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第五話 魔法学園への切符

 逃げよう。

 そう思った瞬間、思考より先に体が動いていた。


「ミラ」


「ん?」


「悪い、荷物頼む」


「え、レオン?」


 返事を待たずに踵を返す。

 市場は人の流れが濃い。視界はいくらでも切れる。

 地形も頭に入っている。ここなら振り切れる余地はある。

 相手がどれだけ異常でも、雑踏の中なら――


「逃げるの?」


 耳のすぐ横で声が落ちた。


「っ……!」


 反射で飛び退く。ヴィヴィアンがそこにいた。

 さっきまで馬車の前にいたはずの彼女だが、当然のように隣に立っている。

 距離の詰まり方に“移動”という過程が抜け落ちていた。


「今の、どうやって……」


「歩いただけだけど」


「歩いただけでここに来ません」


「うーん、ちょっと速く歩いた?」


 言い方が崩れない。

 冗談なのか本気なのかすら判別できない。

 ただ一つだけ確かなのは。俺の認識が追いついていないという事実だ。

 そのまま呼吸を整える前に、別の声が割り込む。


「まってよー! ……あれ、この人って」


 リンゴを片手にミラが駆けてくる。

 視線はヴィヴィアンで止まった。


 ヴィヴィアンは何でもないように微笑んで、軽く頭を下げる。


「初めまして。ヴィヴィアン・ナイトウッドです」


 空気が一瞬止まる。

 ミラはその場で数秒固まり、それから顔を上げた。


「……え?」


 さらに間を置く。


「えぇっ!?」


 声が市場のざわめきに混ざらない。

 その声ははっきり浮いている。


「ヴィヴィアンって、あの? 本物?」


「本物だよ」


「世界一の魔法使い?」


「多分ね」


「すごっ!」


 疑う工程が丸ごと省略されている。

 ミラは興奮したままヴィヴィアンの周囲をぐるりと回り始めた。


「ほんとにいるんだ……伝説じゃなかったんだ……」


「伝説扱いされるの、ちょっと慣れてる」


「だって世界一だよ!?」


「そうだけど」


 会話の温度差が噛み合っていない。

 それなのに、どちらもマイペースなせいで止まらない。

 その歪さが余計に現実感を削ってくる。


 その騒ぎが目に留まったのか、周囲の空気が変わってきた。

 人の視線が一点に集まり、ざわめきが連鎖する。

 面倒な状況になってきた。


「ヴィヴィアン様……?」


「どうしてこんな場所に」


「視察か?」


 距離がじわじわ詰まる。呼吸の音が変わる。

 騎士らしき数人が遅れて駆けてくるのが見えた。


 遅い。というより、最初から間に合っていない。

 ヴィヴィアンもようやく周囲に目を向けて、思い出したようにいった。


「あ」


「……気づいてなかったんですか」


「うん。ちょっと集中してた」


 俺にはその“集中”の基準が分からない。

 ただ一つ分かるのは、この場にいるだけで状況が膨らみ続けるということだ。

 ヴィヴィアンは軽く手を合わせるようにして謝った。


「ごめん。少し移動しようか」


「今さらですけどね」


 ミラが袖を引く。


「ねえレオン、何これ」


「俺が聞きたい」


 心からそう思う。

 俺は昨日まで薪割りをしていた男爵家の三男にすぎない。

 それなのに、翌日には世界最強の魔法使いと並んで市場を歩いている。


 どうしてこうなっているのか説明がつかない。

 それでも、流れは止まらない。


 ●


 俺達は川沿いの遊歩道まで移動する。

 ヴィヴィアンお付きの騎士たちが周囲の人払いをしてくれていた。


 結果として、周囲は急に静かになる。

 川のせせらぎがやけに耳に残った。

 市場の喧騒が遠ざかるだけで、世界の輪郭が一段落ち着いたように見えた。

 ヴィヴィアンは川面を見ながら立ち止まる。


「ここなら落ち着いて話せるね」


 観察する。人影は少ない。逃げ道はある。

