髭が口元を隠している。

顔のほとんどが白い毛に包まれていて、初見だと表情が分かりにくい。


けれどエイトには分かる。

今のノブ爺は、たぶん笑っている。


「なんか、学校にいるのがめんどくさくなって」


エイトはそう言いながら、鞄を畳の上に置いた。


「学生が“めんどくさい”を理由に帰ってきてよいのかのう」


「ちゃんと授業は受けた」


「寝ずにか?」


「半分くらい」


「それは受けたと言えるのかのう」


「魂はいた」


「身体もいてくれんと困るんじゃが」


ノブ爺は、ほほ、と小さく笑った。


エイトはそのまま畳に寝転がる。


制服のまま。

鞄もそのまま。

完全に、帰宅直後の人間として一番だらしない形だった。


「こら、制服がしわになるぞ」


「しわも青春だろ」


「便利な言葉で片付けるでない」


エイトは少しだけ笑った。

この家の空気は、学校とは違う。


静かで、古くて、少しお茶の匂いがする。


誰かに合わせなくていい。

何かを頑張らなくてもいい。

黙っていても、変に心配されない。


エイトにとっては、それが一番楽だった。


「あー……」


畳の上で両腕を投げ出し、天井を見上げる。


「コアラになりてえ」


ノブ爺が湯呑みを置く。


「また急じゃのう。なぜコアラなんじゃ」


「ほぼ一日寝て過ごせるから」


「それなら猫でもよかろう」


「猫は愛想を求められる」


「コアラにも求められると思うがのう」


「じゃあ岩」


「ついに生き物ですらなくなったか」


「岩、強そうだし」


「たしかに、宿題はせんでよさそうじゃな」


「最高じゃん」


「だが飯も食えんぞ」


「……それは困る」


「単純よのう」


ノブ爺は呆れたように言いながらも、声は柔らかかった。


挿絵(By みてみん)


