第四話 平穏な日々
その場では返事をしなかった。
正確には、言葉が喉の手前で引っかかって動かなかった。
世界最高の魔法使いから弟子入りを持ち掛けられている。
状況だけ切り取れば、選択肢は一つに見える。
普通の人にとっては、人生最大の幸運だ。
だが、俺の頭の中では二つの計算が並走していた。
静かに暮らす前提と、独学の危うさ。
どちらも否定できず、互いに相殺もしない。
ずっと同じ場所で、それぞれが噛み合わないまま回っている。
結局、口に出せたのは一言だけだった。
「少し考えさせてください」
ヴィヴィアンは肩をすくめるでもなく、軽く頷いた。
拒絶された様子も、焦らせる気配もない。
「明日も会いに来るよ」
それだけ言って、森の奥へ戻っていった。
追い立てる意図がないのか、それとも別の思惑があるのか。
どちらにせよ、あの余裕は理解の外側にある。
屋敷へ戻ると、いつもの匂いがした。
煮込んだ野菜スープの匂いが外まで漏れていた。
その匂いに焼きたての黒パンの香りが混ざり、食欲をそそる。
体が勝手に安心する程度には、その匂いが体に馴染んでいた。
「遅かったわね」
鍋をかき混ぜながら、母が視線だけこちらへ寄越した。
「薪拾いです」
「顔は拾い物の顔じゃないわね。考え事でもしてたの?」
「……分かります?」
「分かるわよ。あなた、昔から嘘は下手だもの」
言い返す材料もなく、苦笑いして席に座る。
ハートウェル男爵家は、貴族といっても名ばかりの辺境の小領主だ。
父は領地経営で毎日頭を抱え、長兄は騎士になるため帝都へ出ている。
そして次兄は、家督を継ぐべく帳簿と格闘している。
三男の自分に期待されていることは多くない。
せいぜい父や兄たちの邪魔をしないことだ。
その立ち位置が今までは気楽で、俺にとっては都合が良かった。
「レオン」
父は書類に目を通しながら、何でもない調子で言う。
「明日、市場まで荷車を頼む」
「分かりました」
「ミラも連れていけ」
一拍遅れて視線が止まる。
「またですか」
「まただ」
「荷車が持ちませんよ」
「壊さないように言え」
「本人に言ってください」
父は曖昧に笑い、母が小さく吹き出す。
食卓の空気が少しだけ緩んだ。
この家は、質素で、平凡で、ある意味で退屈だった。
ここには穏やかな家族と、毎日の平穏な日常がある。
だから余計に思うのだ。
ここから離れる理由は、できれば欲しくないと。
世界最高の魔法使いだとか、その弟子だとか。
肩書きだけ聞けば別世界の話だ。
でも俺は、今のままで十分だ。
明日も市場へ行って買い出しをして、帰って家の手伝いをする。
俺にとっては、それがちょうどいい生活なのだ。
そう思ったまま、翌朝になった。
「レオン!」
ちょうど屋敷の庭で荷車の整備をしていた時。
元気のいい声と共に、小柄な影が勢いよく飛び付いてきた。
俺はその声を聞いて、反射的に一歩下がる。
避ける。
そのまま影は荷車へ突っ込み、荷台ごと数メートル滑らせた。
「危ないだろ」
「そんな、避けないでよ!」
「突っ込む方が悪い。それで俺が腰を何回痛めたと思ってるんだ」
その少女は頬を膨らませたまま、むっとした顔でこちらをにらんだ。
彼女の名前はミラ・フィンチ。
同い年の幼馴染で、母親を飢えで失った貧民街出身の少女。
それで道端で倒れていたのを、昔の俺が見過ごせず拾ったのだ。
それ以来、俺の家族とミラは同じ家に住んでいる。
栗色の髪は寝癖のついたままだが、本人は気にする様子もない。
服についた土埃を払う仕草すら雑だ。
ミラは昔から変わらない。細かいことを気にしない。
もう一つの問題は、力加減を知らないことだ。
「今日は壊さないでくれよ」
「壊さないって」
「前もそう言った」
「あれは荷車が弱かった」
「普通の荷車は空を飛ばないんだよ」
過去に一度、坂道で勢いが乗りすぎて荷車ごと宙に浮いたことがある。
幸い誰も怪我をしなかったが、父は修理費の明細を見て無言になった。
ミラは悪びれもせず笑う。
