第七話 世界最強の魔法使い、居候になる
翌朝。
俺は目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。
寝起きの頭がまだ重くて、一つ欠伸をしてみる。
窓の外では鳥が鳴き、入ってくる朝日が窓の木枠をじわじわと白くしていた。
昨日の出来事が多すぎたせいで、眠りは浅かった。
それでも一晩経てば整理はつく。そう思っていた。
……そう、思っていた。
階下からいい加減に聞き慣れた女性の声が届くまでは。
「レオンくーん、朝だよー」
聞き覚えがありすぎる。
いや、あってはいけない。
俺は布団の中で固まったまま数秒動けなかった。
夢だろうか。
世界最高の魔法使いが、男爵家の台所から俺を起こす夢?
随分と悪趣味な夢を見るようになったものである。
しかし夢にしては、台所からの気配が妙に現実的すぎる。
「レオンー? 朝ご飯なくなるよー」
そこで諦めた。
現実側の音量が勝った。
俺は勢いよく飛び起き、そのまま階段を駆け下りる。
「何してるんですか!」
台所では母が普通に皿を並べ、父が書類に目を落としている。
その隣に、当然のように座っている人物がいた。
黒パンを片手で持ち、何の違和感もなく口に運んでいる。
「レオン、おはよう」
ヴィヴィアン・ナイトウッドは、俺に向かって軽く手を振った。
「おはようじゃないです!」
「あれ。もしかして君、朝にも『こんにちは』っていうタイプの人?」
「そういう問題じゃないです!」
思わず声が上ずった。母が不思議そうにこちらを見る。
「レオン、お客様に失礼よ」
「母さん、この人誰か分かってるの?」
「ヴィヴィアン様でしょう?」
「分かってるんだ……」
ため息が出る。
この家族には全く危機感というものがない。
「先ほど突然いらしたの」
説明になっていない説明が返ってくる。
父が顔を上げた。
「なんだレオン、ヴィヴィアン様と知り合いなのか?」
「一昨日からです」
「仲が良いんだな」
「どこを見てそう判断したんですか」
会話が噛み合わないまま進む。
俺が騒いでいる間にも、ヴィヴィアンは母の作ったスープを飲んでいた。
「これ、おいしいね」
「ありがとうございます」
そういって母は嬉しそうに笑う。
駄目だ。
もう完全に馴染んでいる。
「でも、ちゃんと玄関から入ったよ」
ヴィヴィアンが補足する。
「当たり前です!」
「ノックもした」
「それも普通です!」
なんだろう。
この人が絡むと、ふだんなら安心する要素も安心できない。
そのとき、階段を下りてくるもう一つの声が耳に入ってくる。
「……レオン」
背後から眠そうな声がした。
前髪に寝癖のついたままのミラが、目をこすりながら降りてきた。
「おはよ」
「おはよう」
ミラの視線が、いつもミラが座っている席で止まる。
そこにいる銀髪の女性に、空気が一瞬だけ抜けたように静かになった。
「……」
数秒。
「……え?」
さらに数秒。
「何でいるの!?」
ようやくまともな反応が返ってきた。
ミラをまとも扱いしたくはないが。
「レオン、何これ⁉」
ミラが小走りで近寄ってくる。
「俺も知らない」
「呼んだの?」
「呼ぶわけないだろ」
「じゃあ何で!?」
「だから俺が聞きたい」
ヴィヴィアンはそのやり取りを眺めながら、カップを静かに置いた。
「実はね」
嫌な予感が形を持つ前の声だった。
「今日からここで暮らすことにしたんだ」
一瞬、理解が追いつかない。
「……はい?」
「居候ってやつ。君たちの特訓の指導をしないといけないでしょ?」
軽い。
言葉が羽のように軽い。
「学園は?」
「転移魔法があるし」
さらりと出る単語の重さだけが異常だ。
転移魔法。
距離と戦力の概念をまとめて壊す、世界最高難度の魔法。
存在するだけで世界の軍事バランスを書き換える戦略級魔法でもある。
現存する使い手は、世界中を探してもヴィヴィアン唯一人。
その切り札を、この人は『通勤に便利』という程度の感覚で使おうとしている。
「朝になったら学園へ行って、お仕事を片付けたら戻ってくるよ」
日常動作の説明みたいな口調だった。
俺は深く息を吸い、ゆっくり吐いてから叫ぶ。
「世界最高難度の魔法を、個人的な通勤手段にしないでください!」
●
俺は一つの真理へ辿り着いた。人間の順応性というものは恐ろしい。
それから数日で、家の空気は妙な方向に落ち着いた。
「ヴィヴィアンさん、お皿運んで」
「はーい」
もう敬称すら『様』から『さん』に変わっていた。
適応が早すぎる。
本人も本人で「うん」と返事しながら、皿を三枚重ねて持ち上げる。
次の瞬間、ヴィヴィアンは三枚重ねた皿を見事に床へ取り落とした。
甲高い音と共に陶器が散る。
「あ」
本人は「あ」で済ませた。
俺は額を押さえる。
「あらあら」
母が淡々と箒を取りに行く。
「ヴィヴィアンさん、怪我はない?」
「ないよ」
「なら、よかった」
それで会話が終わる。
いや、よくない。現に皿は割れている。
うちは裕福ではないし、陶器一枚だって安くはないのだ。
そこで終わっていい内容ではない。
「ごめんね」
流石に気がとがめたのか、ヴィヴィアンは素直に頭を下げた。
「新しいの買ってくる」
「気にしないで、ヴィヴィアンさん」
母が穏やかに笑う。
「でも、次からは一枚ずつ運びましょう?」
「その方がいい?」
「ええ」
「分かった」
まるで子どもへ言い聞かせるような会話だった。
世界最強の魔法使いに対して。
……世界最強なんだよな?