しばらく、時計の音だけが続いた。


かち、かち。


かち、かち。


エイトは天井の木目をぼんやり眺めていた。

古い家の天井には、妙な模様がいくつもある。


顔みたいに見えるもの。

地図みたいに見えるもの。

あと、どう見ても焼き魚にしか見えないもの。


小さいころ、それをノブ爺に言ったら、

「それは天井に住む魚じゃ」

と真顔で返された。


今思えば、適当すぎる。


でも、エイトはその話をしばらく信じていた。


「なあ、ノブ爺」


「なんじゃ」


「俺ってさ」


エイトは寝転がったまま言った。


「ほんとに普通に育ってる?」


ノブ爺の手が、ほんのわずかに止まった。

一瞬だけ、空気が静かになる。


けれどノブ爺は、何事もなかったように湯呑みをちゃぶ台へ置いた。


「……急にどうしたんじゃ」


「いや、なんとなく」


エイトは目を細める。


深刻な顔ではない。


いつものように、思いついたことをそのまま口にしただけのような声だった。


「親いないし、ずっと爺さんと二人だし」


「……」


「まあまあレアじゃん」


軽い言い方。


けれど、ノブ爺はすぐには答えなかった。

エイトは天井を見たまま続ける。


「別に、不満とかじゃないけど」


その一言だけ、少し声が小さかった。


「ただ、たまに思うんだよな」


「何をじゃ」


「普通って、何基準なんだろうって」


ノブ爺は、白い眉の奥でゆっくりと目を細めた。


「……そうじゃな」


静かな声だった。


「普通というのは、人によって形が違うものじゃ」


「便利な答えだな」


「年寄りは便利な答えをいくつか持っておる」


「ずる」


「長く生きた特権じゃ」


ノブ爺は、少しだけ笑った。

そして、エイトを見る。


「少なくとも、わしから見れば」


一拍置いて。


「おぬしは、ちゃんと育っておるよ」


エイトは何も言わなかった。

天井を見たまま、瞬きをする。


「ちゃんとって?」


「飯を食う。学校へ行く。帰ってくる。たまに寝すぎる。靴は揃えん。だが、誰かが困っておれば、なんだかんだで気にする」


ノブ爺の声には、迷いがなかった。


エイトは鼻から小さく息を吐く。

笑ったのか、ため息なのか、自分でもよく分からない。


「俺の母親…。顔も覚えてねえや」


「産後、病で命を落としておるからのう。覚えておらんのも無理はない」


「父親は、俺が生まれる前に事故だっけ」


「そうじゃ」


何度か聞いたことのある話だった。


母は、エイトを産んですぐに亡くなった。

父は、その少し前に事故で亡くなった。


だからエイトは、ノブ爺に育てられた。

そういうことになっている。


エイトはそれ以上、深く聞かなかった。


本当に興味がないのか。

興味を持つのが面倒なのか。

それとも、聞いてはいけない気がしているのか。


自分でも分からない。


「まあ」


エイトは寝返りを打つ。


「普通に育ってんなら、いいや」


「そうか」


「うん」


短いやり取り。

けれどノブ爺は、少しだけ寂しそうに笑った。


その表情は、白い眉と髭に隠れて、エイトからはほとんど見えなかった。


「夕飯は何がよい」


ノブ爺が話題を変える。


「……楽なやつ」


「相変わらず食に興味のない奴じゃ」


「作る側に寄り添った注文だろ」


「ならば、茶漬けでよいか」


「…それは寄り添いすぎ」


ノブ爺が、くくっと笑う。

エイトも、少しだけ口元を緩めた。


こういう会話が、エイトは嫌いではなかった。


どうでもよくて。

中身がなくて。

でも、ちゃんとそこにいる感じがする。


そのとき。


「……あ」


エイトは急に身体を起こした。


ノブ爺が顔を上げる。


「どうした」


「教科書、教室に忘れた」


エイトは立ち上がり、

鞄の中を雑に探ったが、やっぱりない。


「ちょっと取ってくる」


「今からか」


「ああ。すぐ戻る」


エイトは鞄を肩にかけた。

玄関へ向かう足取りは、相変わらずだるそうだった。


「気をつけてな」


ノブ爺の声が背中に届く。


「あいよ」


エイトは玄関で靴を履く。


そして、ふと立ち止まった。


「……ノブ爺」


「なんじゃ」


エイトは振り返らないまま言った。


「世話、いつもありがとな」


一瞬。


家の中の音が、全部止まったように感じた。


ノブ爺は目を見開く。

エイトは、少し気まずそうに頭をかいた。


「いや、なんか……今日ちょっと思っただけ」


「……そうか」


ノブ爺の声が、ほんの少しだけ震えた。


けれどすぐに、いつもの穏やかな声へ戻る。


「わしの方こそじゃ」


「何が」


「帰ってきてくれて、ありがとのう」


エイトは返事に困った。


だから、いつものように雑に流す。


「……変な爺さん」


「お互いさまじゃな」


――バタン。


扉が閉まる。

足音が遠ざかっていく。


一人残された居間に、静けさが戻った。


ノブ爺は、しばらく玄関の方を見つめていた。


湯呑みからは、もう湯気がほとんど立っていない。

壁の時計だけが、変わらず時を刻んでいる。


かち、かち。


かち、かち。


やがて、ノブ爺は小さく息を吐いた。


「……まったく」


呆れたような声。

けれど、その奥には隠しきれない愛しさがあった。


「妙なところで、勘がよい子じゃ」


ノブ爺はゆっくりと視線を落とす。

夕焼けが、畳の上に長い影を作っている。


ちゃぶ台の影。

湯呑みの影。

ノブ爺自身の影。


そして、さっきまでエイトが寝転がっていた場所。

そこにはもう、誰もいない。


けれどノブ爺は、そこに何かを見るように目を細めた。


「……いつか、その時は来るんじゃろうな」


小さな声だった。


誰に聞かせるでもない。

けれど、長い間胸にしまってきた言葉が、ふとこぼれたような声だった。


「すまんのう、エイト」


ノブ爺は、畳に伸びる影を見つめる。


「おぬしにだけは、普通の子として生きてほしかった」


夕焼けが、部屋の奥まで赤く染めている。

あたたかいはずの光なのに、なぜかその影だけは、少し冷たく見えた。


ノブ爺は湯呑みに手を伸ばす。

けれど、飲むことはしなかった。


ただ、両手で包み込むように持ったまま、静かに呟く。


「……まだ、もう少しだけ」


もう少しだけ。この日常が続けばいい。


古い家の中に、時計の音だけが響く。


かち、かち。


かち、かち。


影が、少しずつ伸びていく。

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