1-2「いつもの教室、ひとり分の影」
――キーンコーンカーンコーン。
気の抜けたチャイムが、午後の教室に響いた。
その瞬間、クラス全体の集中力が、目に見えない煙みたいにふわっと天井へ逃げていく。
「はーい、じゃあ今日はここまで。あと、今やった範囲な」
担任が黒板をチョークでこんこんと叩く。
「テストに出るからなー」
その一言で、教室のあちこちから一斉にため息が漏れた。
ざわざわと空気が緩んでいく。
その中で、一人だけ、ほとんど最初から緩みっぱなしの男子がいた。
窓際の席。
頬杖。
半分だけ開いたノート。
そして、黒板を見ているようで、たぶん見ていない目。
早見 影都。
エイトは、チョークの白い文字をぼんやり眺めながら、小さくあくびを噛み殺した。
「……」
やる気はない。
ただし、寝るほどの度胸もない。
サボるほどの行動力もない。
つまり、授業中に一番エネルギーを使わない姿勢を研究した結果が、今のこの頬杖だった。
「おい、エイト」
横から声が飛んでくる。
隣の席の男子、神谷 晴斗。
茶髪のセンターパートに、人懐っこい顔。
授業中でも休み時間みたいな雰囲気をまとっている男だ。
ハルトはノートの端でエイトの肘をつついた。
「聞いてたか、今の」
「んー?」
エイトは、三秒くらいかけて視線だけを動かした。
「聞いてた」
「嘘つけ。今、魂半分くらい窓の外にいたぞ」
ハルトが呆れたように笑う。
「先生、テストに出るってよ」
「ああ、聞いてた聞いてた」
「ほんとかよ?」
ハルトはエイトのノートを覗き込んだ。
そこには、途中まで真面目そうに書かれた文字と、その横に小さく描かれた謎の黒い四角があった。
「なにこれ」
「眠気」
「眠気って図形だったんだ」
「今日は四角い」
「日によって形変わるのかよ」
「丸い日は危ない」
「何が?」
「寝る」
どこにでもある、普通の放課後前。
少し騒がしくて、少しだるくて、でも嫌いではない時間。
エイトは伸びをしようとして、途中でやめた。
そのときだった。
教室の前方で、がたん、と椅子が鳴った。
少し強い音だった。
ざわついていた教室の空気が、一瞬だけ止まる。
エイトとハルトも、自然とそちらを見た。
立ち上がっていたのは、月原芽唯だった。
光影高校三年生。
成績優秀。真面目。先生にも生徒にも頼られる、いわゆる“ちゃんとしている人”。
いつもなら、誰かに話しかけられれば柔らかく笑う。
プリントが落ちていれば拾う。
黒板が汚れていれば、誰より先に消す。
そういう女子だった。
けれど、今のメイは違った。
「……」
何も言わない。
机の横に立ったまま、ほんの少し俯いている。
その顔色は、昨日より白く見えた。
目元には、うっすら疲れが滲んでいる。
「月原さん?」
近くの女子が声をかける。
メイは反応しなかった。
鞄も持たず、ノートも開いたまま。
ただ、何かに呼ばれるように、ゆっくりと歩き出す。
教室の扉へ。
「え、メイ?」
「どしたの?」
いくつかの声が上がる。
でも、すぐに止んだ。
誰も追いかけない。
心配はする。
けれど、自分の席を立つほどではない。
そういう微妙な距離感が、教室にはある。
メイは扉を開け、廊下へ出ていった。
その背中が見えなくなる。
一瞬だけ、教室の空気が薄くなった気がした。
けれど次の瞬間には、
「なあ、今日帰りどっか寄る?」
「カラオケ行かね?」
「いや金欠」
「お前いつも金欠じゃん」
そんな声が、何もなかったみたいに教室を満たしていく。
ハルトが小さく肩をすくめた。
「あいつ、またか」
「また?」
エイトはメイが出ていった扉を見たまま聞き返す。
「頼まれごとだよ。文化祭のやつとか、プリントまとめとか、先生の手伝いとか」
「あー……」
「月原って、断らないじゃん。断れないっていうか」
ハルトは悪気なく言った。
責めているわけじゃない。
ただ、見たままを口にしている。
「まあ、損な性格だよな」
「……そうだな」
エイトは短く返した。
たぶん、その通りだ。
損な性格。
面倒な性格。
見ているだけで疲れそうな性格。
自分とは、ずいぶん違う。
エイトなら、嫌なものは嫌だ。
面倒なものは面倒だ。
できれば、誰にも頼られたくない。
……はずなのに。
さっきのメイの背中が、妙に引っかかった。
何が、とは言えない。
顔色か。
無言だったことか。
それとも、足元の影か。
「……めんどくさそうだな」
ぽつりと呟く。
「月原って真面目すぎるよな。頼られるのはいいけど、あれじゃ便利屋じゃん」
「……」
「エイト、お前もそう思うだろ?」
「思う」
「お、珍しく即答」
「便利屋は、見ててしんどい」
エイトはそう言ってから、自分でも少しだけ意外に思った。
ハルトも一瞬、目を丸くする。
けれどすぐに、にやっと笑った。
「なに、お前、月原のこと心配してんの?」
「してない」
「出た、即否定」
エイトは椅子の背にもたれたまま、もう一度メイが出ていった扉を見た。
何かが、おかしい。
それは分かる。
でも、それ以上考えるのは面倒だった。
「……帰るか」
エイトは立ち上がった。
椅子が軽く床を鳴らす。
ハルトが意外そうに眉を上げた。
「お、珍しく即帰り?」
「珍しくってなんだ」
「いつも五分くらい、魂抜けたまま座ってるじゃん」
「充電してる」
「帰るために?」
「帰宅にも体力がいる」
「おじいちゃんか」
ハルトも鞄を肩にかける。
「どっか寄る? コンビニとか」
「今日はいい」
「つれねーなー」
二人は軽口を交わしながら、教室を出た。
廊下には、夕方の光が差し込んでいる。
赤く、長く、床に影が伸びていた。
生徒たちの影。
窓枠の影。
ロッカーの影。
そして、自分たちの影。
エイトは、何気なく足元を見る。
自分の影が、廊下に細く伸びている。
黒く、薄く、当たり前みたいにそこにある。
「……」
なのに。
ほんの一瞬だけ、その影が自分のものではないように感じた。
まるで、足元から誰かがこちらを見上げているような。
「……気のせいか」
小さく呟く。
「ん? なんか言った?」
ハルトが振り返る。
「いや、なんでも」
エイトは視線を上げた。
考えすぎだ。
疲れているのかもしれない。
授業を真面目に受けたから。
いや、真面目には受けていない。
じゃあ、たぶん眠いだけだ。
「ほら、行くぞ」
「あいよ」
ハルトが隣に並ぶ。




