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第十話 女神の恩寵

  その夜は、ほとんど眠れなかった。


 天井を見つめたまま、ヴィヴィアンの言葉を何度も反芻する。


 ――この世界では科学は成立しない。


 どう考えても、おかしい。

 世界に法則があれば、人間はそれを観察し、仮説を立て、実験し、検証できる。

 そうやって積み重ねてきたものが科学だ。

 魔法が存在するなら、それもまた自然現象の一つとして分析できるはずだった。


 翌朝、俺は朝食もそこそこに済ませると、ミラより先に家を出た。

 朝靄の残る森には、すでにヴィヴィアンがいた。

 切り株へ腰掛け、本を読んでいる。


「おはよう」


「おはようございます」


 俺は挨拶もそこそこに切り出した。


「昨日の続きを聞かせてください」


 ヴィヴィアンは栞を挟むと、本を閉じた。


「そんなに気になる?」


「気になります」


「じゃあ質問」


 彼女は一本の小枝を拾い上げた。


「リンゴを放したら落ちるよね」


「はい」


「どうして?」


「重力があるからです」


「重力って何?」


 俺は少し考える。


「物体同士が引き合う性質です」


「見たことある?」


「ありません」


「でも信じてる」


「厳密な意味で存在するといってるわけじゃありません。でも、観測できる現象を最も矛盾なく説明できます。俺のいた世界では、それを『存在する』と同じ意味で扱ってもいいとされていました。それが自然法則です」


