1-1「夕焼けと、うしろのしょうめん」
――夕焼けが、廊下を赤く染めていた。
放課後の校舎には、不思議な静けさがある。
グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえてくる。
どこかの教室からは、机を引きずる音。
吹奏楽部のチューニングが、外れた音のまま長く伸びていた。
ちゃんと世界は動いている。
それなのに、この三年二組の前だけは、時間から置いていかれたみたいだった。
教室の扉の前に、一人の少女が立っている。
月原芽唯。
光影高校三年生。
成績優秀。品行方正。先生からの信頼も厚く、クラスメイトからもよく頼られる。
――頼られる。
その言葉は、たぶん聞こえがいい。
メイは扉の前で、小さく息を吐いた。
「……はぁ」
ため息は、誰にも聞こえないくらい小さかった。
教室の中には、まだ数人の生徒が残っている。
笑い声。スマホの通知音。机に肘をつく音。
その中に、自分の名前が混じった。
「ねえ、文化祭の買い出しリストさー、まだ残ってるんだけど」
「え、メイに頼めば?」
「それな。月原さん、そういうの断らないし」
「しかも字きれいだしね。うちらがやるより絶対いいって」
くすくすと、軽い笑い声が重なる。
悪意、というほどではないのかもしれない。
けれど、優しさでもない。
メイは扉の取っ手に伸ばしかけた手を、そっと引っ込めた。
言えばいい。
「私、今日は無理」
「自分たちでやって」
「勝手に決めないで」
そう言えばいいだけ。
頭では分かっている。
でも、喉の奥に見えない栓が詰まったみたいに、言葉が出てこない。
「……いい子、か」
ぽつりと呟いて、メイは自嘲気味に笑った。
いい子。
便利な子。
断らない子。
どれも似ているようで、全然違う。
その違いに気づいているのに、気づかないふりをしてきた。
だって、その方が楽だったから。
……少なくとも、嫌われるよりは。
そのときだった。
背筋に、冷たいものが落ちた。
「……?」
メイは顔を上げる。
廊下の奥。
夕焼けの赤が届かない、薄暗い場所に――誰かが立っていた。
白いローブを纏った男。
フードを深く被っていて、顔は見えない。
見えるのは、口元だけ。
その口元が、静かに笑っている。
「……誰?」
声に出したつもりだった。
けれど、実際には息が漏れただけだった。
男は返事をしない。
ただ、そこに立っている。
白いローブ。
白い影。
いや――違う。
メイは、思わず足元を見た。
男の足元に、影がない。
夕焼けは廊下に長い影を伸ばしている。
窓枠も、机も、メイ自身の足元にも、赤黒い影が落ちている。
なのに、その男だけが。
世界の決まりから外れているみたいに、何も持っていなかった。
「……影が、ない……?」
言った瞬間、男の口元がわずかに動いた。
笑った。
そう見えた。
男が、一歩近づく。
足音はしない。
二歩目も、ない。
なのに、距離だけが縮まっている。
「……っ」
逃げなきゃ。
そう思った。
なのに、足が動かない。
まるで自分の影に、靴底を縫い止められているみたいだった。
男は、気づけばメイの目の前にいた。
近い。
近すぎる。
夕焼けの匂いに混じって、冷たい夜の気配がした。
男は、少しだけ首を傾げる。
「……あぁ」
静かな声だった。
優しいようで、冷たい。
慰めているようで、試している。
「君は、ずいぶん我慢しているんだね」
「……え?」
メイの心臓が、どくん、と鳴った。
「頼まれれば断れない。笑っていれば波風は立たない。嫌われるくらいなら、自分が少し傷ついた方がいい」
男の声は淡々としていた。
なのに、一言ずつ、胸の奥を正確に撫でていく。
「でも、本当は思っている」
やめて。
聞きたくない。
「どうして、私ばかりって」
「……違う」
メイはかすれた声で言った。
「私は、そんなこと……」
「思っていない?」
男が笑う。
「なら、その影はどうして震えているんだろう」
メイは足元を見た。
自分の影が、揺れていた。
風なんてない。
廊下は静かで、窓も閉まっている。
それなのに、影だけが水面みたいに波打っている。
「君のような“器”を探していたよ」
「器……?」
「大丈夫」
男は、優しく言った。
「君の代わりに、君の影が答えてくれる」
その瞬間。
男の姿が、消えた。
「……っ!?」
違う。
消えたんじゃない。
見失っただけだ。
背後に、気配がある。
メイの耳元に、冷たい吐息が触れた。
「うしろのしょうめんだ〜あれ」
ぞくり、と。
全身の血が凍った。
「……っ、いや!」
メイは反射的に振り返った。
けれど、そこには誰もいない。
廊下には夕焼けだけが伸びている。
赤く、長く、まるで血を薄く引き伸ばしたみたいに。
「……消えた……?」
さっきまで、確かにいた。
声も聞こえた。
息も触れた。
あの笑みも、あの言葉も。
全部、夢なんかじゃない。
メイは自分の肩を抱いた。
指先が震えている。
教室の中から、まだ笑い声が聞こえた。
「メイ、まだ外にいるのかな?」
「えー、呼べば? どうせやってくれるって」
いつもなら、そこで扉を開けていた。
苦笑いを浮かべて、
「うん、大丈夫だよ」
なんて言っていた。
でも今は。
どうしてか、扉の向こうの声が、遠く聞こえた。
まるで水の底から響いているみたいに。
「……私、は」
言葉の続きは出てこなかった。
足元の影が、もう一度揺れる。
今度は、はっきりと。
メイの影の輪郭が、ほんの少しだけ膨らんだ。
まるで、内側から何かが目を覚ましたように。
「……なに、これ」
誰も答えない。
廊下には、夕焼け。
教室には、笑い声。
そして足元には、自分のものではないような影。
何も起きていないはずなのに。
何かが、確かに始まってしまった。
メイはそう感じた。
その感覚だけが、いつまでも胸の奥から消えなかった。




