1-3「いい子の限界」
放課後。
教室には、まだ昼間のざわめきが残っていた。
窓の外では、運動部の声が遠く響いている。
廊下を走る足音。
どこかの教室から聞こえる笑い声。
昇降口へ向かう生徒たちの話し声。
みんな、それぞれの放課後へ向かっている。
友達と寄り道する人。
部活へ急ぐ人。
スマホを見ながら笑っている人。
その中で、月原芽唯だけが、自分の席に座ったままだった。
机の上には、何枚ものプリントが重なっている。
文化祭の買い出しリスト。
クラス展示の役割表。
提出が遅れているアンケート用紙。
誰かの名前が書かれたまま、なぜかメイの机に置かれたもの。
自分のものではない。
でも、今ここでペンを握っているのは、自分だった。
「メイ、これもお願いねー」
少し前、クラスメイトの女子がそう言って、プリントの束を置いていった。
言い方は軽かった。
悪気なんて、きっとなかった。
「月原さん、字きれいだし」
「先生に出すやつだから、ちゃんとしてる人の方がいいじゃん」
「ほんと助かるー」
助かる。
その言葉は、便利だ。
ありがとうよりも軽くて、お願いよりも逃げ道がない。
メイはペンを動かした。
かり、かり、と紙を削るような音がする。
「……」
断るタイミングは、あったのかもしれない。
最初にプリントを置かれたとき。
「お願いね」と言われたとき。
相手が友達の方へ戻ろうとしたとき。
どこかで一言、言えばよかった。
「ごめん、今日は無理」
それだけでよかった。
たぶん。
たった、それだけ。
でもメイには、その一言が出せなかった。
「……はぁ」
小さなため息が、机の上に落ちる。
ペンを持つ指が、少し痛い。
ずっと力を入れていたせいだ。
教室の後ろの方では、女子たちが楽しそうに話していた。
「ねー、帰りスタバ行かね?」
「行く行く。新作飲みたい」
「てかさ、文化祭のやつ終わった?」
「あー、メイに頼んだ」
「強」
「いや、だって月原さん、ああいうの得意じゃん?」
「確かに。うちらがやるより絶対早い」
くすくすと笑い声が重なる。
聞こえている。
全部、聞こえている。
メイは顔を上げなかった。
聞こえていないふりをした。
傷ついていないふりをした。
いつものように、何も思っていない顔を作ろうとした。
けれど、うまくできなかった。
胸の奥が、じわじわと熱い。
怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか。
分からない。
分からないふりをしてきたから、名前のつけ方を忘れてしまった。
「……まだ、半分」
メイはプリントの束を見下ろす。
終わらない。
書いても、書いても、終わらない。
一枚終わるたびに、自分の中の何かが薄くなっていく気がした。
そのとき。
「メイ、それまだ終わってないの?」
声が降ってきた。
顔を上げると、さっきプリントを置いていった女子が立っていた。
心配そうな顔。
でも、その目はメイではなく、机の上のプリントを見ている。
「あ……うん。もう少しで終わると思う」
メイは反射的に笑った。
自分でも驚くくらい、いつも通りの笑顔だった。
女子は少しだけ眉を下げる。
「えー、今日中に出したいんだけど」
「……うん」
「先生に言われたんだよね。今日出さないと、うちらの班ちょっとまずいかもって」
うちらの班。
その言葉の中に、メイは入っていない。
でも、まずくなるのはメイのせいみたいだった。
「ごめんね、急いでくれる?」
「……うん。大丈夫」
大丈夫。
また言った。
言いたくないのに。
全然、大丈夫じゃないのに。
女子はぱっと表情を明るくした。
「ありがと、ほんと助かる!」
そしてすぐに、友達の方へ戻っていく。
「終わりそう?」
「うん、やってくれるって」
「マジで月原さん便利すぎ」
「ねー。うちら絶対無理だったわ」
笑い声。
軽い声。
悪意というほどではない。
だから、余計に痛かった。
悪意なら、嫌いになれた。
ひどい、と言えた。
でもこれは、もっと曖昧で、もっと日常的で、もっと逃げにくい。
メイはペン先を紙に押しつけた。
ぐ、と力が入る。
黒いインクが、文字の端で小さく滲んだ。
「……」
なんで。
なんで私は、こんなことをしているんだろう。
なんで断れないんだろう。
なんで、笑ってしまうんだろう。
なんで。
なんで、私ばかり。
頭の中で、声が回る。
けれどその声は、口からは出てこない。
出る前に、いつも飲み込んでしまう。
飲み込んで。
沈めて。
なかったことにする。
そうやっていれば、誰にも迷惑をかけない。
誰にも嫌われない。誰かの役に立てる。いい子でいられる。
「……いい子で、いなきゃ」
ぽつりと、呟いた。
誰に聞かせるでもなく。
自分に言い聞かせるように。
その瞬間。
――ぴくり。
足元の影が、動いた。
「……?」
メイは視線を落とす。
床に伸びた自分の影。
夕焼けの光を受けて、机の脚や椅子の影と重なっている。
何の変哲もない、ただの影。
そのはずだった。
でも、さっき。
たしかに揺れた。
「……気のせい」
そう言って、メイはペンを握り直した。
気のせい。
昨日のことも。
白いローブの男も。
耳元で囁かれた声も。
全部、疲れていたから。
考えすぎたから。
嫌なことが重なったから。
そう思うことにした。
そうしないと、怖かった。
メイは再びプリントに向かう。
けれど、手はもう思うように動かなかった。
胸の奥にある黒いものが、さっきよりもはっきりしている。
名前をつけないまま押し込めてきたもの。
嫌だ。
つらい。
助けて。
私ばかり見ないで。
でも、私を見捨てないで。
矛盾した感情が、ぐちゃぐちゃに絡まり合っている。
その黒い塊が。
ゆっくりと、形を持ち始めていた。
――そのころ。校舎の外。
人気のない校舎裏に、白いローブの男が立っていた。
壁にもたれかかるわけでもなく、歩くわけでもなく。
ただ、そこにいる。
夕焼けが校舎を赤く染めている。
地面には、フェンスの影、木々の影、校舎の影が長く伸びていた。
けれど、男の足元にだけ、影はない。
白いローブのフードの奥で、口元が静かに歪む。
「……ふふ」
小さな笑い声。
その視線は、まっすぐ校舎の一室へ向けられていた。
まるで壁も距離も関係ないように。
まるで、誰かの心の奥を覗いているように。
「いいね」
男は呟く。
「とてもいい」
楽しげで、優しげで、だからこそ残酷な声だった。
「人はみんな、影を隠して生きている」
風が吹く。
白いローブの裾だけが、ゆっくりと揺れた。
「笑顔の裏に。親切の奥に。我慢の底に」
男は、そっと片手を持ち上げる。
その指先に、黒い影のようなものが一瞬だけまとわりつき、すぐに消えた。
「けれど、押し込めた影ほどよく育つ」
フードの奥。
見えない目が、笑った気がした。
男は校舎を見上げる。
その先にいる少女の心を、正確に捉えているかのように。
「さあ」
静かな声が、夕暮れに溶ける。
「君の“いい子”は、どこまで耐えられるかな」
その声は、誰にも届かない。
教室の生徒たちは笑っている。
先生たちは職員室で今日の仕事を片づけている。
グラウンドでは、部活動の掛け声が響いている。
いつもの放課後。
いつもの学校。
その中で、ただ一人。
月原芽唯の足元の影だけが、ゆっくりと膨らんでいた。
まるで、もうすぐ生まれる怪物が、内側から息をしているみたいに。