「今日は大丈夫!」
「その根拠のない自信だけは尊敬するよ」
言い終える前に、ミラは荷車の手押し部分を取って車輪を回し始める。
止める間もなく、荷車は通りへと滑り出た。
朝の街道に、乾いた車輪の音が石畳に響く。
その背中を追いながら、頭の片隅で昨日の話が一瞬だけ浮かぶ。
しかし彼女の顔は、すぐに目の前の現実に上書きされた。
いまはミラが荷車を壊さないかの方が、世界の命運よりよほど現実的な問題だった。
村の市場はすでに人の熱で満ちていた。
荷車と呼び声が交差し、焼いたパンの匂いと獣の匂いが混ざっている。
遠くで金槌の音が一定のリズムを刻んでいた。
ここにはおそらく、遠き帝都のような華やかさはないだろう。
それでもこの領地で育った俺には、この雑然とした景色が馴染み深く感じた。
「レオン、リンゴ――」
「買わない」
「まだ何も言ってない!」
「いおうとしてるだろ」
ミラは不満げに口を尖らせる。
「一個くらい、いいじゃん」
「絶対に一個で終わらないだろう」
「終わるって」
「先週の干し肉のとき、おまえ最初なんていったか覚えてるか?」
「あれは例外」
「……理由は?」
「あの時は、お腹空いてたから」
「今は?」
「お腹空いてる!」
知ってた。
こいつは朝飯を食べても、その一時間後には腹を空かせる。
育ち盛りという言葉だけでは説明できない食欲だ。
空腹は常に理由になる。
ため息を一つ吐いて、銅貨を投げた。
「ほら、一個だけだぞ」
「やった!」
さっきまでの不満顔はどこへやら。
そのまま果物屋へ駆けていく背中を見送る。
まるで子犬だ。現金な奴。
日々の生活に、難しいことは何もない。
荷物を運び、買い物をし、雑用の合間にくだらないやり取りをする毎日。
俺はミラと過ごす、こんな時間が好きだった。
だから昨日の出来事が、ますます現実味を失っていく。
ヴィヴィアン・ナイトウッド。
世界最高の魔法使い。
彼女から持ち掛けられた、弟子にならないかという誘い。
……俺は、どうすればいい?
「レオン?」
ぼんやりしていると、目の前でミラがかがんで手を振っていた。
「何ぼーっとしてるの?」
「いや、ちょっと考え事」
「ふうん? まあいいや、はい」
ミラが差し出してきたのはリンゴ。
ナイフで半分に切られた方の片方だ。
「半分」
「自分で食べろよ」
「一人で食べるより半分この方がおいしい」
理屈になっているようで、全くなっていない。
それでも断る気になれず、一口かじる。
甘かった。
少し酸味が強いが、それがかえって心地いい。
「おいしい?」
「まあ」
「でしょ!」
何が「でしょ」なのかは分からない。
作ったのはお前じゃなく農家の人である。
そんな他愛もない会話を交わしていると、市場がざわついているのに気付く
人の流れが左右に割れている。
喧騒の中心がずれている。
遠くから蹄の音がする。
気になって振り向くと、四頭立ての馬車が通りへ入ってきていた。
刻まれているのは、双頭の鷲と金の紋章。
沿道の人々が自然と頭を下げ、商人たちは仕事の手を止めた。
その紋章を見て、呼吸が一段だけ浅くなる。
記憶にある、あれは帝国皇室の紋章だ。
しかしそんな馬車がこの場所に来る理由が、すぐには浮かばない。
「公爵さまか何か?」
ミラは俺の耳元で小声で言う。
「違う」
馬車は市場の中央で止まり、扉が静かに開く。
先に降りてきたのは黒い制服姿の女性騎士だった。
鋭い視線で周囲を見渡し、安全を確認すると、一歩下がって扉の前へ立つ。
続いて、一人の女性が姿を現した。
銀色の長い髪に、どこか眠たげな蒼い瞳。
裾へ枯れ葉こそ付いていなかったが、その顔に俺は見覚えがある。
俺は思わず額を押さえた。
「……嘘だろ」
ヴィヴィアン・ナイトウッドだ。
彼女はまるで家の近所を散歩するような気軽さで市場へ降り立つ。
そして、周囲をきょろきょろ見まわして、俺の姿を見つけると。
真っ直ぐと、こちらへ向かって歩き始めていた。