 ただし、目の前の人物から逃げられる確率は低い。


「ミラちゃんも一緒でいい?」


「私?」


「問題ない」


 俺が短く答えると、ミラは一瞬だけ不満そうな顔をする。

 しかし、好奇心と興味が勝ったようだ。


「でも、難しい話は分かんないよ?」


「大丈夫、大丈夫。わかるようにするよ」


 ヴィヴィアンは迷いなく言った。

 その言葉自体に裏はないのだろう。

 彼女は俺に視線を向けた。


「それでレオン君。昨日の返事、聞いていい?」


 核心に触れられる。

 昨日から頭の中で繰り返していた問いだ。


 独学の限界。時間の不足。知らない“空白”の多さ。

 いずれ詰む形は見えている。

 選択だけなら、答えは単純だ。


「受けます、でも条件がある」


 言葉にした瞬間、川の音が少しだけ近くなる。

 ヴィヴィアンはしばらく俺を見ていた。


「平穏な生活がほしいんです」


 言い切る。

 世界唯一の、男の魔法使い。

 世界唯一の、六属性を操る魔法使い。

 そんな人間が表舞台に出て、平穏を望む。


 それが現実的ではないことぐらい、分かっているが。

 それでも、線は引いておく必要がある。


「うーん……努力はするけど」


「努力でどうにかなる類じゃないでしょう」


「たぶんね」


 困った顔をして、否定しなかった。

 その軽さが逆に正直だと分かる。

 少し間を置いて、ヴィヴィアンは表情を変えずに続けた。


「でも、一つだけ約束するよ」


 川風が一瞬だけ強くなる。


「君が望まない限り、私の都合で君を使わない」


 言葉は単純だが、余計な飾りがない。

 判断材料としては十分すぎるほど明確だった。


「男だからとか、六属性だからとか、そういうのも関係ない。君のことをただの弟子として見る。それだけ」


 観察する。

 嘘の癖はない。視線も揺れていない。

 だからこそ目の前の魔法使いの言葉は重い。


「……分かりました」


 ひとまず、ここは信じるしかなかった。

 そう思って短く答える。


「こちらこそ」


 ヴィヴィアンは微笑む。


「弟子一号だからね、先生もがんばるよ」


「一号?」


「今までに弟子を取ったこと、ないんだ」


「大丈夫なんですか、それ」


「たぶん」


 たぶん、という言葉が軽く落ちる。

 その一言で、不安が倍になった。

 隣で黙っていたミラが口を挟む。


「つまりレオン、すごい人の弟子になるの?」


「そういうことになる」


「すごっ」


 迷いがない。

 羨望だけで成立している反応だった。


「目立つ」


「いいじゃん!」


「よくない」


 なぜ目立ちたくないのか、ミラには理解できないらしい。

 価値観が噛み合わない。

 噛み合わないまま会話だけ進む。


「それじゃあ、さっそくだけど」


 ヴィヴィアンが内ポケットから封筒を取り出した。

 深い藍色の厚い紙。

 金の封蝋には見慣れない紋章が刻まれている。


「これ、君に」


 その紙を渡される。


 受け取った瞬間に分かる。これは軽い紙ではない。

 重さではなく紙質で価値が分かる類のものだ。


 封を切り、中の文字を追う。

 その文章を読んで、目が止まった。


「ユーレリア王立魔法学園、入学許可証」


 俺が読み上げのを聞いて、ミラが息を飲む。

 ヴィヴィアンは当然のように頷いた。


「君には私が学園長を務める、その学校に来てもらう」


 視界の端で川が揺れる。

 情報が一段ずつ遅れて追いついてきた。


 弟子になる時点で、こうなる可能性は考えていた。

 だが想定していたのは“訓練施設”のような場所だ。

 それがよりにもよって、帝国最高峰の魔法学園とは。


「……それは」


 言葉が途中で切れる。

 想像していたよりも、逃げ道が細かった。

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