数日後には、さらに事件が起きた。
「洗濯くらいは手伝うよ!」
その志だけは評価したい。
「じゃあ、お願いします」
母が洗濯かごを渡した、その十分後。
「どうして服が全部縮んでるんですか?」
「熱湯の方がきれいになるかなって」
「羊毛を熱湯で洗わないでください」
父の上着が子ども用くらいの大きさになっていた。
父はしばらく縮んだ袖を見つめ、それから静かに笑った。
「……まあ、ちょっと痩せればいいか」
「父さん、受け入れないで」
さらに翌日。
「今日は掃除するね!」
ヴィヴィアンが張り切った結果、棚を動かそうとして棚ごと倒した。
本棚から本が雪崩のように落ち、積み上げていた箱が崩れる。
驚いた鶏が庭を駆け回った。
「ごめん」
「棚はそのまま持ち上げるんじゃなくて、中身を出してから動かすんです」
「なるほど」
「なるほどじゃありません」
本人は至って真面目なのだ。
悪気が一切ない。だから怒りにくい。
「……すごいね」
隣でミラがぽつりと呟く。
「何が」
「私より家事できない人、初めて見た」
「比較対象がおかしい」
ミラも料理をすれば塩と砂糖を間違え、洗濯をすれば干す前に地面に落とす。
決して器用な方ではないはずだ。
そのミラが驚くレベルなのだから、ヴィヴィアンの生活能力は本物だった。
次の日の夕方、母が夕食の支度をしていた時。
ヴィヴィアンが神妙な顔で近付いていった。
「今日は私が作るよ!」
その一言で、俺は本を読む手を止めた。
「やめてください」
「まだ何もしてないよ?」
「だからです」
「心配しなくても大丈夫!」
「根拠は?」
「料理の本を読んだから!」
「読むのと作るのは違いますよ」
ヴィヴィアンは少しだけむっとした顔をする。
「私だって学習するんだから」
「その学習成果をうちの台所で試さないでください」
結局、母が「では野菜を切るところだけ」と任せた。
そして、なぜかまな板まで真っ二つになった。
「……力加減、おかしくないですか?」
「難しいね」
難しいで済ませる問題ではない。
だが俺はもう何も言わなかった。
言っても現実は変わらないからだ。
ただ、一つ驚いたことがある。
そんな毎日が続いても、不思議と空気が荒れなかったことだ。
父は縮んだ上着を着ながら笑っていた。
母は割れた皿を数えつつ「次は一緒にやりましょう」と声を掛けた。
ミラは「今日は私の方が上手だった」と妙なところで張り合う。
とうのヴィヴィアンも「明日は勝つ」と本気で悔しがる。
その光景を眺めながら、俺は小さくため息をついた。
うちの家族は、順応性がおかしい。
ここにいるのは間違いなく、世界最高の魔法使いのはずだ。
そんなのが突然居候を始めても、一週間でこんな扱いに落ち着いてしまう。
未だにこの状況へ慣れ切れないのは俺だけだった。
今日もいつものように、ヴィヴィアンは黒パンを口にほおばる。
俺には師匠の肩書きと目の前の光景が、どうしても結び付かなかった。




