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第十一話 この世界に来た理由

 しばらく誰も口を開かなかった。

 森を吹き抜ける風だけが、梢を静かに揺らしている。

 やがてヴィヴィアンが小さく笑った。


「でもね」


 その笑みは、さっきまでのどこか達観したものとは違っていた。


「私は君が嫌いじゃないよ、その考え方」


 俺は顔を上げる。


「え?」


「だって、まだ諦めてないでしょう?」


「当然です」


 即答だった。


「これまでに説明できないからって、これからも説明できないものだと決めつけるのは早すぎます」


「ふふ」


 ヴィヴィアンは嬉しそうに笑う。


「その返事をすると思った」


「先生は違うんですか」


「私はね」


 彼女は空を見上げた。


「世界は理解するものじゃなくて、仲良くなるものだと思ってる」


「そこなんですよ」


 俺は思わず額を押さえた。


「その感覚が分からない」


「そう?」


「世界に人格がある前提じゃないですか」


「あるよ」


「どうして断言できるんです」


「毎日話してるから」


「それは経験則でしょう」


「うん」


「だったらなおさら」


 言葉が熱を帯びる。


「経験だけでは駄目です。再現できる形で共有できなければ、学問にならない」


「学問か」


 ヴィヴィアンはその単語を口の中で転がした。


「君にとって学ぶって何?」


「他人が同じことを再現できるようにすることです」


 迷いはなかった。


「個人の才能じゃなく、知識として残す。それが学問です」


 ヴィヴィアンは少しだけ目を細める。


「だから君は魔法を分解したいんだ」


「はい」


「誰でも使えるように?」


「少なくとも、才能だけに頼らない形にはできます」


 言いながら、前世のことを思い出していた。

 飛行機は一人の天才が飛ばしたわけじゃない。

 医学も、一人の名医だけが持っている技術ではない。

 知識を積み重ね、共有し、改良し続けたから文明になった。


「先生の転移魔法だってそうです」


 ヴィヴィアンを見る。


「先生しか使えない奇跡じゃ駄目なんです」


「へえ」


「理論があるなら、後世へ残せる。もっと安全に、もっと多くの人が使えるようになる」


 ヴィヴィアンは否定しなかった。

 ただ静かに聞いている。


「それが、向こうの世界で科学者がやってきたことでした」


 アリストテレスも。

 ニュートンも。

 アインシュタインも。


 名前も知らない何百万という研究者たちも。

 自分一人が理解するためではない。

 人類全体が一歩前へ進むために、知識を積み重ねてきた。

 それが科学という営みの、もっとも偉大な部分なのだ。

 だから俺は、魔法も同じだと思っていた。


 ヴィヴィアンはしばらく黙っていたが、やがて穏やかな声で言った。


「レオン君」


「はい」


「君、自分で思っている以上に、前の世界が好きなんだね」


 その一言で、胸の奥が小さく揺れた。


「そんなことは」


 否定しようとして、言葉が止まる。


「だって」


 ヴィヴィアンは責めるでもなく続ける。


「君が魔法を語るとき、何度も『向こうなら』って言うもの」


 俺は何も言えなかった。


「十五年、この世界で生きてきたでしょう?」


「……はい」


「家族もいる。ミラちゃんもいる」


「います」


「それでも、物事を考えるときの基準は、まだあの世界なんだね」


 静かな指摘だった。

 なのに、不思議なくらい胸へ刺さる。


 俺は異世界へ来てから、この世界へ順応してきたつもりだった。

 言葉も覚えた。

 生活にも慣れた。

 家族もできた。

 それなのに思考だけは、一度もこちら側へ来ていなかったのかもしれない。


 魔法を見ても科学を探し、人を見ても前世の価値観で測る。

 この世界を理解しようとするたびに、俺の頭には前世のことがある。

 無意識に「元いた世界ならどう説明するか」という問いから始めていた。


 自分では、とっくに故郷を失った人間だと思っていたはずなのに。

 その言葉で、自分が今なお縛られていることを、認めざるを得なかった。



 言葉が出なかった。

 反論はいくらでもできたはずだった。

 科学は普遍的だとか、方法論は世界が違っても通用するとか。

 そういう理屈なら山ほど並べられる。


 けれど、ヴィヴィアンが言いたかったのは、そういうことではない。

 俺自身のことだった。


「……俺は」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。


「もう、この世界で生きるって決めたつもりでした」


「うん」


「前の世界には帰れない。家族もいる。ミラもいる」


 そこまで言って、小さく笑う。


「決めたつもり、だったんですね」


 ヴィヴィアンは何も言わず、静かに聞いていた。


「人ってね」


 やがて彼女が口を開く。


「頭で決めることと、心が納得することは別なんだよ」


 その言葉は、不思議なくらい素直に胸へ落ちた。

 世界最高の魔法使いだからではない。

 きっと、この人自身も、そういう経験を何度もしてきたのだろう。

 しばらく沈黙が続いたあと、ヴィヴィアンはふと話題を変えるように言った。


「一つ、考えてみるといいことがある」


「何ですか」


「どうして君だったんだろうって」


 俺は眉をひそめる。


「どうして、俺」


「そう」


 ヴィヴィアンは頷く。


「どうして別の世界から、この世界へ来たのが君だったのか」


「偶然じゃないんですか」


「そうかもしれない」


 あっさり認める。


「でも、そうじゃないかもしれない」


「……」


「答えなんて、私にも分からないよ」


 彼女は肩をすくめた。


「私は預言者じゃないし、女神様のお友達でもないから」


 その言い回しに、少しだけ肩の力が抜ける。


「ただね」


 ヴィヴィアンは立ち上がり、朝日に照らされた森を眺めた。


「もし私が君の立場だったら、その問いは考え続ける」


「なぜ、自分なのか」


「うん」


「答えがある保証もないのに?」


「なくても」


 迷いのない返事だった。


「人は、自分の人生に意味を見つけようとする生き物だから」


 風が吹く。

 木漏れ日が揺れ、葉の隙間から差し込む光が彼女の横顔を淡く照らした。


「君はね、レオン君」


 彼女は俺へ振り返る。


「科学で世界を理解しようとしている。でも、自分自身については、一度も同じくらい真剣に考えていないように見える」


 その一言に、思わず息をのむ。


「君がなぜこの世界へ来たのか。君だけが魔法を使える理由は何なのか。前の世界で得た知識と、この世界で授かった力が、一つの人生に与えられた意味は何なのか」


 ヴィヴィアンはそこで言葉を切った。


「私は答えを教えない」


 静かな微笑みが浮かぶ。


「それは先生の仕事じゃないもの」


 彼女は軽く伸びをすると、いつもの飄々とした調子へ戻った。


「でも、いつか答えが見つかったら教えてね」


「どうしてですか」


「私も知りたいから」


 あまりにも率直な返答に、思わず苦笑してしまう。

 この人は、本当に最後まで研究者なのだ。


 世界最高の魔法使いでありながら、世界を知り尽くしたとは一度も思わない。

 だからこそ、分からないことを「分からない」と認める。

 その先を知ろうとする姿勢を失わない。

 その在り方だけは、前世で俺が尊敬していた科学者たちによく似ていた。

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