「なるほど」


 ヴィヴィアンは小枝を放る。

 枝は地面へ落ちた。


「じゃあ、今度は魔法」


 彼女は枝へ向かって手を伸ばした。


「起きて」


 その一言だけだった。

 枝がふわりと宙へ浮く。

 詠唱も魔法陣もない。

 昨日見た光景だ。


「どうして浮いたと思う?」


「魔力で力を加えたからです」


「うん。それは結果」


 ヴィヴィアンは首を横へ振る。


「私は今、世界へ何をしたの?」


「……命令した」


「違う」


 即座に否定された。


「お願いした」


「その違いが分かりません」


「そうだろうね」


 彼女は苦笑する。


「レオン君は、世界は黙っているものだと思ってるから」


 俺は眉をひそめた。


「世界は喋りません」


「喋るよ」


「少なくとも俺は聞いたことがありません」


「だから、君の世界は沈黙していたんだよ」


 話が堂々巡りになる。

 俺は小さく息を吐いた。


「ヴィヴィアン先生」


「うん?」


「世界には法則がありますよね」


「あるね」


「なら魔法にも法則があるはずです」


「そこが違う」


 ヴィヴィアンは静かな声で言った。


「世界には法則がある。でも、魔法には法則がない」


 俺は思わず顔を上げる。


「そんなはずありません」


「どうして?」


「先生は毎日転移魔法を使っているじゃないですか」


 帝都から辺境まで、一瞬で移動する。

 世界最高難度と呼ばれる戦略魔法を、彼女は呼吸をするように使う。


「もし本当に法則がないなら、成功したり失敗したりするはずです。でも先生は失敗しない」


「そうだね」


「なら再現性があります」


「あるように見えるだけ」


 ヴィヴィアンは立ち上がる。


「例えばね」


 足元の草へ手を伸ばした。


「おはよう」


 草が揺れる。


「今日は元気?」


 葉先へ小さな露が集まり、朝日にきらりと光った。


「ありがとう」


 ヴィヴィアンは微笑む。

 俺には何が起きたのか分からない。


「魔法使いはね」


 彼女は草から手を離した。


「世界の機嫌をうかがってるの」


「機嫌……」


「今日は風が素直だから風魔法がよく通る日もあるし、水が拗ねていて思うように流れてくれない日もある」


 俺は首を横へ振った。


「そんなものは観測者の主観です」


「そう思う?」


「ええ。もし本当に傾向があるなら、記録を取り続ければ統計的に分析できます。条件を整理すれば、再現率を高める方法だって見つけられるはずです」


 ヴィヴィアンは、その言葉を聞いて嬉しそうに笑った。

 まるで難問へようやく挑戦者が現れたのを歓迎する研究者のように。

 その瞳だけが、静かに細められていた。



「その発想自体は間違ってないよ」


 ヴィヴィアンは否定しなかった。


「実際、昔の魔法使いたちも同じことを考えた」


「え?」


「優秀な人ほどね」


 彼女は近くの岩へ腰掛ける。


「炎魔法は気温と関係あるのか。月の満ち欠けは水魔法へ影響するのか。風向きで風魔法の精度は変わるのか。何百年も記録を取り続けた」


 俺は思わず身を乗り出した。


「それで?」


「何も分からなかった」


「そんなはずは」


「あるんだよ」


 ヴィヴィアンは苦笑する。


「同じ場所で、同じ時刻に、同じ魔法使いが、同じ魔法を使っても、昨日と今日は違う結果になることがある」


「誤差じゃなくて?」


「誤差じゃ説明できないくらい」


 森を風が吹き抜ける。

 葉擦れの音だけが静かに響いた。


「もちろん、法則は見つかったよ」


 ヴィヴィアンは一本ずつ指を折る。


「魔力量が多いほど強い魔法を使える。属性ごとの適性。精神状態。魔力制御。そういうものは全部、研究された」


 そこまでは理解できる。

 俺の知る科学と変わらない。


「でも」


 彼女は最後の一本を折った。


「最後に必ず一つだけ説明できない変数が残る」


「……世界の機嫌」


「そう」


 俺は黙り込んだ。

 科学でも似たようなことはある。


 未知の変数。

 まだ発見されていない法則。

 だが、それは「まだ分かっていない」のだけで、「存在しない」わけではない。


 もちろん、元の世界でも隠れた変数で説明できない現象はあった。

 アインシュタインの過ち。量子力学はそういうものを扱っていた。

 けれど、それは目に見えないような小さな世界での話だ。

 俺たちが目に見えるような世界で、それが成り立っていたわけではない。


「その変数を探した人は、いなかったんですか」


「いたよ」


 ヴィヴィアンは遠い昔を思い出すように空を見上げた。


「歴史に名を残した魔法学者は、みんな挑戦した」


「見つからなかった?」


「誰一人として」


 即答だった。


「世界中で?」


「うん」


「何百年も?」


「何千年も」


 その重みは、さすがに軽視できなかった。


「記録は積み重なった。理論も進歩した。魔法は昔よりずっと便利になった。でもね」


 ヴィヴィアンは静かに言う。


「最後の一歩だけは、誰にも踏み込めなかった」


 俺は拳を握る。


「だったら、それはまだ未知なだけです」


「そう考えた人もいた」


「俺もそう考えます」


「そして、一生を費やした」


 彼女の声には、不思議な敬意があった。


「世界を数式にしようとした人。魔力を何らかの力として理解しようとした人。六属性を統一しようとした人。みんな、最後は同じ場所へ辿り着いた」


 ヴィヴィアンは俺を見る。


「『分からない』って」


 沈黙が落ちた。

 鳥が一羽、枝から飛び立つ。


「だから」


 ヴィヴィアンは続ける。


「魔法学者は受け入れた」


「……何を」


「世界には、人では説明できない意思があることを」


 その言葉は、宗教家の説教ではないはずだ。

 何千年も積み重ねられた研究の、果ての結論だ。


「それが、この世界で魔法を『女神の恩寵』と呼ぶ理由」


 彼女は地面へ視線を落とす。


「諦めじゃないよ」


「敗北でもない」


「考えることをやめたわけでもない」


「考え続けた人たちが、それでも最後まで理解できなかったものへ付けた名前なんだ」


 女神。

 それは人格神を意味する言葉ではなかった。

 人知の及ばない、『最後の変数』へ与えられた呼び名。


 世界の機嫌。

 世界の応答。

 世界との交渉。


 魔法使いたちは、その正体を知らない。

 それでも確かに存在する何かを受け入れ、その上で技術を磨いてきた。


 俺はその話を聞きながら、前世で学んだ科学史を思い出していた。

 人類は理解できない現象へ「奇跡」と名前を付けたまま終わらせなかった。

 説明できないものがあるから研究は止まるのではない。

 説明できないものがあるから研究は始まるのだ。


 だがその信念は、この世界でも成り立つのだろうか。

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